【原文】[Original text]
茶器に酔ふ
由來茶に酔ふ者はあらざるも、茶人は齊しく茶器に酔ふものである。故に白磁に於いては厭はるゝ斑点さへ其窯技の失敗が、陶器に至つては却つて珍重に値さるゝ得がある。是等の窯物は本場丈けに支那製には科擧的優品多く、且又之に巧妙なる名稱が冠せられてある、倒せば明の均窯青磁の葱翠青や辰砂の猪肝紅、或は珉皮釉又は鷓鵠斑等の如き枚擧に遑がない。
獨占的所有感
而して尋常素直な製品にては、富裕なる數寄者の獨占的所有感と、茶人の變態的趣味を満足せしむる能はざる減がある。其間につけ込む骨董屋なるものが、又普通有りふれし製品のみにては法外の値を貪る能はざるを以て、茲に窯變物の流行を起さしめて、種々の焼き損じ物さへ勿体らしき命名を附する巧妙さに於いては、我邦人又敢て支那に劣るものではない。
變態物の一
凡て焼物は一室の内に焼成されたとしても、其積座の關係と火廻りの具合にて燒上げの呈色を異にする、従つて彩料の如きも濃淡異色の差を生ずるは論を俟たぬ。而して此際混入せる或礦物分子の爲め異相を現はせし時青磁に砂班や、又垤斑或は飛青磁などとて尊ばれるが、彼の七官手の如きも軟釉又は高火度のため全釉面に氷裂を生ぜし青磁の焼損じが舶来せしを、當時飛紋焼として珍重し始めたものと察せらる。
變態物の二
火むらの爲釉面に斑点の現はしを半使(判事)と尊び、之を御手本として作らせし物を御本と云ふらしい。又茶碗のみこみに凹み生じたるを茶溜さいひ。釉面の小皺を縮緬皺と唱へ、或は又ぶつぶつの出来たるを柚手とし。又茶色や黒のしみ出し物を雨漏手名つけられてゐる。或は不注意にて釉薬の掛け残されしところを愛し、それが抹茶々碗なれば窓開と稱して愛せらる。
變態物の三
胎土粗きか或は生乾きを削りしためか、臺輪の中に小さき透目生せしをも縮緬皺と賞揚し、製土粗にして地肌より小石の喰み出せしを石罅と稱賛する。或は釉面に焼き膨れの出来たる物を煎餅手とて愛好する。又作者が老耄して技巧の篦使ひに手震ひの痕あるを、踊篦とて珍重するに至つては沙汰の限りといはざるを得ない。
態物の四
韓土より下手物として送荷すべく茶碗の荷造りに、十数個重ねの一番下茶碗一個丈を、繩掛の滑りを防ぐ爲高臺が二方切取られたのがある。勿論それは最初より商品外して取扱はれしを、其縄掛高臺こそ正しく韓渡りの真證なりと賞翫され、其後我邦にて態と製作されしが割高臺である。又器と器が焼着きし痕疵の一字形なるが無類の出来物とて、一文字の茶盌と稀し拾萬圓にて買取られしエピソートさへある。
之等の出来物が名工などの場合に於いて、特に履歴ある作品なれば兎も角なれど、由來名もなき凡工にも其失敗を繰返へして、態と製作せしめるさころに脱線的の茶氣がある。勿論前記の變態物には、後世の小細工を弄せし俗趣向を離れ、原始的なる自然美の妙味を發揮して真に珍重に價すべき名什ある可きも、概して之等の作品は高麗物のイミテーションたる観ありて決して含蓄味の豊なるものとては甚だ稀である。
本場の高麗味
元來本場の高麗物には彼等の粗放なる天性を現出して、隙、釉斷、石交、蛇蝎、釉溜、柆車目、茶筅摺、湯溜、飛び、歪み、作痕等決して作りしものにてはなく、寧ろ彼等の眼にはなくもかなと思はれしならんも、唯自然に一任して頓着なきところに興味がある。それを我邦人が態と製作して殊更に雅味を強ゆるが如き観あるは是非もない。
さあれ古き歴史と幾多名工の傳統を有する唐津燒には、此脱線的趣味を超越して大に伸ぶ可き素質を保持してゐる。郷土の有志又此事業に協力し業者をして須らく真の陶質美を研鑽せしめ、此嘘の海水浴場なる天然美の外に此人工美を世界的に発揮すべく近松門左工門、幡随院長兵衛、奥村五百子等の如き偉人を産せし唐津人士に切望する。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
茶そのものに酔うことはないが、茶人は等しく茶器に酔う。だから、白磁では嫌われる斑点や窯の失敗でさえ、陶器ではかえって珍重されることがある。こうしたやきものは、とりわけ本場の中国製に科挙にたとえるほどの優品が多く、しかも巧みな名称が冠せられてきた。たとえば、明の均窯青磁の葱翠青や辰砂の猪肝紅、珉皮釉、鷓鴣斑など、挙げればきりがない。
ただ、素直で平明な製品だけでは、裕福な数寄者の独占的な所有欲や、茶人の変わった趣味を満たしきれない。そこに骨董商がつけ込み、ありふれた品だけでは法外な値を取りにくいので、窯変物の流行を作り、さまざまな焼損じにまで、いかにもありがたげな命名を施す――この手際において、日本人も中国に劣らない。
一般に、同じ窯室で焼いても、積み位置や火の回りで発色が変わる。顔料の濃淡も当然生じる。このとき混入した鉱物成分が作用して異相を示すと、青磁では砂班・垤斑・飛青磁などとして尊ばれる。七官手もまた、軟釉や高火度のため釉面全体に氷裂が生じた青磁の焼損じが舶来し、当時「飛紋焼」として珍重され始めたものだろう。
火ムラで釉面に斑点が出たものを「半使(判事)」と尊び、それを手本に作らせたものを「御本」と呼ぶという。茶碗の見込みにへこみが生じたものは「茶溜」、釉面の細かな皺は「縮緬皺」、ぶつぶつの肌は「柚手(ゆず肌)」、茶色や黒の滲みは「雨漏手」と名づけられる。うっかり釉が掛からず残った箇所すら愛で、抹茶茶碗であれば「窓開」と呼んで喜ぶ。
胎土が粗いか、生乾きのまま削ったためか、足(台輪)内に小さな透けが生じたものまで縮緬皺として称揚し、土作りが粗く地肌から小石が噛み出たものを「石罅」と賞賛する。釉面に焼き膨れが出たものを「煎餅手」として愛好し、作者が老境で篦使いに手振れが出た痕跡を「踊篦」と珍重するに至っては、さすがに行き過ぎといわざるを得ない。
朝鮮から安物として出荷するため、茶碗を十数個重ねて梱包する際、一番下の一個だけ、縄掛けが滑らないよう高台を二方切り落としたものがあった。もちろん最初から商品外として扱われたが、その「縄掛け高台」こそ朝鮮渡来の証拠だと賞玩され、その後日本でもわざわざ作られたのが「割高台」である。また、器どうしが焼き付いた痕が「一」の字に残っただけで無類の名物とされ、「一文字の茶碗」と称して十万円で買い取られたという話まである。
こうした出来物が名工の作で、特に来歴のある作品ならともかく、名もない凡工に失敗を繰り返させ、わざと作らせるあたりに、脱線気味の茶趣味がある。無論、前記の「変態物」の中にも、後世の小細工を離れ、原初的な自然美の妙味を発揮し、真に珍重に値する名品はあるだろう。しかし概して見ると、それらは高麗物の模倣という趣が強く、含蓄に富むものはきわめて稀だ。
もともと本場の高麗物は、彼らの粗放な気性をそのまま表し、隙・釉断・石交・蛇蝎・釉溜・轆轤目・茶筅摺・湯溜・飛び・歪み・作痕など、決して作為ではない。彼らの目には「なくてもよい」と思われたかもしれないが、ただ自然に任せて頓着しないところに趣がある。それを日本人がわざと作り、ことさらに雅味を強調する傾向があるのは、否めない。
とはいえ、長い歴史と多くの名工の伝統を持つ唐津焼には、こうした脱線趣味を超えて大きく伸びる素地がある。郷土の有志はこの事業に力を合わせ、作り手に真の陶質美の研鑽を促したい。海水浴場としての自然美に加え、人工美を世界に発揮すべく、近松門左工門、幡随院長兵衛、奥村五百子のような偉人を生んだ唐津の人々に切に望む。
【英語訳】[English translation]
Tea itself does not make one “drunk,” yet tea people are uniformly intoxicated by tea utensils. Thus, even specks and firing flaws that are shunned on white porcelain may, on stoneware, be prized as virtues. Especially among Chinese wares from the great centers, there are “examination-grade” masterpieces, each with a deft name: to name only a few, Jun-type celadon in scallion-green (cōng-cuì), copper-red in boar-liver tone (zhūshā), “min-skin” glaze, or partridge-feather mottling.
Plain, straightforward pieces, however, cannot fully satisfy the wealthy connoisseur’s desire for exclusive ownership or the tea man’s taste for the eccentric. Antique dealers exploit this: ordinary stock alone won’t fetch outrageous prices, so they popularize “kiln-change” effects and, with nimble naming, even elevate various misfires. In this, the Japanese are by no means behind the Chinese.
Even within a single firing chamber, stacking positions and flame circulation change colors; pigment strength naturally varies. When certain mineral phases intrude and produce anomalies, celadon with sand specks, nodular spots, or flying-ash effects is esteemed. The so-called “Shichikande” too—celadon whose entire glaze crazed under soft glaze or high fire—came in as misfired imports and began to be prized here as “flying-pattern ware.”
Patches of mottling from uneven heat are honored as “hanshi (hanji),” and pieces later made after that “model” are called “gohon.” A depression in the bowl’s interior is “cha-dame” (tea pool); fine wrinkles in the glaze are “chirimenzawa” (crepe wrinkles); pitted “orange-peel” surfaces are “yuzu-de”; brown or black seepage stains are “amamore-de” (leak-marks). Even unglazed misses are loved; on a matcha bowl they are cherished as “window openings.”
If the body clay is coarse, or trimming was done half-dry, tiny pinholes inside the foot are also praised as “crepe wrinkles”; when grit breaks through the skin it is lauded as “stone bites.” Blistered, swelled glaze becomes “senbei-de,” and even the hand tremor marks of an aged maker’s spatula are treasured as “dancing spatula”—which is, frankly, going too far.
For cheap export from Korea, stacks of a dozen bowls were tied with rope; to keep the bundle from slipping, the single bottom bowl sometimes had its foot trimmed away on two sides. Originally treated as non-merchandise, that “rope-grip foot” was later celebrated as proof of Korean origin, and Japanese potters began to make such “waridaitai” (cut foot) on purpose. There is even an anecdote of a bowl with a straight “一” scar where two pieces fused in firing—bought for a staggering sum as the famed “Ichimonji chawan.”
If such effects appear on a named master’s work with a clear pedigree, that is one thing; but to have unknown artisans repeat failures and produce them deliberately—that is tea taste gone off the rails. To be sure, among these “aberrant” types there are pieces, free from later contrivance, that manifest a primal natural beauty and truly deserve esteem. Yet on the whole, they carry the air of Goryeo imitations, and works rich in depth are rare.
Authentic Goryeo pieces show an unforced temperament: gaps, glaze breaks, mingled stones, “jakatsu,” pooled glaze, wheel marks, tea-whisk rubs, water pools, spur-marks, warps, tool traces—none contrived, perhaps scarcely noticed by their makers, but compelling precisely because nature was left alone. The Japanese tendency to reproduce these on purpose and over-sweeten the “elegance” is hard to deny.
Even so, Karatsu ware—armed with long history and many masters—has the makings to move beyond such detours. May the local worthies join forces so that makers pursue true ceramic beauty. Alongside Karatsu’s seaside natural charms, may its crafted beauty speak to the world; this is the earnest hope we place in the people of Karatsu, homeland of figures like Chikamatsu Monzaemon, Banzuiin Chōbei, and Okumura Ihoko.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
茶本身不会让人“醉”,但茶人常常沉醉于茶器。因此,哪怕在白瓷上不受欢迎的斑点或窑烧失手,到了陶器反而可能被当作可取之处而珍视。尤其本场的中国制器物中不乏可比“科举级”的名品,并且往往冠以巧妙的名目,如明代均窑青瓷的葱翠青、辰砂的猪肝红、珉皮釉、鹧鸪斑等,不胜枚举。
然而,朴素正直的制品,难以满足富裕数寄者的独占欲与茶人的偏好。古董商遂乘虚而入:仅靠常见之物难以索要高价,便鼓吹“窑变”,甚至给各种烧坏之物也安上看似高雅的名称。此道上,日本人并不逊于中国。
同窑一室内,堆放位置与火路不同,发色即异,颜料深浅自然有别。若掺入的矿物相起作用而显异象,则青瓷上的砂斑、垤斑、飞青磁等皆见尊崇。所谓“七官手”也多是因软釉或高火度致满釉开片的青瓷烧损,舶来后被称作“飞纹烧”而受珍视。
因火温不匀而出的斑点被奉为“半使(判事)”,照其“御手本”制作的称“御本”。碗内壁凹陷谓“茶溜”;釉面的细皱称“绉纹”;起疙瘩的肌理叫“柚手(柚子皮)”;褐色或黑色渗痕称“漏雨手”。乃至釉未及之处也被爱赏;若为抹茶碗,则称“开窗”。
胎土粗或半干即修,足内细孔也被称为“绉纹”;地子粗糙小石露出称“石罅”。釉面起泡鼓出称“煎饼手”;老匠篦痕因手颤而抖者,竟被珍作“跳篦”,未免过甚。
朝鲜为出运廉价器,常十余只碗叠装,以绳捆系,防滑故将最底下一只的高台两侧削去。原是非卖之物,后却被当作“韩渡”的明证而玩赏,日本也遂仿作,称“割高台”。更有两器烧粘成“一”字痕者,被尊为“ 一文字茶碗 ”,以高价购入之逸闻。
若此等效果出于名工且履历明确,尚可;使无名工反复失败并人为制作,则是茶趣偏离本旨。固然,“变态物”中也有摆脱后世小巧、发挥原初自然美、确值珍重的名品,但总体上多带高丽仿作之气,含蓄深味者甚稀。
本场高丽器物,展现其人粗放天性:隙、釉断、石交、蛇蝎、釉溜、轆轤目、茶筅擦、湯溜、飞痕、歪形、作痕等,皆非人作,或许在其眼中无足轻重,偏因任其自然而有趣。日本人反而刻意复制、过分强调“雅味”,亦难否认。
然而,拥有悠久历史与众多名工传统的唐津烧,具备超越这种脱轨趣味而大展身手的资质。愿乡里有志者协力,使匠人研磨真正的陶质之美;在海水浴场的自然美之外,将人工之美推向世界。谨以此希冀寄于诞生了近松门左工门、幡随院长兵卫、奥村五百子的唐津人。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
茶本身不使人「醉」,然茶人常沉醉於茶器。故在白瓷上不受歡迎之斑點與窯失,於陶器反或可視為可取而珍之。尤其中國本場器物多有可比「科舉級」之名品,並冠以巧名,如明代均窯青瓷之蔥翠青、辰砂之豬肝紅、珉皮釉、鷓鴣斑等,舉不勝舉。
然而,樸直之作不足以滿足富裕數寄者之獨占欲與茶人之偏嗜。古董商遂乘隙:但憑尋常之品難索天價,乃鼓吹「窯變」,甚至為諸般燒損亦安上雅名。此道,日本人並不遜於中國。
同室一窯,因堆位與火路異,其發色自殊;顏料深淺亦自不同。若混入礦物相而呈異象,則青瓷之砂斑、垤斑、飛青磁等皆見尊崇。所謂「七官手」,多為軟釉或高火度致通面開片之青瓷燒損,舶來後名為「飛紋燒」而見珍。
由火溫不勻而生之斑點稱「半使(判事)」,依其「御手本」復作者曰「御本」。碗內凹陷曰「茶溜」;釉面細皺曰「絹縮紋」;疙瘩肌理曰「柚手(柚子皮)」;褐黑滲痕曰「漏雨手」。乃至釉掛殘處亦見愛;若為抹茶碗,則稱「開窗」。
胎土粗或半乾而修,足內細孔亦被稱為「絹縮紋」;地肌粗糙小石外露曰「石罅」。釉面鼓泡曰「煎餅手」;老匠篦痕因手顫而抖者,竟珍為「跳篦」,未免過甚。
朝鮮為出運廉價器,常十餘碗疊裝以繩捆束,防滑故將最底一只之高臺兩側削去。原為非賣之物,後卻被視為「韓渡」明證而玩賞,日本亦仿作,名曰「割高臺」。又有兩器燒粘留「一」字痕者,尊為「一文字茶碗」,高價收購之逸聞。
若此等效果出自名工且履歷明確,尚可;使無名工反覆失手並人為製作,則茶趣失其本旨。固然,「變態物」中亦有離後世小巧、發揮原初自然美、真值珍重者,但總體多帶高麗仿作之氣,含蓄深味者甚稀。
本場高麗器,展其粗放天性:隙、釉斷、石交、蛇蝎、釉溜、轆轤目、茶筅摺、湯溜、飛痕、歪形、作痕,皆非作為;或在其眼中無足輕重,偏因任其自然而有趣。日本人反刻意摹作,過度渲染「雅味」,亦難否認。
然則,唐津燒秉悠久歷史與名工傳統,具超越此等脫軌趣味而大展之資。願鄉土有志者協力,使匠者研鑽真之陶質美;於海水浴場之自然美之外,令人工之美揚於世界。所望寄於孕育近松門左工門、幡隨院長兵衛、奧村五百子之唐津人士。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
茶本身不会让人“醉”,但茶人常为器物所醉。于是,白瓷上被嫌弃的斑点、烧成失误,到了石器上反而可能成为可取之处。尤其中国名窑名品繁多,惯以巧名标识,如均窑“葱翠”、辰砂“猪肝红”、“珉皮”釉、鹧鸪斑等。
然朴素之器难满富豪与茶人的占有欲与奇好。古玩商遂借势:仅凭常货难索高价,便鼓吹“窑变”,连失火之物也冠以雅名。日本人在此道并不落后。
同室一烧,堆位与火路使发色有别;颜料浓淡亦异。若矿物相介入而致异象,青瓷上之砂斑、结斑、飞青磁遂被推崇。“七官手”亦是满釉开片的失火之品舶至而被珍称为“飞纹烧”。
不匀热致斑者称“半使(判事)”,依其“样”重作者曰“御本”。碗内洼为“茶溜”;细皱为“绉纹”;桔皮为“柚手”;渗痕为“漏雨手”。乃至漏釉之处也被爱称为“开窗”。
胎土粗、半干修坯致足内小孔者亦被称作“绉纹”;砂粒破皮曰“石罅”;釉起泡曰“煎饼手”;老匠手颤之篦痕曰“跳篦”——已属过度。
为廉价外运,朝鲜常以十余碗成叠束缚,防滑而削底碗之高台两侧。原属非卖,后却被视作“韩渡”凭证,日本更仿制为“割高台”。又有两器粘连留“一”形痕者,被尊为“一文字茶碗”而高价购入。
若此效应见于名匠且谱系分明,尚可;迫无名工反复失手而人为制造,乃茶趣之偏。诚然,亦有脱离后世小巧、呈现原初自然美而真值珍视者;但总体多带高丽仿作之气,厚味罕见。
正宗高丽器显其不造作的气质:缺口、断釉、夹石、蛇蝎、釉池、轱辘纹、茶筅擦、积水痕、飞痕、扭曲、工具痕,皆非做作,或几不入作者之眼,偏因任自然而有趣。日本人反而刻意复制、过度甜化“雅味”,诚难否认。
然而,唐津烧以其长史与名家,具备超越此等歧途的潜力。愿地方贤达协力,促使匠人探求真正的陶之美;在海滨自然风光之外,也让人工之美为世所知——这正寄望于孕育了近松门左工门、幡随院长兵卫、奥村五百子的唐津人。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
茶本身不使人「醉」,然茶人常為器物所醉。故白瓷所忌之斑與失火,於石器反或成可取。尤其中國名窯多名品,並以巧名相標,如均窯「蔥翠」、辰砂「豬肝紅」、「珉皮」釉、鷓鴣斑等。
然而質樸之器難滿足富豪與茶人之占有欲與奇嗜。古玩商遂乘勢:僅憑常貨難索高價,乃鼓吹「窯變」,連失火之物亦冠雅名。日本於此道並不落人後。
同室一燒,堆位與火路致發色有別;顏料濃淡亦異。若礦物相介入而致異象,則青瓷之砂斑、結斑、飛青磁見推崇。「七官手」亦係滿釉開片之失火品舶至,稱為「飛紋燒」而見珍。
不勻熱之斑稱「半使(判事)」,依其「樣」復作者曰「御本」。碗內凹者「茶溜」;細皺為「絹縮」;桔皮肌為「柚手」;滲痕為「漏雨手」。乃至漏釉處亦被愛稱「開窗」。
胎土粗、半乾修坯而致足內小孔者亦稱「絹縮」;砂粒破肌為「石罅」;釉起泡為「煎餅手」;老匠手顫之篦痕為「跳篦」——已屬過度。
為廉價外運,朝鮮常以十餘碗疊綑,防滑乃削最底碗高臺兩側。本為非賣,後卻被視作「韓渡」憑證,日本更仿製為「割高臺」。又有兩器燒粘留「一」字痕者,尊為「一文字茶碗」,高價購得之逸事。
若此效果見於名匠且譜記分明,尚可;強令無名工反覆失手而人為製造,乃茶趣之偏。誠然,亦有脫離後世小巧、呈原初自然之美而真值珍視者;然總體多帶高麗仿作之氣,厚味罕見。
正宗高麗器,呈不造作之性:缺、斷釉、夾石、蛇蝎、釉池、轆轤痕、茶筅擦、積水痕、飛痕、歪形、作痕,皆非作為,或幾不入作者之眼,偏因任自然而有趣。日本人反刻意摹造、過度甜化「雅味」,實難否認。
然而,唐津燒以其長史與名家,具超越此等歧途之潛力。願地方賢達協力,促匠人探求真正之陶美;於海濱自然之外,亦令人工之美為世所聞——此殷望寄於孕育近松門左工門、幡隨院長兵衛、奧村五百子之唐津人。

