【原文】[Original text]
永尾の高麗窯
中通村なる犬走字永尾の高麗神稱せらるゝは今發掘さるゝものに飴色釉や灰色釉の目積皿のみにて、中には鐵描にて繪唐津風を文飾せるものもあり、頗る元始的の下手物を焼いてゐる。而して此永尾の韓人は、幾許もなく去っ神六山を越え、大村領の陶山永尾山を開きしの説は有力なる推定である。
若木村方面は窯の谷左、窯の谷右及び見上の尾、戸別當、火口の谷、商人山等の古窯跡あるが、此方面に於ける大物製品の作風が武内と共通するところ多きは、山綾きの隣接地とて同系の韓人が分せしものであらう。
黒牟田の現状
扨宗傳の本據地が黒牟田、内田何れなるかを考究するに、雨山共昔日の盛業は今や見る影もなく衰退し、現在黒牟田の戸數二十戸許り、其内陶器を造る者四戸、焙烙を焼く者八戸である。尤も四五十年以前には小規模ながら五十戸程の陶家ありしことを記憶されてゐる。又此處には韓人の直系者ありて、韓國へ移民募集のありし際、さらば頑國へ帰る可しとて、一家を引拂うて移住せし川浪幸藏などがあつた。
而して内田に於いては現在戸數僅かに六戸、しかも農家のみにて二百餘年來窯焼きしなどの口碑もない。尤其以前製陶盛なりし頃は、人家稠密して職工のみにても千餘人居住なし、黒牟田よりも繁昌なりしての口碑は黒牟田人でさへ認めてゐる。
内田のハイセン寺
又此處の奥山寅雄方の前面なる山間にはハイセン寺といへる精舎ありて、それがいつ頃の開基なるや、又何年頃回祿に歸せしやは知るによしなきも、先年或耕人が銅製の不動明王を拾ひ來つて自宅の佛壇に安置せしより、始めて其廢寺の跡を知り得していふ位である。
共有木碗
なほ内田の村落にて、韓人の遺風とせるものがある。それは平常の食器には勿論陶器を用ひしも、特に客用として購ひし二十二人前の黒塗食器がある。種類は食椀 汁椀及び皿二た品通りが一人分の揃と成っており、そして神祭と各家の葬儀の時にのみ用ふるものにて、塗が剥ぐれば何年目かに又塗直して使用さる。それが今にも葬家移りに保存されてゐるといふ。此外には何等微すべきものがない。
韓人墓の種類
次には韓人の古墳なるものは、何れも無銘の天然石や饅頭積の小石墓が多く、中に有力者の石碑には薄身の平面石に、表面に細字の長文を刻まれてあるも、彫淺くして今讀得らるゝもの甚稀である。中には歸化人の面目として全く日本式の四角塔を用ひ、其碑面にも各宗旨の法號を銘刻して全く我邦人のと異ならぬのもあるが發掘すれば概して寝棺の方多しといはれてゐる。
而して内田大谷前面の小山には二百基近くの饅頭墓があり。又此處の萓の谷の隣地にも二三基の韓人墓ありて、其内龍宗の墓なるものには元祿四歳未三月二十八日(1691年)と刻してある。さして古からねご宗の一字を銘せしところ或は宗傅の縁者らしくもある。
黒牟田の高麗墓
次に黒牟田の高麗墓にも韓人らしき墓五六基ありて、其中に元祿六年癸酉七月十六日元宗正といふのがある。此方は戒名の宗の字を上に用ひられてゐる故に、前記の龍宗よりは宗傅と近親らしき感がある。又内田の岸の上なる古賀某宅脇の多寶塔式の崩れ碑あるは宗僧の碑ならずやとの説あるも、深海一家が悉く引拂ひし後に頑先の碑のみ残し置くべき道理がなく、或は轉住の際又は其後年に於いて有田に移せして見るのが妥當であらう。
宗傳の本據
斯くて宗傳の未亡人が、九百餘人引連れて有田の稗古場へ移轉せし跡は、全く火の消えしが如き観を呈してふ事柄や、當時陶業の繁榮なりしといふも、二百餘年前斯業全く絶えしの口碑があり、又寺院の存在せし事や、韓人墓の多數なること等を検討して、宗傳が本據は必ず内田なる可く推考せらる。
就中寺院のありしことは、豫て佛道の歸依者なる宗傳が、此處に一宇を建立せしものがハイセン寺にて、是は必定武雄の廣福寺の分派なる臨濟であらねばならぬとも推せられる。而して其後私見の確められしは、有田稗古場の報恩寺境内にある宗傳夫人萬了妙泰道婆の碑文である。
百婆仙の墓碑文 萬了妙泰道婆之
曾妣不知姓名高麗深海人文祿初本朝攻高麗歸河後藤家信頗命曾大考妣廣福別宗從來仍在門前蓋有年矣信公(家信)命々已能之幸得蒙恩賜内田輝開陶器地自作茗盌香爐乃捧信公並別宗和尚到今寺僧謂之新太郎燒元和四年十月二十九日歿法號天室宗傅會妣訓子得母道而後捨内田來稗場黑髪山秀白土玉堆以爲天賜陶地由是家居高麗人等悉賴忝以明暦二年三月十日卒壽九十六呵淑容嶷狀揚且顏耳垂肩有充瑄迹茲孫德常稱百婆仙惟會公婆實是皿山始祖也祖父平左工門法名宗海以業大振家生二男七女伯父宗光生男投廣福薙落先考湛丘三男許仙與季皈佛中子力家事外曾孫三人爲僧不是先祖善因所致乎仙攣緇素來裔立石浮屠一基之廼記口實伏願障雲忽盡心月圓明遠乘蔭孫葉繁榮
れてゐる。
寶永二已酉三月十日茲五十年
祐徳嗣法比丘絕玄實仙 敬白
右の如く碑文中「而後捨內田來稗場」の記事を發見して、宗傳本據の内田説が確證されたのである。此墓碑は曾孫實仙が百婆仙の卒後五十年目の忌に建立せしものなるが、此碑文中にも亦百婆仙が有田皿山(特に内田とは記載せず)の始祖地と記して、自家の祖先を粉飾せる通あるは是非もない。
残留者の製陶
尚前記内田なる龍宗の法號ある墓碑が元祿四年に建立せられあるは、此地の陶工が寛永年間總て有田へ移住せし時に、なほ此處に殘留せし者か、或は其後隣り村の韓人が此地へ轉居して製陶せし者と見る可きであらう。
概して黒牟田の古窯品は、天目其他の單色施釉物が多く、内田の古窯品は刷毛目の如き技巧物に勝れてゐる。
内田大谷の刷毛目
とりわけ内田大谷の刷毛目には、一個の大皿に八九種の異なる刷毛目を文しそれが白釉の外縁釉、黄釉、紫釉、紅褐色の諸彩にて、地釉彩釉とのシンメトリーを善く發揮してゐるのである。
中にも褐色胎土に白釉を化粧し、未た乾かざるうちに鎧威しに横目を掻き、底には五方菊紋掻目を現はせし二尺の大鉢がある。又白化粧の上に淡黄にて波刷毛目を施し、共上に青藥を流せし大水鉢があり。飴釉尺口の縁鉢の縁に振ぢ刷毛目を文し、上を横櫛目を引き見込みには刷毛目の上を五方菊紋掻目を現はしてゐる。或は飴釉尺三寸の鉢に縁部は二段の花三島手をし、見込みには小さき數羽の鶴を象籍し、それに嘴とを脚を鐵描したのがある。
又大水鉢の外部を黄釉にて化粧掛せし上に、波掻の櫛目が施され下部には鎧威し目が文飾されてゐるのがあり。或は暗緑色釉の同物に白にて卷水刷毛目を施せしものや、栗色釉の鉢に花三島を施せがあり。又綠色釉の手附壺に手の部分丈飴釉を施せしもの。或は飴釉八寸の高臺鉢に蒲柳水禽を鐵描せしものがある。其他暗紫色釉の大鉢を數段に筋引し、白釉や卵色釉にて力強く立浪刷毛目を施せるものなど、何れも刷毛目の交錯美が巧妙に顕はされてゐる。
内田の古窯品
又内田物には鐵地薄釉の鉢に、白と栗色の濤亂刷毛目を施し、見込みには渦刷毛目を文飾し且つ青藥を流してゐる。或は濃茶釉の鉢に白化粧をなし、それに波刷毛目を掻き底には同釉の獨樂筋を廻はし、縁部より金茶釉を流したのがある。又栗色釉の鉢に白化粧にて波櫛目を掻き、底部は籠目搔目を現はし其上を暗緑釉にて總掛せしものがある。
又青味栗釉に白化粧を施し、其上に粗拙なる鐵描をなし、口部のみ薄き褐色釉を施せし徳利があり。或は灰色釉に同じく鐵文ある深皿などがある。総じて以上の大鉢類は何れも小形高台にて悉く無釉である。又中には三寸許りの簡素な捻細工の猿に、顔の外は灰色釉を掛けたる其眼目の技が眞に秀抜なるものがある。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
中通村の犬走字永尾にある「永尾の高麗窯」から出土するのは、飴色釉や灰色釉の目積皿が中心で、なかには鉄描で絵唐津風の文様を施したものも見られる。きわめて素朴な実用雑器を焼いていた窯である。この永尾の韓人集団は、ほどなく神六山を越えて大村領の陶山永尾山を開いたという説が有力である。
若木村一帯には、窯の谷(左・右)、見上の尾、戸別當、火口の谷、商人山などに古窯跡があり、大物の作風が武内とよく似ているのは、隣接地であり同系の韓人が分かれて移り住んだためと考えられる。
宗傳の本拠が黒牟田か内田かを検討すると、両地とも往時の繁栄は失われ、現在の黒牟田は二十戸ほどで、そのうち陶器を作る家が四戸、焙烙を焼く家が八戸である。四、五十年前には小規模ながら五十戸ほどの陶家があったと記憶されている。ここには韓人の直系もおり、韓國への移民募集があった際、「それなら頑國へ帰る」と一家で移住した川浪幸藏の例もあった。
一方の内田は、いまはわずか六戸、しかも農家だけで、二百年以上にわたり窯を焼いたという伝承もない。とはいえ陶業が盛んだった頃には人家が密集し、職工だけでも千人余りが住み、黒牟田より繁昌していたという話を、黒牟田側も認めている。
内田の奥山寅雄宅の前の山間には「ハイセン寺」と呼ぶ寺跡がある。開基や焼失の年代は不明だが、近年ある耕作者が銅製の不動明王像を拾って自宅仏壇に安置したことから、そこが廃寺跡だと知られるようになった。
また内田には、韓人の遺風とされるものがある。平素は陶器を使うが、神祭や各家の葬儀の際に限って用いる来客用の黒塗食器一式(二十二人前)を村で備え、食椀・汁椀・皿二種が一人分の揃いになっている。塗りが剥げれば年数を見て塗り直し、今も葬家の持ち回りで保存されている。他に目立った遺物は少ない。
韓人の墓は、銘のない自然石や饅頭状の小石積墓が多い。上層の石碑は薄い平石に細字で長文を刻むが、浅彫りのため判読できるものは稀である。帰化後は日本式の四角塔に各宗派の法号を刻むものもあり、葬送の実態を掘ると仰臥の柩が多いという。内田大谷の前面の小丘には二百基近い饅頭墓があり、萱の谷の隣地にも二、三基の韓人墓がある。そのうち「龍宗」の墓には元祿四年未三月二十八日(1691)と刻まれ、「宗」の字を名に持つ点から宗傅の縁者ともみなされる。
黒牟田の高麗墓にも韓人らしい墓が五、六基あり、うち「元祿六年癸酉七月十六日 元宗正」と刻むものがある。こちらは戒名の上に「宗」の字を用いるため、前記の龍宗より宗傅に近い親族と思わせる。また内田の岸の上、古賀家脇の多宝塔風の崩れ碑は宗僧の碑ではないかともいうが、深海家が一族で去ったのちに祖碑だけ残すはずもなく、転住の折か後年に有田へ移したと見るのが妥当であろう。
宗傳の未亡人が九百余人を率いて有田の稗古場へ移ったのちは、当地はまさに火の消えたようになり、かつての繁栄が語られながらも二百余年前には完全に断絶したという口碑がある。寺院の存在や韓人墓の多さも踏まえれば、宗傳の本拠は内田にあったと推定される。宗傳はもとより仏道に帰依しており、ここに建立したのがハイセン寺で、武雄の廣福寺の流れをくむ臨済宗の分派であったと考えられる。のちにこの見解を裏づけたのが、有田・稗古場の報恩寺境内にある宗傳夫人「萬了妙泰道婆(百婆仙)」の碑文である。
その碑文は、曾祖母(姓名不詳)は高麗の深海の人で、文祿の初め本朝の高麗攻めに際し、後藤家信の命を受け廣福の別宗とともに来住、寺門前に年年居住した。家信から内田の陶地の下賜を受け、茶碗・香炉を自作して家信・別宗に献じ、寺僧はこれを「新太郎焼」と称した。宗傅(天室宗傅)は元和四年十月二十九日に歿し、その後、母として子を教え導いたのち内田を捨てて稗古場へ移り、黒髪山の秀でた白土を天与の陶地として一家を構え、多くの高麗人が頼った。百婆仙は明暦二年三月十日に九十六歳で没し、徳常ら子孫は彼女を百婆仙と称え、夫婦を皿山の始祖と仰いだ――といった趣旨で、家系や出家者のこと、宝永二年三月十日に曾孫・実仙が五十年忌に建碑したことまで記す。碑文中の「而後捨内田來稗場」の一節により、宗傳本拠=内田の説は確証された。ただし碑は自家の祖を飾る趣があり、皿山の始祖地を有田とだけ記し、内田を明記しない。
内田の龍宗の戒名を刻む墓が元祿四年(1691)に建てられているのは、寛永期に多くが有田へ移住したのちもなお残留者がいて製陶を続けたか、後年に近村の韓人が転住して窯を営んだためと考えられる。概して黒牟田の古窯品は天目など単色釉が多く、内田の古窯品は刷毛目にすぐれる。
とりわけ内田大谷の刷毛目は、一枚の大皿に八~九種の異なる刷毛目を配し、白釉・外縁釉・黄釉・紫釉・紅褐釉などの彩と地釉の取り合わせが見事である。たとえば、褐色胎に白化粧を施し、生乾きのうちに鎧目状の横目を掻き、底に五方菊の掻き目を表した二尺大鉢。白化粧の上に淡黄で波刷毛目を置き、さらに青藥を流した大水鉢。飴釉の尺口鉢で、縁に振り刷毛目、見込みは横櫛目の下に刷毛目と五方菊の掻き目を重ねたもの。飴釉尺三寸鉢で、縁に二段の花三島手、見込みに数羽の鶴を象り、嘴と脚を鉄描したもの。黄釉化粧の大水鉢で外面に波掻きの櫛目と下部に鎧目。暗緑釉に白で巻水刷毛目、栗色釉に花三島、緑釉の手付壺で手の部分だけ飴釉、飴釉八寸の高台鉢に蒲柳水禽を鉄描――ほか、暗紫釉の大鉢に段状の筋引きをして白釉・卵色釉で力強い立浪刷毛目を施すなど、刷毛目の交錯美が巧みに表される。
内田物には、鉄地に薄釉の鉢へ白と栗色の濤乱刷毛目、見込みに渦刷毛目を置き、青藥を流したもの。濃茶釉の鉢に白化粧で波刷毛目、底に同釉の独楽筋、縁から金茶釉を流したもの。栗色釉の鉢に白化粧で波櫛目、底を籠目掻きにして上から暗緑釉を総掛けしたもの。青味栗釉に白化粧のうえ粗い鉄描、口縁だけ薄褐釉の徳利。灰色釉に鉄文の深皿などがある。大鉢類はいずれも小さな無釉の高台をもち、三寸ほどの素朴な捻り細工の猿像で、顔以外に灰色釉を掛けた作など、眼目の巧みさが際立つ。
【英語訳】[English translation]
At Inubashi–Nagao in Nakadōri-mura, the “Nagao Komae kiln” chiefly yields mesh-pattern plates with amber or gray glazes; some are decorated in iron-paint with e-Karatsu-style motifs. The wares are very primitive utilitarian pieces. A persuasive view holds that the Korean potters at Nagao soon crossed Mt. Jinroku and opened Nagao-yama at Tōzan in the Ōmura domain.
Across the Wakaki-mura area lie ancient kiln sites—Kama-no-tani (left/right), Miage-no-o, Tobetto, Kaguchi-no-tani, Shōninyama, etc. The large pieces made there share many traits with Takeuchi ware, plausibly because adjacent lands were settled by related Korean groups.
As to whether Sōden’s base was Kuromuta or Uchida, both places have long since declined. Kuromuta today has roughly twenty households, with four making pottery and eight firing braziers; forty to fifty years ago there were about fifty pottery households, albeit small. Direct descendants of Koreans lived there; when migration to Korea was solicited, one Kawanami Kōzō even uprooted his family to “return to the homeland.”
Uchida now has only six households, all farmers, and no oral memory of firing kilns for over two centuries. Yet when pottery flourished, dwellings were dense and over a thousand workers lived there—by some accounts more prosperous than Kuromuta, a point even Kuromuta people acknowledge.
Near the front of Okuyama Torao’s home in Uchida stands the ruin of a small temple called “Haisen-ji.” Its founding and destruction dates are unknown; only when a farmer found a bronze Fudō-Myōō image and enshrined it at home did people recognize it as a temple site.
A Korean custom survives in Uchida: although everyday tableware was ceramic, the village maintained a black-lacquered service for twenty-two guests—rice bowls, soup bowls, and two plates per person—used only for shrine festivals and funerals. When the lacquer wore thin it was renewed, and the set is still handed on from bereaved family to family. Little else of note remains.
Korean graves are mostly uninscribed natural stones or small “bun-shaped” cairns. Elites sometimes used thin flat stelae with long fine-script inscriptions, but the shallow carving makes them rarely legible today. Some naturalized families adopted Japanese square paged stelae with Buddhist posthumous names; excavations report many supine coffins. On the knoll before Uchida Ōtani are nearly two hundred bun graves; two or three more stand by Kayanotani, including one for Ryūsō bearing the date Genroku 4 (1691). The “Sō” character in the name suggests kinship with Sōfu.
Kuromuta’s Komae cemetery has five or six Korean graves; one reads “Genroku 6, 7/16: Gensōsei.” Since “Sō” appears in the posthumous name, it seems closer to Sōden than the Ryūsō stone. A collapsed multi-treasure-pagoda stele by the Koga residence at Kishi-no-ue, Uchida, is said to be a monk’s monument; but as the Shinkai family moved away entirely, they would hardly leave only an ancestral stone behind—more likely it was transferred to Arita when they resettled.
After Sōden’s widow led more than nine hundred people to Hiekoba in Arita, the former site looked as if the fire had gone out. Despite tales of past prosperity, oral tradition says the craft there died out completely more than two centuries ago. The presence of a temple and many Korean graves likewise points to Uchida as Sōden’s base. A devout Buddhist, Sōden likely founded Haisen-ji here, a Rinzai branch of Kōfuku-ji of Takeo. This view is corroborated by the epitaph in Hōon-ji (Hiekoba, Arita) for Sōden’s wife, “Manryō Myōtai-dōba,” also called “Hyakubasen.”
The inscription relates, in essence: the great-grandmother (name unknown) was a Korean from Shinkai; at the start of Bunroku, when Japan invaded Korea, she came by order of Gotō Ienobu together with Betsusō of Kōfuku-ji and lived for years at the temple gate. Ienobu granted pottery land at Uchida; tea bowls and incense burners were made and dedicated to Ienobu and Betsusō, and monks called the ware “Shintarō-yaki.” Sōden (posthumous name Tenshitsu Sōfu) died on 10/29, Genna 4; after instructing her children, she “left Uchida for Hiekoba,” regarding the fine white clay of Mt. Kurokami as heaven-bestowed, and many Koreans relied on the household. Hyakubasen died on 3/10, Meireki 2, aged 96; descendants such as Tokutsune revered her as “Hyakubasen,” and the couple were hailed as founders of Sarayama. The text lists kin and monks in the line, and records that the great-grandson Jissen erected the stone on 3/10, Hōei 2 (the fiftieth death anniversary). The phrase “and then left Uchida for Hiekoba” secures Uchida as Sōden’s base, though the eulogy naturally embellishes the lineage by naming Arita/Sarayama as the founding ground without explicitly citing Uchida.
The Ryūsō stone dated 1691 implies that even after most potters moved to Arita in Kan’ei times, some remained or later arrivals from neighboring villages worked kilns there. Generally, Kuromuta’s ancient wares favor monochrome glazes such as tenmoku, while Uchida excels in hakeme (brush-slip) decoration.
Uchida-Ōtani hakeme pieces often carry eight or nine different brush patterns on a single large dish, harmonizing body and overglazes—white, rim, yellow, purple, reddish-brown—into striking symmetries. Examples include: a two-shaku bowl with brown body and white slip, armor-like cross-scrapes on the sides, and a five-petal chrysanthemum scrape in the well; a large basin with pale-yellow wave-hakeme over white slip and a flow of ao-yaku; a one-shaku amber-glazed rim bowl with fluttering hakeme on the lip, horizontal combing above, and hakeme plus five-petal chrysanthemum in the well; a 1-shaku-3-sun amber bowl with two bands of hana-Mishima on the rim and small cranes incised in the well, their beaks and legs drawn in iron. Other pieces show yellow-slipped exteriors with wave-combing and armor-scrapes below; dark-green glaze with white whirl-water hakeme; chestnut-glazed bowls with hana-Mishima; a green-glazed handled jar with amber only on the handles; an amber eight-sun high-foot bowl with willows and waterfowl in iron; and large dark-purple bowls with banded lines and vigorous standing-wave hakeme in white or straw-yellow—altogether displaying a deft interplay of brush effects.
Further Uchida wares include: bowls with iron ground and thin glaze bearing white-and-chestnut turbulent hakeme, whirl-hakeme in the well, and a run of ao-yaku; bowls of dark-tea glaze with white-slip wave hakeme, a koma (spinning-top) band in the well, and golden-tea glaze trailed from the rim; chestnut-glazed bowls with white-slip wave-combing, basket-weave scrapes in the well over which a dark-green glaze is applied overall. There are tokkuri with bluish-chestnut glaze and white slip, rough iron painting over it, and a thin brown glaze only at the mouth; deep plates of gray glaze with iron motifs. Large bowls tend to have small, unglazed feet. A small three-sun twisted clay monkey figure with gray glaze applied except on the face shows especially fine, lively expression.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
中通村犬走字永尾的“永尾高丽窑”出土品以施飴色釉、灰色釉的目积盘为主,也有以铁绘装饰、近似绘唐津风的器物,属朴素的日用杂器。相传该处韩人不久越过神六山,开辟了大村领陶山的永尾山,此说较为可信。
若木村一带在“窑之谷”(左、右)、见上之尾、户别当、火口之谷、商人山等处皆有古窑址,其大型器风与武内相近,推想为相邻地带,同系韩人分迁所致。
宗传的根据地究竟是黑牟田还是内田?两处皆已衰落。黑牟田今约二十户,其中制陶四户、烧焙烙八户;四五十年前尚记有五十户左右的小规模陶家。其地有韩人直系,招募赴韩移民时,川浪幸藏一家还“归颁国”而去。
内田今仅六户,且尽为农家,二百余年来无烧窑传承。然当年陶业兴盛时,居民稠密,仅工匠便逾千人,据说比黑牟田更繁华,连黑牟田人亦认可。
内田奥山寅雄宅前山间有“ハイセン寺”遗址,开基及焚毁年代不详。近年一农人拾得铜制不动明王安置家中,方知为废寺旧址。
内田保留一项韩人遗风:平日用陶器,但村内备有二十二人份黑漆食具,仅于神祭与丧礼接待宾客时使用,漆剥则重涂,今仍随丧家轮存。其余遗物甚少。
韩人墓多为无铭自然石或馒头形小石冢。上层者用薄平石刻细字长文,因浅刻多难读。亦有归化后用日本式方塔并刻各宗法号者;发掘见多仰卧棺。内田大谷前丘有近二百基馒头墓,萱之谷邻地亦有二三基,其中“龙宗”墓刻元禄四年(1691),名中带“宗”字,或为宗傅之属。
黑牟田的高丽墓亦有五六基,其中一碑刻“元禄六年癸酉七月十六日 元宗正”,因戒名上用“宗”字,似较龙宗更近宗傅。内田岸之上古贺家侧有多宝塔式残碑,或为僧碑;然深海氏一族既尽迁去,未必留祖碑,较可能迁居时或其后移于有田。
宗传之遗孀率九百余人迁往有田稗古场后,旧址如火尽。虽传昔日繁荣,然二百余年前已全绝之口碑亦存。寺院之存与韩人墓之多,均指向宗传本据在内田。宗传笃信佛法,于此建“ハイセン寺”,应为武雄广福寺一系之临济宗支派。其后得到有田稗古场报恩寺境内“宗传夫人 万了妙泰道婆(百婆仙)”碑文印证。
碑文大意:曾祖母(姓名不详)为高丽深海人,文禄初日本侵朝,奉后藤家信命与广福别宗同来,久居寺门前。蒙家信赐内田陶地,自作茗碗香炉献于家信与别宗,寺僧称“新太郎烧”。宗傅(法号天室宗傅)元和四年十月二十九日卒。其后教子而“舍内田来稗场”,以黑髪山佳白土为天赐陶地,家居于此,多有高丽人来依。百婆仙明历二年三月十日卒,享年九十六;德常等后裔尊称“百婆仙”,夫妇为皿山始祖。并载族属、出家者及宝永二年三月十日曾孙实仙五十年忌立碑事。碑中“而後捨内田來稗場”一句,坐实“本据内田”之说;但碑为自家粉饰,只称皿山为始祖地而未明记内田。
元禄四年(1691)的“龙宗”碑,或示寛永期迁往有田后仍有遗留者在此制陶,或后有邻村韩人迁入。概言之,黑牟田古器多天目等单色釉,内田则以刷毛目见长。
内田大谷刷毛目,常于一大盘施八九种不同刷法,白釉、外缘釉、黄釉、紫釉、红褐釉与地釉对比谐和。例:褐胎白化妆,未干时作“铠目”横刮,底出五方菊掻纹之二尺大钵;白化妆上以淡黄作波刷毛目,并淌青药之大水钵;飴釉尺口钵,缘作振刷毛目,上引横梳纹,见込处刷毛上覆五方菊掻纹;飴釉尺三寸钵,缘部二段花三岛手,见込小群鹤,嘴足以铁描。又有外部黄釉化妆并施波掻梳目与下部铠目者,或暗绿釉配白色卷水刷毛目,或栗色釉施花三岛;绿釉手付壶仅手部施飴釉;飴釉八寸高台钵以铁描蒲柳水禽;亦有暗紫釉大钵作段状筋引,并以白釉、卵色釉施强劲立浪刷毛目,显示刷法交错之美。
内田器亦见:铁地薄釉钵以白与栗色作涛乱刷毛目,见込施涡刷毛并淌青药;浓茶釉钵作白化妆波刷毛,底绕同釉独乐筋,自缘淌金茶釉;栗色釉钵白化妆作波梳目,底为篮目掻纹,上罩暗绿釉。另有青味栗釉白化妆之德利,口缘仅施薄褐釉并以粗铁描,及灰色釉配铁文之深盘。大钵多小形无釉高台。又有三寸许捻作小猴,除面部外施灰釉,神情尤为出众。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
中通村犬走字永尾的「永尾高麗窯」出土品以施飴色釉、灰色釉之目積盤為主,亦見以鐵繪裝飾、近似繪唐津風之器,屬樸素日用雜器。相傳其地韓人不久越神六山,開闢大村領陶山之永尾山,說法頗為可信。
若木村一帶於「窯之谷」(左、右)、見上之尾、戶別當、火口之谷、商人山等處皆有古窯址,其大型器風近似武內,推為鄰接地之同系韓人分遷所致。
宗傳之根據究係黑牟田抑或內田?兩地俱已式微。黑牟田今約二十戶,製陶四戶、燒焙烙八戶;四五十年前尚記有五十戶左右之小規模陶家。其地有韓人直系,招募赴韓移民時,川浪幸藏一家尚「歸頑國」而去。
內田今僅六戶,且皆農家,二百餘年無燒窯傳承。然昔時陶業興盛,住戶稠密,僅工匠逾千人,據稱較黑牟田更繁盛,連黑牟田人亦承認。
內田奧山寅雄宅前山間有「ハイセン寺」遺址,開基與焚燬年代未詳。近年有農者拾得銅製不動明王奉於家中,始知其為廢寺舊址。
內田尚存韓人遺風:平日用陶器,唯於神祭與葬禮接待賓客時,村內備二十二人份黑漆食具,塗剝則重漆,今仍隨喪家轉存。餘物甚少。
韓人墓多無銘自然石或饅頭形小石冢。上層者用薄平石細字長文,然淺刻多難讀。亦有歸化後用日本式方塔並刻各宗法號者;發掘見多仰臥棺。內田大谷前丘有近二百基饅頭墓,萱之谷鄰地亦有二三基,其中「龍宗」墓刻元祿四年(1691),名帶「宗」字,或為宗傅之屬。
黑牟田之高麗墓亦有五六基,其中一碑刻「元祿六年癸酉七月十六日 元宗正」,以戒名上用「宗」字,似較龍宗更近宗傅。內田岸之上古賀家旁有多寶塔式殘碑,或為僧碑;然深海氏既盡遷,未必留祖碑,較可能遷居時或其後移於有田。
宗傳之遺孀率九百餘人遷往有田稗古場後,舊址如火滅。雖傳昔日繁榮,然二百餘年前已全絕之口碑亦存。寺院之存與韓人墓之多,皆指宗傳本據在內田。宗傳篤信佛法,於此建「ハイセン寺」,應為武雄廣福寺一系之臨濟支派。後為有田稗古場報恩寺境內「宗傳夫人 萬了妙泰道婆(百婆仙)」碑文所印證。
碑文大意:曾祖母(姓名不詳)為高麗深海人,文祿初日本侵朝,奉後藤家信命與廣福別宗同來,久居寺門前。蒙家信賜內田陶地,自作茗碗香爐獻於家信與別宗,寺僧稱「新太郎燒」。宗傅(法號天室宗傅)元和四年十月二十九日卒。其後訓子而「捨內田來稗場」,以黑髮山佳白土為天賜陶地,家居於此,多有高麗人來依。百婆仙明曆二年三月十日卒,享年九十六;德常等後裔尊稱「百婆仙」,夫婦為皿山始祖。並述家系與出家者,及寶永二年三月十日曾孫實仙五十年忌立碑。碑中「而後捨內田來稗場」一句,坐實「本據內田」之說;惟碑多自家粉飾,只稱皿山為始祖地,未明記內田。
元祿四年(1691)之「龍宗」碑,或示寛永期遷往有田後仍有留者續陶,或後有鄰村韓人遷入。概而言之,黑牟田古器多天目等單色釉,內田則以刷毛目見長。
內田大谷刷毛目,常於一大盤施八九種異刷,白釉、外緣釉、黃釉、紫釉、紅褐釉與地釉對映和諧。例:褐胎白化妝,未乾作「鎧目」橫刮,底見五方菊掻紋之二尺大鉢;白化妝上以淡黃作波刷毛,並淌青藥之大水鉢;飴釉尺口鉢,緣作振刷毛,上引橫梳紋,見込刷毛上覆五方菊掻紋;飴釉尺三寸鉢,緣二段花三島手,見込小群鶴,嘴足鐵描。又有外部黃釉化妝並施波掻梳目與下部鎧目者,或暗綠釉白色卷水刷毛,或栗色釉施花三島;綠釉手付壺僅手部施飴釉;飴釉八寸高台鉢以鐵描蒲柳水禽;亦有暗紫釉大鉢作段狀筋引,並以白釉、卵色釉施強勁立浪刷毛,展現刷法交錯之美。
內田器亦見:鐵地薄釉鉢以白與栗色作濤亂刷毛,見込施渦刷毛並淌青藥;濃茶釉鉢白化妝作波刷毛,底繞同釉獨樂筋,自緣淌金茶釉;栗色釉鉢白化妝作波梳目,底為籠目掻紋,上罩暗綠釉。另有青味栗釉白化妝之德利,口僅施薄褐釉並粗鐵描,及灰色釉配鐵文之深盤。大鉢多小形無釉高台。又有三寸許捻作小猴,除面部外施灰釉,神情尤為出色。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
在中通村犬走字永尾,“永尾高丽窑”以施飴色或灰色釉的网目盘为主,也见铁绘的绘唐津风装饰,属原始实用器。有人认为当地韩人不久跨越神六山,在大村领陶山开辟永尾山,此说较为可信。
若木村周边的“窑之谷”(左右)、见上之尾、户别当、火口之谷、商人山等处都有古窑址,其大型器的风格与武内相近,或因相邻区域由同系韩人分迁。
宗传的根据地是黑牟田还是内田?两地皆已没落。黑牟田今约二十户,其中制陶四户、烧焙烙八户;四五十年前约有五十户陶家。韩人后裔仍在此;招募赴韩移民时,川浪幸藏一家还“回祖国”而去。内田仅六户,皆为农家,二百余年来无烧窑传承;然昔日工匠逾千,曾比黑牟田更繁盛。
内田的“ハイセン寺”遗址位于奥山寅雄宅前山间,年代不详。村里还保留一套二十二人份的黑漆客用食具(只在神祭与葬礼使用),按序传承,其他遗物甚少。
韩人墓多为无铭自然石或馒头冢;上层者薄石刻细字,今难辨。亦见日本式方塔与法号。内田大谷前丘近二百冢,萱之谷旁亦有二三冢,其中“龙宗”墓刻元禄四年(1691),名中“宗”字或示与宗傅有关。黑牟田高丽墓另有五六冢,其中“元宗正”(元禄六年)更似宗傅近亲。内田岸之上古贺家旁多宝塔式残碑或为僧碑;深海氏既搬迁,多半随迁至有田。
宗传之寡妇率九百余人迁至有田稗古场后旧地冷清;虽传曾经繁荣,然二百余年前即绝。寺址与韩人墓之多,表明宗传本据在内田。宗传笃佛,或在此建“ハイセン寺”,为武雄广福寺的临济支派。此说为有田稗古场报恩寺“万了妙泰道婆(百婆仙)”碑文所证:文禄初奉后藤家信命与广福别宗来居寺门前,蒙赐内田陶地,制茶碗香炉奉家信与别宗,称“新太郎烧”;宗傅(法号天室宗傅)元和四年卒;其后“舍内田来稗古场”,以黑髪山白土为天赐陶地,众多高丽人依附;百婆仙明历二年卒,享年九十六;夫妇被尊为皿山始祖;宝永二年曾孙实仙五十年忌立碑。语句“而后捨内田來稗場”坐实“内田为本据”,但碑略带粉饰,仅称皿山为始祖地。
“龙宗”碑(1691)说明或有留居者续陶,或后有邻村韩人迁入。总体看,黑牟田古器多单色釉如天目,内田则擅长刷毛目。
内田大谷刷毛目:单盘上施八九种刷法,白、外缘、黄、紫、红褐釉与地釉协调。例:二尺大钵、白化妆配“铠目”横刮、底五方菊掻纹;淡黄波刷毛上淌青药之大水钵;飴釉尺口钵缘作振刷毛与横梳纹,见込覆五方菊掻纹;尺三寸飴釉钵缘二段花三岛手,见込小鹤铁描。并有黄釉化妆外壁配波掻梳目与铠目、暗绿釉白色卷水刷毛、栗色釉花三岛、绿釉手付壶手部施飴釉、飴釉八寸高台钵铁描柳与水禽、暗紫釉大钵加筋引并以白/卵色釉作立浪刷毛。另有铁地薄釉涛乱刷毛、渦刷毛配青药,浓茶釉白化妆波刷毛配独乐筋与金茶釉流、栗色釉白化妆波梳目配籠目掻与暗绿釉罩。大钵多小无釉高台;三寸捻作小猴除面外施灰釉,神采生动。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
在中通村犬走字永尾,「永尾高麗窯」主要出土施飴色或灰色釉之網目盤,亦見鐵繪之繪唐津風裝飾,屬原始實用器。相傳當地韓人不久越神六山,在大村領陶山開闢永尾山,此說較可信。
若木村周邊「窯之谷」(左右)、見上之尾、戶別當、火口之谷、商人山等處皆有古窯址,其大型器風格與武內相近,或因鄰接地由同系韓人分遷所致。
宗傳之根據地為黑牟田抑內田?兩地皆已沒落。黑牟田今約二十戶,其中製陶四戶、燒焙烙八戶;四五十年前約有五十戶陶家。韓人後裔尚在此;招募赴韓移民時,川浪幸藏一家尚「回祖國」而去。內田僅六戶,皆農家,二百餘年無燒窯傳承;然昔日工匠逾千,曾較黑牟田更繁盛。
內田之「ハイセン寺」遺址在奧山寅雄宅前山間,年代不詳。村中尚存二十二人份黑漆客用食具(僅於神祭與葬禮用),循序轉存,餘遺物寥寥。
韓人墓多為無銘自然石或饅頭冢;上層者薄石細刻,今多難辨。亦見日本式方塔與法號。內田大谷前丘近二百冢,萱之谷旁亦二三冢,其中「龍宗」墓刻元祿四年(1691),名中「宗」字或示與宗傅相關。黑牟田高麗墓另有五六冢,其中「元宗正」(元祿六年)更似宗傅近親。內田岸之上古賀家旁多寶塔式殘碑或為僧碑;深海氏既遷,理應隨遷至有田。
宗傳寡婦率九百餘人遷至有田稗古場後舊地冷清;雖傳曾繁榮,然二百餘年前即絕。寺址與韓人墓之多,顯示宗傳本據在內田。宗傳篤佛,或於此建「ハイセン寺」,為武雄廣福寺之臨濟支派。此說為有田稗古場報恩寺「萬了妙泰道婆(百婆仙)」碑文所證:文祿初奉後藤家信命與廣福別宗居寺門前,蒙賜內田陶地,製茶碗香爐奉家信與別宗,稱「新太郎燒」;宗傅(法號天室宗傅)元和四年卒;其後「捨內田來稗古場」,以黑髮山白土為天賜陶地,眾多高麗人依附;百婆仙明曆二年卒,享年九十六;夫婦被尊為皿山始祖;寶永二年曾孫實仙五十年忌立碑。語「而後捨內田來稗場」坐實「內田為本據」,然碑亦粉飾,只稱皿山為始祖地。
「龍宗」碑(1691)示或有留居者續陶,或後有鄰村韓人遷入。整體看,黑牟田古器多單色釉如天目,內田則擅刷毛目。
內田大谷刷毛目:一盤施八九種刷法,白、外緣、黃、紫、紅褐釉與地釉和諧映襯。例:二尺大鉢,白化妝配「鎧目」橫刮,底五方菊掻紋;淡黃波刷毛上淌青藥之大水鉢;飴釉尺口鉢之緣作振刷毛與橫梳紋,見込覆五方菊掻紋;尺三寸飴釉鉢,緣二段花三島手,見込小鶴鐵描。並有黃釉化妝外壁配波掻梳目與鎧目、暗綠釉白色卷水刷毛、栗色釉花三島、綠釉手付壺手部施飴釉、飴釉八寸高台鉢鐵描柳與水禽、暗紫釉大鉢加筋引並以白/卵色釉作立浪刷毛。另有鐵地薄釉濤亂刷毛、渦刷毛配青藥,濃茶釉白化妝波刷毛配獨樂筋與金茶釉流,栗色釉白化妝波梳目配籠目掻與暗綠釉罩。大鉢多小無釉高台;三寸捻作小猴除面外施灰釉,神采生動。

