波多鎭の相續~川原屋敷

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【原文】[Original text]

波多鎭の相續
 斯くて鬼子嶽城は有馬の藤重丸を迎へて後嗣となし、太郎二郎鎮と稱せしが後三河守と改めたのである。然るに鎮は嚮きに已れが相續に反對せし波多家の同族を膺懲せんと欲し、大川野(西松浦郡大川村)日在の城主鶴田勝を攻めたるも、鎮敗れて草野鎮永に頼り、後漸く歸ることを得たのである。

宗軍を詐り破る
 元龜二年四月十日(1571年)日高方秀は、舎弟信助勝秀及中尾主計等兵船三百餘人と共に奈古屋浦(後名護屋と改む)に着くや、鬼子嶽城より相浦中務、堀野源五郎等迎へて之を戰ひ源五郎は戰歿した。眞法女對馬の領主宗將盛を頼みしより、方秀は立石圖書等と謀り、同三年七月十六日宗釆女の對馬勢を詐はり誘ひ、壹岐國本宮浦に於て大いに之を破ったのである。

隆信上松浦を攻略す
 天正元年十二月(1573年)佐嘉の龍造寺隆信は、従弟鍋島飛彈守信生(直茂の前名)を將として上松浦に進軍するや、鬼子嶽城主波多三河守鎮、獅子ヶ城主(今の木村波の西北)鶴田越前守前、日在城主鶴田因幡守勝等之を迎へて聘禮した。同二年正月三日龍造寺の軍は鬼ヶ城を攻落し、城主草野鎮永は筑前高祖に走り實父原田了榮に頼りしころ、了榮は鎮永をして隆信に降らしめ、そして龍造寺の族(母は隆信の女)家水を養嗣子とすることに成ったのである。斯くて鎮永は元和三年二月二十日卒去した。

肥前の領分野
 當時肥前國松浦沿岸の各領主は伊萬里 山代、佐志、波多、草野を上松浦の五家とし、有田、田平、佐々、御厨、志佐、吉田、大島、宇久を下松浦の八家と稱せしも、此頃に至りはて龍造寺の勢力に支配さるゝに到り、次に豊臣氏の配下に一統されたのである。
 天正十五年正月(1587年)秀吉は、薩摩の島津義久を征服すべく九州に下るや、波多親(鎮改名)又之に従属した。其頃肥前の分野は隆信の男龍造寺政家七郡を領し、鍋島直茂二郡を領し政家を補佐し、松浦鎮信平戸を領し、大村純忠大村を領し、有馬純治島原を領し、宇久盛勝五島を領し、そして波多親唐津を領してゐた。

親不興を蒙る
 文祿元年四月(1593年)秀吉は、朝鮮の役を起して名護屋の新城に入るの時、九州の諸領主は皆博多に來つて出迎へたるに獨り波多親遲參せして秀吉の不興を招きしを、鍋島直茂の取成しに因って漸く不問にさるゝ事と成った。そして親は總勢二千人をみて直茂に軍屬し、韓土深く順天まで攻進み將卒の半ばを失ふまで悪戦苦闘したのである。

名護屋陣の遊興
 或時秀吉は、名護屋の本營に無聊を慰めんて遊興を催すや、在陣の大小名を始め留守居の男女まで観覧せしむることゝなりしが、波多親の夫人(阿安又は秀の前さもあり)は夫君出兵の留守中警戒の故を以て辤退せしも、無理に召寄せられ、只管歸城を乞ふも赦されなかつたのである。

夫人罪を得る
 然るに此時夫人の懐中に、護身の小剣を匿まへることが見出されて由々敷罪となるに至った。夫人は村中龍造寺なる豊前守胤榮の遺子にして隆信の義女である。始め蓮池城主小田彈正少弼鎮光に嫁せしも、鎮光大友宗麟にして隆信に反せしより誅せられ、夫人は波多親の後室に再嫁せしものにて容色秀麗の婦人であつた。

波多領沒収
 慶長元年正月(1596年)波多親朝鮮より歸陣するや、黒田長政は小川島に出て秀吉の命を傳へて波多の領地を没収し、そして親は常陸の佐竹義宣に預けらるゝこと成った。
此報を聽傳へたる鬼子嶽城では上下驚愕した。

鬼子嶽城大評議
 此時城中に在りし波多氏の一族即ち、獅子ヶ城主(殿屋にて五百石)鶴田越前守前、日在城主(大川野にて五百石)鶴田因幡守勝、姥ヶ城主(黒川にて五百石)黒川左源太夫周、新久田城主(井手野にて五百石)井手飛彈守度源を始め、重臣には法行城主(板木にて八百石)久我玄番允秩度、本城(重橋にて五百石)の川添監物孟一、稗田(五百石)の中村安藝守利度、相知(佐里にて三百五十石)の江里長門守天相、大川野(三百名)田代日向守林等の大評議と成った。
 此時隈崎素人の如きは、寧ろ名護屋の本営を突撃して一死以て松浦武士の義名を止めんとまで強張せしも、拾萬の護衛ある該城を襲ふことは、餘りに策の無謀なるを以て、姑らく隠忍して波多家の再興を計るに如かずとなし、茲に江里長門守天相と飯田彦四郎久光(神田にて二百名)の二人はにして、常陸國筑波山下の配所に忍び寄親を奪還すべき任に當ったのである。

妙安尼
 一度は生害せんとせし夫人は、遺臣等に諫止されて檀の谷(南波多村)に隠れおりしも一子彌太郎吉(或は孫三郎又彦三郎ともあり)と共に、八並武蔵守重(伊岐佐三百石松浦系圖参照)馬渡五郎八俊則守護して佐嘉城下に落つくこと成った。そして重等は鍋島氏に依って波多家の再興を計らん期せし折、慶長三年八月十三日吉病死せしより、夫人は剃髪して妙安尼と稱し庵室を結び亡夫子の冥福を祈りつゝ、寛永元年七月三十日七十九才にて卒去した。(今の妙安寺小路の妙安寺は其庵室の跡に建立せしものである)

波多氏亡ぶ
 之より先鬼子嶽の浪士等が、大川野の建福寺に密合して事を計る由秀吉の知るところとなり、鬼子嶽城は直に侍臣寺澤忠大郎廣高に引渡さしめ、波多浪士の離散を厳命した。此間東行の任につきし江里、飯田の兩士は、幾多の辛酸を嘗めて親を奪ひ踊り、鬼子嶽の浪士を糾合して黒髪山に立籠る可く、伊萬里の大法院に密せんと企圖せる折しも、親卒かに病没して萬事休するに到り、源次太夫持より十五代嵯峨源氏五百年の名家茲に終りを告げたのである。

鬼子嶽崩れ
 唐津焼は實に此鬼子嶽山中より發せしといはれてゐる。而して此没落と共に数多の陶工は諸方に離散するの止むなきに至り、先に夫人か隠れたる五ヶ莊さいはし植の谷や大川原(同し南波多村)等へ移窯した。浪士も亦多く此地方へ来て身の振方をつけしといはれてゐる。
 就中稍遠地へ移窯せしは、平戸領三河内の長葉山にて、此處に來つて均窯海鼠釉を焼きしさの説がある。

森善右エ門と景延
 此鬼子嶽崩れの工人は全國的に其窯技を分布せしもの如く、彼美濃國久尻に於いて加藤景延が陶窯を難じたる森善右工門は、遂に彼を唐津(椎の峯なるべし)へ同伴し、景延が此見學に依って尾濃従来の窯式全く改良され、そして彼は美濃中奥の祖として贈位さるゝに至つた。而して此善右工門は無論鬼子嶽の殘黨たることはいふまでもない。

家永彦三郎
 諸書に依れば秀吉名護屋在陣の砌嚮に該城造営の屋根瓦を焼きし佐賀郡高木瀬村の家永逵三郎方親を召して茶器を焼かしめしに、彼は當時第一の巧者なりしかば、文祿元年十二月廿六日肥前焼物師の司を命ずとの、秀吉の朱印を授かり壹岐守に任せられしと記されてある。
 而して名護屋城(保元頃の地頭名護屋肥前守經基の後裔越前守述の居城を改築)は其歳の春竣工せしものにて、秀吉の入城は文祿元年四月二十五日であつた。然るに此僅か数月の間に於いて従來瓦を焼きし程度の彼が、如何に器量人なりしと練磨の陶技立所に上達し、然も壹岐守に任せられて朱印まで授かりしとは、眞説とするに頗る躊躇せざるを得ぬ。

川原屋敷
 高木瀬村の川原屋敷は當時瓦屋敷と多布施川の沿岸である。一説に家永彦三郎は真崎長右工門と共に秀吉の用器を焼きしさ稱するも、彼等は只瓦屋敷の元稀にて、實は平松源右工門なる者春日村(佐嘉郡)久池井字國分の坏土を以って製作せしものであるとの異説がある。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

波多鎭の相続について。鬼子嶽城は有馬の藤重丸を迎えて後継とし、当初は「太郎二郎鎮」と称したが、のちに三河守と改めた。ところが鎮は、自身の相続に反対した波多一族を討とうとして、大川野(西松浦郡大川村)日在の城主・鶴田勝を攻めたものの敗北し、草野鎮永を頼って、のちにようやく帰参を許された。

元亀二年四月十日(1571)、日高方秀は弟の信助勝秀・中尾主計らと兵船三百余人で奈古屋浦(のち名護屋)に上陸。鬼子嶽城から相浦中務・堀野源五郎らが迎撃し、源五郎は戦死した。未亡人の眞法女が対馬の領主・宗將盛を頼ったため、方秀は立石圖書らと謀り、翌元亀三年七月十六日、宗釆女の対馬勢を装って誘い出し、壹岐國本宮浦でこれを大破した。

天正元年十二月(1573)、佐嘉の龍造寺隆信は従弟・鍋島飛彈守信生(直茂の前名)を大将として上松浦に進軍。波多三河守鎮(鬼子嶽城主)、鶴田越前守前(獅子ヶ城主)、鶴田因幡守勝(日在城主)らは出迎えて礼を尽くした。翌二年正月三日、龍造寺軍は鬼ヶ城を攻め落とし、城主・草野鎮永は筑前高祖に走って実父・原田了榮を頼った。了榮は鎮永をして隆信に降らせ、龍造寺一族(母は隆信の娘)の家水を養嗣子とすることになった。鎮永は元和三年二月二十日に没した。

当時、肥前国松浦沿岸では、伊萬里・山代・佐志・波多・草野を上松浦の五家、有田・田平・佐々・御厨・志佐・吉田・大島・宇久を下松浦の八家と称したが、やがて龍造寺の勢力下となり、続いて豊臣氏の配下に統一された。天正十五年正月(1587)、秀吉が薩摩島津義久討伐のため九州に下向すると、波多親(鎮が改名)も従属した。当時の肥前の割拠は、龍造寺政家が七郡、鍋島直茂が二郡(政家を補佐)、松浦鎮信が平戸、大村純忠が大村、有馬純治が島原、宇久盛勝が五島、そして波多親が唐津を領していた。

文禄元年四月(1593)、秀吉が朝鮮出兵で名護屋の新城に入った際、九州諸大名は博多に出迎えたが、波多親だけが遅参して不興を買った。鍋島直茂の取り成しで不問となり、親は総勢二千人を率いて直茂の麾下に入り、韓土の奥、順天まで攻め進み、将卒の半ばを失う激戦を重ねた。

ある時、秀吉は名護屋本営で退屈を慰めるため興行を催し、在陣の大小名はもとより留守居の男女まで観覧を命じた。波多親の夫人(阿安、または秀の前とも伝える)は、夫の出征中の警備を理由に辞退したが、無理に召し出され、ひたすら帰城を願っても許されなかった。ところがこの時、夫人の懐から護身の小刀が見つかり、重罪とされた。夫人は村中龍造寺の豊前守胤榮の遺子で、隆信の養女。はじめ蓮池城主・小田彈正少弼鎮光に嫁したが、鎮光が大友宗麟に与して隆信に背いたため誅され、のちに波多親の後室となった美貌の人であった。

慶長元年正月(1596)、波多親が朝鮮から帰陣すると、黒田長政は小川島で秀吉の命を伝え、波多領を没収。親は常陸の佐竹義宣に預けられた。報せを聞いた鬼子嶽城は上下ともに驚愕した。

この時、城中の波多一族――獅子ヶ城主・鶴田越前守前(殿屋五百石)、日在城主・鶴田因幡守勝(大川野五百石)、姥ヶ城主・黒川左源太夫周(黒川五百石)、新久田城主・井手飛彈守度源(井手野五百石)――に加え、重臣では法行城主・久我玄番允秩度(板木八百石)、本城の川添監物孟一(重橋五百石)、稗田の中村安藝守利度(五百石)、相知の江里長門守天相(佐里三百五十石)、大川野の田代日向守林(三百名)らが大評議を開いた。隈崎素人らは「いっそ名護屋本営に突撃し、殉死して松浦武士の名を残そう」と強硬に主張したが、十万の護衛を擁する城を攻めるのは無謀とされ、当面は忍耐して波多家再興を図ることに決した。そこで、江里長門守天相と飯田彦四郎久光(神田二百名)の二名が、常陸国筑波山麓の配所に忍び寄り、親を奪還する任を負った。

一度は自害を決意した夫人は、遺臣らの諫めで南波多村の檀の谷に潜み、一子・彌太郎吉(孫三郎、彦三郎とも)とともに、八並武蔵守重(伊岐佐三百石、松浦系図参照)・馬渡五郎八俊則の護衛で佐嘉城下に落ち着いた。重らが鍋島氏の力で波多家再興を期していた折、慶長三年八月十三日に吉が病没。夫人は剃髪して妙安尼と号し、庵を結んで亡夫子の冥福を祈り、寛永元年七月三十日、七十九歳で没した(今の妙安寺小路の妙安寺は、その庵跡に建立された)。

これに先立ち、鬼子嶽の浪士らが大川野の建福寺で密議したことが秀吉の知るところとなり、鬼子嶽城は直ちに侍臣・寺澤忠大郎廣高に引き渡され、波多浪士の解散が厳命された。東国に向かった江里・飯田の両士は辛酸をなめて親を奪い返し、鬼子嶽の浪士を糾合して黒髪山に立て籠り、伊萬里の大法院とも内通しようとしたが、親が急病で没し、万事休す。源次太夫持以来十五代、嵯峨源氏五百年の名家はここに終焉を迎えた。

唐津焼は、この鬼子嶽山中から起こったとされる。没落とともに多くの陶工は四散し、先に夫人が隠れていた五ヶ莊さいはし・植の谷や大川原(いずれも南波多村)などに移窯した。浪士の多くも同地に移って身の振り方を定めたという。なかでも遠地に移ったのは平戸領三河内の長葉山で、ここで均窯海鼠釉を焼いたとの説がある。

鬼子嶽崩れの工人は、国中に窯の技を広めたらしい。美濃國久尻で加藤景延に窯を難じられた森善右工門は、ついに景延を唐津(おそらく椎の峯)へ同道させ、景延は見学によって尾濃の従来の窯式を一新、やがて美濃中奥の祖として贈位を受けた。善右工門が鬼子嶽の残党であったことは言うまでもない。

諸書によれば、秀吉の名護屋在陣の折、かつて城普請の屋根瓦を焼いていた佐賀郡高木瀬村の家永逵三郎方親を召して茶器を焼かせ、当時随一の名工であったので、文禄元年十二月二十六日に「肥前焼物師の司」を命ずる朱印を授け、壹岐守に任じたという。名護屋城(保元頃の地頭・名護屋肥前守經基の後裔・越前守述の城を改築)はその年春に竣工、秀吉の入城は文禄元年四月二十五日であった。わずか数か月の間に、瓦焼きに長けた職人が茶器を練達し、壹岐守に任ぜられ朱印まで賜るというのは、真説とみなすには躊躇を禁じ得ない。

高木瀬村の川原屋敷は、当時の瓦屋敷で多布施川の沿岸にあった。家永彦三郎は真崎長右工門とともに秀吉の御用器を焼いたという説もあるが、彼らは川原屋敷の元締めに過ぎず、実際は平松源右工門が春日村(佐嘉郡)久池井字國分の坏土を用いて制作したとする異説がある。


【英語訳】[English translation]

Succession in the Hata line. Onikozake Castle accepted Arima no Fujishigemaru as heir; the successor was first styled “Tarō Jirō Shizu,” later taking the court title Mikawa-no-kami. Shizu sought to chastise Hata kinsmen who had opposed his succession and attacked Tsuruta Masaru, lord of Nichizai in Ōkawano (Ōkawa-mura, Nishimatsura-gun), but was defeated, fled to Kusano Chikanaga for refuge, and only afterward was allowed to return.

On April 10, Genki 2 (1571), Hidaka Katahide landed at Nagoya-ura (later Nagoya) with some 300 men on war boats, including his younger brother Nobusuke Katsuhide and Nakao Kakei. From Onikozake Castle, Aiura Nakatsukasa and Horino Gengorō met them in battle; Gengorō fell. As the widow Mahōnyo appealed to Sō Masamori, lord of Tsushima, Katahide conspired with Tateishi Zusho and others and, on July 16, Genki 3, posing as Tsushima troops under Sō Saijo, lured the enemy and crushed them at Hongō-ura in Iki.

In December of Tenshō 1 (1573), Ryūzōji Takanobu of Saga advanced into Kami-Matsura with his cousin Nabeshima Hida-no-kami Nobuo (Naoshige’s former name) as commander. Hata Mikawa-no-kami Shizu (lord of Onikozake), Tsuruta Echizen-no-kami Mae (lord of Shishiga-jō), and Tsuruta Inaba-no-kami Masaru (lord of Nichizai) came out to receive him. On the 3rd day of the 1st month of Tenshō 2, the Ryūzōji army took Oni-ga-jō; the lord Kusano Chikanaga fled to Takasu in Chikuzen to seek his father Harada Ryōei. Ryōei induced Chikanaga to submit to Takanobu and to adopt Iemizu of the Ryūzōji clan (his mother being Takanobu’s daughter) as heir. Chikanaga died on February 20, Genna 3.

At that time along the Matsura coast of Hizen, the five houses of Upper Matsura were Imari, Yamashiro, Sashi, Hata, and Kusano; the eight of Lower Matsura were Arita, Tabira, Saza, Mikuriya, Shisa, Yoshida, Ōshima, and Uku. Soon all fell under Ryūzōji dominance and subsequently under Toyotomi control. In the 1st month of Tenshō 15 (1587), when Hideyoshi marched to subdue Shimazu Yoshihisa in Satsuma, Hata Chika (Shizu’s new name) submitted as well. The Hizen allotments then were: Ryūzōji Mas’ie holding seven districts; Nabeshima Naoshige two districts as Mas’ie’s deputy; Matsuura Shigenobu holding Hirado; Ōmura Sumitada holding Ōmura; Arima Junji holding Shimabara; Uku Morikatsu holding the Gotō Islands; and Hata Chika holding Karatsu.

In the 4th month of Bunroku 1 (1593), as Hideyoshi took up quarters in the new castle at Nagoya for the Korean campaigns, all Kyūshū lords greeted him at Hakata—save Hata Chika, whose late arrival incurred Hideyoshi’s displeasure. Through Nabeshima Naoshige’s intercession it was forgiven, and Chika, with some 2,000 men, served under Naoshige, pushing deep into Korea as far as Suncheon, fighting bitterly and losing half his officers and men.

At one time Hideyoshi, to relieve tedium at the Nagoya headquarters, staged entertainments for all in camp, even ordering the women left behind to attend. Hata Chika’s wife (called A-an or possibly Hide-no-mae) sought to decline on grounds of security while her husband was afield, but was compelled to appear and, though she begged to return to the castle, was not permitted. When a small dagger concealed for self-defense was found in her bosom, it became a grave offense. She was the posthumous daughter of Ryūzōji Tanehide, Bizen-no-kami, and adopted daughter of Takanobu; first married to Oda Chikamitsu, lord of Hasuike, she was widowed when Chikamitsu, siding with Ōtomo Sōrin against Takanobu, was executed; later she became Hata Chika’s later wife, famed for her beauty.

In the 1st month of Keichō 1 (1596), when Hata Chika returned from Korea, Kuroda Nagamasa went out to Ogawa-jima, conveyed Hideyoshi’s order, confiscated Hata lands, and placed Chika in the custody of Satake Yoshinobu in Hitachi. The news shocked high and low within Onikozake Castle.

The Hata kin then in the castle—Tsuruta Echizen-no-kami Mae (lord of Shishiga-jō, 500 koku), Tsuruta Inaba-no-kami Masaru (lord of Nichizai, 500 koku), Kurokawa Sazenta-yū Chika (lord of Ubaga-jō, 500 koku), Ide Hida-no-kami Togen (lord of Shinkuda, 500 koku)—and senior vassals Koga Genban-no-jō Chitsudo (lord of Hōgyō, 800 koku), Kawazoe Kenmotsu Mōichi (of the main castle at Shigebashi, 500 koku), Nakamura Aki-no-kami Rido (of Hieda, 500 koku), Eri Nagato-no-kami Tensō (of Aochi/Sari, 350 koku), and Tashiro Hyūga-no-kami Hayashi (Ōkawano, 300 men) convened a grand council. Kumasaki Shirōto and others urged a suicidal strike on Hideyoshi’s headquarters at Nagoya to preserve the honor of the Matsura warriors, but attacking a stronghold guarded by a hundred thousand was judged reckless. They resolved instead to bide their time and seek Hata restoration. Eri Nagato-no-kami Tensō and Iida Hikoshirō Hisamitsu (of Kanda, 200 men) were appointed to slip to the foot of Mt. Tsukuba in Hitachi and rescue Chika from his place of detention.

The lady, once set on suicide, was dissuaded by loyal retainers and hid at Dan-no-tani (Minami-Hata-mura). With her child Yatarō-kichi (elsewhere called Magosaburō or Hikosaburō), she reached Saga under the protection of Yatsunami Musashi-no-kami Shige (Ikisa, 300 koku; see the Matsuura genealogy) and Mawatari Gorohachi Toshinori. While these men sought Hata’s restoration through the Nabeshima, the child died on August 13, Keichō 3; the lady took the tonsure as the nun Myōan, founded a small hermitage, prayed for her husband and child, and died on July 30, Kan’ei 1, aged seventy-nine (today’s Myōan-ji on Myōan-ji Alley stands on that hermitage site).

Earlier, Hideyoshi learned that rōnin of Onikozake had been secretly conferring at Kenpuku-ji in Ōkawano; the castle was immediately handed over to his retainer Terazawa Chūdairō Hirotaka, and the dispersal of Hata rōnin was strictly ordered. Meanwhile, Eri and Iida, traveling east, after many hardships managed to spirit Chika away, rallied the rōnin of Onikozake to hold Kurokami-yama, and sought to coordinate secretly with Daihō-in in Imari; but Chika died suddenly, and the plan collapsed. Thus, from Genjidayū Mochi to the fifteenth generation, the noble house of the Saga Genji ended after five centuries.

Karatsu ware is said to have arisen here in the mountains of Onikozake. With the fall of the house, many potters had no choice but to scatter; kilns were moved to Saihashi in Goka-shō, to Ueno-dani and Ōkawabara (all in Minami-Hata-mura), where many rōnin also settled. Farther afield, kilns were relocated to Nagaobayama in Mikawachi of the Hirado domain, where, it is said, kin’yō-style namako (sea-cucumber) glazes were fired.

The craftsmen displaced by the downfall spread their kiln techniques nationwide. In Kusuji, Mino, Katō Kagenobu took issue with the potter Mori Zen’emon; Zen’emon accompanied him to Karatsu (likely Shii-no-mine). From Kagenobu’s study there, the Owari–Mino kiln methods were completely reformed, and he was later honored as progenitor of central Mino; as for Zen’emon, he was, needless to say, a remnant of the Onikozake group.

Sources state that during Hideyoshi’s stay at Nagoya, he summoned Ienaga … Saburō Kataoya of Takakise-mura in Saga-gun—formerly a maker of roof tiles for the castle works—to fire tea utensils. Being then a foremost craftsman, on December 26, Bunroku 1, he received Hideyoshi’s vermilion-seal patent appointing him “Overseer of Hizen Potters” and naming him Iki-no-kami. Yet Nagoya Castle (a rebuild of the fortress of Nagonoya Hizen-no-kami Tsunemoto’s descendant, Echizen-no-kami Jutsu) was finished that spring, and Hideyoshi entered it on April 25, Bunroku 1. That within only a few months a tile-maker could master tea-ceramic technique, be named Iki-no-kami, and receive a vermilion seal strains credulity.

Kawahara-yashiki in Takakise-mura was then the tile-workers’ quarter along the Tofu-se River. One theory says Ienaga Hikosaburō fired Hideyoshi’s wares with Masaki Chōuemon, but they were merely heads at Kawarayashiki; another view holds that Hiramatsu Gen’emon actually made the wares using clay (“hai-do”) from Kuikei, Aza Kokubu, in Kasuga-mura (Saga-gun).


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

关于波多鎭的继承。鬼子嶽城迎来有马藤重丸为后嗣,初称“太郎二郎鎭”,后改称三河守。其后鎭欲惩处反对其继承的波多一族,攻打大川野(西松浦郡大川村)日在的城主鶴田勝,但战败,投靠草野鎮永,随后才得以归参。

元龟二年四月十日(1571),日高方秀与弟信助勝秀、中尾主计等率三百余名乘兵船登陆奈古屋浦(后改名名护屋)。鬼子嶽城的相浦中务、堀野源五郎等出战,源五郎战死。因未亡人眞法女求助于对马领主宗將盛,方秀与立石图书等谋划,于元龟三年七月十六日假扮宗釆女的对马兵诱敌,于壹岐国本宫浦大破之。

天正元年十二月(1573),佐嘉的龙造寺隆信以従弟鍋島飞弹守信生(直茂旧名)为将进军上松浦。波多三河守鎭(鬼子嶽城主)、鶴田越前守前(獅子ヶ城主)、鶴田因幡守勝(日在城主)等出迎致礼。翌年正月三日,龙造寺军攻陷鬼ヶ城。城主草野鎮永逃至筑前高祖依其父原田了榮,了榮使鎮永降于隆信,并立龙造寺一族(母为隆信之女)的家水为养嗣。鎮永于元和三年二月二十日卒。

当时肥前国松浦沿岸,伊万里・山代・佐志・波多・草野称为上松浦五家,有田・田平・佐々・御厨・志佐・吉田・大岛・宇久称为下松浦八家。其后尽入龙造寺之势力,继而统一于丰臣之下。天正十五年正月(1587),秀吉为征讨薩摩岛津義久南下九州,波多親(鎭改名)亦从属。当时肥前分封为:龙造寺政家领七郡,鍋島直茂领二郡辅政家,松浦鎮信领平户,大村純忠领大村,有马純治领岛原,宇久盛勝领五岛,波多親领唐津。

文禄元年四月(1593),秀吉入駐名护屋新城发动朝鲜役,九州诸大名皆至博多迎驾,唯波多親迟到,惹怒秀吉。经鍋島直茂调停得以不问。親率二千人隶直茂麾下,深入朝鲜至顺天,恶战连连,折损过半。

其时秀吉为解本营寂寞,于名护屋设宴行乐,命在阵大小名及留守男女皆观礼。波多親之夫人(或称阿安、又称秀之前)以夫君出征、城中警备为由辞谢,仍被强召,恳请还城不许。此时在夫人怀中发现护身小刀,被以重罪论。夫人为村中龙造寺之豊前守胤榮之遗女、隆信之养女,先适蓮池城主小田彈正少輔鎮光,鎮光因附大友宗麟叛隆信被诛,夫人再嫁波多親,为美貌著称。

慶长元年正月(1596),波多親自朝鲜返国,黒田長政赴小川岛传达秀吉命令,没收波多领地,并将親押付常陆之佐竹義宣。消息传至鬼子嶽城,举城震惊。

其时城中波多一族与重臣大议:有獅子ヶ城主鶴田越前守前(日置屋五百石)、日在城主鶴田因幡守勝(大川野五百石)、姥ヶ城主黒川左源太夫周(黒川五百石)、新久田城主井手飛弹守度源(井手野五百石);重臣有法行城主久我玄番允秩度(板木八百石)、本城川添監物孟一(重橋五百石)、稗田中村安藝守利度(五百石)、相知江里長門守天相(佐里三百五十石)、大川野田代日向守林(三百名)等。隈崎素人等主张突击名护屋本营,以一死存松浦武士之义名;然十万护卫在城,计划过于鲁莽,遂决意暂忍图波多家再兴。乃令江里長門守天相、飯田彦四郎久光(神田二百名)二人潜赴常陆国筑波山下配所,谋救親。

夫人一度欲自尽,经遗臣劝止,潜居南波多村檀之谷,与一子彌太郎吉(或称孫三郎、彦三郎)同为八並武蔵守重(伊岐佐三百石,见松浦系图)、馬渡五郎八俊則所护,流寓佐嘉城下。重等计与鍋島氏合力谋波多再兴,然慶长三年八月十三日,吉病逝。夫人剃发为尼,号妙安尼,结庵祈亡夫子冥福,寛永元年七月三十日卒,享年七十九(今妙安寺小路之妙安寺为其庵址所建)。

此前,鬼子嶽浪士于大川野建福寺密议事为秀吉所知,城即移交侍臣寺澤忠大郎廣高,并严令解散波多浪士。东行之江里、飯田二士历尽艰辛劫回親,欲集鬼子嶽浪士据黒髪山、密联伊万里大法院,然親骤病而卒,万事俱休。自源次太夫持以来十五代,嵯峨源氏五百年之名门至此告终。

唐津烧据称发端于鬼子嶽山中。没落后众多陶工四散,先移窑于五ヶ莊さいはし、植之谷与大川原(皆南波多村),诸多浪士亦来此谋生。较远者迁平户领三河内之长叶山,相传在此烧出均窑海鼠釉。

“鬼子嶽崩れ”之工人似将窑业技法播于全国。美浓国久尻,加藤景延所难之陶工森善右工门,遂同景延赴唐津(疑为椎之峯),景延由是见学,尽革尾濃旧窑式,终被尊为美浓中奥之祖;善右工门自属鬼子嶽残党。

诸书称,秀吉在名护屋驻军时,召佐贺郡高木瀬村曾烧城瓦之家永逵三郎方親烧造茶器,以其为时第一巧者,于文禄元年十二月二十六日授朱印,命为“肥前焼物師之司”,拜壹岐守。然而名护屋城当年春成,秀吉四月二十五日入城;短短数月间,以瓦工而骤精茶器之技、受壹岐守与朱印,诚令人难以尽信。

高木瀬村川原屋敷即当时瓦屋敷,沿多布施川。有说家永彦三郎与真崎长右工门同烧秀吉御用器;亦有异说谓二人不过瓦屋敷头目,实为平松源右工门取春日村(佐嘉郡)久池井字國分之坏土制作。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]

關於波多鎭的繼承。鬼子嶽城迎有馬藤重丸為後嗣,初稱「太郎二郎鎭」,後改稱三河守。其後鎭欲懲處反對其繼承之波多宗族,攻大川野(西松浦郡大川村)日在之城主鶴田勝,然敗北,投靠草野鎭永,後方得以歸參。

元龜二年四月十日(1571),日高方秀與弟信助勝秀、中尾主計等率兵船三百餘名登陸奈古屋浦(後改名名護屋)。鬼子嶽城之相浦中務、堀野源五郎等出戰,源五郎戰歿。未亡人眞法女求援於對馬領主宗將盛,方秀與立石圖書等謀議,於元龜三年七月十六日偽作宗釆女所率對馬兵誘敵,於壹岐國本宮浦大破之。

天正元年十二月(1573),佐嘉之龍造寺隆信以從弟鍋島飛彈守信生(直茂舊名)為將進軍上松浦。波多三河守鎭(鬼子嶽城主)、鶴田越前守前(獅子ヶ城主)、鶴田因幡守勝(日在城主)等出迎致禮。翌年正月三日,龍造寺軍攻陷鬼ヶ城。城主草野鎭永走至筑前高祖依其父原田了榮,了榮使鎭永降於隆信,且立龍造寺一族(母為隆信之女)之家水為養嗣。鎭永於元和三年二月二十日卒。

時肥前國松浦沿岸,伊萬里・山代・佐志・波多・草野稱上松浦五家,有田・田平・佐々・御廚・志佐・吉田・大島・宇久稱下松浦八家。旋皆入龍造寺之勢力,繼而歸於豐臣統轄。天正十五年正月(1587),秀吉南下九州討薩摩島津義久,波多親(鎭改名)亦從屬。其時肥前分野:龍造寺政家領七郡,鍋島直茂領二郡佐政家,松浦鎮信領平戶,大村純忠領大村,有馬純治領島原,宇久盛勝領五島,而波多親領唐津。

文祿元年四月(1593),秀吉入名護屋新城發動朝鮮役,九州諸侯皆至博多迎駕,唯波多親遲參,觸怒秀吉。賴鍋島直茂調停而得不問。親率二千人隸直茂麾下,深入韓土至順天,屢戰艱苦,折損半數。

時秀吉為解本營無聊,於名護屋設宴遊興,命在陣大小名及留守男女皆觀。波多親之夫人(或稱阿安、或稱秀之前)以夫君出征、城中警備為由辭謝,仍被強召,雖力請還城,終不許。其時發覺夫人懷藏護身小刀,坐以重罪。夫人為村中龍造寺之豐前守胤榮遺女、隆信之養女;先適蓮池城主小田彈正少輔鎭光,鎭光以附大友宗麟叛隆信而被誅,夫人復為波多親後室,素以美貌著稱。

慶長元年正月(1596),波多親自朝鮮返陣,黑田長政赴小川島傳達秀吉之命,沒收波多領,並將親付於常陸佐竹義宣。此報傳至鬼子嶽城,舉城震駭。

時城中波多一族與重臣大議:獅子ヶ城主鶴田越前守前(殿屋五百石)、日在城主鶴田因幡守勝(大川野五百石)、姥ヶ城主黑川左源太夫周(黑川五百石)、新久田城主井手飛彈守度源(井手野五百石);重臣有法行城主久我玄番允秩度(板木八百石)、本城川添監物孟一(重橋五百石)、稗田中村安藝守利度(五百石)、相知江里長門守天相(佐里三百五十石)、大川野田代日向守林(三百名)等。隈崎素人等主張突擊名護屋本營,以一死存松浦武士之義名;然十萬護衛在城,計過於輕,乃決暫忍以圖波多家再興。遂命江里長門守天相與飯田彥四郎久光(神田二百名)潛赴常陸國筑波山下配所,謀救親。

夫人一度欲自盡,為遺臣所諫,匿於南波多村檀之谷,與一子彌太郎吉(或作孫三郎、又作彦三郎)同由八並武藏守重(伊岐佐三百石,見松浦系圖)、馬渡五郎八俊則護送至佐嘉城下。重等圖籍鍋島氏以謀波多再興,然慶長三年八月十三日,吉病歿。夫人剃髮為尼,號妙安尼,結庵祈亡夫子冥福,寛永元年七月三十日卒,享年七十九(今妙安寺小路之妙安寺即其庵址所建)。

此前,鬼子嶽浪士於大川野建福寺密議為秀吉所知,城即移交侍臣寺澤忠大郎廣高,並嚴令解散波多浪士。東行之江里、飯田二士備嘗艱辛劫回親,欲糾合鬼子嶽浪士據黑髮山,且密通伊萬里大法院,然親猝病而卒,萬事俱休。自源次太夫持以來十五代,嵯峨源氏五百年之名家於是終焉。

唐津燒相傳起於鬼子嶽山中。其沒落後諸多陶工流散,先移窯於五ヶ莊さいはし、植之谷及大川原(皆在南波多村),多數浪士亦來此安身。較遠者遷平戶領三河內之長葉山,相傳於此燒出均窯海鼠釉。

「鬼子嶽崩れ」之工匠似將窯技播於全國。美濃國久尻,加藤景延所難之陶工森善右工門,終偕景延赴唐津(疑為椎之峯),景延由是見學,盡革尾濃舊窯式,終被尊為美濃中奧之祖;善右工門固為鬼子嶽殘黨。

諸書云,秀吉在名護屋駐陣時,召佐賀郡高木瀬村曾燒城瓦之家永逵三郎方親燒造茶器,以其時為第一巧者,於文祿元年十二月二十六日授朱印,命為「肥前燒物師之司」,拜壹岐守。然而名護屋城春成,秀吉四月二十五日入城;區區數月,瓦工遽成茶器名家、受壹岐守與朱印,實令人難盡信。

高木瀬村川原屋敷即當時瓦屋敷,沿多布施川。有說家永彦三郎與真崎長右工門共燒秀吉御用器;亦有異說謂二人不過瓦屋敷頭目,實為平松源右工門取春日村(佐嘉郡)久池井字國分之坏土製作。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

关于波多家继承:鬼子嶽城迎有马藤重丸为嗣,继承者先称“太郎二郎鎭”,后任三河守。鎭为惩反对者,攻大川野日在城主鶴田勝而败,投草野鎮永,后获准归参。

1571年4月10日,日高方秀率约三百人自奈古屋浦登陆;鬼子嶽城相浦中务、堀野源五郎出战,源五郎阵亡。未亡人眞法女求援对马领主宗將盛;翌1572年7月16日,方秀等假扮对马兵,诱敌于壹岐本宫浦并大破之。

1573年12月,龙造寺隆信入上松浦;波多三河守鎭、鶴田越前守前、鶴田因幡守勝出迎。1574年正月三日,龙造寺军下鬼ヶ城;草野鎮永走筑前高祖,依父原田了榮并降,立家水为养嗣。鎮永1617年2月20日卒。

时肥前松浦沿岸上有五家,下有八家,后皆属龙造寺,再入丰臣。1587年正月,秀吉征岛津,波多親(鎭改名)从之。时龙造寺政家七郡、鍋島直茂二郡,松浦鎮信平户,大村純忠大村,有马純治岛原,宇久盛勝五岛,波多親唐津。

1593年4月,秀吉入名护屋新城,诸侯迎于博多;唯波多親迟至,赖鍋島直茂调停免罪。親率二千属直茂,深入朝鲜至顺天,鏖战损半。

秀吉曾于名护屋设宴,命在阵与留守皆观。波多親夫人(阿安或“秀之前”)以守城辞,被强召;怀中小刀被发,坐重罪。夫人乃龙造寺胤榮遗女、隆信养女,先嫁蓮池小田鎮光;鎮光附大友宗麟逆隆信被诛;后为波多親后室。

1596年正月,波多親自朝鲜还,黒田長政至小川岛宣旨,没收波多领,押付常陆佐竹義宣。鬼子嶽城闻之震惊。

城中亲族与重臣会议;或主张突击名护屋以死成名,终以无谋作罢,决潜往筑波山下夺回親,使命由江里長門守天相与飯田彦四郎久光承担。

夫人一度欲自尽,后隐南波多村檀之谷,与子彌太郎吉(或孫三郎、彦三郎)由八並武藏守重、馬渡五郎八俊則护送至佐嘉城下。谋再兴时,吉于1598年8月13日病卒;夫人出家为妙安尼,结庵祈福,1624年7月30日卒,享79岁(今妙安寺为其庵址)。

此前,鬼子嶽浪士密议事泄,城移交寺澤忠大郎廣高,勒令解散。江里、飯田东行劫回親,欲据黒髪山并密联伊万里大法院,然親遽亡,事绝。自源次太夫持起十五代,嵯峨源氏五百年名家至此终。

唐津烧起于鬼子嶽山中;覆亡后陶工四散,移窑于五ヶ莊さいはし、植之谷、大川原;亦有远徙平户领三河内长叶山,烧均窑海鼠釉。

败亡工匠技艺散播全国。美浓久尻,加藤景延责森善右工门,后偕至唐津(或椎之峯);景延因见学革新尾濃窑式,被尊美浓中奥之祖;森为鬼子嶽残党。

传称秀吉在名护屋时,召高木瀬村瓦工家永……方親烧茶器,1593年12月26日授朱印为“肥前陶师之司”、任壹岐守。然名护屋城春成,四月入城,数月间从瓦工而登茶器名家并授官,可信度存疑。

高木瀬村川原屋敷在多布施川畔。或谓家永彦三郎与真崎长右工门烧御用器;另说实为平松源右工门以春日村久池井字國分之坏土制作。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

關於波多家的繼承:鬼子嶽城迎有馬藤重丸為嗣,繼承者初稱「太郎二郎鎭」,後任三河守。鎭為懲治反對者,攻大川野日在之鶴田勝而敗,走投草野鎭永,後許歸參。

1571年4月10日,日高方秀率三百餘人自奈古屋浦登陸;鬼子嶽城相浦中務、堀野源五郎迎戰,源五郎陣亡。未亡人眞法女求援對馬領主宗將盛;翌年7月16日,方秀等偽作對馬兵誘敵於壹岐本宮浦,大破之。

1573年12月,龍造寺隆信入上松浦;波多三河守鎭、鶴田越前守前、鶴田因幡守勝出迎。1574年正月初三,龍造寺軍下鬼ヶ城;草野鎭永走筑前高祖,依父原田了榮而降,立家水為養嗣。鎭永於1617年2月20日卒。

時肥前松浦沿岸,上有五家、下有八家,後皆屬龍造寺,繼而歸於豐臣。1587年正月,秀吉征島津,波多親(鎭改名)亦從之。時龍造寺政家領七郡、鍋島直茂領二郡;松浦鎮信據平戶,大村純忠據大村,有馬純治據島原,宇久盛勝據五島,波多親據唐津。

1593年4月,秀吉入名護屋新城,諸侯迎於博多;惟波多親遲至,賴鍋島直茂調停而免。親率二千屬直茂,深入朝鮮至順天,鏖戰損半。

秀吉曾於名護屋設宴行樂,令在陣及留守皆觀。波多親夫人(阿安或「秀之前」)以守城辭,被強召;懷中小刀為人所覺,坐以重罪。夫人為龍造寺胤榮遺女、隆信養女,先嫁蓮池小田鎭光;鎭光附大友宗麟逆隆信被誅;後為波多親後室。

1596年正月,波多親自朝鮮還,黑田長政至小川島宣諭,沒收波多領,押付常陸佐竹義宣。鬼子嶽城聞之震駭。

城中親族與重臣會議;或主突擊名護屋以死成名,終以無謀作罷,決潛赴筑波山下奪回親,使命由江里長門守天相與飯田彥四郎久光負責。

夫人一度欲自盡,後匿南波多村檀之谷,與子彌太郎吉(或孫三郎、彦三郎)由八並武藏守重、馬渡五郎八俊則護送至佐嘉城下。謀再興之際,吉於1598年8月13日病卒;夫人出家為妙安尼,結庵祈福,1624年7月30日卒,享年七十九(今妙安寺為其庵址)。

此前,鬼子嶽浪士密議事泄,城交寺澤忠大郎廣高,嚴令解散。江里、飯田東行劫回親,欲據黑髮山並密聯伊萬里大法院,然親遽亡,事絕。自源次太夫持起十五代,嵯峨源氏五百年名門於是終。

唐津燒起於鬼子嶽山中;覆亡後陶工四散,移窯於五ヶ莊さいはし、植之谷、大川原;亦有遠徙平戶領三河內長葉山,燒均窯海鼠釉。

敗亡工匠之技術播及全國。美濃久尻,加藤景延質疑森善右工門,後偕赴唐津(疑椎之峯);景延因見學革新尾濃窯式,尊為美濃中奧之祖;森為鬼子嶽殘黨。

傳稱秀吉在名護屋時,召高木瀬村瓦工家永……方親燒茶器,於1593年12月26日授朱印為「肥前陶師之司」、任壹岐守。然名護屋城春成、四月入城,數月之間由瓦工而登茶器名家且受官,可信度可議。

高木瀬村川原屋敷臨多布施川。有說家永彦三郎與真崎長右工門燒御用器;又有異說,實為平松源右工門以春日村久池井字國分之坏土製作。