【原文】[Original text]
小曾根焼
小曾根焼は長崎市内にて、今の小曾根町せらるゝに至りし當時の長者小曾根六三郎の男新太郎が、明治二十五年開窯せしものにて、天草原料を以て染附磁器を製作せしものである。種類は花瓶 茶器 皿、丼、徳利等多種類にて、有田、大川内、小田志等より工人を招き、豊富なる財力を以つて頗る見る可き器物を製造したのである。
小曾根乾堂
六三郎は六左エ門の男にて乾堂と號し、楷行草の書を春老石に、隷書を清人錢小虎に、畫を僧鐵翁に、篆刻を大城彌水に學び、特に彫技に於いては夙に一家を成せる者であつた。明治六年五月三日國彫刻の命を蒙り、彼は宮中梅の間上段に於いて、二寸角程の大純金印材に大日本國璽を彫り上げ、間もなく又天皇御璽の篆刻大命を果せし者である。
小曾根星海
新太郎は星海と號して又篆刻を善くし、自ら製品の一部に詩書を彫せるものがある。當時磁器製造の監督者として、杵島郡小田志山の名陶家松尾喜三郎が担任せしも、約三ヶ年許にて廢窯したのである。斯くて元島原藩士にて小田志に在り、又久しく波佐見の中尾山にありて碍子を製造せし田中卯太郎が、此小曾根焼廢窯の諸材料を買収せしが、途に復興するの資力なくして他に轉賣したのである。
小曾根象嵌
又此處の廢窯後の工場に於いて、尚残存せる素焼窯を利用して陶器を焼くことゝ成り、肥後高田の工人某來つて象嵌手を製作し、見る可きものありしも、これ又三ヶ年にして全く廢絶にしたのである。
山里焼
山里焼といへるは、長崎市浦上の松山町なる馬淵龍石の製品である。彼は元京都の人にて信三郎とし、幼にして清水の歌人太田垣蓮月尼に就いて和歌を學びしが、其衣鉢をうけし黒田良山(光良)が、手捻りの蓮月焼を製作するに入門して陶技を習ひしものにて、自作の器面に和歌を彫刻することに於いて道楽的の趣味としたのである。明治十六年彼二十九才の時長崎に来り、龜山燒最終の工人として携はりしも廢窯後は諸山に遊技し、同三十二年山里焼として開窯したのである。
龍石の指導
それより四、五年を経て、島原半島なる小濱燒の指導者として五、六年を通勤し。又波佐見の中尾山に居住すること十ヶ年、其間彼に師事せし者が今の馬場筒山である。又年餘を有岩谷川内の松尾勝太郎方に在りし際、末子長久(松尾仁の父)等に共抜を敷へたのである。
其後現地に歸りて山里焼を製作し、昭和九年八十三才向矍鑠として技工に耽りつゝある。(今嗣子龍谷「榮一」其技を継承してゐる)原料は長與及天草産を主とするも、稀に京都の粘土を用ふるものもある。作品は拉車を用ひず専ら手捻りにて投入花器や茶器類が重なる製品である。
龍石の製品
製品には赤き胎土の脇手の急須があり、又茶碗、湯呑等に褐色釉を掛け其上に白釉や薄黄釉を施し、それに雅なる山水をして下釉の褐色を現はしてゐる。又此種の物にて栗色地釉に白釉を施して篦彫せしもの、或は些かの青楽を流せしものもある。又唐焼手(無釉物)にて高浮彫山水なる萬古風茶器の如きも得意であるらしい。
其他地釉には赤茶或は薄墨釉を施し、それに白にて粗き渦刷毛目を廻らせし煎茶々碗があり。又高臺内は無釉なるもチャッ積にて高臺足を施釉せ茶碗がある。或は黒栗釉に白の霜降りを施し、間々青を散点せし尺五寸のずんど花生など種々の雅品が製作されてゐるのである。
長州山焼
長州山焼は長崎市中小島の梅園に於いて、明治三十六・七年頃、岡野實太郎(後神戸市會議長)が、薩摩より原料を取寄せて製造せしものにて、全然薩摩風の卵色氷裂手を製し之に同じ薩摩式の密畫を上繪附せしものである。換言すれば長崎に於いて薩摩焼を製せしものといふ可く頗る優秀なる作品なりしも同四十二年頃に至りて廢窯されたのである。
長崎焼
長崎焼といへるは同市愛宕町(元高屋平郷)にて、窯元は山口縣人中原仁市である。寛文年間毛利藩の中原太郎左工門勝文なる者陶工友平といへるを雇用して、周防國吉敷郡新宮山に開窯せしところ、友平死去の爲廢窯するの止を得なかつた。明治年間に及び十二代中原要人勝久の時、姻戚藤井常磐の次男を養嗣とせし者が現代の仁市である。
彼は九代目の坂高麗左工門に就いて陶技を學び明治二十九年より大坂居留の獨人スキトモールの門に研究すること四ヶ年であつた。同三十四年吉敷郡大道村字且の陶業合資會社に入りて酒垂燒指導の任にありしが、同三十九年酔して長崎市に移住せしものである。
ラジューム粘土
斯くて該市の附近に於いて、ラヂューム含有の粘土を發見し、折から長州山焼廢窯の材料を引請けて、茶器及花器等多種の雅陶を製作しを、時の長崎縣知事李家隆介は之に長崎焼と命名したのである。大正十五年十一月彼は同縣廳より視察を命ぜられて馬來半島の窯業を見學した。同十一年三月二十一日には華頂宮博忠王殿下、又昭和四年四月には閑院宮春仁王殿下の御台臨を蒙ったのである。
長崎焼製品
製陶原料は前記の重籠山の粘土と雲仙岳別曾の土を用ひしものにて、製品には黒天目に外釉を掛けし南瓜尻の茶碗や、栗色地に白別曾の粘土を以て鶉手の如き木目を現はせ製品が少くない。又重コルム酸に礬土を調合せし眞縁色の浮上釉などが應用されてゐるが、製品の種類は多岐に涉つてゐる。
浦上の植木鉢
此外昭和二年より浦上の橋口町に、杵島郡橘村上野の坂本龜三が、 小形の植木鉢や七輪及火消壺などを焼いてゐる。原料は長興及五島の粘土を用ひしも、今は全く長奥土のみを使用しつゝある。
御像造り
又同じ浦上なる岡町に於いて、昭和四年より聖像専門を製作する奥村不二彦がある。
彼はも南高来の島原の人にて、是より半歳以前雲仙岳の古湯にて彫作せしものであつた。今の原料は長興及五島の粘土を以て専ら基督に關する塑像のみ製するゆえに、俗に御像造りと稱せられてゐる。
不二彦も勿論カトリック教徒にて、斯教の本場なる浦上天主堂下に於て、敬虔なる体度と信仰に燃ゆる彼の彫技には頗る見る可きものがあり。且適所に適技を振へる而已ならず、従来の泊来品と比較して三分の一以下の価格を以て、それに劣らぬ作品を供給し得ることは、輸入防遏なる國益的製作して奨勵すべきであらう。
土井の首焼
土井の首焼は、西彼杵郡土井の首村字江川にて、長崎市より一里半の西半島地である。此地もと深堀中務大輔純賢(三千石)の采邑に属し、慶應年間には擂鉢や植木鉢の如き黒物を焼きしさころである。大正五年長崎市の岡部忠太郎等は有田町の深川忠次と協同して、此處に長崎陶器株式會社を創立し、忠次は自家の工場より釆女甚一を遣はして、築窯其他の準備をなさしめ、忠太郎之が社長となり、天草の下等石を以て南洋向護謨碗及珈琲器を製造せしが、其後護謨収穫の激減に連れて需要を失し、昭和四年に至つて邃に廢業すべき運命と成なつたのである。
土井の首タイル製造所
然るに翌五年に至り、大阪陶業株式會社は前記舊會社の常務取締兼技師長なりし竹腰直次郎(岐阜縣人)を後援して、之を継続せしむることゝなり、天草石に尾張の蛙目を加へ主として、磁器タイルを製造し、之より長崎磁器タイル製造所と改むるに至った。其需要は三菱造船所を始め南洋、中國、満洲等にて中にも南洋輸出は重に三菱商事の手を経由しつゝある。現在職工五十八人年産額五萬圓と稱せられる。
眉山焼
眉山焼は明治二十七年頃南高来郡島原の港に於て、堀部百太郎が二三の出資者協同を得て、染附磁器を製造せしものにて、或は之を港焼ともせられた。眉山さは往時前山せし雲仙嶽の前面に聳立せる山名にて、又は眉山と呼ばれてゐるより此名を用ひしものである。
製陶原料は天草石を取寄せ製造主任には有田稗古場の中島忠作を招聘し、又畫工として同地の牛島光之助、田中清一を始め其他三河内より諸工人十數人を雇用したのである。そして七八間の登窯を築きて普通品を製作しものにて、種類は花鳥稲の六、七寸皿より、食器類、花瓶等重なるものであり、又彫刻物や或は蕎麦手など製作されたのである。斯くて日清戦役後まで継続せしも、三ヶ年にして、廢案したのである。
小濱焼
南高来郡の小濱焼は、今より三十年前此地の中村周作なる者が、山の上といへる處にて製陶を始め一年許りにして廢窯したのである。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
小曾根焼は長崎市内、現在の小曾根町と呼ばれるようになった頃の資産家・小曾根六三郎の子、新太郎が明治二十五年に開いた窯で、天草産の原料を用いた染付磁器を作った。花瓶・茶器・皿・丼・徳利など種類は多く、有田・大川内・小田志から職人を招き、潤沢な資金で見事な器を製造した。
六三郎は六左エ門の子で号は乾堂。書は楷書・行書・草書を春老石に、隷書を清人の錢小虎に、絵を僧の鐵翁に、篆刻を大城彌水に学び、ことに彫刻では早くから一家を成した。明治六年五月三日、国璽彫刻の命を受け、宮中の梅の間上段で二寸角ほどの純金の印材に「大日本國璽」を刻み、間もなく「天皇御璽」の篆刻も果たした。
新太郎は号を星海とし篆刻にも巧みで、自作の一部に詩書を刻んだ。磁器製造の監督には杵島郡小田志山の名工・松尾喜三郎が当たり、しかし約三年で廃窯となった。のちに元島原藩士で小田志に住み、長く波佐見・中尾山で碍子を作っていた田中卯太郎が廃窯の資材を買い取ったが、復興の資金がなく他へ転売した。
その後、廃窯跡の工場で残っていた素焼窯を使い陶器を焼き、肥後・高田の職人が来て象嵌の作を手がけ、見るべきものもあったが、これも三年で全く途絶えた。
山里焼は、長崎市浦上の松山町で馬淵龍石が作るものである。龍石はもと京都の人、名は信三郎。幼い頃に清水の歌人・太田垣蓮月尼に和歌を学び、その衣鉢を継いだ黒田良山(光良)のもとで手捻りの蓮月焼を学び、器面に自作の和歌を彫るという道楽的な趣味を持った。明治十六年、二十九歳で長崎に来て龜山焼の最末期に従事し、廃窯後は諸窯をめぐったのち、同三十二年に「山里焼」として開窯した。
それから四、五年後には島原半島の小濱焼の指導者として五、六年通い、また波佐見・中尾山に十年住んだ。この間に彼に学んだ者が今の馬場筒山である。さらに一年余り有岩谷川内の松尾勝太郎宅にいた際には、末子・長久(松尾仁の父)らにも手ほどきをした。その後、現地に戻って山里焼を作り、昭和九年には八十三歳ながら矍鑠として制作に没頭していた(現在は嗣子・龍谷〔榮一〕が継承)。原料は主に長與および天草の土で、まれに京都の粘土も用いる。作品は轆轤を使わず専ら手捻りで、投げ入れ花器や茶器を主に作る。
龍石の作は、赤い胎土の脇手急須、茶碗・湯呑に褐釉を掛けてその上に白釉や淡黄釉を重ね、下の褐色が山水の景として浮かぶ趣向のものがある。栗色地に白釉を掛けて篦彫りを施したものや、わずかに青楽を流したものもある。無釉の唐焼手で高い浮彫の山水を施した萬古風の茶器も得意らしい。ほかに赤茶や薄墨の地釉に白で粗い渦の刷毛目を廻らせた煎茶碗、高台内は無釉だが「チャッ積」で高台足にだけ釉を掛けた茶碗、黒栗釉に白の霜降りを施し、ところどころ青を点じた一尺五寸のずんどう花入など、さまざまな雅味ある品が作られている。
長州山焼は長崎市中小島の梅園で、明治三十六・七年頃に岡野實太郎(のち神戸市会議長)が薩摩から原料を取り寄せて制作したもので、薩摩風の卵色の氷裂手に、同じく薩摩式の緻密な上絵を施した。いわば長崎で薩摩焼を作ったもので、優れた作品だったが、明治四十二年頃に廃窯となった。
長崎焼は同市愛宕町(旧・高屋平郷)の窯で、窯元は山口県出身の中原仁市。寛文期に毛利藩の中原太郎左工門勝文が陶工・友平を雇って周防国吉敷郡新宮山に開窯したが、友平の死でやむなく廃窯。明治期、十二代・中原要人勝久のとき、縁戚の藤井常磐の次男を養嗣としたのが現代の仁市である。仁市は九代目・坂高麗左工門に学び、明治二十九年からは大坂居留地の独人スキトモールに四年師事。明治三十四年、吉敷郡大道村字且の陶業合資会社に入り酒垂焼の指導にあたったのち、同三十九年に酔余の勢いで長崎市に移住した。
やがて市近郊でラジウムを含む粘土を見いだし、ちょうど長州山焼の廃窯材料を引き受けて、茶器や花器など多様な雅陶を作り、当時の長崎県知事・李家隆介がこれを「長崎焼」と命名した。大正十五年十一月には県庁の命で馬來半島の窯業を視察。大正十一年三月二十一日には華頂宮博忠王殿下、昭和四年四月には閑院宮春仁王殿下の台臨を賜った。
長崎焼の原料は重籠山の粘土と雲仙岳別曾の土で、黒天目に外釉を掛けた南瓜尻の茶碗、栗色地に白い別曾の粘土で鶉手のような木目を見せる品が少なくない。重コルム酸に礬土を調合した眞縁色の浮上釉なども応用し、製品の種類は多岐にわたる。
また、昭和二年からは浦上の橋口町で、杵島郡橘村上野の坂本龜三が小型の植木鉢や七輪、火消壺を焼いた。原料は当初、長興と五島の粘土だったが、今は長奥土のみを用いる。
同じ浦上の岡町では、昭和四年から奥村不二彦が聖像専門の制作を行っている。南高来・島原の出身で、その半年前には雲仙岳の古湯で彫作していた。現在は長興と五島の粘土を用い、主に基督に関する塑像だけを作るため俗に「御像造り」と呼ばれる。奥村もカトリックで、浦上天主堂の麓という本場で、敬虔な態度と燃える信仰に支えられた彫技は見るべきものがあり、適所で適技をふるうだけでなく、従来の舶来品に比べて三分の一以下の価格で遜色ない作品を供給できることは、輸入抑制に資する国益的な仕事として奨励に値する。
土井の首焼は西彼杵郡土井の首村字江川、長崎市から一里半の西半島で行われた。この地はもと深堀中務大輔純賢(三千石)の采邑で、慶應年間には擂鉢や植木鉢など黒物を焼いた。大正五年、長崎市の岡部忠太郎らが有田町の深川忠次と協力して長崎陶器株式会社を設立。忠次は自工場から釆女甚一を派遣して築窯などの準備を行い、忠太郎が社長となり、天草の下等石で南洋向けの護謨碗や珈琲器を製造した。しかし護謨収穫の急減に伴い需要を失い、昭和四年ついに廃業のやむなきに至った。
翌昭和五年には、大阪陶業株式会社が旧会社の常務取締兼技師長だった竹腰直次郎(岐阜県人)を後援して事業を継続し、天草石に尾張の蛙目を加えて主として磁器タイルを製造、「長崎磁器タイル製造所」と改称した。需要は三菱造船所をはじめ南洋・中國・満洲に及び、南洋向けは主として三菱商事の手を経る。現在、職工五十八人、年産額は五万円とされる。
眉山焼は明治二十七年頃、南高来郡島原の港で堀部百太郎が数名の出資者と協力して染付磁器を作ったもので、港焼とも呼ばれた。名は、かつて前山とも呼ばれた雲仙嶽の前面にそびえる山「眉山」に由来する。原料は天草石を取り寄せ、製造主任に有田・稗古場の中島忠作、絵付に同地の牛島光之助・田中清一、さらに三河内から十数人の職人を雇った。七、八間の登窯を築いて普及品を作り、花鳥や稲を描く六・七寸皿、食器、花瓶のほか、彫刻物や蕎麦手なども製作。日清戦役後まで続いたが、三年ほどで廃絶した。
南高来郡の小濱焼は、今から三十年前、当地の中村周作が「山の上」と呼ぶ場所で製陶を始めたが、約一年で廃窯となった。
【英語訳】[English translation]
Kozone ware originated within Nagasaki City when the wealthy merchant Kozone Rokuzaburō’s son, Shintarō, opened a kiln in Meiji 25 (1892) in what is now Kozone-chō. Using Amakusa raw materials, they produced underglaze-blue porcelain in many forms—vases, tea ware, plates, bowls, sake flasks—bringing in craftsmen from Arita, Ōkawachi, and Odashi. With ample capital, they turned out pieces of notable quality.
Rokuzaburō, son of Rokuzaemon, bore the art name Kandō. He studied regular/semicursive/cursive scripts under Shunro-seki, clerical under the Qing scholar Qian Xiaohu, painting under the monk Tetsuō, and seal engraving under Ōshiro Yasui, establishing himself early as an engraver. On May 3, Meiji 6 (1873), he was commanded to engrave the national seals; in the Palace’s Ume-no-ma he carved the “Great Seal of Japan” on a pure-gold block about two inches square, and soon after completed the “Imperial Seal.”
Shintarō, styled Seikai, was also adept at seal carving, inscribing poems on some wares. Master potter Matsuo Kisaburō of Odashi supervised production, but after roughly three years the kiln closed. Tanaka Utarō—formerly a Shimabara retainer, later at Odashi and long at Hasami’s Nakaoyama making insulators—bought the defunct kiln’s materials, yet, lacking funds to revive it, resold them.
Thereafter, the surviving biscuit kiln on the site was used to fire pottery. A craftsman from Takata in Higo produced inlaid pieces of some merit, but this, too, ended completely after three years.
“Yamazato ware” refers to the work of Mabuchi Ryūseki in Matsuyama-chō, Urakami, Nagasaki. Originally from Kyōto (name: Shinzaburō), he studied waka as a child with the poet-nun Ōtagaki Rengetsu, then apprenticed to Kuroda Ryōzan (Mitsuyoshi), inheritor of her tradition, learning handbuilt “Rengetsu-yaki.” He cultivated the taste of carving his own poems on vessels. At age 29 (Meiji 16), he came to Nagasaki, joined Kameyama ware at its very end, then toured various kilns; in Meiji 32 he opened his own as Yamazato-yaki.
Four or five years later he served five or six years as advisor to Obama ware on the Shimabara Peninsula, and lived ten years at Hasami’s Nakaoyama. Among those who studied under him was today’s Baba Tsutsuyama. After spending over a year at the home of Matsuo Katsutarō in Ariwaya-gawachi, where he taught the youngest son, Nagahisa (father of Matsuo Hitoshi), he returned and resumed Yamazato ware. As of Shōwa 9 (1934) he was 83 and still vigorous at the bench (the craft now continued by his heir Ryūkoku, “Eiichi”). He mainly uses clay from Nagayo and Amakusa, occasionally Kyōto. Eschewing the wheel, he hand-builds, focusing on nageire flower vases and tea ware.
His works include red-bodied, side-handled teapots; bowls and cups with brown glazes over which white or pale-yellow glazes are applied so that the brown underlayer emerges as refined landscape motifs. There are pieces with chestnut ground and white glaze cut with spatula carving, some with a touch of aoraku. In unglazed “Tō-yaki” manner, he favors banko-style tea wares with high relief landscapes. Other pieces show red-brown or pale-ink grounds with bold white spiral brushwork for sencha cups; bowls with unglazed footwells but glazed footrings set “cha-tsumi” style; and stout, 1 shaku 5 sun flower vases in black-chestnut glaze with white “sprinkles” and occasional blue dots—varied, elegant work.
Chōshū-yama ware was produced in Umezono, Naka-Kojima, Nagasaki, around Meiji 36–37 (1903–1904) by Okano Jitarō (later Kobe City Council chairman). He imported raw materials from Satsuma and made thoroughly Satsuma-style ivory crackle wares with dense overglaze painting—in effect, Satsuma ware made in Nagasaki. The pieces were excellent, but the kiln closed around Meiji 42 (1909).
“Nagasaki-yaki” refers to a kiln at Atago-chō (formerly Takayabira-gō), run by Nakahara Niichi of Yamaguchi. In the Kanbun era, Nakahara Tarōzaemon Katsufumi of the Mōri domain had hired a potter named Tomohira to open a kiln at Shingūyama in Yoshiki-gun, Suō; after Tomohira’s death it was unavoidably closed. In Meiji times, under the 12th head Nakahara Kanato Katsuhisa, a relative—Fujii Tokiwa’s second son—was adopted; he is today’s Niichi. Niichi studied with the 9th Saka Kōraizaemon, then from 1896 trained four years under the German Skitomōru in Osaka’s foreign settlement. In 1901 he joined a ceramic joint-stock company in Daidō-mura, Yoshiki-gun, to instruct Sakadare ware, and in 1906 moved to Nagasaki.
Nearby he discovered clay containing radium and, taking over materials from the defunct Chōshū-yama kiln, produced a wide range of tasteful tea and flower wares. Governor Rike Ryūsuke named the line “Nagasaki-yaki.” In November 1926 he toured Malayan ceramic works by order of the prefecture. Prince Kachō Hirotada visited on March 21, 1922, and Prince Kan’in Haruhito in April 1929.
For Nagasaki-yaki, the clays used were from Jūkagoyama and Unzendake-Bessō. Products included pumpkin-shaped tea bowls with black temmoku and exterior glaze; pieces showing “quail-egg” like woodgrain on a chestnut ground using white Bessō clay. A vivid green floating glaze compounded from “heavy korumu acid” and alumina was also employed. The catalog was extensive.
From Shōwa 2 (1927) in Hashiguchi-chō, Urakami, Sakamoto Kamezō of Ueno, Tachibana-mura, Kishi-gun, made small flowerpots, hibachi, shichirin, and fire-dousing jars. He first used clays from Chōkō and Gotō, and now exclusively “Chō-oku” clay.
Also in Urakami’s Oka-machi, since Shōwa 4 (1929) Okumura Fujihiko has specialized in sacred statuary. A native of Shimabara, he had been carving at Unzendake’s Furu-yu half a year earlier. Using clays from Chōkō and Gotō, he makes only Christian figures—hence the nickname “image-maker.” A Catholic himself, working beneath Urakami Cathedral, his devoutly inspired sculpture commands attention; not only is it aptly placed and executed, but compared with imports it sells for under one-third the price with no loss of quality—work that merits encouragement as import substitution.
Doi-no-kubi ware was made at Egawa, Doi-no-kubi-mura, Nishisonogi-gun, on the western peninsula, a ri and a half from Nagasaki. Formerly the fief of Fukabori Nakanokami Sumitaka (3,000 koku), the area produced “black wares” like mortars and flowerpots in the Keiō era. In Taishō 5 (1916), Nagasaki’s Okabe Chūtarō and others, with Fukagawa Chūji of Arita, founded Nagasaki Tōki Co., sending Uneme Shin’ichi from Fukagawa’s factory to build the kiln; Okabe became president. Using low-grade Amakusa stone, they made rubber bowls for the South Seas and coffee sets, but when rubber harvests plunged, demand vanished, and by Shōwa 4 (1929) the firm had to close.
The next year, Shōwa 5 (1930), Osaka Tōgyō Co. backed Takenokoshi Naojirō (from Gifu), the former managing director and chief engineer, to continue operations, adding Owari feldspathic “kaerame” to Amakusa stone to produce porcelain tiles; the enterprise was renamed Nagasaki Porcelain Tile Works. Customers included Mitsubishi Shipyard, and buyers in the South Seas, China, and Manchuria; South Seas exports mostly moved through Mitsubishi Corporation. With 58 workers, annual output was said to be ¥50,000.
Biyama ware began around Meiji 27 (1894) at the port of Shimabara, Minami-Takaki-gun, where Horibe Hyakutarō and a few backers produced underglaze-blue porcelain, sometimes called “Minato-yaki.” The name derives from Mt. Biyama, which rises before Mt. Unzen, once called Maeyama. Using Amakusa stone, they invited Nakajima Chūsaku of Arita’s Hikoba to supervise production, and hired painters Ushijima Mitsunosuke and Tanaka Seiichi there, plus over a dozen workers from Mikawachi. With a 7–8-bay climbing kiln they made standard wares—6–7 sun plates with birds-and-rice motifs, tableware, vases—and also carvings and “soba-de.” The venture continued into the aftermath of the Sino-Japanese War but ended after about three years.
As for Obama ware in Minami-Takaki-gun, some thirty years ago a man named Nakamura Shūsaku started a kiln at a place called “Yamano-ue,” but it closed in about a year.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
小曾根烧由长崎市内兴起。时当被称为“小曾根町”的时期,富商小曾根六三郎之子新太郎于明治二十五年开窑,采用天草原料烧制染付瓷。花瓶、茶器、盘、丼、德利等品类齐全,从有田、大川内、小田志延聘匠人,凭借充足资金制作出颇为精良的器物。
六三郎号“乾堂”,书法从春老石(楷行草)、錢小虎(隶),绘画从僧鐵翁,篆刻从大城彌水,尤以雕刻见长。明治六年五月三日奉命雕刻国玺,于宫中梅之间刻成纯金印材之“大日本国玺”,继而完成“天皇御玺”。
新太郎号“星海”,亦善篆刻,有在制品上刻诗书者。生产监督由杵岛郡小田志山名工松尾喜三郎担任,但约三年即告废窑。后元岛原藩士田中卯太郎购得废窑资材,因无力复兴而转售。
其后利用遗留素烧窑继续烧制陶器,肥后高田匠人来作象嵌手,作品可观,亦仅三年即绝。
“山里烧”为长崎市浦上松山町马淵龙石之作。龙石本京都人,名信三郎,幼承太田垣蓮月尼学和歌,后从黑田良山(光良)学手捻“蓮月烧”,喜于器面刻自作和歌。明治十六年来长崎,参与龟山烧之末期,废窑后周游诸窑,明治三十二年以“山里烧”开窑。
其后四五年间,通勤指导岛原半岛小滨烧五六年,并于波佐见中尾山居十年,门人中有今之马场筒山。又在有岩谷川内松尾胜太郎宅逗留一年余,教授末子长久(松尾仁之父)等。返乡后继续山里烧,至昭和九年八十三岁仍精力充沛(今由嗣子龙谷〔榮一〕承继)。原料主为长与与天草之土,偶用京都粘土;不用轆轤,专以手捻,重在投壶式花器与茶器。
其作有赤胎脇手急须;茶碗、汤吞以褐釉为地,上覆白釉或淡黄釉,使下层褐色显作山水之趣;亦有栗色地覆白釉并作篦彫,或略流青乐者;无釉“唐烧手”高浮雕山水之万古风茶器亦擅长。另有赤茶或淡墨地釉配白色粗涡刷毛目之煎茶碗;高台内无釉而足缘施釉之器;黑栗釉上施白色霜降,间点青色之一尺五寸筒式花生等,皆具雅趣。
长州山烧为明治三十六、七年间,冈野實太郎于长崎市中小岛梅园以薩摩原料烧制之品,作薩摩风卵色冰裂并施细密上绘,可谓在长崎制作薩摩烧,然至明治四十二年左右废窑。
“长崎烧”在同市爱宕町(旧高屋平郷),窑主中原仁市(山口人)。其家族源自寛文期新宫山之窑,后辍;至明治时第十二代中原要人胜久收藤井常磐次子为嗣,即今之仁市。仁市从第九代坂高丽左工门学艺,又自明治二十九年在大阪居留地从独人スキトモール习艺四年;明治三十四年入吉敷郡大道村陶业公司主导酒垂烧,三十九年移居长崎。
其后近郊发现含镭粘土,并承接长州山烧废窑材料,制作茶器花器等多类雅陶,时任知事李家隆介命名为“长崎烧”。大正十五年十一月奉命视察马来半岛窑业;大正十一年三月二十一日华顶宫博忠王殿下、昭和四年四月閑院宫春仁王殿下临幸。
长崎烧原料为重籠山粘土与雲仙岳別曾之土;制品有黑天目外釉南瓜尻茶碗、栗色地配白色別曾土显“鹌鹑手”般木纹者;并用重コルム酸与礬土调合成真绿浮上釉,品类繁多。
此外,自昭和二年起,浦上桥口町之坂本龟三烧制小型花盆、七轮与火消壶,初用长兴与五岛粘土,今专用长奥土。
同在浦上之冈町,自昭和四年起奥村不二彦专制圣像。其人出身南高来岛原,半年前在雲仙岳古汤雕作;今以长兴与五岛粘土专作基督像,俗称“御像造”。奥村为天主教徒,于浦上天主堂下,以虔诚与信仰所成之雕技可观,且价格不及舶来品三分之一而不减品质,宜加奖励以利国用。
土井之首烧在西彼杵郡土井之首村字江川,距长崎一里半之西半岛。旧属深堀中务大辅纯贤采邑,庆应年间烧制擂钵、花盆等黑物。大正五年冈部忠太郎等与有田镇深川忠次设立长崎陶器株式会社,遣釆女甚一筑窑,制南洋向橡胶碗与咖啡具;后因橡胶减产而需乏,至昭和四年终止。
翌昭和五年,大阪陶业株式会社援助竹腰直次郎续办,取天草石加尾张蛙目主制瓷砖,改称“长崎磁器瓷砖制造所”。需方有三菱造船所及南洋、中国、满洲,其南洋出口多经三菱商事。现工人五十八名,年产额约五万元。
眉山烧创于明治二十七年左右,于南高来郡岛原港,堀部百太郎与出资者协同制染付瓷,亦称“港烧”。名取自雲仙岳前之“眉山”。原料用天草石,聘有田稗古场中岛忠作主理,画工牛岛光之助、田中清一,另自三河内雇十余人。建七八间登窑,制花鸟与稻纹六七寸皿、食器、花瓶,并作雕刻与“荞麦手”。延续至日清战后,约三年而废。
南高来郡之小滨烧,约三十年前中村周作于“山之上”处开窑,约一年即废。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
小曾根燒起於長崎市內。時稱「小曾根町」之際,富商小曾根六三郎之子新太郎於明治二十五年開窯,用天草原料燒製染付瓷。花瓶、茶器、盤、丼、德利等種類繁多,自有田、大川內、小田志延聘匠人,憑雄厚資金製作精良之器。
六三郎號「乾堂」,書法從春老石(楷行草)、錢小虎(隸),繪畫從僧鐵翁,篆刻從大城彌水,尤擅雕刻。明治六年五月三日奉命雕國璽,於宮中梅之間刻成純金「大日本國璽」,繼而成「天皇御璽」。
新太郎號「星海」,亦善篆刻,間於器上刻詩書。監督者為杵島郡小田志山名工松尾喜三郎,然約三年即廢。後田中卯太郎購得資材,因資乏轉售。
其後用遺留素燒窯續燒陶,肥後高田匠人來作象嵌,亦僅三年即絕。
「山里燒」為長崎市浦上松山町馬淵龍石之作。龍石本京都人,名信三郎,幼承太田垣蓮月尼學和歌,後從黑田良山(光良)學手捻蓮月燒,喜於器面刻自作和歌。明治十六年來長崎,參與龜山燒末期,廢後巡諸窯,明治三十二年以「山里燒」開窯。
其後四五年間通勤指導島原半島小濱燒五六年,又在波佐見中尾山居十年,門人有今之馬場筒山。亦於有岩谷川內松尾勝太郎宅留一年餘,授末子長久(松尾仁之父)等。返鄉後續製山里燒,至昭和九年八十三歲仍矍鑠(今由嗣子龍谷〔榮一〕承襲)。原料主長與與天草之土,間用京都黏土;不用轆轤,專以手捻,重在投入花器與茶器。
其作有赤胎脇手急須;茶碗、湯吞以褐釉為地,上覆白釉或淡黃釉,使下層褐色成山水之趣;亦有栗色地覆白釉作篦彫,或稍流青樂者;無釉「唐燒手」高浮彫山水之萬古風茶器亦所長。又有赤茶或淡墨地釉配白色粗渦刷毛目之煎茶碗;高台內無釉而足緣施釉之器;黑栗釉上施白霜,間點青色之一尺五寸筒式花生等,皆多雅致。
長州山燒為明治三十六、七年間,岡野實太郎於長崎市中小島梅園以薩摩原料製作,成薩摩風卵色冰裂並施細密上繪,可謂在長崎製薩摩燒,然至明治四十二年廢窯。
「長崎燒」在愛宕町(舊高屋平鄉),窯主中原仁市(山口人)。其家族源自寛文期新宮山之窯,後輟;至明治時第十二代中原要人勝久收藤井常磐次子為嗣,即今之仁市。仁市從第九代坂高麗左工門學藝,明治二十九年起在大阪居留地從獨人スキトモール學四年;明治三十四年入吉敷郡大道村陶業公司主導酒垂燒,三十九年移居長崎。
旋於近郊發見含鐳黏土,並承接長州山燒廢窯材料,製作茶器花器等多類雅陶,時任知事李家隆介命名「長崎燒」。大正十五年十一月奉命視察馬來半島窯業;大正十一年三月二十一日華頂宮博忠王殿下、昭和四年四月閑院宮春仁王殿下臨幸。
長崎燒原料為重籠山黏土與雲仙嶽別曾之土;有黑天目外釉南瓜尻茶碗、栗色地配白別曾土顯「鶉手」似木紋者;亦用重コルム酸與礬土調成真綠浮上釉,種類繁多。
又自昭和二年起,浦上橋口町坂本龜三燒製小型花盆、七輪、火消壺,初用長興與五島黏土,今專用長奧土。
同在浦上之岡町,自昭和四年起奧村不二彥專製聖像。其人出自南高來島原,半年前於雲仙嶽古湯雕作;今以長興與五島黏土專作基督像,俗稱「御像造」。奧村為天主教徒,於浦上天主堂下,虔誠篤信之雕技可觀,且價不及舶來三分之一而不減品質,宜獎勵以利國用。
土井之首燒在西彼杵郡土井之首村字江川,距長崎一里半之西半島。舊屬深堀中務大輔純賢采邑,慶應年間燒擂鉢、花盆等黑物。大正五年岡部忠太郎等與有田町深川忠次設立長崎陶器株式會社,遣采女甚一築窯,製南洋向護謨碗與咖啡具;後因護謨歉收需減,至昭和四年終止。
翌昭和五年,大阪陶業株式會社援竹腰直次郎續辦,以天草石加尾張蛙目主製瓷磚,更名「長崎磁器瓷磚製造所」。需方有三菱造船所及南洋、中國、滿洲,南洋多經三菱商事。現工五十八人,年產額約五萬元。
眉山燒創於明治二十七年左右,於南高來郡島原港,堀部百太郎與出資者協作製染付瓷,亦稱「港燒」。名取自雲仙嶽前之「眉山」。用天草石,聘有田稗古場中島忠作主理,畫工牛島光之助、田中清一,並自三河內雇十餘人。築七八間登窯,製花鳥與稻紋六七寸皿、食器、花瓶,兼作雕刻與「蕎麥手」。延至日清戰後,約三年而廢。
南高來郡小濱燒,約三十年前中村周作於「山之上」處開窯,約一年即廢。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
小曾根烧由小曾根六三郎之子新太郎于明治二十五年(1892)在今长崎市小曾根町开窑,取天草原料制染付瓷。品类包括花瓶、茶器、盘、丼、德利等,并从有田、 大川内、 小田志延聘工匠,凭资金优势成器精良。
六三郎号“乾堂”,从春老石学楷行草,从錢小虎学隶书,从僧鐵翁学绘画,从大城彌水学篆刻;明治六年(1873)奉命于宫中梅之间雕成纯金“大日本国玺”,旋又成“天皇御玺”。
新太郎号“星海”,亦擅篆刻,部分器物刻诗书。小田志山松尾喜三郎总监生产,约三年后停烧。田中卯太郎购得设备,因资不继转售。
继以存留素烧窑续烧,肥后高田匠人制象嵌作,三年亦止。
“山里烧”为马淵龙石在浦上松山町之作。龙石本京都人,名信三郎,幼承太田垣蓮月尼学和歌,后师黑田良山(光良)学手捻“蓮月烧”,喜于器上刻诗。明治十六年来长崎,参与龟山烧末期,明治三十二年自立为“山里烧”。
四五年后赴小滨烧为顾问五六年,并居波佐见中尾山十年;门人有马场筒山。又在有岩谷川内松尾胜太郎家逗留,授末子长久(松尾仁之父)。返乡后重作山里烧,昭和九年(1934)年八十三仍健作(今由嗣子龙谷〔榮一〕承续)。主用长与与天草之土,偶用京都土;不用轆轤,专攻投壶花器与茶器。
其作有赤胎脇手急须;褐釉地覆白/淡黄釉以显褐色为山水;栗色地覆白釉并作篦彫;少量流青乐;亦有无釉高浮雕山水之万古风茶器。并有赤茶或淡墨地釉配白色粗旋刷之煎茶碗;高台内素而足缘施釉;黑栗釉上白“霜降”并点青之一尺五寸花入等。
长州山烧为冈野實太郎于明治三十六—三十七年在梅园以薩摩料制作,成薩摩风卵色冰裂并浓密上绘,约明治四十二年停烧。
“长崎烧”在爱宕町,窑主中原仁市(山口)。其家族自寛文期新宫山设窑,后辍;明治时收养藤井常磐次子为嗣。仁市师九代坂高丽左工门,又自1896在大阪随德人スキトモール习艺四年;1901入大道村陶公司指导酒垂烧,1906迁长崎。
近郊发现含镭粘土,并接手长州山烧材料,制茶器花器,知事李家隆介命名“长崎烧”。1926年11月考察马来窑业;1922年、1929年两皇族临幸。
原料取自重籠山与雲仙岳別曾;有黑天目外釉南瓜形茶碗、栗地配白別曾土呈“鹌鹑手”似木纹;并用“重コルム酸”与矾土配真绿色浮上釉,品类广。
自1927年起,浦上桥口町坂本龟三制小花盆、七轮、火消壶,初用长兴与五岛土,今用“长奥土”。
浦上冈町自1929年奥村不二彦专制圣像。其人天主教徒,作坊在浦上天主堂下,以长兴与五岛土专制基督像,价不及舶来三分之一而质不减,宜奖掖。
土井之首烧在西彼杵郡土井之首村江川,距长崎一里半。庆应间烧黑物;1916年设长崎陶器株式会社,制南洋橡胶碗与咖啡具;橡胶歉收致需滞,1929年停办。
1930年大阪陶业会社援竹腰直次郎续办,取天草石加尾张蛙目制瓷砖,更名“长崎磁器瓷砖制造所”,销至三菱造船所、南洋、中国、满洲,南洋多经三菱商事;工人58名,年产额约5万元。
眉山烧约1894年起于岛原港,堀部百太郎与投资者制染付瓷,亦称“港烧”,名取“眉山”。用天草石,聘中岛忠作主理,画工牛岛光之助、田中清一,并雇三河内工匠十余。筑7—8间登窑,制花鸟稻纹6—7寸盘、食器、花瓶,并作雕刻与“荞麦手”,延至日清战后,约三年止。
小滨烧:约三十年前中村周作于“山之上”开窑,约一年即止。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
小曾根燒為小曾根六三郎之子新太郎於明治二十五年(1892)在今長崎市小曾根町所創,取天草原料燒製染付瓷。品類包括花瓶、茶器、盤、丼、德利,延聘有田、大川內、小田志匠人,資本雄厚,器物精良。
六三郎號「乾堂」,從春老石學楷行草、錢小虎學隸、僧鐵翁學畫、大城彌水學篆刻;明治六年(1873)奉命於宮中梅之間刻成純金「大日本國璽」,繼而成「天皇御璽」。
新太郎號「星海」,亦善篆刻,或於器上刻詩書。小田志山松尾喜三郎督造,約三年停燒。田中卯太郎購置設備,無資續辦而轉售。
繼以遺存素燒窯續燒,肥後高田匠製象嵌,三年亦止。
「山里燒」為馬淵龍石在浦上松山町之作。龍石本京都,名信三郎,幼承太田垣蓮月尼學和歌,後師黑田良山(光良)學手捻「蓮月燒」,嗜於器上刻詩。明治十六年來長崎,參與龜山燒末期,明治三十二年自立「山里燒」。
四五年後任小濱燒之顧問五六年,並居波佐見中尾山十年;門人有馬場筒山。亦曾寓有岩谷川內松尾勝太郎宅,授末子長久(松尾仁之父)。返鄉續製,至昭和九年(1934)八十三尚健(今由嗣子龍谷〔榮一〕續)。主用長與、天草之土,偶用京都;不用轆轤,手捻製投壺花器與茶器。
其作有赤胎脇手急須;褐釉地覆白或淡黃釉使褐色若山水;栗地覆白釉加篦彫;少量流青樂;亦有無釉高浮雕山水之萬古風茶器。並見赤茶或淡墨地釉配白色粗渦刷之煎茶碗;高台內素而足緣施釉;黑栗釉上白霜點青之一尺五寸花入等。
長州山燒為岡野實太郎於明治三十六—三十七年在梅園以薩摩料製,為薩摩風卵色冰裂並繁密上繪;約明治四十二年停燒。
「長崎燒」在愛宕町,窯主中原仁市(山口)。家族自寛文期新宮山設窯,後輟;明治時收藤井常磐次子為嗣。仁市師九代坂高麗左工門,1896起在大阪隨德人スキトモール學四年;1901入大道村陶社導酒垂燒,1906遷長崎。
近郊得含鐳黏土,並承長州山燒材料,製茶器花器;知事李家隆介命名「長崎燒」。1926年11月視察馬來窯業;1922、1929年皇族臨幸。
原料自重籠山與雲仙嶽別曾;有黑天目外釉南瓜形茶碗、栗地配白別曾土示「鶉手」似木紋;又用「重コルム酸」與礬土調真綠浮上釉,種類繁多。
自1927年,浦上橋口町坂本龜三制小花盆、七輪、火消壺,初用長興與五島土,今用「長奧土」。
浦上岡町自1929年奧村不二彥專作聖像。其為天主教徒,作坊在浦上天主堂下,專以長興與五島土作基督像,價不及舶來三分之一而不失品質,宜獎勵。
土井之首燒在西彼杵郡土井之首村江川,距長崎一里半。慶應間燒黑物;1916年設長崎陶器株式會社,製南洋橡膠碗與咖啡具;橡膠歉收致需衰,1929年歇業。
1930年大阪陶業助竹腰直次郎續辦,以天草石加尾張蛙目製瓷磚,更名「長崎磁器瓷磚製造所」,銷三菱造船所及南洋、中國、滿洲,南洋多經三菱商事;工人58名,年產額約5萬元。
眉山燒約1894年起於島原港,堀部百太郎與出資者製染付瓷,亦稱「港燒」,名取「眉山」。用天草石,聘中島忠作主理,畫工牛島光之助、田中清一,雇三河內工十餘。築7—8間登窯,製花鳥稻紋6—7寸盤、食器、花瓶,兼雕刻與「蕎麥手」,延至日清戰後,約三年止。
小濱燒:約三十年前中村周作於「山之上」開窯,約一年即止。

