大願寺焼~松ヶ谷開窯考

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【原文】[Original text]
大願寺焼
 大願寺焼と稱するは、前記の横馬場より半里許りを隔てし墓地の奥にて、往古は布目瓦を焼きし傅へらる。曾て北條時頼行脚して此地に来り病を得て頗る重かりしかば、平愈の大祈願を立てしより、後年此處の五社神祠(仲哀、神功、應神、姫大神、春日明神)を建立せしを以て其名がある。又堤の邊りには、元龜元年八月鍋島直茂の奇襲に戰死せし大友八郎親秀の墓碑がある。此地の製陶創業は頗る古きもの如きも詳でない。 製品の種類は甕及水鉢、蘭鉢等にて今は全く断絶されてゐる。

相の浦焼
 相の浦焼は小城郡北多久村天山の麓にて、此處は往年相浦監物(後縫殿助)が居城相浦城(一名城尾城)のありしころである。此地方は古代の遺物多く間々曲玉などを發掘することがある。陶業は今全く廢滅に歸して其起原さへ知るによしなきも、當時の製品皿、茶碗等一見焙烙焼の如くなるが陶質頗る竪緻に焼成されてゐる。

川久保焼
 川久保燒と稱するは佐賀郡久保泉村にて、佐賀市より二里半、戸數三百五十戶の中に百六十戶集團せる一宿驛が川久保である。此地の七・八丁東なる一丘阜なる大塚山、舘山 皿山の三ヶ處に窯趾ありて、此處丈は肥前窯には珍らしく何れも六尺餘方面積の一間窯ありし由なるも、今は全く開墾されて赤土畑と成り、そして悉く掛か植えられてゐる。此中皿山と稱する丘に少しく其殘缺を見る而已にて、他の二ヶ所は稀にトチンなど見出す位である。

川久保窯の殘缺
 殘缺には灰色地や褐色地に、飴色釉又は白刷毛目及化粧掛を施せしもの多く、石器としては巧みなる細工振である。之等の皿碗は多く蛇の目積にて焼かれるも、又惣掛の施釉物も少なくない。之には薄手の蓋附茶碗があり、或は縁淵の茶碗などもある。
 中には褐色地にて全くの無釉物や、灰色釉或は白化粧等の大皿があり、飴釉氷裂焼の破片などもある。又中皿には呉須繪藥にてハート形の草の葉を描きし物がある。要するに此處の炻器は寧ろ半磁器程度にまで焼締りしものにて、時代は元祿初年(1688年)邑主神代氏の支配の下に製作されしといはれてゐる。

神代氏
 神代氏の祖先は、人皇八代孝元天皇の曾孫主忍男武雄心命の長子武内宿禰の後胤にて、物部を姓となし良光に至つて筑後國高良山に居住せが、文治元年(1185年)同國熊代村に地名を姓せしもの、後神代に改めたのである。其子良元曾孫民部少輔良忠を経て其孫良基に至り、足利尊氏に從ひて軍功あつた。
 子孫勝元の時肥前國に移り、其子利久は上佐嘉千布村の豪族陣内大和守利世が女を娶り、其水子勝利武勇絶倫にて始め千葉興常に從ひしも、後年には神埼庄三瀬の城主として此地方の外、 筑前の早良、那珂、怡土三郡の内若干を領有して武威を振ひ、佐賀の龍造寺隆信と覇を争に至りしが、長良に至つて途に龍造寺に属して五百丁の領主となり。後鍋島氏の配下となりて川久保にて四千三百石を領し、西原の舘に居住せしものである。神代系圖左の如し。 (神代系圖参照)

御茶屋焼
 外に川久保の御茶屋焼と稱する物がある。それは今より七十餘年前に後代の領主神代大炊介直寶が、西原の館に於て道樂的に製作せしものにて、薄青磁の茶碗や菊形の皿など巧みなる物製作され由なるも、現今傅へらるゝ製品頗る稀にして見ることを得ぬ。蓋し何れも炻器乃至磁器であるらしい。

都渡城焼
 都渡城焼は、佐賀郡松梅村(市より北二里許り隔つ)なる宮地嶽神社の裏山にて、今に十間程なる登窯の跡がある。製品は最初赤粘土にて焼きし雪平鍋或は片口なごを主とし、又綠釉を掛けし茶瓶などが出來てある。其内幾許もなく此山上の日池といへる所より磁器原料を發見して軟質の薄鼠色磁器を焼いたのである。それは染附にて最初の製品には呉須顔料を使用しゐるも、後年作にはコバルトが主彩さされてゐる。
 此の創業は、今より六十年以前に於いて、前記川久保の御茶屋燒廢止の節、廣助なる者此地にて製陶せし稱せられ、そして幾許もなく原料の發見より、磁器製作に轉じて皿や食器の下手物を製せしも、幾年ならずして廢窯せしものゝ如くである。

松ヶ谷焼
 小城の松ヶ谷焼は、元祿年間(1688-1704年)小城三代の藩主鍋島紀伊守元武が、南川原より工人を招き松ヶ谷の別荘に築窯せしものにて、娯楽的なる御庭焼させられる。
小城鍋島系圖左の如し。(小城鍋島系圖参照)
 松ヶ谷別荘は、祇園川の東舊岩松村役場の東方にあたり、高爽にして眺望絶の地に下されてある。元武は此處に製造所を設け、天草の原料を以て白磁の外青磁を製作せしめしが、上繪附の如きは全く柿右工門式其儘なるものがあり、中に染附竹葡萄書きにて、見込み三方松竹梅繪ゆり縁形中皿の銘などには、柿右工門常用の角福銘があり又青磁六寸三分高さの丸形德利等がある。尤松ヶ谷製磁にはいつ頃よりかは不明なるも多く角松の銘あるが、同品にて柿右工門の作のみに角幅銘を用ひものであらう。それが大名的娯楽として採算なしに製作されたるを以て、頗る優良なる作品であつた。故に當時藩士などが小盃一個を得たるさへ恰も拱璧の如く愛重せしも、此時代の製品多からす今遺る物稀である。

南川原の工人
 當時の小城古文書に、元祿十二年四月六日藩主元武より、南川原焼物師松井兵右工門へ銀百五十匁被相渡候事あり。又同年八月二十五日有田焼物師酒井田藤九郎へ銀子被相渡候事との文書があり。次に又正徳六年十一月  同燒物師長崎藤左工門へ銀及酒肴料を授く等の記録がある。又元祿十七年九月九日松香溪御茶屋番山田善右工門渡御加勢銀之事。寶永五年正月赤繪師之事とあり。又日記の内には「去秋赤繪師之儀被相願候得共繪師共重疉訴訟仕候付而不被相叶由御用之節何時モ只今罷在者共隨分可被仰付之口佐嘉受役所ヨリモ其筋々被仰付ベキ由平馬被仰聞候也」とあり。
 按するに之等の工人は皆有田鄉南川原山の者なりしが如く、即ち此松ヶ谷焼製造に陶師として勤せし面々であるらしい。
 而して享保十一年五代藩主加賀守直英の時、之を藩の事業に移し、特に皿山方と稱する役人を設けて監理すること成った。そして直英の室又此製陶に頗る興味を有し傍より獎勵せしといはれてゐる。

岩藏寺の香爐
 今岩松村の古刹なる岩藏寺所藏の香爐は、元文四年に於て製作されしものにて、其器の裏面に左の如き染附書がある。
奉 松香谷皿山
天山宮 元文四歲
寄 進 未九月吉日
 薄いで延享四年に於いても、皿山方役目被仰付との記録があり。其後の沿革に就いては史料の徴す可きものなきも、六代藩主紀伊守直員時代の頃までは慥に繼續されしと傳へらる。故に安永年間(1772-1781年)まで此處に陶煙を擧げして見る可きてあらう。

松ヶ谷開窯考
 此松ヶ谷焼は、天草石を原料として南川原工人の手に依って製作されしさの口碑なるに、前記の如く元祿年間(1688-1704年)の創始とすれば、正徳二年天草石使用發見の以前に属する矛盾が生じて来る。蓋し最初の制作は初代の藩主紀伊守元茂にあらざるかの問題が生じて来るのである。
 それは寛永十四年有田皿山地方の陶工淘汰が行はれし時に、左の如き古文書がある事を見遁がしてはならぬ。紀伊守對古文書
一燒物師兩人差免候様にさ紀伊守より申候付而今我等手形遣候此中如申渡候燒物師多候得ば山あれ候條彌堅被申付候先樣我等以墨付可差免候條其心得可被申候
六月九日
多久美作殿(茂辰)
諸岡 彥右工門(茂之)

 勿論有田泉山の磁石は、取締頗る嚴重にて一石たりとも他所へは搬出はざる當時なるも、小城藩主へは何か特種の理由にて、差許せしにあらざやを思はしむる。而して紀伊守元茂は勝茂の長男にて、實は勝茂室高源院御供女中お岩(小西三右工門の女)の腹なるも、本藩主忠直の舍兄なる關係上、特に彼の切望を充たせしにあらざるか、研究すべき問題であらう。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]
大願寺焼とは、前に述べた横馬場から半里ほど離れた墓地の奥の場所で、むかし布目瓦を焼いたと伝わる。北條時頼が行脚の途中でこの地に立ち寄り重い病となり、平癒を祈って大願を立てたことから、後年ここに五社の神祠(仲哀・神功・應神・姫大神・春日明神)が建てられ、この名が付いたという。堤のあたりには、元龜元年八月に鍋島直茂の奇襲で戦死した大友八郎親秀の墓碑もある。創業はきわめて古いらしいが詳しくはわからない。作られたのは甕、水鉢、蘭鉢などで、現在は完全に断絶している。

相の浦焼は小城郡北多久村の天山の麓で、かつて相浦監物(のち縫殿助)が居城とした相浦城(城尾城とも)に関わる地である。古代遺物が多く、ときおり曲玉が出土する。陶業は今や廃絶して起こりも不明だが、当時の皿・茶碗は一見焙烙焼風ながら、焼きが非常に緻密である。

川久保焼は佐賀郡久保泉村、佐賀市から二里半の地で、三百五十戸のうち百六十戸が集まる宿駅が川久保である。ここから東へ七〜八丁の小丘である大塚山・舘山・皿山の三か所に窯跡があり、肥前では珍しく、いずれも六尺余四方ほどの一間窯があったという。今は開墾されて赤土の畑となり、一帯に柿が植えられている。わずかに皿山と呼ぶ丘に残欠が見られるだけで、他の二か所はたまにトチン(窯道具)類が見つかる程度である。

川久保窯の残欠には、灰色や褐色の胎に飴釉、白の刷毛目、化粧掛けを施したものが多く、炻器として手際がよい。皿や碗は多く蛇の目積で焼かれるが、全面釉(惣掛)のものも少なくない。薄手の蓋付き茶碗や、縁を立てた茶碗もある。褐色胎の無釉品、灰色釉や白化粧の大皿、飴釉の氷裂(クラックル)片も出る。中皿には呉須でハート形の草葉を描いたものもある。総じてここでの炻器は半磁器に近いほどよく締まっており、元祿初年(1688)に邑主の神代氏のもとで作られたと伝えられる。

神代氏は、孝元天皇の曾孫・主忍男武雄心命の長子武内宿禰の後裔で、当初は物部を姓とし、良光の代に筑後國高良山に住んだ。文治元年(1185)に同國熊代村の地名を姓とし、のち神代に改めた。良元—(曾孫)民部少輔良忠—(孫)良基と続き、足利尊氏に従って軍功を立てた。子孫の勝元の時に肥前へ移り、その子利久は上佐嘉千布村の豪族・陣内大和守利世の娘を娶る。利久の子・勝利は武勇抜群で、はじめ千葉興常に従い、後年は神埼庄三瀬の城主となり、さらに筑前の早良・那珂・怡土の一部を領して勢力を振るい、龍造寺隆信と覇を競った。のち長良の代に龍造寺に属し五百丁の領主となる。その後鍋島氏の配下として川久保で四千三百石を領し、西原の舘に住んだ(神代系図参照)。

このほかに川久保の御茶屋焼と呼ばれるものがある。今から七十余年前、後代の領主・神代大炊介直寶が西原の舘で道楽的に作らせたもので、薄い青磁の茶碗や菊形の皿など巧緻な品があったという。伝世品はきわめて稀で、いずれも炻器から磁器に属するらしい。

都渡城焼は佐賀郡松梅村(市の北二里ほど)にある宮地嶽神社の裏山で、今も十間ほどの登窯跡がある。初めは赤土で雪平鍋や片口などを主に焼き、緑釉の茶瓶も作った。ほどなく山上の「日池」で磁器原料が見つかり、軟質の薄鼠色の磁器を焼いた。染付で、初期作は呉須顔料を用い、後年作はコバルトが主彩となる。創業は今から六十年ほど前、川久保の御茶屋焼が廃されたころに廣助という者がここで製陶したのが始まりとされ、原料発見後すぐに磁器へ転じ、皿や食器の下手物を作ったが、長くは続かず廃窯になったらしい。

小城の松ヶ谷焼は、元祿年間(1688–1704)に小城三代藩主・鍋島紀伊守元武が南川原から工人を招き、松ヶ谷の別荘に築いた御庭焼である(小城鍋島系図参照)。別荘は祇園川の東、旧岩松村役場の東方で、眺望に恵まれた地。元武はここに製造所を設け、天草の原料で白磁や青磁を作らせた。上絵はまったく柿右工門様式そのままのものもあり、染付竹葡萄・見込み三方松竹梅・ゆり縁の中皿に、柿右工門常用の角福銘を見る。青磁六寸三分、高さのある丸形徳利なども伝わる。松ヶ谷製磁には「角松」の銘も多いが、これは柿右工門の作品にのみ角福銘を用いたことと符合する。大名の娯楽として採算を度外視して作られたため品質はきわめて高く、当時は藩士が小盃一個を得ても至宝のように愛蔵した。しかし数量は多くなく、現存は稀である。

当時の小城の古文書には、元祿十二年四月六日に藩主元武から南川原の焼物師・松井兵右工門へ銀百五十匁を渡したこと、同年八月二十五日に有田の焼物師・酒井田藤九郎に銀子を渡したこと、正徳六年十一月に長崎藤左工門へ銀と酒肴料を与えたことなどが記される。元祿十七年九月九日には松香溪御茶屋番・山田善右工門への加勢銀の件、寶永五年正月には赤絵師の件、さらに「赤絵師の願いはあったが訴訟が重なり不許可、当面は在役の者に任せるべし」旨の記録も見える。これらの工人はいずれも有田郷南川原山の出で、松ヶ谷焼の陶師として働いた面々であったとみられる。享保十一年、五代藩主・加賀守直英の時に藩の事業とし、「皿山方」と呼ぶ役人を置いて監理した。直英の室もこの製陶に強い関心を持ち、側面から奨励したという。

岩松村の古刹・岩藏寺所蔵の香炉は元文四年の作で、器の裏に
「奉 松香谷皿山/天山宮 元文四歳/寄進 未九月吉日」
と染付で記す。延享四年にも皿山方の任命記録があり、その後の詳しい沿革資料はないが、六代藩主・紀伊守直員の頃までは続いたと伝わる。ゆえに安永年間(1772–1781)まではここで窯煙が上がっていたとみてよい。

松ヶ谷開窯については、天草石を原料に南川原の工人が作ったという口碑がある一方、創始を元祿年間とすると、正徳二年に天草石の使用が広まる以前に当たる矛盾が生じる。最初の製作は初代藩主・紀伊守元茂にさかのぼるのではないか、という問題が浮かぶ。寛永十四年に有田皿山の陶工淘汰が行われた際の「紀伊守對古文書」には、焼物師二人の差免(許可)についての記載があり、有田泉山の磁石が厳重に管理され一石も外へ出さなかった時代に、小城藩主だけは特別の事情で許されたのではないかと思わせる。元茂は勝茂の長男で、勝茂室・高源院に仕えた女中お岩(小西三右工門の娘)の所生であり、本藩主・忠直の兄弟に当たる関係から、その強い希望が特に容れられたのではないか。検討を要する問題である。


【英語訳】[English translation]
Daiganji ware refers to a site behind a cemetery about half a ri from the Yokobaba area mentioned earlier, where, according to tradition, cord-marked roof tiles were once fired. When Hōjō Tokiyori visited the area on pilgrimage and fell gravely ill, he vowed a great prayer for recovery; later, five shrines (Chūai, Jingū, Ōjin, Hime Ōgami, and Kasuga Myōjin) were erected there, giving the name. Near the embankment stands the epitaph of Ōtomo Hachirō Chikahide, who was killed in a surprise attack by Nabeshima Naoshige in the eighth month of Genki 1. Pottery making here seems very old, but details are unknown. The output—jars, water basins, orchid pots—has long since died out.

Ai-no-ura ware was made at the foot of Tenzan in Kitadaku Village, Ogi District, associated with Aino-ura Castle (also Jōno Castle), residence of Aino-ura Kenmotsu (later Nuidonosuke). The area yields many ancient relics, including occasional magatama. The craft is now extinct and its origins unknown, but surviving dishes and teabowls, though resembling hōraku ware at first glance, are remarkably densely fired.

Kawakubo ware was produced in Kuboizumi Village, Saga District, about two and a half ri from Saga City. Of its 350 households, 160 formed a posting-station community called Kawakubo. Kiln remains exist at three small hills—Ōtsukayama, Tategayama, and Sarayama—some seven to eight chō east of town. Unusually for Hizen, these are said to have been single-bay kilns roughly six shaku square. Today the sites are reclaimed as red-soil fields planted with persimmon trees; only Sarayama shows traces, while the other two rarely yield kiln furniture fragments.

Sherd assemblages show gray or brown bodies with amber glazes, white brushed slip, and other make-up coats; workmanship is deft for stoneware. Many dishes and bowls were stacked with “janome” ring-foot setting, though fully glazed pieces also occur, including thin covered cups and rimmed bowls. There are brown-bodied unglazed wares, large dishes with gray glaze or white slip, and crackled amber-glazed fragments. Some medium plates bear gosu-painted heart-shaped leaves. Overall, the stoneware here is tightened nearly to semi-porcelain, and is said to date to early Genroku (1688) under the rule of the Kamishiro (Jindai) clan.

The Kamishiro line traces to the descendants of Takenouchi no Sukune through the great-grandson of Emperor Kōgen; they first bore the surname Mononobe and lived at Mount Kōra in Chikugo. In Bunji 1 (1185) they took the place-name Kumashiro as surname, later changing it to Kamishiro. Through Ryōmitsu—Ryōmoto—(great-grandson) Minor Captain Ryōchū—(grandson) Ryōmoto, they earned distinction under Ashikaga Takauji. Moving to Hizen in Katsumoto’s time, his son Rikyu married a daughter of the local magnate Jin’nai Yamato-no-kami Toshiyo of Kamisaga Senfu. Rikyu’s son Katsutoshi, of exceptional valor, first followed Chiba Okitsune, later ruled the castle of Sanze in Kanzaki, held parts of Sawara, Naka, and Itō in Chikuzen, and contended with Ryūzōji Takanobu. In Nagara’s time they submitted to the Ryūzōji, holding 500 chō; later under the Nabeshima they held 4,300 koku at Kawakubo and resided at the Nishihara manor (see genealogy).

There was also “Ochaya-yaki” in Kawakubo: about seventy-odd years ago, the later lord Kamishiro Ōinosuke Naotakara, as a pastime at the Nishihara residence, had thin celadon teabowls and chrysanthemum-shaped dishes made. Survivals are extremely rare; the ware seems to range from stoneware to porcelain.

Tsuwatarijō ware (Miyakadōjō-yaki) was produced behind Miyajidake Shrine in Matsume Village, Saga District, about two ri north of the city, where remnants of a climbing kiln about ten ken long remain. Early products in red clay included yukihira pans and spouted bowls, and also green-glazed teapots. Soon after, porcelain stone was found at “Hiike” atop the hill, and a soft, pale-gray porcelain was made. Early underglaze-blue pieces used gosu pigment; later works rely mainly on cobalt. The venture began roughly sixty years ago, when Kawakubo’s Ochaya-yaki ceased; a man named Hirosuke started pottery here, switched quickly to porcelain upon the raw-material discovery, turned out low-grade dishes and tableware, and within a few years the kiln was abandoned.

Matsugatani ware in Ogi dates to the Genroku era (1688–1704), when the third Ogi lord, Nabeshima Kii-no-kami Mototake, invited craftsmen from Minamikawara and built a leisure “oniwa-yaki” kiln at his Matsugatani villa (see the Ogi Nabeshima genealogy). The villa lies east of the Gion River, east of the former Iwamatsu village office, on a lofty site with splendid views. Mototake established a workshop here and, using Amakusa materials, produced white porcelain and celadon. Some overglaze decoration is straight Kakiemon style: for example, a rim-curled medium dish with underglaze-blue bamboo and grape, with triple pine–bamboo–plum in the cavetto, bearing Kakiemon’s familiar square “fuku” mark; also a round celadon tokkuri about 6 sun 3 bu high. Many Matsugatani pieces carry the “Kadomatsu” mark, consistent with Kakiemon’s use of the square-fuku. Made as a lordly amusement without regard to cost, the works were superb; even a small sake cup was treasured like a gem. Numbers were few, and survivors are rare.

Ogi documents record that on Genroku 12 (April 6) Lord Mototake granted 150 monme of silver to the Minamikawara potter Matsui Hyōemon; on the 25th day of the eighth month the Arita potter Sakaida Tōkurō also received silver; in Shōtoku 6, Nagasaki Tōzaemon received silver and provisions. Further entries note aid to Yamada Zen’emon at the Matsukōkei Ochaya on Genroku 17/9/9, matters regarding aka-e painters in Hōei 5/1, and a diary passage stating that although aka-e painters petitioned the previous autumn, litigation prevented approval and current officials should handle requirements. These craftsmen were evidently from Minamikawara in Arita and served as the potters for Matsugatani ware. In Kyōhō 11, under the fifth lord Kaga-no-kami Naohide, the work became an official domain enterprise, with an officer called “Sarayama-kata” to supervise; Naohide’s consort also took keen interest and encouraged the effort.

At the old temple Iwazōji in Iwamatsu Village is an incense burner made in Genbun 4, whose underside bears the inscription:
“Dedicated by Matsukōtani Sarayama / Ten-zan Shrine / Genbun Fourth Year / Offered on an auspicious day in the ninth month of the year of 未.”
A record from Enkyō 4 also appoints a Sarayama official. Although later details are lacking, the work appears to have continued at least into the time of the sixth lord, Kii-no-kami Naochika, and likely as late as An’ei (1772–1781).

As for the opening of Matsugatani, tradition holds it used Amakusa stone and craftsmen from Minamikawara. If founded in Genroku, however, this precedes the broad adoption of Amakusa stone (Shōtoku 2), a contradiction. The earliest production may thus go back to the first lord, Kii-no-kami Motoshige. A Kan’ei 14 document from the Arita Sarayama culling lists a “Kii-no-kami” letter exempting two potters—curious given the strict control that prevented even a single stone of Izumiyama porcelain rock from leaving Arita. Perhaps the Ogi lord received special license. Motoshige, eldest son of Katsushige, was in fact born of Oiwa (daughter of Konishi San’eimon), lady-in-waiting to Takagen’in; through kinship with the main-domain lord Tadanaga, his strong wish may have been specially granted. The matter merits further study.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
所谓大願寺烧,是指从前述横馬場再走半里、墓地深处的一处窑址,传说昔日曾烧布目瓦。相传北條時頼行脚至此罹重病,立下痊愈大愿,后建起五社神祠(仲哀、神功、應神、姫大神、春日明神),因而得名。堤畔尚有元龟元年八月于鍋島直茂奇袭中战死之大友八郎親秀墓碑。此地制陶极古,详情不明;所制有甕、水鉢、蘭鉢,今已断绝。

相の浦烧在小城郡北多久村天山麓,关联相浦監物(后縫殿助)之居城相浦城(又名城尾城)。当地古物繁多,偶见曲玉出土。陶业今废,起源未详;当时之皿、茶碗外观似焙烙烧,然烧成极为致密。

川久保烧在佐賀郡久保泉村,距佐贺市二里半。三百五十户中有一百六十户构成川久保宿站。东行七八丁之丘陵——大塚山、舘山、皿山——存三处窑迹,罕见地皆为约六尺见方的一间窑。今已开垦为赤土田,遍植柿树。唯皿山尚有少量残迹,其余二处偶得窑具碎片。

残片显示:灰或褐色胎,施飴釉、白刷毛目与化妆土者多,炻器工法娴熟。皿碗多以“蛇之目”堆叠烧成,亦见通体施釉者,含薄胎盖付茶碗、立口茶碗。尚有褐胎无釉品、灰釉或白化妆大皿、飴釉冰裂片;中皿有以呉須绘心形草叶者。总之,此处炻器收缩致密近似半瓷;年代为元祿初(1688),在邑主神代氏统治下制作。

神代氏出自武内宿禰后裔,初姓物部,居筑後國高良山;文治元年(1185)以熊代村为姓,后改“神代”。经良元—(曾孙)民部少辅良忠—(孙)良基,随足利尊氏立功。胜元时迁肥前;其子利久娶上佐嘉千布村豪族陣内大和守利世之女。孙胜利武勇绝伦,先从千葉興常,后为神埼庄三瀬城主,并据筑前早良、那珂、怡土部分地区,与龍造寺隆信争霸;及长良时归龍造寺,领五百丁。后属鍋島氏,于川久保领四千三百石,居西原之舘(系图参照)。

另有川久保“御茶屋焼”,相传七十余年前,后代领主神代大炊介直寶在西原之舘出于雅趣而制,薄青瓷茶碗、菊形皿等工巧之作;传世稀少,似属炻器至瓷器。

都渡城烧在佐賀郡松梅村、宮地嶽神社后山,今存约十间之登窑遗迹。初用赤土烧雪平锅、片口等,亦作绿釉茶瓶。旋即于山上“日池”得瓷石,烧成软质淡鼠灰瓷;染付初用呉須,后期以钴为主彩。创业约在六十年前,适逢川久保御茶屋焼废止,广助始于此制陶,及原料出、即转制瓷,造皿与食器下手物,不数年而废窑。

小城松ヶ谷烧创于元祿(1688–1704),小城三代藩主鍋島紀伊守元武自南川原延匠于松ヶ谷别墅设御庭焼(见小城鍋島系图)。别墅在祇園川之东、旧岩松村役场东侧,地势高爽。元武置作所,以天草原料制白瓷与青瓷。上绘多全袭柿右工門式:如染付竹葡萄、见込三方松竹梅、ゆり縁中皿,署柿右工門常用“角福”铭;并有青瓷六寸三分之高形丸徳利。松ヶ谷瓷多见“角松”铭,与柿右工門仅用“角福”相合。因属大名雅玩,不计成本,质量极高;当时藩士得一小盃亦珍若拱璧。然制品不多,今存甚稀。

古文书记:元祿十二年四月六日,藩主元武赐南川原烧物师松井兵右工門银百五十匁;同年八月二十五日,赐有田烧物师酒井田藤九郎银;正德六年十一月,赐长崎藤左工門银与酒肴。又有元祿十七年九月九日松香溪御茶屋番山田善右工門加势银、寶永五年正月赤绘师事等记载,并有“前秋赤绘师请命,因诉讼累累未允,且令在役者摄理”之记。诸工应皆出自有田郷南川原山,担任松ヶ谷烧陶师。享保十一年,五代藩主加賀守直英将其改为藩务,置“皿山方”官以监理;直英之室亦大感兴趣而勉励。

岩松村古刹岩藏寺所藏香炉为元文四年作,器底染付书:“奉 松香谷皿山/天山宮 元文四歳/寄進 未九月吉日”。延享四年亦有任皿山方之记。虽后续史料缺佚,传至六代藩主紀伊守直員时仍续行,推至安永(1772–1781)间尚见窑烟。

松ヶ谷开窑一说以天草石、南川原工人制作;若创于元祿,则先于正德二年天草石普用,生矛盾。或当溯至初代藩主紀伊守元茂。寛永十四年有田皿山陶工淘汰时之“紀伊守對古文書”记载对两名烧物师之许可。彼时有田泉山瓷石严禁外运,小城藩主或获特许。元茂为勝茂长子,所生为高源院侍女お岩(小西三右工門之女),与本藩主忠直为兄弟之亲,或以此缘而满足其强烈愿望;有待考证。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
所謂大願寺燒,指自前述橫馬場再行半里、墓地深處之窯址,傳稱昔日燒布目瓦。相傳北條時頼行腳至此罹重病,立痊癒大願,後建五社神祠(仲哀、神功、應神、姫大神、春日明神),因以得名。堤畔尚有元龜元年八月於鍋島直茂奇襲中陣亡之大友八郎親秀墓碑。此地製陶極古,詳情未明;所製有甕、水鉢、蘭鉢,今已絕。

相の浦燒在小城郡北多久村天山麓,關聯相浦監物(後縫殿助)之居城相浦城(又名城尾城)。土中古物繁多,間或出土曲玉。陶業今廢,肇端不詳;當時之皿、茶碗外觀似焙烙燒,然燒成甚為緻密。

川久保燒在佐賀郡久保泉村,距佐賀市二里半。三百五十戶中一百六十戶構成川久保宿驛。東行七八丁之丘陵——大塚山、舘山、皿山——存三處窯跡,於肥前殊為罕見,皆約六尺見方之一間窯。今已墾作赤土田,遍植柿樹。僅皿山尚見殘缺,其餘二處偶得窯具碎片。

殘片示:灰或褐色胎,多施飴釉、白刷毛目與化妝土,炻器手法嫻熟。皿碗多以「蛇之目」堆疊燒成,亦有通體施釉者,含薄胎蓋付茶碗、立口茶碗。亦見褐胎無釉品、灰釉或白化妝大皿、飴釉冰裂片;中皿有以呉須繪心形草葉者。總之,此處炻器收縮致密近半瓷;年代為元祿初(1688),在邑主神代氏統治下製作。

神代氏出自武內宿禰之裔,初姓物部,居筑後國高良山;文治元年(1185)以熊代村為姓,後改「神代」。經良元—(曾孫)民部少輔良忠—(孫)良基,隨足利尊氏立功。勝元時遷肥前;其子利久娶上佐嘉千布村豪族陣內大和守利世之女。孫勝利武勇絕倫,先從千葉興常,後為神埼庄三瀬城主,並據筑前早良、那珂、怡土部分區域,與龍造寺隆信爭霸;至長良時歸龍造寺,領五百丁。後屬鍋島氏,於川久保領四千三百石,居西原之舘(系圖參照)。

另有川久保「御茶屋燒」,相傳七十餘年前,後代領主神代大炊介直寶於西原之舘出於雅趣而製,薄青瓷茶碗、菊形皿等工巧之作;傳世稀少,似屬炻器至瓷器。

都渡城燒在佐賀郡松梅村、宮地嶽神社後山,今存約十間之登窯遺跡。初以赤土燒雪平鍋、片口等,亦作綠釉茶瓶。繼而於山上「日池」得瓷石,燒成軟質淡鼠灰瓷;染付初用呉須,後期以鈷為主彩。創業約在六十年前,值川久保御茶屋燒廢止,廣助始於此製陶,及原料出、即轉制瓷,造皿與食器下手物,不數年而廢窯。

小城松ヶ谷燒創於元祿(1688–1704),小城三代藩主鍋島紀伊守元武自南川原延匠於松ヶ谷別墅設御庭燒(見小城鍋島系圖)。別墅在祇園川之東、舊岩松村役場東側,形勝之地。元武置作所,以天草原料製白瓷與青瓷。上繪多全襲柿右工門式:如染付竹葡萄、見込三方松竹梅、ゆり緣中皿,署柿右工門常用「角福」銘;亦有青瓷六寸三分之高形圓德利。松ヶ谷瓷多見「角松」銘,與柿右工門僅用「角福」相符。因屬大名雅玩,不計成本,品質極高;時人得一小盃亦珍若拱璧。然製品不多,存世稀少。

古文書記:元祿十二年四月六日,藩主元武賜南川原燒物師松井兵右工門銀百五十匁;同年八月二十五日,賜有田燒物師酒井田藤九郎銀;正德六年十一月,賜長崎藤左工門銀與酒肴。又有元祿十七年九月九日松香溪御茶屋番山田善右工門加勢銀、寶永五年正月赤繪師事等記,並有「前秋赤繪師請命,因訴訟頻仍未允,且令在役者攝理」之語。諸工應皆出自有田郷南川原山,為松ヶ谷燒陶師。享保十一年,五代藩主加賀守直英改為藩務,置「皿山方」監理;直英之室亦甚感興趣而獎勵。

岩松村古剎岩藏寺藏香爐為元文四年作,器底染付書:「奉 松香谷皿山/天山宮 元文四歳/寄進 未九月吉日」。延享四年亦有任皿山方之記。雖後續史料闕如,傳至六代藩主紀伊守直員時仍續,推至安永(1772–1781)間尚見窯煙。

松ヶ谷開窯一說以天草石、南川原工人製作;若創於元祿,則先於正德二年天草石普用,生矛盾。或當上溯初代藩主紀伊守元茂。寛永十四年有田皿山陶工淘汰時之「紀伊守對古文書」載對二名燒物師之許免。彼時有田泉山瓷石嚴禁外運,小城藩主或獲特許。元茂為勝茂長子,所生為高源院侍女お岩(小西三右工門之女),與本藩主忠直為兄弟之親,或因是而其強願特被採納;有待研考。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
大願寺烧位于距横馬場约半里、墓地深处,传称曾烧布纹屋瓦。相传北條時頼巡礼至此重病发作,立祈愿后,后世建立五社神祠(仲哀、神功、應神、姫大神、春日明神),因而得名。堤畔有元龟元年八月于鍋島直茂奇袭中阵亡的“大友八郎親秀”碑。制陶极古,细节不详;所产甕、水鉢、蘭鉢等,今已绝迹。

相の浦烧在小城郡北多久村天山麓,关联相浦監物(后縫殿助)之相浦城(又名城尾城)。古物多见,偶出曲玉。工艺已亡,起源不详;存器皿、茶碗外观似焙烙,烧成却极致密。

川久保烧在佐賀郡久保泉村,离佐贺市二里半。350户中有160户的宿站称“川久保”。东七八丁的三丘——大塚山、舘山、皿山——存窑址,罕见地为约六尺见方“一间窑”。今成红壤田并植柿,仅皿山留微痕,其余偶见窑具碎片。

残片示灰/褐胎配飴釉、白刷毛目与化妆土,石质工巧。皿碗多以“蛇之目”堆叠烧成,亦有通体施釉之薄胎盖碗、立沿碗。另见褐胎无釉、灰釉或白化妆大盘、飴釉冰裂片;中盘有呉須绘心叶。总体为近半瓷之炻器,作于元禄初(1688)神代氏治下。

神代氏出自武内宿祢后裔,初姓“物部”,居筑後國高良山;文治元年(1185)取“熊代村”为姓,后改“神代”。历良元—良忠—良基,随足利尊氏有功。胜元时入肥前;其子利久尚豪族陣内大和守利世之女。孙胜利勇冠群伦,先随千葉興常,后为神埼庄三瀬城主,并领筑前早良、那珂、怡土部分,与龍造寺隆信争衡;长良时属龍造寺,领500丁。后属鍋島氏,于川久保领4300石,居西原之舘(系谱参)。

另有“御茶屋焼”,约七十余年前神代大炊介直寶于西原之舘出于雅趣而制,薄青瓷茶碗、菊形盘等;传世稀少,似属炻器至瓷器。

都渡城烧在松梅村宮地嶽神社后山,存约十间登窑遗迹。初以红土烧雪平锅、片口等,亦有绿釉茶瓶。后于“日池”得瓷石,制软淡灰瓷;早期染付用呉須,后以钴为主。创业约六十年前,值川久保“御茶屋焼”止,广助始陶于此,旋因原料改作瓷器,产皿与食器下手物,不久废窑。

松ヶ谷烧创于元禄(1688–1704),小城三代主鍋島紀伊守元武延南川原匠于别墅建“御庭焼”(见系谱)。别墅在祇園川东、旧岩松村役所东,形胜之地。以天草料制白瓷与青瓷;上绘承柿右工門风:如染付竹葡萄、内场三方松竹梅、卷沿中盘,署“角福”;并有青瓷6寸3分之高形圆徳利。多见“角松”铭,与柿右工門仅用“角福”相应。因属贵族雅玩,不计成本,质量绝佳;当时小杯亦珍若宝。存世稀少。

档案记载元禄十二年四月六日授南川原松井兵右工門银150匁;八月二十五日授有田酒井田藤九郎银;正德六年十一月授长崎藤左工門银与酒肴;另有援助松香溪御茶屋番山田善右工門、赤绘师相关条目,并载“赤绘师请命未允,暂由在役者办理”。诸匠皆出南川原山,为松ヶ谷烧服务。享保十一年,五代主加賀守直英将其并入藩务,置“皿山方”,其室亦鼓励。

岩藏寺藏一炉,作于元文四年,底书:“奉 松香谷皿山/天山宮 元文四歳/寄进 未九月吉日”。延享四年仍有任命“皿山方”之记。至六代主紀伊守直員尚存窑务,安永(1772–1781)间应仍见烟火。

关于松ヶ谷开窑,传用天草石与南川原工人;若始于元禄,则早于正德二年天草石普用,矛盾。或归于首代主紀伊守元茂。寛永十四年有“紀伊守對古文書”免两陶工之载;彼时严禁有田泉山瓷石外运,或唯小城获特许。元茂为勝茂长子,母为高源院侍女お岩(小西三右工門之女),与本藩主忠直为兄弟关系,或因此得允其所愿,尚待研究。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
大願寺燒位於距橫馬場約半里之墓地深處,傳稱昔日燒布紋屋瓦。相傳北條時頼巡禮至此重病,立願後建五社神祠(仲哀、神功、應神、姫大神、春日明神),遂得其名。堤畔有元龜元年八月鍋島直茂奇襲中陣亡者「大友八郎親秀」碑。製陶極古,細節未詳;所出甕、水鉢、蘭鉢,今已絕。

相の浦燒在小城郡北多久村天山麓,關連相浦監物(後縫殿助)之相浦城(又名城尾城)。古物多見,間出曲玉。技藝已亡,肇端不詳;存器皿、茶碗形似焙烙,燒成卻甚緻密。

川久保燒在佐賀郡久保泉村,離佐賀市二里半。350戶中有160戶之宿驛稱「川久保」。東七八丁三丘——大塚山、舘山、皿山——存窯跡,罕見皆約六尺見方「一間窯」。今為赤壤田並植柿,唯皿山餘痕猶存,其餘偶見窯具碎片。

殘片示灰/褐胎與飴釉、白刷毛目及化妝土;炻器手藝嫻熟。皿碗多以「蛇之目」堆疊燒成,亦有通體施釉之薄胎蓋碗、立沿碗。另見褐胎無釉、灰釉或白化妝大盤、飴釉冰裂片;中盤有呉須畫心葉。總體為近半瓷之炻器,作於元祿初(1688)神代氏治下。

神代氏系出武內宿祢,初姓物部,居筑後國高良山;文治元年(1185)取「熊代村」為姓,後改「神代」。經良元—良忠—良基,從足利尊氏立功。勝元時入肥前;其子利久尚陣內大和守利世之女。孫勝利勇絕,先從千葉興常,後主神埼庄三瀬城,並領筑前早良、那珂、怡土部分,與龍造寺隆信爭衡;長良時屬龍造寺,領500丁。後屬鍋島氏,於川久保領4300石,居西原之舘(系譜見)。

另有「御茶屋燒」,約七十餘年前神代大炊介直寶於西原之舘為雅趣而作,薄青瓷茶碗、菊形皿等;傳世罕見,疑介於炻器與瓷器。

都渡城燒在松梅村宮地嶽神社後山,有約十間登窯遺跡。初以赤土燒雪平鍋、片口等,亦製綠釉茶瓶。後於「日池」覓瓷石,製軟淡灰瓷;早期染付用呉須,後期以鈷為主。創於約六十年前,值川久保「御茶屋燒」止,廣助始陶於此,及發現原料遂轉製瓷,產皿與食器下手物,未久而廢。

松ヶ谷燒創於元祿(1688–1704),小城三代主鍋島紀伊守元武延南川原匠於別墅立「御庭燒」(見系譜)。別墅在祇園川東、舊岩松村役所東,地勢勝絕。以天草料製白瓷與青瓷;上繪承柿右工門風:如染付竹葡萄、內場三方松竹梅、卷沿中盤,署「角福」;亦有青瓷六寸三分高形圓德利。多見「角松」銘,與柿右工門僅用「角福」相應。貴族雅玩,不計成本,品質精良;彼時小盃亦珍如拱璧。存世寥寥。

文獻載元祿十二年四月六日授南川原松井兵右工門銀150匁;八月二十五日授有田酒井田藤九郎銀;正德六年十一月授長崎藤左工門銀與酒肴;另記松香溪御茶屋番山田善右工門之助銀、及赤繪師事,並云「赤繪師請命未允,暫由在役者辦理」。諸匠皆出南川原山,供職松ヶ谷燒。享保十一年,五代主加賀守直英納為藩務,置「皿山方」,其室亦勉勵。

岩藏寺藏香爐作於元文四年,底書:「奉 松香谷皿山/天山宮 元文四歳/寄進 未九月吉日」。延享四年仍有任命「皿山方」。至六代主紀伊守直員時猶在,推及安永(1772–1781)間猶見窯煙。

松ヶ谷開窯傳用天草石與南川原匠;若始元祿,則先於正德二年天草石普用,有矛盾。或上溯首代紀伊守元茂。寛永十四年「紀伊守對古文書」載免二陶工之事;值有田泉山瓷石嚴禁外運之時,小城或獲特許。元茂為勝茂長子,母為高源院侍女お岩(小西三右工門之女),與本藩主忠直為手足之親,或因此而願獲允;尚待研析。