多久系 有田窯

田代伴次郎~揣摩的排斥

【原文】田代伴次郎 田代伴次郎は、或年作るところの盛器若干を携へて江戸に上り、斯業の商估数人を招きて見せたるに、何れも玉の如き作品に對して、歡賞措かす、悉く伴次郎が言へる値に任せて之を購ひ、敢て一銭の値切る者さへなかつたのである。 彼再び逸...
多久系 有田窯

山方の陶器監督~著者への謝恩

【原文】山方の陶器監督 嘉永元年(1848年)藩は山方に國産方を置き、長崎の人へ、肥前の國産品を販売することゝなり、之より一層有田焼の製造を奬勵するに至りしが、翌二年六月より、更に國產方より山方を分離して、内廷に別局を建て、側頭及側目附より...
多久系 有田窯

玉座御褥を拝受す~差入手形覺

【原文】玉座御褥を拝受す 天保三年(1833年)辻十代喜平次は、常陸大椽を襲ひ、忝くも先帝光格天皇の召され賜ひし玉座御を拝受した。(今に同家の座敷に扁額として掲げ奉りつゝある)仲質岩谷川内の正司庄治は、嚮に大火の際有丈の家財を販給して質屋を...
多久系 有田窯

有田工人の散布~齊正の相續

【原文】有田工人の散布 此大火より多くの職工が、地方の各山へ移轉する者多く、小田志山轉者の如きは、百餘人ありしといはれ、而して其結果は大いに他の製品を向上せしむるに至った。是は恰も東京大震災の如く、下町の住民が山の手方面に移轉して、爾来市郡...
多久系 有田窯

北島源吾の朝鮮貿易の一手~大窯焼門前の給食

【原文】北島源吾の朝鮮貿易の一手 文政三年九月十五日(1820年)成松代官は、朝鮮向陶器輸出の権利を、赤繪町の北島源吾が一手營業に許可したのである。赤繪町 北島源吾其方儀朝鮮向陶器注文引請燒立一手に被仰付候に付ては劉州より注文申來候節は源吾...
多久系 有田窯

材料や製作の念入~韓語らしき名詞

【原文】材料や製作の念入 笰琳彩焼附の色なる赤釉は、紅柄など用ふることなく、皆丹礬(硫酸銅)を焼きて、五年も八年も湯酒しせしものであつた。又燒物地土の拵へ方も、細かくして粘土となし、それが半歳位經て、黄色に成りし物を使用せし故に、粘着力も豊...
多久系 有田窯

火入吟味~閑静の天地間

【原文】火入吟味 窯焼は一人にて、一間、又は二三間の窯を借る者があり、或は半間宛二人にて催合積するのもあつた。要するに連鎖的焼成とて、窯の火入れ日丈は、一旦定めし期日を決して變更することは赦されぬ。故に其度毎に火入吟味と稱し、一同登支配宅に...
多久系 有田窯

有田焼の窯銘~登支配と窯仕込

【原文】有田焼の窯銘 元來古伊萬里は、支那の作風を模倣せし意匠が發端である。故に之を日本化せしといふも、其畫柄に於ては全く之に類するものが少なくない。又窯銘の如きも、多くは支那の年が用ひられてゐる。さりとてそれが、其年號時代の作品に、順應せ...
多久系 有田窯

極眞焼發明~古伊萬里

【原文】極眞焼發明 文化八年六月(1811年)辻八代の喜平が、極真燒と称する焼成法を發明した。三代以来禁裏御用命を拝せし彼は、益々斯道の向上に除念なかりしが、或時の窯出しに、室内の器苦窊みて墜落し、數個密着せる物があつた。毀ちて之を檢すれば...
多久系 有田窯

金ヶ江傍系の石場採掘公事~金ヶ江訴願書

【原文】金ヶ江傍系の石場採掘公事 文化四年(1807年)石場穴探掘支配權に就て、庄屋金ヶ江清五兵衛と、多久藏人の被官なる、上幸平の福田徳次郎と公事を生じ双方より多久美作茂孝へ訴状を提出した。元来兩家は李参平の次男清五左工門より出でし、金ヶ江...
多久系 有田窯

署名の赤繪屋十六人~能美九谷焼

【原文】署名の赤繪屋十六人 そして前の如く庄屋金兵街(當時の赤繪屋頭であらう)を始め、跡十五人署名捺印してゐる。それは八十右工門、七兵衛吉右工門、淺右工門、九兵衛、武右工門、覺左工門(今泉氏)、三右エ門源吾(北島氏)、兵右工門(牛島)、千太...
多久系 有田窯

赤繪付家株家督相續定法

【原文】赤繪付家株家督相續定法皿山赤物の儀本朝は不及申異國迄も通達交易の産物に候處近年長崎奉行御仕組に而天草之燒物仕立阿蘭陀渡し皿山同然請合被仰付の由相調勿論繪書細工人皿山より不参候て相調不申由然る所平戸大村領にても致出来候由相聞候に付早速...
多久系 有田窯

金ヶ江一門の願書~久米代官の赤繪屋取締

【原文】金ヶ江一門の願書我々仲間數代毎年御切米拜領仕來候處御上御支に付て不被爲拝領之段近來以迷惑至極奉存候次第御訴詔申上口上一我々先祖に御扶持方最前被爲拜領候謂は元祖金ヶ江三兵衛と申者御先祖様前に長州樣高麗御陣之砌右三兵衛儀身命を抛抽忠義之...
多久系 有田窯

磁石盗人取締の達~名被官廢止

【原文】磁石盗人取締の達 元文三年七月五日(1738年)多久美作茂明より、近來泉山の磁石を窃に持出す者ある由甚不屈に付、見當次第早速皿山會所(之は代官の配下なる陶器取締の役所にて、上幸平なる今の青木幸平宅の前に、以前は一段高き邸趾があった)...
多久系 有田窯

久間と辻~法元寺の祈禱札

【原文】久間と辻 此久間氏の血統より出でし者が、前記の嬉野次郎左工門の生母の由にて、遠祖盛種の舎弟右近太夫が禁裡御用焼の辻家の祖先といはれてゐる。蓋し辻家は武雄十代後藤八郎幸明の舎弟辻後藤九郎宗明より出でしものゝ如きも、當時久間盛種の弟盛廣...
多久系 有田窯

後藤宗印~平維盛の後胤説

【原文】後藤宗印 豊臣時代より、徳川の初期時代までは、我邦産業の發展と、國利民編の爲なりとて、大いに海外貿易を奨励した。當時長崎町年寄の後藤宗印(武雄後藤氏の支族富岡天神山城主中務太輸貞明の男、左工門貞之、始惣太郎と稱す、寛永四年十一月廿四...
多久系 有田窯

藤本長右衛門の奨勵~小物成頭人諸役所

【原文】藤本長右衛門の奨勵 寛文八年(1668年)頃より、中野源の陶商藤本長右衛門及吉太夫等は、有田焼を諸國へ販賣する重なる商估であつた。彼等は最初柿右工門の赤釉物を賣捌き居しも、正保(1645-1648年)頃より既に赤縮附の法有田に傳はり...
多久系 有田窯

石場採掘支配~辻家へ禁裏御用命下る

【原文】石場採掘支配 泉山石場に於ける磁石採掘は、最初三兵衛の肝煎にて切開き、支配者たる彼のみ、無税切取を許されありしも、他は皆冥加金と稱して僅少宛の上納をすることゝなった。而して三兵衛は専ら製陶に従事するために、此支配権を次男清五左衛門に...
多久系 有田窯

大阪商人の專賣請~金ヶ江略系

【原文】大阪商人の專賣請 爰に大阪の商人にて、鹽屋惣五郎の手代鹽屋與一右工門、ゑらや次郎左工門の両人は、今度有田焼の仕入方にて、伊萬里へ來りしを幸ひ、山本神右工門は同地の陶商東島徳右工門に内命して、両人を説得せしめ、運上の増加を理由條件とし...
多久系 有田窯

龍造寺の攻略~多久安順卒す

【原文】龍造寺の攻略 天正四年六月(1576年)龍造寺隆信下松浦を攻略するや、伊萬里の北岡城主伊萬里兵部少輔治(鍋島芳太郎の祖)は戰敗れて開城し。尋て山代の飯盛山城主山城彌七郎貞(鍋島千太夫の祖)は奮戦遂に捕はれて降るに及び、次には有田唐船...
多久系 有田窯

有田の村路~有馬氏の兼領

【原文】有田の村路 夫より陶業の發展と共に、漸く人家稠密を加へしと共に、屢通路開拓されしも、動き石丈は、金比羅山腹より墜落せし巨巌磐石累々と、河岸に横たはりて行路通せず、今の清見橋下の飛石を渉りて、稗古場より白川に至り此處より蛇頭山下を通り...
多久系 有田窯

猿川窯~有田の通路

【原文】猿川窯 猿川の古窯品は、前二窯より猶一段進歩せる作品多く、それは染附着け葉牡丹の丼や粗網畫の丸碗又は縁筋粗山畫のひ碗がある。 その中に底描に岩へ菊をあしらひ、岩には大海老が乗上ってゐる奇想的の七寸皿があり、或は蛇籠模様や面白き龍畫の...
多久系 有田窯

枳藪丘~山越古窯

【原文】枳藪丘 泉山の枳藪丘の古窯品は、概して高台小さき皿類が重なるものにて、多くは底に廣筋を廻はし、中に呉湖にて網繪や蔓葉模様、又は笹に鬼や、笹に案山子などの繪柄があり。或は枝に雲花模様の六寸皿、及捻菊形の中皿がある。其外雲繪丸小皿の如き...
多久系 有田窯

泉山磁の切拓き~磁器製造の各窯起る

【原文】泉山磁の切拓き 又同古文書中に「然れば土場の義最初伐開候に付て三兵衛支配にて段々伐出致繁昌伐子四拾人組にも相成廣々に掘崩候ところより爲冥加御運上相願年々相納候今御盆に相成居候最前は右土代銀無之伐賃丈にて引取候」とあるは、三兵衛四拾人...
多久系 有田窯

三兵衛清六を去る~三兵衛の妻帯

【原文】三兵衛清六を去る 此處は先住韓人の製陶せる小溝南川原の間に介在せる所なるが、此邊にては良き原料を得ざりしか、又は燃料の乏しかりしに依るか、或は何かの理由により三兵衛の意に満たざるものありしが如く、幾許もなく彼が立ち去し跡を、他の韓人...
多久系 有田窯

筒江山~清六の高麗神

【原文】筒江山 此板野川内の韓人が、有田の小樽と宮野方面の筒江(住吉村)とに分窯せしもの如く、尤も筒江最初の開窯は、寛永九年(1632年)平戸の今村彌兵衛(巨關)が黒髪山に隠棲せる折、山下の此處にて陶土を発見して開窯せしと稱せられ、其後廢窯...
多久系 有田窯

多久藩の苦心~板野川内窯の辻

【原文】多久藩の苦心 右は金ヶ江三兵衛が、有田の白磁臓を發見して磁器製作を創始せるより、百数十年後の出来事である。右の文書を見れば、若し多久領の陶器山が、愛に磁器山として復興することは、有田窯焼の好まざる事とて、畢竟彼等より異議を提出するか...
多久系 有田窯

多久古文書

【原文】多久古文書口達覺此方私領所々エ以前陶器山數ヶ所有之候處近十年及破壞候元來右陶器山仕立候儀日峰樣朝鮮御歸陣之砌御供ニ而渡海仕候金ヶ江三兵衛輿申何ノ御用ニモ相立候付長門守同勢內召連候處緑ヲ以テ長門守へ被相預候由右之者彼國ニテ何等ノ産業等...
多久系 有田窯

多久系 有田窯~藤の川内磁器焼の交渉

【原文】多久系 有田窯李参平の路案内 朝鮮の役鍋島の軍勢が、間道より進みて山路に差かりたるに、岐路ありて行手に迷べる折柄、遙かに一軒家を見つけ、其家にあり三人の韓人をして路案内すべく厳命した。其中の一人二十五六才の男にて、李参平といへる者此...
佐圓系 大川内窯

精巧社設立~七官手改良

【原文】精巧社設立 茲に於いて鍋島焼の名が彌々斷絕せんことを惜める光武彦七は、明治十年原次右工門(藩窯工人丈左工門の子)立石寬兵衛(藩窯工人寛六の子)と糾合して復興に盡瘁し、宗藩内庫所の補助を仰いで精巧社を設立した。そして彥七が其社長たりし...
佐圓系 大川内窯

耐火煉瓦の製作~鷺脚

【原文】耐火煉瓦の製作 而して鋳造用の基礎をなす、耐火煉瓦の製作が、此大川内窯に於て製作されしことは、當時に於て最偉とせねばならぬ。是より先伊豆韮山に於いて、小形ながら大砲をせし時に用ひし煉瓦は、如何なるものなりしかは識らざるも、其後安政元...
佐圓系 大川内窯

青磁の貴重~勇七の獅子

【原文】青磁の貴重 往時青磁の貴重されしことは、唐代に於いて刑瓷(白磁)は銀に類し、越瓷(青磁)は玉に類すと稱せられ、我が王朝時代に於いても陶器(くろ物)は朱漆器に相當されしが、瓷器(青磁)に至つては銀器に代用されたのである。而して鍋島青磁...
佐圓系 大川内窯

縮緬肌~七官手青磁

【原文】縮緬肌 鍋島焼の素地に、縮緬肌と稱するのがある。それは釉薬の派手なる光澤を止め、地肌の發色を頗る重厚に焼き上げしものにて、之は焼きにくい有田泉山の原料にあらざれば出来ぬ色相である。而して此色合までに、器物を焼き抜ぐことは非常の難事に...
佐圓系 大川内窯

藩窯の原料精選~藩窯の技巧品

【原文】藩窯の原料精選 此製造原料は、有田泉山の磁石中なる、御用坑と稱する特等石に、僅少の山石を調節したるものであつた。其外一切の材料は、精選に精選を重ねて使用し、且優秀なる工人のみを選択し、全く採算を度外視して、ひたすら製品も精巧を期せし...
佐圓系 大川内窯

光茂の奨勵嚴令~綱茂の繪畫

【原文】光茂の奨勵嚴令 其子丹後守光茂二代を嗣ぐや彼は大いに藩窯を獎勵し、左の如き手頭(指命書)を以て嚴命を下した。蓋し初期より二三期間の鍋島焼も、精品の製作に煽る苦心せしもの如く、又屢々失敗を重ねしこさが、歴然として本書に現はれてゐる。(...
佐圓系 大川内窯

鍋島藩窯の始~大川内御細工屋

【原文】鍋島藩窯の始 鍋島藩用の焼物は、是迄南川原山の重なる窯焼へ用命せしが、有田の副田喜左工門事、勝れたる窯焼なる由、佐嘉表へ聞こへしかば、寛永五年(1628年前)初代藩主信濃守勝茂は、命じて喜工門を御陶器方主任となし、茲に始めて鍋島藩の...
佐圓系 大川内窯

清元さん~副田喜左衛門

【原文】清元さん 此隣に祀られてある清元さんとは、元来如何なる者なるか詳ならねど、(李參平のに東の原清元内云々がある)清元、又清玩或は單に玩の一字を銘せし立派な染附磁器が、南川原を始め、外尾や黒牟田方面に見ることが少なくない。もしや此ぐわん...
佐圓系 大川内窯

藤野川内説~三本柳

【原文】藤野川内説 従来の史に從へば、藩は此金立の韓人陶工等を、松浦郡の藤野川内(元唐津領後鍋島領に属す、今西松浦郡松浦村山形の大字)に移轉せしめしいふのであつた。蓋し此地は秀吉の命にて名護屋陶窯の司たりし家永彦三郎の次子庄右工門が、高木瀬...
佐圓系 大川内窯

九山道清~成富彌六兵衛

【原文】九山道清 此際多くの韓人達は、日本軍の爲めに道案内をなし、或は糧秣の補給、其他の便宜を奥へしものなるが、蓋し自ら好んで成せしにあらず、多くは我軍に威嚇されて、止むを得ず其額使に従ひしものであらう。此時佐嘉へ歸化せし韓人中には醫道に造...
佐圓系 大川内窯

御用唐人町荒物唐物屋職御由緒之次第左の通

【原文】御用唐人町荒物唐物屋職御由緒之次第左の通一元祖宗教儀(姓は達名は越字は宗吉州刺史賢の子半弓を能す)高麗國竹浦の陸川崎と申所の産に而文を學武を練(大明萬曆十五年「我天正十五年」)春三月中旬家族を引率し海濱に遊漁す俄に大風高波起り立漁船...