武内の磁器~宗傳卒去す

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【原文】[Original text]

武内の磁器
 而して焼成されし武内の磁器には黄味を帶べる初期風のものあるも、全体に於いて完全に焼上げられてゐる。それに子供が描きし如き菊繪や蘭とも草ともつかぬ呉須猫がある。
蓋し白磁の創始時代には、只それに藍色の點々された丈にても珍重されたものらしい。而して又其半面には整然たる線描の中に、簡雅なる山水や其他本格的の模様物もある。
就中小峠の磁器には、栗色彩具にて描三島を飾した珍奇な破片がある。而して此武内の白磁殘缺が何れも昔器を成さずして歪みゐるといふよりも、寧ろ無断に疊まれし観を呈してゐる。此様子より推算すれば、此處の白磁が成器として幾許の品が完成せられしや甚疑問させざるを得ない。
 うち見しところ匣鉢の中には美しく焼上られてゐる然しそれは悉くくねりしものにて成器ではない。故に物原より探收せる殘缺の色相のみ賞する目的には足れりとするも、容器としては何等の資格もなきものといばねばならぬ。著者寡見にして未だ武内の完成せる容器に遭遇せざるを遺憾とする。

磁器の製作難易
 土器や陶器は其原料粘土に含有する鐵分存在の儘を使用して、低火度なる酸化焰にて焼成し得るも、磁器に至つては鐵分なき原料を選擇し、其純白なる釉面には涓微の色点さへ許されない。然も高火度の還元焰にて焼成さるゝところに一段の高級技を要す、故に此高火度に耐ゆ可き硬度の原料を使用せざれば、皆歪める焼物となるの外はない。

窯變と釉裏紅
 之に反して陶器類に於いては、焼成の結果歪める出来さへ却つて雅致ありと翫賞さるものがあり、又斑点や異色を生すれば窯變物とて大いに珍重に價せらる。彼の古製磁器に於いても坏土中に含有せる銅分の焼成反應が、稀に紅色を呈するものあれば釉裏紅と稱して珍重すれど、之は由來磁器には紅緋の發色が困難なりしよりの賞である。
若し之が見馴れし呉須の藍色にて、大いなる斑点現はしとせば、累が顔面とひとしく、お化け視されて誰しも厭忌するに相違ない。故に將來眞緋の發色が容易く出来る時代となれば、従来の偶然的釉裏紅の發色などは、技術の未熟を表現するものとして一顧の値もなきに至るであらう。

愛陶の奇現象
 陶器に於いては甚だ然らず、或釉面に現はし累の如きお化け面が均窯風の窯變とか、飼面顔の醜女さへ蕎麥手とて愛翫され、桐箱に納められて京洛に上ぼり、古今集の歌心さては源氏名などの優雅な銘を箱書されて、殿上人や富豪の手に撫でいつくしまれ、或るは御大名物と成り上がる。そして小家に在る同器にても、何某家の什器と成れば、驚くべき評價を持つものが少なくない。
 之に反して同じ窯出し仲間にても、満足素直に焼かれし茶碗は平凡なりとて選り残されて、山賊や農夫の手に荒々しく取扱はれ、柴茶や除醒録の容器となりて一生を終るのみ、若し怪我しても塗師屋の修復さへうけず空しく打棄てらる。斯くては我身が片輪物に生れざりし恨みを千載に託つ奇現象を呈してゐるといはざるを得ない。

磁器製作の難
 磁器に至つては兎の毛程の微窪さへ厭はるも、陶器に於いては指先ほどの凹を造り、それが靨手として喜ばる。若し之が磁器なりせば無論一と山幾許のローズに選出されて、二束三文の下々物として賣飛ばさる。そこに陶器磁器の翫賞境遇に大いなる相違があり、そし又陶器に比して磁器製作の困難なることが立證さるゝであらう。

陶器と日本間の装飾
 尤も日本間装飾の調和に至つては、花器や床置物などすべて陶器の方應用の妙諦があり、殊に花瓶に於いては磁器に數色を彩して絢爛たらざるまでも、單に青花の清楚にさへ目的の活花が見劣りする弊がある。故に此對象觀よりは澁味ある陶器の体色や、或は單色釉に稚拙なる文飾の如き、又はレプラ 肌の掘出し物さへコントラストが頗る良い。

變態嗜好
 一体に變態物を嗜好することは進化人の通有性と観る可きか、彼の出目金の蘭鑄が河豚の如き張出し腹に、然も三つ割れの重き裳裾を引摺つて泳ぐ無恰好さよりも、緋鯉の子のスマートな形体と、其燦然たる緋色など如何に美麗なるべきを、それさへ黒白の斑点あるグロテスクな種類が珍重され、それが數百圓に價さるゝに至つては、門外漢の吾々には常に審美の戸惑ひ勝ちならざるを得ぬ。此變態賞翫と雅味の自在を現はすには、磁器よりも陶器の方無論可能性あるは申すまでもない。
 蓋し食器に至つては飽まで清淨潔白であらねばならぬ。尤も陶器に於いても白き化粧掛を施してそれに藍繪を交飾せしものなきにあらざるも、性來の生地が黒奴にては白粉も文身も却つて拙くならざるを得ぬ。例へば天目面のカフェーの女給や柚手の症痕酌婦に侍んべられては、シャンパンの美酒も、白鶴の銘酒も美味を感せしめぬ。況んや其上に御碗や御皿の底が重ね目積や、蛇の目にて焼成されては、潔癖性の我邦人に馴染まれざりしも無理はない。

食器としての磁器
 茲に至つて食器として清白透明質なる磁器の時代を創造し有田焼の発祥は我製陶界に大いなる革命であつた。此時代の雰圍氣に順應して陶業の道に活きんには、是非とも白磁の製作に轉換すべき必要逼まり、此地の韓人又有田より其製法を習得し、茲に地元の原石を調合して苦心惨憺漸くにして此磁器を製し得たのであらう。

白磁禮讃時代
 當時有田磁器に風靡されし近郷多數の陶山は大いに之を羨望し、各邑主の如きもら磁器製作を樊勵し、斯業者をして自領のあらゆる山野を踏査せしめしが、天然の磁礦容易く有る筈がなく、漸く自他の産石を調節し、有田の製法にて完成せしものが、何れも薄鼠色の軟質磁器であつた。中には有田の郷人と結託し密に泉山の原料を搬出して偶々白磁をする者が生じて来た。此消息を知りし鍋島藩に於いては、彌々泉山磁礦の取締を厳命するに至つたのである。

白磁原料の取締
 又當時宗藩にては、自領の外それに縁故ある他領陶山の一部にのみ泉山原料の探を赦せしも、それには質分の等級と分量の制限があり、他領へは中位以下或は俗にナレと稱する下等石であつた。然るに其下等石より良質部のみ選探して、意外なる良器を製する者さへ生しかば、宗藩にては此ナレ石搬出さへ兎角の議論が生じたのである。
 後年尾濃の如く磁土、長石、石英等の調成製磁法が、未だ識られぬ時代に於いて、たさひ軟質ながらも之を試み得し武内韓人の苦心は推察するに餘りある。然も他山が漸く鼠色程度にのみ製作し得たりし中に、獨り純白なる呈色に焼上げたるは流石に此地韓人の優技を認む可きも、唯色白きのみにて体質強からずそして曲りくねった不具者にては、家庭上何等の手助けとも成り得ずに生涯床にせる美人を娶りしと髣髴たるものであらう。

宗傳卒去す
 宗傳深海新太郎は、此地に陶業を開始するや、まづ最初抹茶々盌と香爐とを精製し茶盌を領主家信に献じ、香爐を廣福寺の別宗和尚に贈りしことは前記の碑文にも掲げてある。尚共後優秀の作品を屢々雨氏へ贈呈せしことは察するに難くない。そして彼が數種の優技を發揮せし事は、前記の殘缺が如實にしてゐる。當時内田の製陶は一名新太郎焼として頗る盛名があつた、蓋し白磁の製作に至つては彼が歿後の出来事である。斯くて宗傳は元和四年十月二十九日(1618年 李参平が有田泉山の磁礦を發見せしより二年後にて)内田に於いて卒去した。
 未亡人は一子平左工門を助けて舊來の陶業を経営するうちに、時勢は磁器製造に轉換を促され彼の母子を始め研究に大なる努力を拂ひしに相違ない。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

武内で焼かれた磁器には、やや黄みを帯びた初期風のものもあるが、焼成そのものは概して良好である。ただし、子どもが描いたような菊文や、蘭とも草ともつかない拙い呉須の絵付けも見受けられる。白磁が作られ始めた当初は、青(呉須)の点が少し入っているだけでも珍重されたらしく、一方で、整った線描で簡潔な山水や本格的な文様を備えたものもある。
とりわけ小峠の磁器には、栗色の顔料で三島手の意匠を描いた珍しい破片がある。武内の白磁片は、器に仕上がらずに歪んだというより、無理に重ね置きしたためにつぶれたようにも見える。この様子から推すと、ここで白磁が成品としてどれほど完成したかは、かなり疑わしい。実見した限りでは、匣鉢の中で美しく焼けたものも、いずれも身がくねっており成品ではない。したがって物原で集めた破片は、色合いを鑑賞するには足りても、器物としての資格はないと言わざるを得ない。私見ながら、武内で完成品に出会えないのは残念である。

土器・陶器は鉄分を含む粘土をそのまま用い、低火度の酸化焔で焼けるが、磁器は鉄分のない原料を選び、純白の釉面に微細な点すら許されない。しかも高火度の還元焔で焼成するため高度な技術が要り、これに耐える硬質原料を使わなければ歪んだ焼物になってしまう。

陶器では、焼成の結果の歪みすら風雅として愛玩され、斑点や異色は「窯変物」として珍重される。古い磁器でも、胎土中の銅分が稀に赤く発色すれば「釉裏紅」と称して尊ばれるが、これは磁器で真紅の発色が難しかったからである。もし見慣れた呉須の藍で大きな斑が出れば、顔にアザがあるように嫌われるだろう。将来、真紅の発色が容易になれば、偶然の釉裏紅は未熟な技術の所産として顧みられなくなるに違いない。

陶器の世界では、いわば“お化け顔”の窯変や、愛嬌のある不恰好さまでも「均窯風」「蕎麦手」などと呼ばれて珍重され、銘が与えられて大名物となることもある。一方、素直にうまく焼けた茶碗は平凡として選に漏れ、荒く扱われて日用の器として終わる。出来の良し悪しと評価が逆転するという、奇妙な現象が起こるのである。

磁器では、兎の毛ほどの小さな凹みすら嫌われるのに対し、陶器では指先ほどの凹みを「えくぼ手」と喜ぶ。もしそれが磁器なら不良品として二束三文で売られてしまう。この違いは、陶器と磁器の鑑賞の境遇が大きく異なり、磁器づくりがいかに難しいかを物語っている。

日本間の装飾に関しては、花器や床の間の置物は陶器のほうが生かしやすい。花瓶においても、磁器に多色を施さず青花のみであっても、生け花が見劣りすることがある。渋みのある陶器の地色や単色釉に稚拙な文様、さらにはレプラ肌のような荒れた表情ですら、花との対照が実に良い。

人はしばしば変わり種を好む。優美な緋鯉の子の形や色よりも、黒白の斑が入った奇態な品種が珍重され高価になることがある。こうした変態趣味と雅味の振れ幅を表すには、磁器より陶器のほうが向いているのは言うまでもない。ただし食器に限っては、徹底した清潔感と白さが求められる。陶器でも白化粧に青絵を施すものはあるが、地が黒いと白粉や文身がかえって悪目立ちする。さらに椀や皿の底に重ね焼きの「目積」や「蛇の目」の痕が見えるのは、潔癖な日本人の感覚にはなじみにくかったのも無理はない。

この点で、食器としての清澄な白磁の登場、すなわち有田焼の発祥は我が国の製陶界に大革命であった。時代の気分に応じて生き残るため、白磁へ転換する必要が切迫し、この地の韓人も有田で製法を学び、地元の原石を調合して苦心の末ようやく磁器を作ったのだろう。

当時、有田磁器が風靡すると、近隣の多くの陶山はこれを羨望し、領主も競って磁器生産を奨励した。しかし天然の磁石(磁器原料)は容易に得られず、自他の産石を配合して有田式で作っても、多くは薄鼠色の軟質磁器にとどまった。なかには有田の人々と通じて泉山の原料を密かに搬出し、白磁を焼く者も現れた。これを知った鍋島藩は、泉山磁礦の管理をいよいよ厳しくした。

宗藩は、自領および縁故ある一部の他領の陶山に限って泉山原料の採取を許したが、等級と数量を厳格に制限し、他領へは中位以下、いわゆる「ナレ」と呼ぶ下等石のみを回した。ところが、その下等石から良い部分だけを選び出して優品を作る者も出たため、ついにはナレ石の搬出まで問題視された。のちに尾濃のように磁土・長石・石英の配合による製磁法がまだ知られていなかった時代に、たとえ軟質でも試み得た武内の韓人の苦心は察して余りある。しかも他所がやっと鼠色に焼けた中で、ただ一つ純白に焼き上げたのは、この地の韓人の技量を認めるべきだが、色白でも地が弱く、身が曲がった不具の器では、家庭で役立たぬ「床に伏す美人」を娶ったようなものだ。

宗傳(深海新太郎)は当地で陶業を始めると、まず抹茶茶碗と香炉を精作し、茶碗を領主・家信に、香炉を廣福寺の別宗和尚に献じたことは、前掲の碑文に記される。その後もしばしば優作を献じたと見てよい。内田のやきものは「新太郎焼」と呼ばれ名声を得たが、白磁の製作は彼の没後のことである。宗傳は元和四年十月二十九日(1618年、李参平が泉山を発見してから二年後)に内田で没した。未亡人は一子・平左工門を助けて旧来の陶業を営むうち、時勢は磁器へと転換を促し、母子をはじめ大いに研究努力したに違いない。


【英語訳】[English translation]

Porcelain from Takeuchi includes pieces with an early, slightly yellowish cast, yet the firing itself is generally sound. At the same time one finds childlike chrysanthemum sketches and awkward gosu (underglaze-blue) drawings—motifs that look neither like orchids nor grasses. In the earliest days of white porcelain, even a few blue specks on white seem to have been prized; conversely, there are also shards bearing neat line work with understated landscapes and fully orthodox patterns.
Notably, at Kogōe there are rare fragments decorated with Mishima patterns painted in a chestnut pigment. Many Takeuchi white-porcelain shards appear less “failed to form” than “crushed by careless stacking.” Judging from this, it is doubtful how many usable white-porcelain vessels were actually completed here. Among the saggers I have seen, some pieces fired beautifully, yet all were warped and thus not serviceable. Such finds suffice for appreciating color tones from the Monobara site, but they do not qualify as vessels. Regrettably, in my limited experience I have yet to encounter a finished Takeuchi piece.

Earthenware and stoneware can be made from iron-bearing clays and fired at low temperatures in oxidation. Porcelain, by contrast, demands iron-free raw materials and a pure white glaze surface that tolerates not even minute specks, then requires high-temperature firing in reduction—an advanced technique. Without hard, refractory materials, the ware will invariably warp.

With pottery, deformation or speckling from firing may be esteemed as tasteful “kiln change.” In old porcelains as well, the rare copper content in the body may fire red, the prized yūri-kō (underglaze copper red)—valued precisely because a true crimson is difficult in porcelain. Were such blotches to appear in familiar gosu blue, they would be shunned like blemishes on a face. Should a time come when a stable, vivid crimson is easy to produce, accidental underglaze reds will likely be dismissed as signs of immature technique.

Pottery often elevates what might seem grotesque: kiln effects dubbed “kin’yō style,” coarse “soba-te,” and other “ugly beauties” receive poetic box inscriptions and rise to the status of famed objects. Meanwhile, a straightforwardly well-fired bowl may be passed over as ordinary, handled roughly, and spend its life as a humble household vessel. Thus esteem and craftsmanship can be oddly inverted.

In porcelain, even a dimple as small as a rabbit’s hair is objectionable; in pottery, a fingertip depression may be welcomed as a charming “dimple.” The same flaw in porcelain would be culled as a reject and sold for a pittance. This gap in connoisseurship underscores how much harder porcelain is to make.

For a Japanese room, pottery harmonizes better with flower vessels and tokonoma ornaments. Even when limited to blue-and-white, porcelain vases can make arranged flowers look inferior. Subdued clay tones, single glazes with naïve decoration—even rough “leprous” textures—often provide superior contrast.

People also relish oddities: grotesque strains sometimes fetch more than elegant forms. Such a spectrum—from eccentricity to refined taste—is naturally more accessible in pottery than in porcelain. Yet for tableware, cleanliness and whiteness are paramount. Although pottery can mimic this with white slip and blue painting, a dark ground makes the makeup look crude, and stacking scars such as mezumi or janome on the foot ring offend the Japanese preference for hygienic clarity.

Thus the advent of clear, white table porcelain—Arita ware—was revolutionary. To survive in that climate, production had to pivot to white porcelain; the local Korean potters learned in Arita, blended local stones, and, with great effort, finally managed to produce porcelain.

When Arita porcelain swept the region, many nearby kiln mountains envied it; lords urged production and sent potters to survey their domains. True porcelain stone was scarce, however, and blends made “in the Arita way” often yielded only soft, grayish porcelain. Some colluded with Arita locals to smuggle Izumiyama stone and occasionally achieved white wares. Learning of this, the Nabeshima domain tightened control over Izumiyama.

The domain granted limited access to Izumiyama only to select affiliated kilns, with strict quotas and grades; other provinces received mid- to low-grade stone, the so-called nare. When some makers cherry-picked usable fractions from that low-grade stone to produce fine wares, even shipments of nare became contentious. Long before compounding recipes of kaolinic clay, feldspar, and quartz were understood—as later in Onō—Takeuchi’s Korean potters persevered with soft-paste attempts. That they alone achieved a truly white tone when others managed only gray attests to their skill; yet a fair-colored, weak, and warped body is like marrying a bedridden beauty—graceful but of little use at home.

Sōden (Shinkai Shintarō) began by carefully making matcha bowls and incense burners, presenting a bowl to the lord Ienobu and a censer to Kōfuku-ji’s monk Betsusō, as the epitaph records. He likely offered further fine works thereafter. Uchida ware, known as “Shintarō-yaki,” became renowned, but white-porcelain production came only after his death. Sōden died at Uchida on October 29, Genna 4 (1618), two years after Yi Sam-pyeong discovered Izumiyama. His widow, aided by their son Heizaemon, maintained the pottery; as the times pressed toward porcelain, they—mother and son—surely devoted themselves to study and improvement.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

武内所烧的瓷器中,有些带微黄的早期风格,但总体烧成良好。与此同时,也可见到像孩童笔触的菊纹,或既不像兰也不像草的拙劣呉须绘。白瓷初创之际,仅在白地上点染少许青色便被珍视;一方又有线描整洁、山水简雅、图样正宗的作品。
小峠出土尤为罕见者,是以栗色颜料绘制三岛手意匠的碎片。许多武内白瓷残片,与其说是成形失败,不如说是重叠放置而被压扁。由此推之,此地真正完成为成品的白瓷恐怕不多。匣钵中虽有烧成漂亮者,然皆身形扭曲,非成器。物原所收集之片,仅足供色调欣赏,难称器物。就我寡闻,至今未见武内的完器,殊为憾事。

土器、陶器可用含铁黏土,在低温氧化焰烧成;瓷器必须选用无铁原料,釉面需洁白如新,不容微点,并以高温还原焰烧成,技术要求甚高。若不用足够硬度、耐火的原料,终将变形。

在陶器中,烧成后的变形或斑点反被视为风致,称为“窑变”。旧瓷中,胎土所含铜偶发成红,即“釉里红”,之所以贵重,正因瓷上真红难得。若换作常见的呉须蓝出现大斑,必如面有污点而遭嫌弃。将来若真红易得,偶然的釉里红也会被视为技术未熟的产物。

陶器世界常把“丑美”抬举:所谓“均窑风”“荞麦手”等,题名装盒,甚至成大名物;而端正烧成之碗反以平庸被冷落,粗用终生。评价与工夫常常倒置。

瓷器连如兔毫之微凹都嫌,而陶器却把指腹大小的凹当“酒窝手”来喜。若在瓷上,即列为不良,贱价出卖。此差异,正说明瓷器制作之难。

就日本室内陈设而言,花器与床间摆件,陶器更能相称。即便青花,亦或令花材失色;反倒是沉着的陶色、单色釉配稚拙纹样,乃至“疤痕肌理”一类,更与花形成良好对照。

人又常好异:怪诞品种往往胜过优雅之形。此“异与雅”的幅度,陶器较瓷器更易表现。然而餐具必须洁净清白。陶器虽可白化妆配青绘,但胎色发黑则妆反失。加之碗盘足底见“目积”“蛇之目”的叠烧痕,日本人的洁癖审美难以接受。

因此,作为食器的清澄白瓷——有田烧的出现——可谓一场革命。为存续,必须转向白瓷;本地韩人赴有田学法,以土石调合,苦心终得其成。

当时有田瓷风靡,近邻诸窑竞相仿效,领主亦督励。但瓷石稀少,即便按有田法配石,多成软、淡灰之瓷。有人私运泉山原料,偶得白瓷。锺此,鍋島藩遂严控泉山。

宗藩仅准本藩及少数关系窑取泉山石,并以等级、数量制限;他领仅得中下等,即所谓“ナレ石”。而有人从下等石中精选可用部分,反而制优品,于是连“ナレ石”的外运也受争议。配方学(磁土、长石、石英)未明之时,武内韩人虽作软质尝试,已属难能。且在他处仅能成灰色之际,独能成纯白,技艺可称高;但若质弱而身曲,犹如“迎娶卧床美人”,终难派用场。

宗傳(深海新太郎)开窑后,先精作抹茶碗与香炉,献碗于家信,献炉于廣福寺别宗和尚,碑文所载即是。其后屡奉佳作亦可想见。“新太郎烧”因此得名。但白瓷之作在其身后。宗傳于元和四年十月二十九日(1618)卒于内田。其遗孀与子平左工门继续家业,时势敦促改作瓷器,母子当尽力研求。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]

武內所燒之瓷器,亦有微黃早期風者,然整體燒成頗佳;但亦見似童筆之菊紋,與不似蘭亦不似草之拙呉須繪。白瓷草創之時,白地上點染少許青色已被珍視;同時亦有線描整齊、山水簡雅、圖樣正宗者。
小峠尤有以栗色顏料繪三島手之珍碎。多數武內白瓷片,與其謂成形失敗,不如謂疊置不當而壓扁。推之,成品之白瓷恐不多。匣鉢中雖有燒成美者,然皆身形扭曲,非成器。物原所收之片,僅可賞其色相,不足稱器。拙見未遇武內完器,為憾。

土器、陶器可用含鐵黏土低溫氧化燒成;瓷器則須無鐵原料、釉面潔白無瑕,且以高溫還原燒成,技術尤難;非堅硬耐火原料,必致變形。

陶器中,燒成之變形與斑駁反被視為“窯變”之雅趣。古瓷中胎含銅偶發紅者為“釉裏紅”,所以可貴,正因瓷上真紅難得。若換作呉須藍出大斑,必如面有痕,見嫌。將來若真紅易得,偶然之釉裏紅恐僅被視為技術未熟。

陶器世界常抬舉“醜美”:所謂“均窯風”“蕎麥手”等,題銘入盒,乃至為名物;而端正之碗反被冷落,粗用終生。評價與工夫每每倒置。

瓷器連兔毫之微凹皆嫌;陶器則以指腹之凹為“酒窩手”而喜。同一缺陷於瓷,則列不良而賤售。此差異足證瓷製之難。

就和室陳設言,花器、床間擺件,陶器更相得益彰。即便青花,亦或令花材遜色;沉著陶色、單色釉配稚拙紋樣,乃至“瘢痕肌理”,更能成佳對比。

人亦好異:奇態品種或勝於優雅之形。此“異與雅”之幅度,陶器較瓷器更易表現。惟餐具須極潔白。陶器雖可白化妝配青繪,然胎色黝黑則妝反失。且碗盤足底露“目積”“蛇之目”之痕,我人之潔癖審美難以親近。

因此,作為食器之清澄白瓷——有田燒——實為一場革命。為存續,必須轉向白瓷;本地韓人赴有田學法,調合鄉石,苦心乃成。

時有田瓷風靡,近鄰諸窯欽羨,領主亦督勵。但瓷石稀罕,縱合石仿有田,多為軟、淡灰之瓷。有人私運泉山原料而偶得白瓷。鍋島藩因而嚴控泉山。

宗藩僅許本藩及少數有關窯取泉山石,且限等級與數量;他領僅得中下等“ナレ石”。然有人自下等石中精擇可用部位而製佳器,遂連“ナレ石”外運亦惹爭。配方(磁土、長石、石英)未明之時,武內韓人雖作軟質試驗,已屬不易。且於他所僅成灰色之際,獨能成純白,技藝可稱;但質弱而身曲,猶“迎娶臥床美人”,終難見用。

宗傳(深海新太郎)開窯之初,精作抹茶碗、香爐,獻碗於家信,獻爐於廣福寺別宗和尚,碑文所載。其後屢奉佳作可想而知。“新太郎燒”因此得名;白瓷則在其身後始成。宗傳於元和四年十月二十九日(1618)卒於內田。遺孀與子平左工門繼其業,時勢促轉瓷器,母子當大加研求。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

武内瓷器中,虽有带微黄的早期风格,但烧成整体稳定;亦见如孩童涂写的菊纹与拙劣呉须绘。白瓷初期,白地上几点青便被珍视;同时也有线描整洁、山水简雅、图案正宗的碎片。小峠尤存以栗色颜料绘三岛手的稀罕片。许多白瓷片像是被重压而扁,并非单纯成形失败;据此推断,真正成品或不多。匣钵中虽有烧得漂亮者,然皆扭曲,非成器;足供色相赏玩,却非器物。迄今未见武内完器,殊为可惜。

陶器可用含铁黏土低温氧化烧成;瓷器须用无铁原料,釉面须洁白无瑕,并以高温还原烧,技术难度高;无坚硬耐火料则易变形。陶器的变形与斑点常被视作“窑变”而珍赏。旧瓷偶因铜呈红称“釉里红”,贵在红色难得;若在呉须蓝上现大斑,则如脸有瑕而遭嫌。若将来真红易得,偶然的釉里红或将被视为未熟之技。

陶器常把“丑美”推上殿堂,而端正之碗反遭冷遇;评价与工夫发生错位。瓷器中微小凹陷即为瑕疵,陶器却可称“酒窝手”;同一缺陷在瓷上会被廉价处置。此差异昭示瓷制之难。

就和室陈设,陶器更能衬托花与床间陈设;青花亦可能压花材。沉稳的陶色、单色釉配稚拙纹样,甚至粗粝肌理,常更相宜。然餐具须洁白清澈。陶器虽可白化妆与青绘,但胎色发黑则适得其反;且底部“目积”“蛇之目”痕迹,使人难生洁净之感。

因而,清白透明的餐用白瓷——有田烧——带来一场革命。为顺应风潮,必须转向白瓷;当地韩人赴有田学法,用乡土石配方,苦心方成。其时诸窑竞仿,然瓷石稀有,多仅得软、灰瓷;有人私运泉山石偶成白瓷,鍋島藩遂严控泉山。藩内仅准少数关联窑取石,限等限量;他领仅得中下等“ナレ石”。有人精选其可用部分制佳器,连“ナレ石”外运亦引争。配方学未明之际,武内韩人的软质尝试已属难能;独能烧成纯白,技艺可称,但若体弱而扭曲,犹如“病美人”,难以实用。

宗傳(深海新太郎)首制抹茶碗与香炉,奉于家信与廣福寺别宗和尚,如碑所记;“新太郎烧”由此著称。白瓷则其身后方成。宗傳卒于元和四年十月二十九日(1618)内田。其遗孀与子平左工门继业,顺势转瓷,并大力研习。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

武內瓷器中,雖有帶微黃之早期風格,燒成總體穩定;亦見如童筆之菊紋與拙劣呉須繪。白瓷初期,白地上數點青即被珍視;同時亦有線描整潔、山水簡雅、圖樣正宗之片。小峠尤存以栗色顏料繪三島手之稀有碎片。多數白瓷片似為重疊壓扁,非單純成形失敗;推之,完器恐不多。匣鉢中雖有燒得漂亮者,然皆扭曲,非成器;足供色相賞玩,非器物。至今未見武內完器,殊可惜。

陶器可用含鐵黏土低溫氧化燒成;瓷器須無鐵原料,釉面潔白無瑕,且以高溫還原燒,技術難度高;無堅硬耐火料則易變形。陶器之變形與斑點常被視作「窯變」而珍賞。舊瓷偶因銅呈紅稱「釉裏紅」,貴在紅色難得;若於呉須藍見大斑,則如面有瑕而見嫌。若將來真紅易得,偶然之釉裏紅或僅被視為未熟之技。

陶器常將「醜美」推上殿堂,而端正之碗反遭冷遇;評價與工夫易錯位。瓷器中細微凹陷即為瑕疵,陶器卻可稱「酒窩手」;同一缺陷於瓷則廉價處置。此差異昭示瓷製之難。

就和室陳設,陶器更能烘托花器與床間陳設;青花亦可能壓過花材。沉穩陶色、單色釉配稚拙紋樣,乃至粗粝肌理,常更相宜。然餐具須潔白清澈。陶器雖可白化妝與青繪,然胎色黝黑則適得其反;且底部「目積」「蛇之目」痕跡,使人難生潔淨之感。

故清白透明之餐用白瓷——有田燒——帶來一場革命。為順應風潮,必轉向白瓷;當地韓人赴有田學法,用鄉土石配方,苦心方成。時諸窯競仿,然瓷石稀有,多僅得軟、灰瓷;或有私運泉山石而偶得白瓷,鍋島藩遂嚴控泉山。藩內僅許少數關聯窯取石,限等限量;他領僅得中下等「ナレ石」。有人精擇其可用部分製佳器,連「ナレ石」外運亦起爭。配方未明之時,武內韓人之軟質嘗試已屬不易;獨能燒成純白,技藝可稱,然若體弱而扭曲,猶「病美人」,難以實用。

宗傳(深海新太郎)先制抹茶碗與香爐,奉於家信與廣福寺別宗和尚,碑文所記;「新太郎燒」由此著稱。白瓷則其身後方成。宗傳於元和四年十月二十九日(1618)卒於內田。遺孀與子平左工門繼業,順勢轉瓷,並大力研習。