【原文】[Original text]
山中窯の谷左
中に最多きは白化粧の上に無雑作に鐡釉を流し、それに青藥や金茶を散らせし大皿である。又白化粧に青藥の松を文し、幹枝を巧みに鐡描せし水甕があり。或は灰色胎土に褐色薄釉を掛け白にて三段筋を廻はし底には小割菊紋を鐡描しそれに暗緑釉を流せし縁付七寸皿がある。
又白化粧の上に波櫛目を掻き、鐵描せし外紺青を流せし大皿があり。又同白化粧に波刷毛目を施し底は鐡猫の柳に青藥を流し、其上を八つ目積にて重ね焼きし大皿がある。或は栗茶釉の緑鉢に縁を白にて小刻みに立浪刷毛目を文し、それに青藥を流せし大皿や、暗緑釉に底四方花櫛目にて縁金茶釉の八寸深皿がある。
又褐色地に白化粧を掛け底は白にて獨樂筋を廻はし、緑には青藥を掛けし尺一寸の繰鉢や、薄茶釉及褐色地に紺青流しの大皿があり。栗色釉薄掛に白化粧を掛け上に蘭花模様を描せし大皿がある。或は黒褐色胎土の焼緑地に、古代文や菊文散ら印花せし獅子耳附入寸の水鉢や、鐡釉耳附四寸の花瓶にて腰以下は無釉の物があり、又此處の擂鉢には真底の櫛目を亂れ掻きにしたのがある。
其外鐵釉緣附及薄飴縁附の小皿や、九緣皿を四方寄せにして横なすりに鐵描せしものがあり。或は二つ葉鐡猫の小皿など何れも腰部以下無釉である。又天目釉六寸の壺や、黒茶釉に縁天目の六寸徳利等がある。此處は黒牟田鍋谷方面よりの山籟きとて、その作風に武内窯と諸種の共通点が現はれてゐる。
山中窯の谷石
窯の谷右窯は褐色地白化粧に、鐡にて水草を描きし上に薄青藥にて誼染掛けし大皿があり、又栗色釉地に白の獨樂筋を繞らせし上に暗緑色や金茶を流せし大皿など作風全く左窯と同様である。蓋し製造規模に於いて左窯よりは頗る小さき様である。
焼ケ峰前窯
朝日村川上字繁昌の焼ヶ峯は戸數三十七八戸の集落にて、高橋驛より一里許りの村端なる高地である。此處の道路脇なる前窯は、専ら甕類のみの古窯趾にて、殘缺には壺や擂鉢等の破片が現はるゝ。胎土は褐色又は鉛色にて中には炻器の如く焼締たのがある。而て此處より卵色釉にて高臺内螺旋尻の茶碗を發見せしが、果して此古窯の製品なりや一考を要するものである。
焼ケ峰奥の窯
焼ヶ峯奥の窯は川古窯の谷の隣接山にて、作風も亦全くそれと相似てゐる。中に鼠色地に白化粧を掛け底部丈け獨樂筋を廻はし、外は瀑泉刷毛目を文飾したる大皿があり。又栗色地に白の剣先三島手を施し、共緣淵裏は薄紫の下を白の浪掻目をせし大皿がある。
或は褐色胎土に繰淵を暗縦筋と白筋にて波形に交はし、縁裏には暗緑釉を掛けし大皿があり。同胎土に鐵色釉をかけ緣淵は薄紫の上に白刷毛目を引き、見込には又金茶を引きし大皿がある。又内暗緑釉にて緑裏は同色釉に波猛目を施し、下部は群青釉にて文飾せし水鉢がある。
磁器未成論
以上記述するところ武内系の陶器なるものは、其技巧美に於いて頗る優秀なることに異議なきも、磁器に於いては全く未製の時代に属してゐる。然るに唯此釉色のみの殘缺を見て、之が創業の年代をも顧みず、只管我邦白磁の鼻昶さすが如きは餘りに早計たるの譏を免かれぬ。
若し此地の原料を以て満足なる磁器を得たらんには、何を好んで九百六十人の陶工は、四拾餘年間住馴れし第二の故郷を棄て、有田の稗古場へ轉居せしやを考可きである。
而して此武内磁器の製作を以て、彼の祥瑞が發祥の地といふに至りては、除りに無稽極まる妄説なるが故に、此機會を以て少しく祥瑞に就いて論評を試み大方の参考に供するであらう。
五郎太夫祥瑞
舊來の史に従へば、後柏原天皇の永正八年(1511年)京都東福寺の僧桂梧が、大内義興の遣唐使として明に渡れる時、伊勢國西黑郡大口村の人伊東五郎太夫則之なる者之に従ひ、往きて居ること二年餘景徳鎮に至り、彼の製磁の法を習得して同十年歸朝した。其折五郎太夫が齎らせしさころの南京白磁こそ我國に始めせしものにて、それには五郎太夫祥瑞又は呉祥瑞の銘あり云々といふのである。
後の祥瑞説
後年の祥瑞説に依れば、實は前記の孫に當る五郎太夫にて、文禄三年四月(1594年)十八才にて明に渡り、居ること二十三年間にして元和二年(1616年)四十才の時歸朝し、其後諸にて磁器を製し、寛文三年五月十六日(1663年)八十七才にて歿す云々といふ説にて、前説と比べては百年餘りのひらきがある。
行路難
而して當時支那唯一の磁器製造地なり景徳鎮とは抑も如何なる處なるか、此處は江西省の饒州府なる浮梁縣西興郡にて、元来明朝の保護に成る官窯なるを以て、製法極めて秘密を厳守され容易く外人などの入鎭を赦さゞりしころである。
然も其行路に至つては、浙江より揚子江を経て湖口より鄱陽湖を超え、饒州河を遡りて漸く景徳鎮に達すべく、之が於いてさへ守備兵の護衛附にて数ヶ月を要せし難行路であつた。然るに四百二十四年の往時に於いて、外國人が如何にして密行入鎭せしかゞ大いなる疑問させざるを得ぬ。
又五郎太夫が製陶上に多少の経験ありしかは不明なるも、當時難中の至難とされし磁器の製法が言語不通の異國に於いて滞在僅に二ヶ年、然も直接なる研究は不可能なれば、只其周圍より概念的に模索せる程度に於いて、しかく完全に習得されしても思はれない。況んや享祿三年(1530年)には、既に明國へ邦人の渡航を禁止されてゐたのである。
明と交戦中
而して後説に依れば彼は僅に十八才位にて遣唐使へも従はず、國禁を犯して渡航せしさへ意外なるに、然も文禄は明の萬暦にて我秀吉が韓土に於いて交戦中である。此敵國の人民が同國人さへ入鎭を忽かせにせざる官窯地に、如何にして見學を詳になし得可きや、そして又習技としての滞留に、二十三ヶ年は徐りに長期に過ぎるがある。
景正入宋の例
彼の瀬戸の加藤景正も、最初南朱の染附(炻器程度に施釉せしものであらう)を習得せんが爲め入宋せしが、それは御土窯として敕命を以て開き、又其器を焼上ぐる間は警備嚴重にして何人も之を窺ふこと能はざるを以て、滞留五六ヶ年を過せしも途に意を果す機會なく、漸く唐物茶入(實は薬味入)の土や、釉薬の研究を遂げたるまでにて帰朝しといはれてゐる。後年九谷の後藤才次郎が入清推測説の如きも頗る怪しきものにて、現代にても個人の工場に於いてさへ縦覧を禁せし表札を掲げし門内へは浸りに這入れるものではない。
次に帰朝後の前説五郎太夫は肥前に止まりて、有田の磁器を創始せしとの説を成す者があり、就中此妄談の元祖を成す陶器考附録の文を掲くれば左の如くである。
今利燒山田五郎太夫ニ始マルコノ以前本邦ニ染附ノ製ナシ五郎太夫ハ伊勢松坂ノ人ナリ明國ニ渡リテ呉州ニテ焼物ヲ習フ青花白地ノ法ヲツタヘテ歸ル五郎太夫祥瑞造ノ宇アルモノ吳ニテ焼トコロ也桂林漫錄ニ明ノ正徳八年(我永正十年)五郎太夫日本二皈ルトキ明ノ李春亭ノ送別ノ詩アリ又コノ詩隣交徵書ニモ出ル
李春亭の詩 送居士五郎太夫皈日本 李春亭
敬持玉帛觀天顔 回首扶桑香渺間
船舶古鄰三佛地 杯傳新酒四明山
梅黃細雨江頭別 帆引清風清上還
明到賢王應有閑 八方職貢溢朝斑
右本書伊勢山田神宮寺ニ藏ス
是ニ因テミレバ遠州ノ命ヲウケラ明ニ入ルトイヒ傅フルハ恐ラクハ附會ノ説ナラン五郎太夫皈朝ノ后火候ヲ驗スルニ今利ノ近所ナル有田皿山ノ地火候烈ニシテ染附ニ合ヲ以テ同所ニテ焼物ヲ始ムトイフ皿山ニテ燒物ハ白薬藍畫ニクワシニウアリ呉須ノヤウニテ土和カ也古今利又吉祥瑞ト云品ニテ在名ノ物ト畫様相似タリ今利ニテ燒タルモノニ名ヲ入サルハ本邦ノ白石和カニシテ唐土ノコトクアラス年數タテハ古ビテアシク成コトヲ見計リタルトミユ故ニ名ヲ書セス只吳ニチ造モノハカリ名ヲ書シテ後ニツタフルノミ
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
山中窯の谷左
もっとも多いのは、白化粧の上に粗く鉄釉を流し、そこへ青釉や金茶釉を散らした大皿である。白化粧に青釉で松を描き、幹や枝を巧みに鉄描した水甕もある。灰色の胎土に薄い褐色釉を掛け、白で三本の輪筋をめぐらし、底に小割の菊文を鉄描して暗緑釉を流した、縁付き七寸皿も見られる。白化粧の上に波状の櫛目を掻き、鉄描の上から濃紺を流した大皿、同じく白化粧に波刷毛目を施し、見込みには鉄描の柳に青釉を流し、その上から八つ目積で重ね焼きした大皿もある。栗茶釉の鉢に白で細かな立浪刷毛目を縁にめぐらし、青釉を流した大皿、暗緑釉で底に四方花の櫛目、縁を金茶釉とした八寸の深皿など多彩である。
さらに、褐色地に白化粧を掛け、底は白の独楽筋、縁には青釉を掛けた尺一寸の繰り鉢、薄茶釉や褐色地に紺青を流した大皿、栗色釉を薄く掛けて白化粧の上に蘭花文を描いた大皿などがある。黒褐色胎の焼締め調の地に、古代文や菊文の印花を散らし、獅子耳を付けた一尺物の水鉢、鉄釉で耳を付け、腰から下が無釉の四寸花瓶も見受けられる。ここの擂鉢は、真底に乱れ掻きの櫛目を施しているのが特徴である。
そのほか、鉄釉の縁付きや薄飴釉の縁付きの小皿、九縁皿を四方寄せにして横擦りの鉄描を施したもの、二つ葉の鉄描を配した小皿などがあり、いずれも腰から下は無釉。天目釉の六寸壺、黒茶釉地で口縁に天目を掛けた六寸徳利もある。ここは黒牟田・鍋谷方面と山続きで、作風には武内窯との共通点が数多く見られる。
山中窯の谷石
窯の谷右窯には、褐色地に白化粧、鉄で水草を描き、その上から薄い青釉でぼかし掛けした大皿がある。栗色釉地に白の独楽筋をめぐらし、暗緑や金茶を流した大皿など、作風は左窯とまったく同様である。ただ、製造規模は左窯よりかなり小さいようだ。
焼ケ峰前窯
朝日村川上字繁昌の焼ヶ峯は戸数三十七~三十八戸ほどの集落で、高橋駅から一里ほど、村はずれの高台にある。道路脇の前窯は、専ら甕類を焼いた古窯跡で、壺や擂鉢などの破片が出る。胎土は褐色または鉛色で、ときに炻器のように焼き締まったものもある。ここから卵色釉で高台内に螺旋の削り跡がある茶碗片を見つけたが、この古窯の製品かどうかは検討の余地がある。
焼ケ峰奥の窯
焼ヶ峯奥の窯は川古窯の谷の隣山にあり、作風もよく似ている。鼠色地に白化粧を施し、底部だけ独楽筋をめぐらせ、外側は滝のような刷毛目で飾った大皿、栗色地に白の剣先三島手、共縁の裏を薄紫に下塗りして白の波状掻き目を入れた大皿などがある。褐色胎に、繰り縁を暗い縦筋と白筋で波形に交差させ、縁裏に暗緑釉を掛けた大皿、同じ胎に鉄色釉を掛け、縁は薄紫の上から白刷毛目、見込みには金茶を引いた大皿もある。内側は暗緑釉、縁裏も同色釉で波状の猛目、下部は群青釉で文飾した水鉢も見られる。
磁器未成論
以上のように、武内系の陶器は技術も美もきわめて優れているが、磁器についてはまだ本格的に完成していない時期に属する。にもかかわらず、釉色だけの残片を見て創業年代も顧みず、わが国白磁の「鼻祖」とまで持ち上げるのは、あまりに早計と言わざるを得ない。もし当地の原料で満足な磁器が得られたのなら、九百六十人もの陶工が、四十余年住み慣れた第二の故郷を捨ててまで、有田の稗古場へ移住する理由は何だったのか考えるべきである。
また、武内での磁器製作をもって「祥瑞」の発祥地とするのは、全くの妄説である。ここで機会を得たので、祥瑞について少し論じ、参考に供したい。
五郎太夫祥瑞
古い記録では、後柏原天皇の永正八年(1511)に、京都東福寺の僧・桂梧が大内義興の遣唐使として明に渡った際、伊勢国西黒郡大口村の伊東五郎太夫則之が従い、二年余りで景徳鎮に至って製磁法を学び、同十年に帰朝した。彼が持ち帰った南京白磁こそ日本初のもので、「五郎太夫祥瑞」または「呉祥瑞」の銘がある、というのである。
後の祥瑞説
後代の説では、これは前記人物の孫で、五郎太夫は文禄三年四月(1594)十八歳で明に渡り、二十三年滞在ののち元和二年(1616)四十歳で帰国、その後各地で磁器を作り、寛文三年五月十六日(1663)八十七歳で没した、とする。前説とでは百年以上の隔たりがある。
行路難
当時、中国で唯一の磁器生産地とされた景徳鎮は、江西省饒州府・浮梁県西興郡にあり、明朝保護下の官窯で、製法は極秘、外部の者の入鎮は容易に許されなかった。行路も、浙江から揚子江を経て湖口で鄱陽湖を渡り、饒州河を遡ってようやく到達し、しかも護衛付きで数か月を要する難路であった。四百年以上も前に、外国人がどうやって密かに入鎮できたのか、大いに疑問である。
また五郎太夫に製陶経験があったかは不明だが、当時きわめて困難とされた磁器の製法を、言葉の通じない異国で、わずか二年の滞在で、直接の研究も不可能な環境で完全に習得したとは考えにくい。まして享禄三年(1530)には、すでに明への渡航は日本側で禁止されていた。
明と交戦中
後説によれば彼は十八歳ほどで、遣唐使にも随行せず、国禁を犯して渡航したというが、文禄年間は明の万暦年間で、秀吉の朝鮮出兵により日明は交戦状態であった。敵国の官窯地で、同国人すら容易に立ち入れない場所に、どうやって見学し得たのか。しかも習得のための滞留が二十三年というのは、あまりにも長すぎる。
景正入宋の例
瀬戸の加藤景正も、当初は南朱の染付(炻器程度の施釉)を学ぶため入宋したが、御土窯は勅命で開かれ、焼成中は厳重な警備で、誰も窯中を窺えず、五~六年滞在しても目的を果たせず、ようやく唐物茶入(実は薬味入)の土や釉薬の研究をしたにとどまり帰朝したという。後年、九谷の後藤才次郎が入清したとする推測説も疑わしい。現代でさえ、個人の工場の「見学お断り」の札の内側に、そう易々と入れるものではない。
なお、前説では帰朝後の五郎太夫は肥前に留まり、有田で磁器を創始したとする者がある。とりわけこの説の祖とされる『陶器考附録』の文は次の通りである。
今利燒山田五郎太夫ニ始マル…(以下略・李春亭の送別詩「送居士五郎太夫皈日本」を含む引用。右は伊勢山田神宮寺蔵とする)
これによれば、遠州の命を受けて渡明したという伝承は付会の疑いが強い。五郎太夫の帰朝後、火候を検すると、有田皿山の地は烈しい火性で染付に適し、ここで焼物を始めたという。皿山で焼いた物は白釉に藍画が巧みで呉須に似、土は和質である。古今利や吉祥瑞と呼ぶ名物の画様に似たものがあり、今利で焼いた物に名を入れないのは、和製白石で中国のごとくならず、年を経れば古び見えてしまうのを見計らったためで、名は書かず、呉で作られたものだけに名があり、のちに伝わったにすぎない、という趣旨である。
【英語訳】[English translation]
Yamanaka Kiln, Tani-Hidari (left valley)
The most common finds are large dishes: over white slip, iron glaze is freely trailed, then splashes of blue and golden-brown glazes are scattered. There are water jars with pines painted in blue on white slip and trunks and branches deftly outlined in iron. A seven-sun rimmed plate appears on gray body with a thin brown glaze; three white ring bands encircle it, a small chrysanthemum medallion is iron-painted in the well, and a dark green glaze is poured over it. Other large dishes include those with combed wave patterns incised through white slip and deep blue poured over iron painting; pieces with wave hakeme on white slip, an iron-drawn willow and blue wash in the well, stacked and fired on eight-peg setters; a chestnut-brown glazed bowl whose rim carries fine standing-wave hakeme in white with a blue run; and deep eight-sun plates in dark green glaze with four-petal flower combing in the center and a golden-brown rim.
Further examples: an 11-sun serving bowl on a brown ground with white slip, white koma bands on the base and blue on the rim; large plates with pale tea glaze or brown grounds washed with deep blue; a chestnut-glazed platter thinly coated and white-slipped with orchid motifs. There are one-shaku water basins on dark brown bodies, fired to a greenish tone, stamped with archaic and chrysanthemum patterns and fitted with “lion-ear” lugs; four-sun vases with iron-glazed ears, their lower halves unglazed. Mortars here often show vigorously disordered combing on the true bottom.
Also seen are small plates with iron-glazed rims or pale amber rims; “nine-rim” plates grouped and horizontally rubbed with iron painting; and small plates bearing a two-leaf iron motif—each unglazed below the waist. There are six-sun jars in tenmoku and six-sun tokkuri in black-brown glaze with tenmoku at the lip. The site lies on the same mountain chain as Kuromuta–Nabeya; accordingly, many traits are shared with Takeuchi ware.
Yamanaka Kiln, Tani-Ishi (right valley)
At the right-hand kiln, large dishes show brown ground with white slip, water plants drawn in iron, then a pale blue mist wash over them. Others on chestnut glaze bear white koma bands with dark green or golden-brown runs—stylistically matching the left kiln, though on a notably smaller scale.
Yakigamine, Mae-gama
Yakigamine in Asahi-mura Kawakami Aza Hanjō is a hamlet of 37–38 households on a high terrace about one ri from Takahashi Station. The roadside “front kiln” is an old site devoted to jars: sherds include jars and mortars. Bodies are brown or lead-gray, some fired to stoneware-like tightness. A teabowl fragment with an egg-yellow glaze and spiral tooling inside the foot was found here, but whether it was fired at this kiln warrants caution.
Yakigamine, Oku-gama
The “back kiln” on the adjacent ridge to Kawako-gama’s valley closely resembles it in style: large dishes on mouse-gray grounds with white slip, only the base ringed with koma bands, the exterior decorated with waterfall-like hakeme; chestnut grounds with white ken-saki Mishima, shared rims whose undersides are underpainted in pale purple with white wave incisions. Others show brown bodies whose beaded rims interlace dark vertical lines and white lines in wave patterns, with dark green under the rim; or iron-colored glaze with a pale-purple rim overpainted in white hakeme and a golden-brown wash in the well. A water basin has dark-green glaze inside, matching wave patterns under the rim, and ultramarine decoration below.
On “unfinished porcelain”
In sum, Takeuchi-line pottery is technically and aesthetically excellent, yet its porcelain belongs to a phase prior to full maturity. It is rash to proclaim it the “founder” of Japanese white porcelain on the basis of glaze-color sherds alone, without regard to chronology. If satisfactory porcelain could truly be made from local stone, why would nine hundred and sixty potters abandon a second homeland of more than forty years to relocate to Arita’s Hiekoba?
Equally untenable is the claim that Takeuchi porcelain marks the birthplace of “Shōzui.” Taking this opportunity, I offer notes on Shōzui for reference.
Gorōdayū Shōzui (traditional account)
According to older histories, in Eishō 8 (1511) the monk Keigo of Tōfuku-ji traveled to Ming China as an envoy of Ōuchi Yoshioki; Ito Gorōdayū Noriyuki of Ōguchi-mura, Nishikuro-gun, Ise Province accompanied him. After two-plus years they reached Jingdezhen, where he learned porcelain making and returned in Eishō 10 (1513). The Nanjing white porcelain he brought back was said to be Japan’s first, bearing inscriptions “Gorōdayū Shōzui” or “Go Shōzui.”
A later Shōzui theory
A later narrative assigns the feat to his grandson: Gorōdayū sailed to Ming in Bunroku 3 (1594) at age 18, remained 23 years, returned in Genna 2 (1616) at 40, produced porcelain in various locales thereafter, and died on May 16, Kanbun 3 (1663), aged 87—over a century apart from the first account.
Difficult travel and access
Jingdezhen—then China’s sole porcelain center—lay in Xixing District, Fuliang County, Raozhou Prefecture, Jiangxi. As an imperial kiln, methods were strictly secret; outsiders were scarcely admitted. The route itself ran from Zhejiang via the Yangtze, across Lake Poyang at Hukou, and upriver to Raozhou—a months-long journey even with armed escort. How a foreigner could have slipped into the town over four centuries ago is doubtful.
Whether Gorōdayū had prior ceramic experience is unclear; in any case, mastering the era’s most difficult craft in a language-barrier setting within two years—without direct access—seems implausible. Moreover, by Kyōroku 3 (1530) Japanese travel to Ming was already banned.
While at war with Ming
In the later theory he departs at about 18, not with an official mission but in defiance of bans; yet Bunroku corresponds to Wanli, when Hideyoshi’s campaigns in Korea put Japan and Ming at war. How could a national of an enemy power closely study an imperial kiln barred even to many locals? And twenty-three years’ residence as “study” seems excessive.
The Kato Kagemasa precedent
Seto’s Katō Kagemasa sailed to Song to learn “southern cinnabar” underglaze (likely stoneware with glaze), but imperial kilns opened only by edict and were guarded so tightly that no one could peer within. He spent five or six years with no chance to fulfill his aim, returning having only studied clays and glazes for imported tea caddies (actually spice jars). Similarly, the conjecture that Gotō Saijirō of Kutani studied in Qing is dubious. Even today, a private factory’s “no visitors” sign means one does not simply walk in.
Some claim, further, that the earlier Gorōdayū remained in Hizen and founded Arita porcelain. The source text often cited is the “Tōkikō Furoku,” excerpted as follows (summary): Imari ware began with Yamada Gorōdayū; before him Japan had no sometsuke. He, a man of Ise-Matsusaka, learned in Wu (Go), brought back the method of blue on white; works with “Gorōdayū Shōzui” were fired in Wu. “Guilin Manroku” records a farewell poem by Li Chunting upon his return in Zhengde 8 (our Eishō 10); the poem also appears in “Rinkō Chōsho.” The manuscript is said to be kept at Jingu-ji in Ise-Yamada. The note argues that the “Enshū’s commission” tale is likely contrived; after testing fire behavior, Arita Sarayama—near Imari—proved apt for sometsuke, so production began there. Sarayama pieces excel in white glaze and blue painting akin to gosu on a Japanese body; designs resemble famous “Konkōri” and “Kisshōzui.” Names were not inscribed on Imari pieces—unlike Chinese wares—since with age their look changes; thus only pieces made in Wu bore names, and those names were later transmitted.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
山中窑的谷左
最常见的是在白化妆上粗放地泼洒铁釉,并点缀青釉、金茶釉的大盘。还有在白化妆上以青釉绘松,用铁描巧作枝干的水缸;以灰色胎施薄褐釉,白色三道圈纹绕体,底面铁描小割菊并泼暗绿釉的带沿七寸盘。亦见白化妆上掻出波形梳目并覆深蓝的大盘;同样是白化妆配波刷毛,见込み为铁描柳并流青釉,其上以“八目积”叠烧的大盘。另有栗茶釉的鉢,缘口以白色细作立浪刷毛并流青釉的大盘,及暗绿釉地、底作四方花梳目、缘为金茶釉的八寸深盘。
此外,有褐色地施白化妆、底作白色独乐筋、缘施青釉的一尺一寸繰鉢;施薄茶釉或褐色地泼深蓝的大盘;栗色釉薄挂、白化妆上绘兰花纹的大盘。又见黑褐胎烧成微绿地,散押古代纹与菊纹、具“狮耳”的一尺水鉢;以及铁釉耳付四寸花瓶,腰以下无釉。此处的擂钵多在真底施乱掻梳目。
其余有铁釉缘或薄飴釉缘的小盘;将“九缘盘”四方拼合并横擦铁描者;以及二叶铁描小盘,皆腰部以下无釉。亦有天目釉六寸壶、黑茶釉地口缘施天目的六寸德利。此地与黒牟田・鍋谷同属一脉山系,作风与武内窑多有共通。
山中窑的谷石
右侧窑见褐色地白化妆,铁绘水草,其上薄施青釉晕染的大盘;或栗色釉地绕白色独乐筋,再流暗绿或金茶釉的大盘。风格与左窑相同,但规模明显较小。
烧ヶ峰前窑
朝日村川上字繁昌的烧ヶ峯是三十七八户的聚落,距高桥驿约一里,位于村边高地。路旁的前窑为专烧缸类的古窑址,出土壶、擂钵等残片。胎土呈褐色或铅灰色,部分如炻器般致密。此处曾见一片卵色釉、足内有螺旋刀痕的茶碗,但是否为本站产品,尚需斟酌。
烧ヶ峰奥窑
奥窑在川古窑之谷的邻山,风格相近:鼠灰地白化妆,唯底作独乐筋,外壁施瀑泉刷毛的大盘;栗色地施白色剑先三岛手,共缘背面先薄紫打底再作白色浪掻目的大盘。亦有褐胎,繰缘以暗纵筋与白筋交作波形,缘背施暗绿釉的大盘;同胎施铁色釉,缘口薄紫上引白刷毛,见込み引金茶的大盘。另有内作暗绿釉,缘背同色作波状猛目,下部以群青釉文饰的水鉢。
磁器未成论
综上,武内系陶器在技与美上极为优异,但其磁器仍属未臻完成的阶段。仅凭釉色残片,不顾创烧年代,便一味抬举为日本白瓷“鼻祖”,未免草率。若当地原料足以制得满意的瓷器,九百六十名陶工又为何舍弃居住四十余年的第二故乡而迁往有田稗古场?
并且,以武内的磁器制作为据,称其为“祥瑞”的发祥地,更是无稽。借此机会,对“祥瑞”略作评述,以供参考。
五郎太夫祥瑞
旧说称:永正八年(1511),京都东福寺僧桂梧随大内义兴的遣唐使入明,伊势国西黑郡大口村人伊东五郎太夫则之从行,二年余至景德镇,学得制瓷法,于永正十年归。其所携南京白瓷为日本之始,署“五郎太夫祥瑞”或“吴祥瑞”。
后世之说
后说谓:实为其孙五郎太夫,文禄三年四月(1594)十八岁入明,住二十三年,于元和二年(1616)四十岁归,后各地制瓷,寛文三年五月十六日(1663)卒,享年八十七。与前说相距百余年。
行路与禁制
时之景德镇为江西饶州府浮梁县西兴郡官窑,守秘严,外人难入。自浙江溯江,越鄱阳湖,经饶州河而至,须护卫、历月方达。四百余年前外人何以潜入,殊可疑。且其人有无制陶经验未知;在语不通、不得直观之境,仅两年即得磁器至难之法,亦难想象。况享禄三年(1530),日本已禁渡明。
交战之际
后说又称其十八岁犯禁渡海,而文禄时适当万历,日本与明在朝鲜用兵。敌国官窑,连本国人亦难入,何以详观?且“习技”而驻留二十三年,亦嫌过长。
加藤景正入宋为例
濑户加藤景正曾入宋求南朱染付(当为炻器施釉),然御土窑以敕开,烧成期警备森严,旁观无由。滞留五六年,终未如愿,得土与釉之研究而归。后称九谷后藤才次郎入清,亦多可疑。今之私人工场尚常“谢绝参观”,岂易入门。
此外,前说又谓五郎太夫归朝后留肥前,创有田磁器。其所据《陶器考附录》文,撮其要者:今利烧始于山田五郎太夫;此前日本无染付。其人松坂人,入吴学烧,传青花白地之法而归;署“五郎太夫祥瑞”者乃吴中所烧。《桂林漫录》记正德八年(永正十年)李春亭之送别诗,亦见于《邻交征书》,藏伊势山田神宫寺。文又称:所谓“奉远州命入明”多为附会;归朝试火候,见有田皿山刚烈,宜染付,遂开烧。皿山之器,白釉蓝画工,似呉須而为和土。其画样似“古今利”“吉祥瑞”,然今利所烧多不署名,盖和制不同于唐土,年久色貌变化,故不题名;唯吴所作有名,后传耳。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
山中窯之谷左
最常見者,於白化妝上粗率淋鐵釉,並點綴青釉、金茶釉之大盤。亦有白化妝青釉寫松,鐵描幹枝之水缸;灰胎施薄褐釉,白作三道圈紋,底鐵描小割菊並淋暗綠釉之帶緣七寸盤。又見白化妝掻出波梳目覆深藍之大盤;或白化妝施波刷毛,見込み鐵描柳並流青釉,上以「八目積」疊燒之大盤。另有栗茶釉鉢,緣口白作細密立浪刷毛並流青釉之大盤;暗綠釉地、底作四方花梳目、緣施金茶釉之八寸深盤。
此外,褐地白化妝、底白獨樂筋、緣施青釉之一尺一寸繰鉢;薄茶釉或褐地淋深藍之大盤;栗色釉薄掛、白化妝上繪蘭花文之大盤。又見黑褐胎燒成微綠地,散印古代文與菊文、具獅耳之一尺水鉢;鐵釉耳付之四寸花瓶,腰以下無釉。此處擂鉢多於真底施亂掻梳目。
其餘有鐵釉緣、薄飴釉緣小盤;將九緣盤四方拼設而橫擦鐵描者;及二葉鐵描小盤,皆腰下無釉。亦有天目釉六寸壺、黑茶釉地口緣施天目的六寸德利。此地與黒牟田・鍋谷同系山脈,作風與武內窯多所相通。
山中窯之谷石
右窯見褐地白化妝,鐵繪水草,上以薄青釉暈染之大盤;或栗色釉地繞白獨樂筋,再流暗綠或金茶釉之大盤。風格與左窯相同,惟規模較小。
燒ヶ峰前窯
朝日村川上字繁昌之燒ヶ峯,計三十七八戶,距高橋驛約一里,村邊高地。路側前窯,專燒缸類之古窯址,出壺、擂鉢等片。胎土褐或鉛灰,間有如炻器之緻密者。此處曾得一片卵色釉、足內螺旋刀痕之茶碗,然是否本站製,仍待商榷。
燒ヶ峰奧窯
奧窯在川古窯之谷旁山,風格相似:鼠灰地白化妝,惟底作獨樂筋,外壁施瀑泉刷毛之大盤;栗地白之劍先三島手,共緣背先薄紫打底,再作白浪掻目之大盤。亦有褐胎,繰緣以暗縱筋與白筋交作波形,緣背施暗綠釉之大盤;同胎施鐵色釉,緣口薄紫上引白刷毛,見込み引金茶之大盤。另見內作暗綠釉,緣背同色作波狀猛目,下部以群青釉飾之水鉢。
磁器未成論
總之,武內系陶器技藝與美感皆上乘,然其磁器仍屬未臻完善之期。僅憑釉色殘片而不究創燒年代,即張稱為日本白瓷「鼻祖」,殊屬草率。倘本地原料足以成佳瓷,九百六十陶工何以捨四十餘年第二故鄉而遷有田稗古場?
且以武內之瓷而稱「祥瑞」之發祥,更屬無稽。藉此略論「祥瑞」,以供參考。
五郎太夫祥瑞
舊說:永正八年(1511),東福寺僧桂梧隨大內義興遣唐入明,伊勢國西黑郡大口村伊東五郎太夫則之從行,二年餘至景德鎮,學製瓷法,永正十年歸。其所攜南京白瓷為日本之始,署「五郎太夫祥瑞」或「吳祥瑞」。
後說
後人又稱:實為其孫五郎太夫,文祿三年四月(1594)十八歲入明,居二十三年,元和二年(1616)四十歲歸,後處處製瓷,寛文三年五月十六日(1663)卒,享八十七。與前說相距百餘年。
行路與禁令
時之景德鎮為江西饒州府浮梁縣西興郡官窯,嚴守機密,外人難入。自浙江溯江,越鄱陽湖,經饒州河而至,須護衛,歷月方達。四百餘年前外人何以潛入,殊疑。且其人有無陶業經驗未可知;在語不通且不得直觀之境,僅兩年即盡得磁器之難技,難以置信。況享祿三年(1530),日本已禁渡明。
交戰期間
後說又稱其十八歲犯禁渡海,而文祿時日本與明因朝鮮戰事正相對峙。敵國官窯,本國人亦難入,何得詳觀?且以習技而滯留二十三年,亦嫌過長。
以加藤景正入宋為例
瀨戶加藤景正入宋學南朱染付(當為炻器施釉),然御土窯以敕開,燒成時警備嚴峻,旁觀無由。五六年仍未如願,僅得土與釉之研究而歸。九谷後藤才次郎入清之說亦多可疑。今之私人工場尚張「謝絕參觀」,豈可易入。
另有說前述五郎太夫歸後留肥前,創有田瓷。所據《陶器考附錄》云:今利燒始於山田五郎太夫;此前日本無染付。其人松坂人,入吳學燒,傳青花白地而歸;署「五郎太夫祥瑞」者乃吳中所燒。《桂林漫錄》載正德八年李春亭送別詩,亦見《鄰交徵書》,藏伊勢山田神宮寺。並曰:所謂「奉遠州命入明」多為附會;歸後驗火候,見有田皿山烈而宜染付,遂開燒。皿山之器白釉藍畫精,似呉須而為和土;其畫樣似「古今利」「吉祥瑞」。今利所燒多不署名,蓋和製不同於唐土,年久易色,故不題名;惟吳所作有名,後乃流傳。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
山中窑・左谷
最常见的大件是在白化妆上自由泼洒铁釉,并点以蓝与金茶釉的大盘;亦见以青绘松、铁描枝干的水缸。灰胎薄褐釉、白色三道圈纹、底部铁描小菊并泼暗绿釉的带沿七寸盘亦常见。另有通过白化妆掻出波梳目并覆深蓝的大盘;白化妆配波刷毛、见込み铁绘柳并流青釉,以上以“八钉目积”叠烧者;以及栗茶釉器沿口白色细密立浪刷毛并流青釉的大盘、暗绿釉地中央四花梳目、边口金茶釉的深盘。
此外有一尺一寸的服务鉢(白化妆、底白独乐筋、缘口青釉),薄茶釉或褐地深蓝洗的大盘;栗色釉薄挂、白化妆兰花纹盘;一尺水盆(黑褐胎、微绿烧、印花古纹与菊纹、狮耳);四寸铁釉耳付花瓶(腰以下无釉)及真底乱梳目擂钵。并有铁缘或薄飴缘小盘、“九缘盘”四方拼合横擦铁绘、二叶铁绘小盘(皆腰下无釉);十目六寸天目壶、黑茶釉地口缘天目的六寸德利。此地与黒牟田—鍋谷同属山系,风格与武内窑多所相通。
山中窑・右谷
右侧窑的褐地白化妆盘,铁绘水草,上罩淡青晕染;或栗釉地白独乐筋并泼暗绿、金茶釉的大盘,风格与左侧相同,但规模较小。
烧ヶ峰前窑与奥窑
烧ヶ峰为三十七八户的高地聚落,距高桥站约一里。路旁前窑为缸类窑址,出壶、擂钵片,胎土褐或铅灰,间有炻器般致密者。曾见一片卵黄釉、足内螺旋刀痕的茶碗,但是否出自本站存疑。奥窑在邻山,风格近似:鼠灰地白化妆、底圈独乐筋、外壁瀑布刷毛;栗地白“剑先三岛”与薄紫打底的白浪掻目;或褐胎暗竖线与白线波形交错、缘背暗绿釉;铁色釉配薄紫缘白刷毛、见込み金茶;水盆内外暗绿釉并以群青釉装饰下段。
未成之瓷
总的看,武内系陶器精妙,而瓷尚未臻成熟。仅凭釉色残片便称日本白瓷“开山鼻祖”,失之草率。若当地原石足以成瓷,九百六十名陶工何以舍四十余年居地移往有田稗古场?称此地为“祥瑞”发祥更属不经。兹略述“祥瑞”供参。
五郎太夫“祥瑞”
旧说:永正八年(1511)东福寺僧桂梧随大内义兴赴明,伊东五郎太夫则之从行,二年余至景德镇学瓷,永正十年归,所携南京白瓷为日本之始,署“Gorōdayū Shōzui/Go Shōzui”。
后说:为其孙,文禄三年(1594)十八岁入明,二十三年后于元和二年(1616)归,后各地制瓷,寛文三年(1663)卒,年八十七。
路径与禁限
景德镇为官窑重地,外人难入;自浙江经长江、越鄱阳湖、上饶州河,需数月与护卫。四百多年前外人何以潜入,疑点颇多;在语言不通且不得直观之境,两年学成瓷业至难,尤难成立;且享禄三年(1530)日方已禁渡明。
交战时期
后说又与万历—文禄之日明交战相冲突:敌国官窑何以详学?且以“习技”久居二十三年亦失常。
以加藤景正入宋为例:御土窑以敕开、警备严,五六年仍无由得窥,止得土与釉之研究而归。至称五郎太夫归后留肥前开有田瓷者,《陶器考附录》所述大意:今利烧始于山田五郎太夫;此前日本无染付;其法自吴得;李春亭送别诗为证;所谓“奉远州命入明”多附会;试火候后,于有田皿山创烧,和土蓝画似呉須;与“古今利”“吉祥瑞”相近;今利器多不署名,唯吴制有款,后世乃据以相传。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
山中窯・左谷
常見大盤為白化妝上任意泼灑鐵釉並點以藍、金茶釉;亦有青繪松、鐵描枝幹之水缸。灰胎薄褐釉、白三圈、底鐵描小菊並淋暗綠釉之帶緣七寸盤亦多。另見白化妝掻波梳目覆深藍之盤;白化妝波刷毛、見込み鐵繪柳並流青釉,以上以「八釘目積」疊燒者;栗茶釉器緣白細立浪刷毛並流青釉之大盤;暗綠釉地中央四花梳目、邊金茶釉之深盤。
並有一尺一寸繫用鉢(白化妝、底白獨樂筋、緣口青釉),薄茶或褐地深藍洗之大盤;栗色釉薄掛、白化妝蘭花文盤;一尺水盆(黑褐胎、微綠燒、印花古紋與菊紋、獅耳);四寸鐵釉耳付花瓶(腰下無釉)與真底亂梳目擂鉢。另有鐵緣或薄飴緣小盤、「九緣盤」四方拼合橫擦鐵繪、二葉鐵繪小盤(皆腰下無釉);六寸天目壺、黑茶釉地口緣天目六寸德利。此地與黒牟田—鍋谷同山系,與武內窯風格多通。
山中窯・右谷
右窯見褐地白化妝,鐵繪水草,上罩淡青暈;或栗釉地白獨樂筋並泼暗綠、金茶釉之大盤。風格同左窯,然規模小。
燒ヶ峰前、奧窯
燒ヶ峰為三十七八戶高地聚落,距高橋站一里。前窯為缸窯址,出壺、擂鉢片,胎褐或鉛灰,間似炻器。曾見卵黃釉、足內螺旋痕之茶碗片,是否本站製未定。奧窯鄰山,風格近似:鼠灰地白化妝、底圈獨樂筋、外壁瀑布刷毛;栗地白「劍先三島」與薄紫打底白浪掻目;或褐胎暗縱線與白線波形交錯、緣背暗綠釉;鐵色釉配薄紫緣白刷毛、見込み金茶;水盆內外暗綠釉,下段群青釉飾。
未臻之瓷
總觀,武內系陶器精湛,而瓷尚未成熟。僅據釉色殘片稱日本白瓷「鼻祖」失之草率。若本地石足以成瓷,九百六十陶工何以遷往有田稗古場?稱此地為「祥瑞」發祥尤不經。今略述「祥瑞」以資參考。
五郎太夫「祥瑞」
舊說:永正八年(1511)桂梧隨大內義興赴明,伊東五郎太夫則之從行,二年餘至景德鎮學瓷,永正十年歸,所攜南京白瓷為日本之始,題「Gorōdayū Shōzui/Go Shōzui」。
後說:其孫於文祿三年(1594)十八歲入明,二十三年後元和二年(1616)歸,後各地製瓷,寛文三年(1663)卒,享八十七。
路徑與禁限
景德鎮為官窯重地,外人難入;自浙江經江、越鄱陽湖、上饒州河,需月馀且有護衛。四百餘年前外人如何潛入,疑點甚多;語不通且不得直觀之境,兩年學成瓷業至難,尤難信;況享祿三年(1530)日本已禁渡明。
交戰時期
後說亦與萬曆—文祿之日明兵事相牴牾:敵國官窯安得詳學?且以「習技」久居二十三年亦失常。
以加藤景正入宋為例:御土窯以敕開、警備嚴,五六年仍不得窺,僅得土與釉之研究而歸。至稱五郎太夫歸後創有田瓷,《陶器考附錄》大意云:今利燒始於山田五郎太夫;此前日本無染付;其法自吳得;李春亭送別詩為證;「奉遠州命入明」多附會;試火候後創燒於有田皿山;和土藍畫近呉須,類「古今利」「吉祥瑞」;今利器多無名,唯吳製有款,流傳於後。

