【原文】[Original text]
武雄系 武内窯
塚崎
武雄は舊名塚崎(又柄崎或は墓崎と書きしものあり)稱し、肥前國杵島莊の主宰地にて開地頗る古く、此處の武雄神社の如きは聖武天皇の天平七年、仲哀天皇外三座を奉祀せるものにて、今より千二百〇一年以前の宮祠である。
杵島の地
杵島の地は元かしまと稱し、そのかみ有明海に面せし地方は廣く灣内なりしものゝ如く、今山口驛以北でさへ貝殻の出土すること屢あり、白石方面は全く潟土を以て地層されてゐる。
此處の地頭たりし者のうち塚崎の後藤氏最古くより盛名があつた。其系圖左の如くである。
(後藤系圖参照)
初代後藤内章明は、元河内國坂戸荘の人にて檢非違使判官代舍人となり肥前塚崎の莊を領有し、源頼義が勇將七騎の一人であつた。其子政明に至つて地頭職となり元永年間(1118-1120)塚崎に築城せしが、次の助明又黒髪山下に住吉城を築造した。而して治承年間(1177-1181)四代宗明の時伊萬里を兼領したのであつた。
氏明入道淨明
九代氏明入道淨明は、弘安四年八月(1281年)叔父塚崎十郎定明其子中野五郎賴明及武雄大宮司賴門同門兄弟と共に、蒙古の外寇として大いに勇名を馳するに至つた。孫掃部允光明に至り貞和二年(1346年)
足利直冬に從ひ南朝に属して勤王に盡し、杵島の外松浦、三根の二郡を併領した。そして十七代職明入道淨憲に至りて勢威大いに振ったのである。
長島荘を併有す
大永七年三月十五日(1527年)浄憲の女婿川古日鼓山(杵島郡若木村)の城主澁江右馬頭公勢は、次子公政と共に乳母の爲に毒殺され、乳母は已れが育みし三男公親(十三才)を後嗣せしかば、浄憲大いに怒り養子純明(質は公勢の長男)と共に日鼓山城を攻落し、公親を走らせて長島莊を併有した。
仙岩が陣の尾を敗る
享祿三年正月(1530年)高來の領主有馬仙巖(修理太夫晴純)は、公親の爲に長島回復を計り、武雄上西山の白木塞を取つて住吉城下に迫った、純明迎へ戰ひ仙巌が本陣なる陣の尾を破って退軍せしめたのである。 天文十一年八月十一日(1542年)澁江下野守公親は、鬼子嶽の波多盛、平戸の松浦隆信が援軍を得て武雄軍を破り日鼓山城を奪還せしも同年十一月五日純明不意に奇襲して再び之を陥落し完全に長島を併有した。而して純明は同二十二年三月十八日塚崎河原の舘に卒去した。
後藤貴明
純明子なく大村純前の次子を養嗣とせしものが貴明であつた。永祿六年八月(1565年)貴明は、島原式部大輔純豊、西郷彈正少弼純久及須古の井武藏守經治等と須見に戰ひ大敗せしも、其後勢力を挽回して松浦、藤津、彼杵の數郡を併領するに至った。
惟明叛く
貴明又男子なく、平戸の松浦隆信が子杢兵衛惟明を養ひしに、後年實子彌次郎晴明生れしより自然父子間に不和を生ずるに至つた。
天正元年十二月一日(1573年)惟明は澁江豊後守公師、(公親の子)小楠兵部大輔祇明、八並右工門太夫和明、中野兵庫助模明、松尾豊前守茂明、田中大藏、馬場隼人祐、上瀧權兵衛門、腹山城守直景、宮村三河守等の腹心を語らひて密かに貴明に抜いたのである。後藤新九郎之を知つて驚き兄の中野太郎貞明に告ぐるや、貞明は辻右夫豊明計らひ、貴明をして住吉城に走らしめしは同二年六月廿三日であつた。
住吉城を圍む
塚崎軍は住吉城を攻るや、城内には重臣中村下野守公顯を始め、永田河内守 久間薩摩守盛種等之を固め、伊萬里の女婿伊萬里太郎次郎治及有田の郷士中村判兵衛手勢をみて来した。又川原の河原之允高(女婿成行の父)は眞手野へ出張り、沿道の士の塚崎方に走る疑ある者を捕へて人質としたのである。
斯くて同年七月三日には、塚崎軍大擧して赤尾峠を越えり 住吉軍は邀へて、椿原及長谷に戦ひしが惟明敗れて三間坂、鳥海を焼いて退いた。之より先き貴明は公顯公族貞明(後藤宗印の父)と計り、原能登守信房、武富志摩椽信俊を佐嘉に遣はして龍造寺隆信に救を需むるに至った。
惟明降る
惟明も亦同じく隆信に頼らんと乞ひしも、隆信は不孝の子に助勢すべき義理なして之を描け、直ちに大川野日在城主鶴田因幡守臉其子兵部大輔明父子をして住吉軍を助けしめ、自ら又大軍を率て白仁田峠を越えるや、惟明大に煌れて龍造寺軍に降り、隆信赦して平戸に歸らしめたのである。
御産守の観音
惟明は一時平戸領日字にありしが、後伊萬里黒尾山に流寓した。其頃彼に吉といへる一女ありて容色端麗且文筆に長じてゐた。當時伊萬里を支配しつゝありし龍造寺家繁(隆信の子といへど系譜には其名なし)惟明に乞うて宝させに、天正十五年三月十七日難産にて死去せしかば、家繁は田雑玄番正に命じて其肖像を観世音に刻し、伊萬里の圓通寺に祀らしめた。今同寺金堂の正面須彌壇の上に御産守の観音とて安置されてある。
家信養嗣となる
記事は再び元に帰り、天正五年貴明の女槌市姫へ、龍造寺隆信の三男善次郎家信を婿養子に迎えることなり、佐嘉より鍋島杢之助信房、成松新左工門信吉等五拾餘人を従来つた。家信は幼名鶴仁王とし蓮池の小田鎮光の養子となりしが、鎮光反逆に依って誅せらるゝ鎮光の夫人(後波多三河守鎮の後室)と共に引取られし者である。之より貴明は芦原(橋下村)に隠棲して晩年を送り、天正十一年八月二日五十二才にて卒去した。
住吉城を本居とす
天正十四年四月家信は居を住吉城に定め、同十八年三月七日朱印に依れば、塚崎莊の外下松浦の有田鄕及び小城郡の東郷を領有し、石高一万九千七百三石九斗を食祿した(或は二万九千六百石ともあるは、此外に藤津郡の一部と筑前國早良郡の檜原を併有せしものか)而し住吉城は龍造寺高房(隆信の孫)の領地、蓮池、須古、恒廣、八戸、芦原の六城と共に殘留され、其他の諸城は悉く破壊さること成った。
塚崎城に移轉す
慶長四年(1599年)塚崎城を修築して移轉することゝなり、同五年後藤姓を鍋島姓に改むるに至った。そして家信は元和八年四月二日六十才を以て長野の館に卒去した。
之より住吉城は全く廢滅し、今黒髪登山者の當時を偲びて追懐するのみである。斯くて其の城下なりし武家屋敷は、今に小路の名を留めながら寂たる農村と化してゐる。
家信戦役に従ふ
後藤十左工門尉は、文祿元年鍋島直茂に從ひて戦役の途に上り、轉戦し名を擧げて陣せんが、其際韓土の陶工を帯同して領内所々に開窯せしめし傳へらるゝも、それが果し幾許の人数なりしか詳でない。而して領内武内、若木、及東西川登方面に分布せる多くの古窯趾に徵しても、相當の人数が入込みしもの如く、又其後年に於いても屢渡来せしと見る可きであらう。
當時後藤氏の領内たりし各地の古窯跡として、武雄の宮原忠道が繋げしものに七拾ヶ所があり、其後大宅三の追加に十餘ヶ所がある。
本山彦一の古窯大發掘
昭和五年五月大阪毎日並に東京日々新聞社々長本山彦一は、同社々員大宅經三(杵島郡中通村鳥海人有田工業學校第六回卒業)を主査として、武内、若木等三十八ヶ所の古窯跡を掘せしめ、多数の殘缺を公開して斯業者學界に大なるセンセイションを起さしめたのである。
東日社の展覽會
斯くて同年十二月十二日より三日間、東洋陶磁器研究所の主催として、東京日々社樓上に於いて前記の發掘品を陳列し、肥前古窯發掘品展覽會を開催することゝなり、本山社長を始め文部省國寶調査保存委員奥田誠一、樂學博士中尾万三、及び大宅社員等の講演ありて、斯界に大なる貢献をなすに至った。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
武雄はもとは塚崎(柄崎・墓崎と書かれることもある)と呼ばれ、肥前國杵島莊の中心地として古くから開けた土地である。ここにある武雄神社は、聖武天皇の天平七年に仲哀天皇ほか三座を祀ったもので、きわめて古い社である。
杵島の地はもと「かしま」と称され、かつて有明海に面した一帯は広い湾の内側であったらしい。現在でも山口驛の北側ですら貝殻の出土がしばしばあり、白石方面は全体が潟土の地層でできている。この地の地頭のうち、塚崎の後藤氏は早くから名が高く、その系図は別掲のとおりである。初代の後藤内章明は河内國坂戸荘の出で、檢非違使判官代の舍人となり、肥前塚崎の荘を領し、源頼義の七騎の勇将の一人に数えられた。子の政明が地頭となり、元永年間(1118〜1120)に塚崎に築城し、次の助明は黒髪山の麓に住吉城を築いた。治承年間(1177〜1181)に四代宗明の時には伊萬里も兼ねて領した。
九代の氏明入道淨明は、弘安四年八月(1281)に叔父の塚崎十郎定明、その子の中野五郎賴明、さらに武雄大宮司賴門ら一門とともに、蒙古襲来に対して大いに武名をあげた。孫の掃部允光明は貞和二年(1346)に足利直冬に従い南朝方となって勤王に尽くし、杵島のほかに松浦・三根の二郡も合わせて領有した。十七代の職明入道淨憲のころには勢威がいっそう振るった。
大永七年三月十五日(1527)、淨憲の女婿で川古日鼓山(杵島郡若木村)の城主であった澁江右馬頭公勢が、次男公政とともに乳母に毒殺され、乳母は自ら育てた三男公親(十三歳)を後継に立てた。これに淨憲は激怒し、養子の純明(もと公勢の長男)とともに日鼓山城を攻め落として公親を追い、長島荘を併せ領した。
享祿三年正月(1530)、高來の領主有馬仙巖(修理太夫晴純)は公親のため長島回復を図り、武雄上西山の白木塞を奪って住吉城下に迫ったが、純明が迎え撃ち、仙巖の本陣である陣の尾を破って退かせた。天文十一年八月十一日(1542)、澁江下野守公親は鬼子嶽の波多盛や平戸の松浦隆信の援軍を得て武雄軍を破り日鼓山城を奪い返したものの、同年十一月五日に純明が不意の奇襲で再びこれを落とし、長島を完全に併有した。純明はその後、同二十二年(三月十八日)に塚崎河原の館で没した。
純明に実子がなかったため、大村純前の次男を養子として迎えたのが後藤貴明である。永祿六年八月(1565)、貴明は島原式部大輔純豊、西郷彈正少弼純久、須古の井武藏守經治らと須見で戦って大敗したが、のちに勢力を立て直し、松浦・藤津・彼杵の数郡をも合わせて領するに至った。
しかし貴明にも男子がなく、平戸の松浦隆信の子・杢兵衛惟明を養子にしたところ、のちに実子の彌次郎晴明が生まれたため父子の仲に不和が生じた。天正元年十二月一日(1573)、惟明は澁江豊後守公師(公親の子)、小楠兵部大輔祇明、八並右工門太夫和明、中野兵庫助模明、松尾豊前守茂明、田中大蔵、馬場隼人祐、上瀧權兵衛門、腹山城守直景、宮村三河守ら腹心と通じ、ひそかに貴明から離反した。後藤新九郎がこれに驚き、兄の中野太郎貞明に知らせると、貞明は辻右夫豊明と図り、貴明を住吉城へ逃れさせた(同二年六月二十三日)。
塚崎方が住吉城を攻めると、城内では中村下野守公顕をはじめ、永田河内守、久間薩摩守盛種らが守り、伊萬里の婿・伊萬里太郎次郎治や、有田の郷士・中村判兵衛も手勢を率いて加勢した。川原では河原之允高(婿・成行の父)が真手野へ出向き、沿道の士で塚崎方に走る恐れのある者を捕えて人質とした。同年七月三日、塚崎軍は大挙して赤尾峠を越え、住吉軍はこれを迎えて椿原・長谷で戦ったが、惟明は敗れ、三間坂と鳥海に火を放って退いた。これに先立ち、貴明は公顕・公族の貞明(後藤宗印の父)と計り、原能登守信房と武富志摩椽信俊を佐嘉に遣わして龍造寺隆信に救援を求めた。
惟明もまた隆信に支援を乞うたが、隆信は「不孝の子を助ける義理はない」として退け、すぐに大川野日在城主の鶴田因幡守臉とその子・兵部大輔明の父子に住吉軍を助けさせ、自らも大軍を率いて白仁田峠を越えた。惟明はこれに恐れをなして龍造寺軍に降り、隆信はこれを赦して平戸へ帰らせた。
惟明はしばらく平戸領の日字にいたが、のちに伊萬里黒尾山へ移り住んだ。そのころ「吉」という一人娘があり、容姿端麗で文筆にも秀でていた。伊萬里を支配していた龍造寺家繁(隆信の子とされるが系譜には名が見えない)が惟明に願って彼女を側室とし、天正十五年三月十七日に彼女が難産で亡くなると、家繁は田雑玄番正に命じて彼女の肖像を観世音に刻ませ、伊萬里の圓通寺に祀らせた。いまも同寺金堂の正面・須弥壇上に「御産守の観音」として安置されている。
話は元に戻るが、天正五年、貴明の娘・槌市姫に、龍造寺隆信の三男・善次郎家信を婿養子として迎えることになり、佐嘉から鍋島杢之助信房、成松新左工門信吉ら五十余人が従ってきた。家信は幼名を鶴仁王といい、蓮池の小田鎮光の養子となっていたが、鎮光が反逆で誅されたのち、その夫人(のちの波多三河守鎮の後室)とともに引き取られた者である。以後、貴明は芦原(橋下村)に隠棲して晩年を過ごし、天正十一年八月二日に五十二歳で没した。
天正十四年四月、家信は住吉城を居城と定め、同十八年三月七日の朱印によれば、塚崎莊のほか下松浦の有田鄕と小城郡の東郷を領し、石高は一万九千七百三石九斗を給された(あるいは二万九千六百石ともされるのは、このほか藤津郡の一部と筑前國早良郡の檜原も併せ持ったためか)。住吉城は龍造寺高房(隆信の孫)の領地である蓮池・須古・恒廣・八戸・芦原の六城とともに存続し、その他の諸城はことごとく破却された。
慶長四年(1599)に塚崎城を修築して移り、同五年には後藤姓を鍋島姓に改めた。家信は元和八年四月二日、六十歳で長野の館にて没した。これ以後、住吉城は完全に廃絶し、今は黒髪山に登る人が往時をしのぶのみである。かつての城下の武家屋敷も、小路の名だけを残し、静かな農村へと変わっている。
後藤十左工門尉は文祿元年、鍋島直茂に従って出陣し、転戦して名をあげたが、その折に朝鮮の陶工を伴い、領内各地で窯を開かせたと伝えられる。人数の詳しいことは不明ながら、武内・若木・東西川登方面に分布する多くの古窯跡から見ると、相当数が入り、その後の年代にもたびたび渡来があったとみてよい。当時、後藤氏の領内にあった古窯跡として、武雄の宮原忠道がまとめたものは七十か所に及び、その後に大宅三の追加で十数か所が加えられている。
昭和五年五月には、大阪毎日・東京日々両新聞社の社長本山彦一が、社員の大宅經三(杵島郡中通村鳥海人で有田工業学校第六回卒)を主査として、武内・若木など三十八か所の古窯跡を発掘し、多数の残片を公開して、陶磁の業界と学界に大きな反響を巻き起こした。同年十二月十二日から三日間、東洋陶磁器研究所の主催で東京日々社の楼上に発掘品を陳列し、「肥前古窯発掘品展覧会」を開催。これにあわせ、本山社長をはじめ、文部省國寶調査保存委員の奥田誠一、樂學博士中尾万三、ならびに大宅社員らの講演があり、斯界に大きく貢献した。
【英語訳】[English translation]
Originally called 塚崎 (also written as 柄崎 or 墓崎), 武雄 was the core of 杵島莊 in 肥前國 and had developed from very early times. 武雄神社 there is said to have enshrined 仲哀天皇 and three other deities in 天平七年 under 聖武天皇, attesting to the shrine’s great antiquity.
The land of 杵島 was once called “かしま.” The area facing 有明海 appears to have been a broad inner bay in earlier times; even north of 山口驛, shells are frequently unearthed today, and the 白石 area is entirely composed of lagoonal sediments. Among the local jitō, the 後藤 clan of 塚崎 was renowned from an early period, as shown in their genealogy (see the 後藤系圖). The first lord, 後藤内章明, originally from 河内國坂戸荘, served as 檢非違使判官代の舍人, held the 塚崎 estate in 肥前, and was counted among the seven brave retainers of 源頼義. His son 政明 became jitō and built a castle at 塚崎 during 元永 (1118–1120); his successor 助明 constructed 住吉城 at the foot of 黒髪山. In 治承 (1177–1181), under the fourth lord 宗明, 伊萬里 was also brought under control.
The ninth lord 氏明入道淨明 gained great renown during the Mongol invasions in 弘安四年八月 (1281), fighting alongside his uncle 塚崎十郎定明, the latter’s son 中野五郎賴明, and 武雄大宮司賴門 and other kinsmen. His grandson 掃部允光明 supported 足利直冬 in 貞和二年 (1346), joined the Southern Court, and rendered loyal service, holding not only 杵島 but also the two districts of 松浦 and 三根. By the time of the seventeenth lord 職明入道淨憲, the clan’s power and prestige were in full swing.
On 大永七年三月十五日 (1527), 淨憲’s son-in-law 澁江右馬頭公勢, lord of 川古日鼓山 (in 若木村, 杵島郡), was poisoned together with his second son 公政 by a wet nurse, who then set up her fostered third son 公親 (aged thirteen) as heir. Enraged, 淨憲, together with his adopted son 純明 (originally 公勢’s eldest son), attacked and fell 日鼓山城, drove 公親 away, and annexed 長島荘.
In 享祿三年正月 (1530), 有馬仙巖 (修理太夫晴純), the lord of 高來, attempted to restore 長島 for 公親, seized 白木塞 on 武雄上西山, and pressed toward 住吉城; 純明 met him in battle and broke the main camp at 陣の尾, forcing a retreat. Later, on 天文十一年八月十一日 (1542), 澁江下野守公親, with aid from 波多盛 of 鬼子嶽 and 松浦隆信 of 平戸, defeated the 武雄 forces and retook 日鼓山城, but on 十一月五日 of the same year 純明 launched a surprise attack, captured it again, and secured complete control of 長島. 純明 died on 二十二年三月十八日 at 塚崎河原の館.
Since 純明 had no child, 貴明—second son of 大村純前—was adopted as heir. In 永祿六年八月 (1565), 貴明 fought at 須見 with 島原式部大輔純豊, 西郷彈正少弼純久, and 須古の井武藏守經治, and suffered a major defeat, but later recovered his power and came to control several districts including 松浦, 藤津, and 彼杵.
As 貴明 still had no son, 杢兵衛惟明, son of 松浦隆信 of 平戸, was adopted; after a natural son, 彌次郎晴明, was born, discord arose between father and son. On 天正元年十二月一日 (1573), 惟明 conspired with retainers—澁江豊後守公師 (son of 公親), 小楠兵部大輔祇明, 八並右工門太夫和明, 中野兵庫助模明, 松尾豊前守茂明, 田中大蔵, 馬場隼人祐, 上瀧權兵衛門, 腹山城守直景, 宮村三河守, and others—and secretly deserted 貴明. 後藤新九郎 reported this in alarm to his elder brother 中野太郎貞明; 貞明 coordinated with 辻右夫豊明, and on 天正二年六月二十三日 had 貴明 flee to 住吉城.
When 塚崎 forces besieged 住吉城, the garrison—led by the senior retainer 中村下野守公顕, together with 永田河内守 and 久間薩摩守盛種—held firm; 伊萬里の婿 伊萬里太郎次郎治 and 有田郷士 中村判兵衛 also came with their men. Meanwhile 河原之允高 (father of the son-in-law 成行) went to 真手野 and seized as hostages those along the route suspected of defecting to 塚崎. On 七月三日 of the same year, 塚崎’s army crossed 赤尾峠 in force; 住吉’s troops met them and fought at 椿原 and 長谷, where 惟明 was defeated and retreated after burning 三間坂 and 鳥海. Earlier, 貴明, in concert with 公顕 and the kinsman 貞明 (father of 後藤宗印), had sent 原能登守信房 and 武富志摩椽信俊 to 佐嘉 to request aid from 龍造寺隆信.
惟明 likewise sought support from 隆信, but 隆信 refused, saying he had no obligation to assist an unfilial son. He immediately ordered 鶴田因幡守臉, lord of 大川野日在城, and his son 兵部大輔明 to aid the 住吉 force, and himself led a large army over 白仁田峠. Startled, 惟明 surrendered to the 龍造寺 forces, and 隆信 pardoned him and allowed him to return to 平戸.
惟明 resided for a time at 日字 in the 平戸 domain, and later took up temporary residence at 伊萬里黒尾山. He had a daughter named 吉, famed for her beauty and literary talent. At that time, 龍造寺家繁 (said to be 隆信’s son, though absent from genealogies), who governed 伊萬里, requested her from 惟明 and took her as a consort; when she died in difficult childbirth on 天正十五年三月十七日, 家繁 ordered 田雑玄番正 to carve her likeness as 観世音 and enshrine it at 圓通寺 in 伊萬里. To this day, the image is installed on the main altar (須弥壇) of the temple’s main hall as the “御産守の観音.”
Returning to the main line: in 天正五年, 貴明’s daughter 槌市姫 took 善次郎家信, third son of 龍造寺隆信, as adopted son-in-law. From 佐嘉 came some fifty attendants, including 鍋島杢之助信房 and 成松新左工門信吉. 家信, whose childhood name was 鶴仁王, had been adopted by 小田鎮光 of 蓮池; after 鎮光 was executed for rebellion, 家信 was taken in together with 鎮光’s widow (later the second wife of 波多三河守鎮). Thereafter 貴明 retired to 芦原(橋下村) and passed his later years there, dying on 天正十一年八月二日 at the age of fifty-two.
In 天正十四年四月, 家信 established his residence at 住吉城. According to a vermilion-sealed grant dated 天正十八年三月七日, he held, in addition to 塚崎莊, 下松浦の有田鄕 and 小城郡の東郷, for a stipend of 19,703 koku and 9 to (some sources say 29,600 koku, possibly including parts of 藤津郡 and 檜原 in 筑前國早良郡). 住吉城 remained along with the six castles of 蓮池, 須古, 恒廣, 八戸, and 芦原 in the domain of 龍造寺高房 (grandson of 隆信), while the other castles were all destroyed.
In 慶長四年 (1599), the clan rebuilt and moved to 塚崎城, and in the following year changed the family name from 後藤 to 鍋島. 家信 died at 長野の館 on 元和八年四月二日, aged sixty. Thereafter 住吉城 fell completely into ruin; today only climbers of 黒髪山 recall the old days, and the former samurai quarters of the castle town, though retaining the names of their lanes, have turned into a quiet farming village.
後藤十左工門尉 followed 鍋島直茂 to war in 文祿元年, distinguished himself in successive battles, and is said at that time to have brought Korean potters who established kilns at various places in the domain; the exact number is unknown. Judging from the many ancient kiln sites distributed across 武内, 若木, and the 東西川登 area, a considerable number arrived, and further arrivals likely continued in later years. Within the former 後藤 domain, 宮原忠道 of 武雄 recorded seventy kiln sites; later, 大宅三 added more than ten additional locations.
In 昭和五年五月 (1930), 本山彦一, president of the Osaka Mainichi and Tokyo Nichinichi newspapers, appointed the staff member 大宅經三 (from 鳥海, 中通村, 杵島郡; a sixth-cohort graduate of 有田工業学校) as lead investigator to excavate thirty-eight ancient kiln sites in 武内, 若木, and elsewhere, publishing numerous fragments and causing a great sensation in the ceramic industry and academia. From 十二月十二日 for three days that same year, under the auspices of the 東洋陶磁器研究所, the finds were exhibited at the Tokyo Nichinichi building, in the “肥前古窯発掘品展覧会.” Lectures by 本山, 文部省國寶調査保存委員 奥田誠一, 樂學博士 中尾万三, and staff from 大宅 followed, making a significant contribution to the field.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
武雄旧称为塚崎(亦写作柄崎或墓崎),自古就是肥前國杵島莊的中心。当地的武雄神社据传在聖武天皇的天平七年供奉仲哀天皇等三座,历史极为悠久。
杵岛之地原称“かしま”。昔日面向有明海的区域似为广阔的海湾内侧,如今在山口驿以北仍屡有贝壳出土,白石一带完全由潟湖沉积组成。此地历代地头中,以塚崎的後藤氏最为著名,系谱另见。初代後藤内章明出身河内國坂戸荘,任檢非違使判官代之舍人,领有肥前塚崎之荘,并被列为源頼義“七骑勇将”之一。其子政明任地头,元永年间(1118–1120)在塚崎筑城;次子助明于黒髪山下建住吉城。治承年间(1177–1181),第四代宗明并领伊萬里。
第九代氏明入道淨明于弘安四年八月(1281)蒙古来袭时,与叔父塚崎十郎定明及其中野五郎賴明、武雄大宮司賴門等同门宗族并肩作战,名声大振。其孙掃部允光明于貞和二年(1346)从足利直冬,属南朝,勤王有功,并领杵岛外的松浦、三根二郡。至第十七代職明入道淨憲,势威尤盛。
大永七年三月十五日(1527),淨憲之婿、川古日鼓山(杵島郡若木村)城主澁江右馬頭公勢与次子公政为乳母所毒杀。乳母遂立其所抚养之三子公親(十三岁)为嗣。淨憲大怒,与养子純明(原为公勢长子)攻陷日鼓山城,逐公親,并并有長島荘。
享祿三年正月(1530),高來领主有馬仙巖(修理太夫晴純)为助公親复長島,夺武雄上西山白木塞,逼近住吉城;純明迎战,击破其本阵“陣の尾”,令之退却。天文十一年八月十一日(1542),澁江下野守公親得鬼子嶽之波多盛、平户之松浦隆信援军,破武雄军,夺回日鼓山城;然同年十一月五日純明出其不意再克之,自此完全并有長島。純明于同二十二年三月十八日卒于塚崎河原之馆。
純明无子,遂以大村純前次子为养嗣,即貴明。永祿六年八月(1565),貴明与島原式部大輔純豊、西郷彈正少弼純久及須古之井武藏守經治等在須見交战大败,后整复势力,渐并领松浦、藤津、彼杵诸郡。
然貴明亦无男,遂养平户松浦隆信之子杢兵卫惟明。后因实子彌次郎晴明出生,父子失和。天正元年十二月一日(1573),惟明与澁江豊後守公師(公親之子)、小楠兵部大輔祇明、八並右工門太夫和明、中野兵庫助模明、松尾豊前守茂明、田中大藏、馬場隼人祐、上瀧權兵衛門、腹山城守直景、宮村三河守等腹心通谋,秘离貴明。後藤新九郎惊告兄中野太郎貞明,貞明与辻右夫豊明计议,于天正二年六月二十三日促使貴明奔入住吉城。
塚崎军攻住吉城时,城内由重臣中村下野守公顕为首,连同永田河内守、久間薩摩守盛種固守,伊萬里之婿伊萬里太郎次郎治、有田郷士中村判兵衛亦率兵来援。又河原之允高(婿成行之父)赴真手野,沿途拘疑投塚崎者为人质。同年七月三日,塚崎军大举越赤尾峠;住吉军迎击于椿原、長谷,惟明败走,焚三間坂、鳥海而退。此前貴明与公顕、宗族貞明(後藤宗印之父)商议,遣原能登守信房、武富志摩椽信俊赴佐嘉求援于龍造寺隆信。
惟明亦求援于隆信,然隆信以“不当助不孝之子”为由拒之,即命大川野日在城主鶴田因幡守臉及其子兵部大輔明父子助住吉军,自率大军越白仁田峠。惟明大惧,降于龍造寺军,隆信赦之令归平户。
惟明一时居平户领日字,后流寓伊萬里黒尾山。其时有一女名“吉”,容貌端丽而工文笔。时掌伊萬里之龍造寺家繁(虽称隆信之子,系谱无其名)求于惟明以纳为侧室。天正十五年三月十七日,吉难产而亡。家繁命田杂玄番正镌其肖像为观世音,祀于伊萬里圓通寺,今仍以“御产守之观音”安置于该寺金堂正面须弥坛上。
复归正脉:天正五年,貴明之女槌市姫迎龍造寺隆信三男善次郎家信为婿养子,自佐嘉随行者有鍋島杢之助信房、成松新左工門信吉等五十余人。家信幼名鶴仁王,曾为蓮池小田鎮光养子;鎮光因反被诛,家信与其夫人(后为波多三河守鎮后室)同被收养。其后貴明隐居芦原(橋下村)度晚年,天正十一年八月二日卒,享年五十二。
天正十四年四月,家信定居住吉城。按天正十八年三月七日朱印,除塚崎莊外,又领下松浦之有田鄕及小城郡之東郷,给禄一万九千七百三石九斗(或称二万九千六百石,似另并藤津郡一部与筑前國早良郡之檜原)。住吉城与龍造寺高房(隆信之孙)领地之蓮池、須古、恒廣、八戸、芦原等六城并存,其余诸城悉毁。
慶長四年(1599)修葺而迁居塚崎城,翌年改後藤姓为鍋島姓。家信元和八年四月二日卒于長野之馆,享年六十。此后住吉城完全废绝,今惟登黒髪山者犹追怀往昔;昔日城下武家屋敷仅留巷名,已化为静谧农村。
後藤十左工門尉于文祿元年随鍋島直茂出征,转战建功。据传彼时携朝鲜陶工入境,于领内诸处开窑,其人数不详。然观武内、若木及東西川登一带所分布诸多古窑址,可知来者为数颇多,且其后亦屡有渡来。当时属後藤氏领内之古窑址,武雄之宮原忠道所辑者达七十处,后又经大宅三增补十余处。
昭和五年五月,大阪毎日与東京日々新聞社社长本山彦一以社员大宅經三(杵島郡中通村鳥海人,有田工業学校第六回毕业)为主查,发掘武内、若木等三十八处古窑址,公开大量残片,于业界与学界引发巨大反响。其年十二月十二日起三日,由東洋陶磁器研究所主办,于東京日々社楼上陈列前述出土品,举办“肥前古窑发掘品展览会”,并有本山社长、文部省國寶调查保存委员奥田誠一、樂學博士中尾万三及大宅员工等演讲,对本领域贡献甚大。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
武雄舊稱為塚崎(亦寫作柄崎或墓崎),自古即為肥前國杵島莊之中心。當地之武雄神社相傳於聖武天皇的天平七年奉祀仲哀天皇等三座,歷史極為悠久。
杵島之地本稱「かしま」。昔日面向有明海之區域似為廣闊海灣之內側,今於山口驛以北仍屢有貝殼出土,白石一帶全為潟湖沉積所構。此地歷代地頭中,以塚崎之後藤氏最為著名,系譜另見。初代後藤內章明出身河內國坂戶荘,任檢非違使判官代之舍人,領有肥前塚崎之荘,且列於源頼義「七騎勇將」之一。其子政明為地頭,元永年間(1118–1120)於塚崎築城;次子助明於黒髮山下築住吉城。治承年間(1177–1181),第四代宗明併領伊萬里。
第九代氏明入道淨明於弘安四年八月(1281)蒙古襲來時,與叔父塚崎十郎定明及其中野五郎賴明、武雄大宮司賴門等同門宗族共戰,名聲大振。其孫掃部允光明於貞和二年(1346)從足利直冬,屬南朝,勤王有功,並領杵島外之松浦、三根二郡。至第十七代職明入道淨憲,勢威尤盛。
大永七年三月十五日(1527),淨憲之婿、川古日鼓山(杵島郡若木村)城主澁江右馬頭公勢與次子公政為乳母所毒殺。乳母遂立其所撫養之三男公親(十三歲)為嗣。淨憲震怒,與養子純明(原為公勢長子)共攻日鼓山城,逐公親,併有長島莊。
享祿三年正月(1530),高來領主有馬仙巖(修理太夫晴純)為公親謀復長島,奪武雄上西山白木塞,迫近住吉城;純明迎戰,擊破其本陣「陣之尾」,令其退軍。天文十一年八月十一日(1542),澁江下野守公親得鬼子嶽之波多盛、平戶之松浦隆信援軍,破武雄軍,奪回日鼓山城;然同年十一月五日,純明出奇襲再克之,自此完全併有長島。純明於同二十二年三月十八日卒於塚崎河原之館。
純明無子,乃以大村純前次子為養嗣,即貴明。永祿六年八月(1565),貴明與島原式部大輔純豊、西郷彈正少弼純久、須古之井武藏守經治等戰於須見,大敗;後重整旗鼓,遂並領松浦、藤津、彼杵諸郡。
然貴明亦無男,因養平戶松浦隆信之子杢兵衛惟明。後因實子彌次郎晴明出生,父子失和。天正元年十二月一日(1573),惟明與澁江豊後守公師(公親之子)、小楠兵部大輔祇明、八並右工門太夫和明、中野兵庫助模明、松尾豊前守茂明、田中大藏、馬場隼人祐、上瀧權兵衛門、腹山城守直景、宮村三河守等腹心通謀,潛離貴明。後藤新九郎驚告兄中野太郎貞明,貞明與辻右夫豊明計議,於天正二年六月二十三日使貴明奔入住吉城。
塚崎軍攻住吉城時,城內由重臣中村下野守公顯為首,並與永田河內守、久間薩摩守盛種堅守,伊萬里之婿伊萬里太郎次郎治、有田郷士中村判兵衛亦率兵來援。又河原之允高(婿成行之父)赴真手野,沿途拘疑走塚崎方者為人質。同年七月三日,塚崎軍大舉越赤尾峠;住吉軍迎擊於椿原、長谷,惟明敗走,焚三間坂、鳥海而退。此前貴明與公顯、宗族貞明(後藤宗印之父)商量,遣原能登守信房、武富志摩椽信俊赴佐嘉求援於龍造寺隆信。
惟明亦求助於隆信,然隆信以「不當助不孝之子」拒之,即命大川野日在城主鶴田因幡守臉及其子兵部大輔明父子助住吉軍,自率大軍越白仁田峠。惟明大懼,降於龍造寺軍,隆信赦之,令返平戶。
惟明一時居平戶領日字,後移寓伊萬里黒尾山。時有一女名「吉」,容貌端麗且善文筆。時治伊萬里之龍造寺家繁(雖稱隆信之子,系譜無其名)向惟明求納為側室。天正十五年三月十七日,吉難產卒。家繁命田雜玄番正刻其肖像為觀世音,祀於伊萬里圓通寺,今仍以「御產守之觀音」安置於該寺金堂正面須彌壇上。
復歸本脈:天正五年,貴明之女槌市姬迎龍造寺隆信三男善次郎家信為婿養子,自佐嘉隨行者有鍋島杢之助信房、成松新左工門信吉等五十餘人。家信幼名鶴仁王,曾為蓮池小田鎮光養子;鎮光以反被誅,家信與其夫人(後為波多三河守鎮後室)同被收養。其後貴明隱居芦原(橋下村)度晚年,天正十一年八月二日卒,享年五十二。
天正十四年四月,家信定居住吉城。據天正十八年三月七日朱印,除塚崎莊外,並領下松浦之有田鄕與小城郡之東郷,給祿一萬九千七百三石九斗(或稱二萬九千六百石,疑另併藤津郡一部及筑前國早良郡之檜原)。住吉城與龍造寺高房(隆信之孫)領地之蓮池、須古、恒廣、八戶、芦原等六城並存,其餘諸城悉毀。
慶長四年(1599)修築遷居塚崎城,翌年改後藤姓為鍋島姓。家信元和八年四月二日卒於長野之館,享年六十。此後住吉城全然廢滅,今惟登黒髮山者追懷往昔;舊時城下武家屋敷僅留小路之名,已化為幽靜農村。
後藤十左工門尉於文祿元年隨鍋島直茂出征,轉戰立功。據傳其時攜朝鮮陶工入境,令於領內諸處開窯,人數未詳。然觀武內、若木及東西川登一帶分布之多處古窯址,可知來者甚眾,且其後屢有渡來。時屬後藤氏領內之古窯址,武雄之宮原忠道所輯達七十處,其後大宅三又增十餘處。
昭和五年五月,大阪毎日暨東京日々新聞社社長本山彦一以社員大宅經三(杵島郡中通村鳥海人,有田工業學校第六回卒)為主查,發掘武內、若木等三十八處古窯址,公佈多量殘片,於業界與學界引起巨大迴響。其年十二月十二日起三日,由東洋陶磁器研究所主辦,於東京日々社樓上陳列出土品,舉辦「肥前古窯發掘品展覽會」,並有本山社長、文部省國寶調查保存委員奧田誠一、樂學博士中尾萬三及大宅員工作講,對斯界貢獻良多。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
武雄原称塚崎(亦作柄崎、墓崎),为肥前國杵島莊之核心,自古已然。其地之武雄神社据称在天平七年奉祀仲哀天皇及三座,年代久远。
杵岛旧称“かしま”。昔日临有明海之地似属广阔内湾;今在山口驿以北仍多见贝壳出土,白石地区全为潟湖沉积。当地地头中,塚崎之後藤氏名望最早且显著(系谱另见)。初代後藤内章明出自河内國坂戸荘,任檢非違使判官代之舍人,领肥前塚崎之荘,亦列源頼義“七骑勇将”之一。其子政明为地头,元永(1118–1120)在塚崎筑城;继任者助明于黒髪山麓建住吉城。至治承(1177–1181),四代宗明并领伊萬里。
九代氏明入道淨明于弘安四年八月(1281)蒙古来袭时,与叔父塚崎十郎定明、其子中野五郎賴明及武雄大宮司賴門等同族协战而著名。其孙掃部允光明于貞和二年(1346)依足利直冬,属南朝而勤王,兼领杵岛外之松浦、三根二郡。至十七代職明入道淨憲,势威隆盛。
大永七年三月十五日(1527),淨憲女婿、川古日鼓山(若木村)城主澁江右馬頭公勢与次子公政为乳母所毒;乳母立其所育三子公親(十三岁)为嗣。淨憲怒,与养子純明(本为公勢长子)攻克日鼓山城,逐公親,并并有長島荘。
享祿三年正月(1530),高來领主有馬仙巖(修理太夫晴純)为公親谋复長島,取白木塞,逼住吉城;純明击破其主阵“陣の尾”,令退。天文十一年(1542)八月十一日,澁江下野守公親得波多盛、松浦隆信援军破武雄军,复日鼓山城;然十一月五日純明奇袭再取之,遂全并長島。純明后于二十二年三月十八日卒于塚崎河原之馆。
純明无子,纳大村純前次子为嗣,即貴明。永祿六年八月(1565),貴明与島原純豊、西郷純久及須古井經治战于須見大败,后复振,兼领松浦、藤津、彼杵诸郡。
貴明仍无男,养平户松浦隆信之子杢兵卫惟明;后实子彌次郎晴明生,父子失和。天正元年十二月一日(1573),惟明与多名腹心谋离貴明。後藤新九郎告其兄中野太郎貞明,乃于天正二年六月二十三日使貴明奔住吉城。
塚崎军围住吉城,城内以中村下野守公顕为首,永田河内守、久間薩摩守盛種等固守;伊萬里太郎次郎治与有田中村判兵衛亦来援。河原之允高在真手野拘疑叛者为质。七月三日塚崎军越赤尾峠,住吉军战于椿原、長谷,惟明败,焚三間坂、鳥海而退。此前貴明已遣使佐嘉求援于龍造寺隆信。
惟明亦求助于隆信,然隆信拒助“不孝之子”,命鶴田因幡守臉父子助住吉军,并自率军越白仁田峠。惟明遂降于龍造寺军,获赦返平户。
惟明后居日字,继迁伊萬里黒尾山。有女“吉”,美而善文。治伊萬里之龍造寺家繁(称隆信之子,谱缺其名)纳其为侍,吉于天正十五年三月十七日难产卒。家繁命田杂玄番正雕其像为观世音,祀于伊萬里圓通寺,今称“御产守观音”安置于金堂须弥坛。
复主线:天正五年,貴明女槌市姫以龍造寺隆信三男善次郎家信为婿养子,佐嘉随行者五十余。家信幼名鶴仁王,曾为蓮池小田鎮光养子;鎮光因叛被诛,家信为其夫人收养。貴明后隐居芦原(橋下村),天正十一年八月二日卒,年五十二。
天正十四年四月,家信居住吉城。按天正十八年三月七日朱印,除塚崎莊外,尚领下松浦之有田鄕及小城郡東郷,给禄19,703石9斗(或称29,600石,或因兼有藤津郡一部与筑前國早良郡檜原)。住吉城与龍造寺高房(隆信之孙)所辖之蓮池、須古、恒廣、八戸、芦原六城并存,其余诸城皆毁。
慶長四年(1599)迁塚崎城,翌年改姓鍋島。家信元和八年四月二日卒于長野之馆,享年六十。其后住吉城废绝,仅登黒髪山者犹追昔日;旧城下武家屋敷仅存巷名,已成静村。
後藤十左工門尉文祿元年随鍋島直茂出征,转战立名。传其时携朝鲜陶工来,遍设窑址,人数不详;观武内、若木、東西川登诸多古窑址,来者应众,后岁亦多有渡来。宗内古窑址,宮原忠道录七十处,后大宅三增十余处。
昭和五年五月,本山彦一任大宅經三为主查,发掘武内、若木等三十八处古窑址,公布残片,业界学界轰动。同年十二月十二日起三日,东洋陶磁器研究所主办于東京日々社会所展出“肥前古窑发掘品展览会”,并有讲演,对本领域贡献甚巨。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
武雄原稱塚崎(亦作柄崎、墓崎),為肥前國杵島莊之核心,自古即然。其地之武雄神社據稱於天平七年奉祀仲哀天皇及三座,年代久遠。
杵島舊稱「かしま」。昔日臨有明海之地似屬廣闊內灣;今於山口驛以北仍多見貝殼出土,白石地區全為潟湖沉積。當地地頭中,塚崎之後藤氏最負盛名(系譜另見)。初代後藤內章明出自河內國坂戶荘,任檢非違使判官代之舍人,領肥前塚崎之荘,亦列源頼義「七騎勇將」之一。其子政明為地頭,元永(1118–1120)於塚崎築城;繼者助明於黒髮山麓建住吉城。至治承(1177–1181),四代宗明並領伊萬里。
九代氏明入道淨明於弘安四年八月(1281)蒙古襲來時,與叔父塚崎十郎定明、其子中野五郎賴明及武雄大宮司賴門等宗族協戰而著名。其孫掃部允光明於貞和二年(1346)依足利直冬,屬南朝而勤王,兼領杵島外之松浦、三根二郡。至十七代職明入道淨憲,勢威隆盛。
大永七年三月十五日(1527),淨憲女婿、川古日鼓山(若木村)城主澁江右馬頭公勢與次子公政為乳母所毒;乳母立其所育三男公親(十三歲)為嗣。淨憲怒,與養子純明(本為公勢長子)攻克日鼓山城,逐公親,併有長島莊。
享祿三年正月(1530),高來領主有馬仙巖(修理太夫晴純)為公親謀復長島,取白木塞,逼住吉城;純明擊破其主陣「陣之尾」,令退。天文十一年(1542)八月十一日,澁江下野守公親得波多盛、松浦隆信援軍破武雄軍,復日鼓山城;然十一月五日純明奇襲再取之,遂全併長島。純明後於二十二年三月十八日卒於塚崎河原之館。
純明無子,納大村純前次子為嗣,即貴明。永祿六年八月(1565),貴明與島原純豊、西郷純久及須古井經治戰於須見大敗,後復振,兼領松浦、藤津、彼杵諸郡。
貴明仍無男,養平戶松浦隆信之子杢兵衛惟明;後實子彌次郎晴明生,父子失和。天正元年十二月一日(1573),惟明與多名腹心謀離貴明。後藤新九郎告其兄中野太郎貞明,乃於天正二年六月二十三日使貴明奔住吉城。
塚崎軍圍住吉城,城內以中村下野守公顯為首,永田河內守、久間薩摩守盛種等固守;伊萬里太郎次郎治與有田中村判兵衛亦來援。河原之允高在真手野拘疑叛者為質。七月三日塚崎軍越赤尾峠,住吉軍戰於椿原、長谷,惟明敗,焚三間坂、鳥海而退。此前貴明已遣使佐嘉求援於龍造寺隆信。
惟明亦求助於隆信,然隆信拒助「不孝之子」,命鶴田因幡守臉父子助住吉軍,並自率軍越白仁田峠。惟明遂降於龍造寺軍,獲赦返平戶。
惟明後居日字,繼遷伊萬里黒尾山。有女「吉」,美而善文。治伊萬里之龍造寺家繁(稱隆信之子,譜缺其名)納其為側,吉於天正十五年三月十七日難產卒。家繁命田雜玄番正雕其像為觀世音,祀於伊萬里圓通寺,今稱「御產守觀音」安置於金堂須彌壇。
復主線:天正五年,貴明女槌市姬以龍造寺隆信三男善次郎家信為婿養子,佐嘉隨行者五十餘。家信幼名鶴仁王,曾為蓮池小田鎮光養子;鎮光因叛被誅,家信為其夫人收養。貴明後隱居芦原(橋下村),天正十一年八月二日卒,年五十二。
天正十四年四月,家信居住吉城。按天正十八年三月七日朱印,除塚崎莊外,尚領下松浦之有田鄕及小城郡東郷,給祿19,703石9斗(或稱29,600石,或因兼有藤津郡一部與筑前國早良郡檜原)。住吉城與龍造寺高房(隆信之孫)所轄之蓮池、須古、恒廣、八戶、芦原六城並存,其餘諸城皆毀。
慶長四年(1599)遷塚崎城,翌年改姓鍋島。家信元和八年四月二日卒於長野之館,享年六十。其後住吉城廢絕,惟登黒髮山者猶追舊時;舊城下武家屋敷僅存巷名,已成靜村。
後藤十左工門尉文祿元年隨鍋島直茂出征,轉戰著名。傳其時攜朝鮮陶工來,遍設窯址,人数未詳;觀武內、若木、東西川登諸多古窯址,來者應眾,後歲亦多有渡來。宗內古窯址,宮原忠道錄七十處,後大宅三增十餘處。
昭和五年五月,本山彦一任大宅經三為主查,發掘武內、若木等三十八處古窯址,公佈殘片,業界學界轟動。同年十二月十二日起三日,東洋陶磁器研究所主辦於東京日々社樓上展出「肥前古窯發掘品展覽會」,並有講演,對本領域貢獻甚巨。

