【原文】[Original text]
武内磁器の創業期
而して幾度之を試みしも途に成器を得ることの難事なりしは無理もなかつた。此武内磁器の製作は、當時肥前の各山を巡視せ三河内の今村三之亟が確言せし如く、寛永六年なりこの説事實なるべく、乃ち宗傳歿後の十二年目である。
斯くて軟質の原料にてあまたゝび失敗を操返へすの恩を覺り、領主茂綱(家信の男)の許可を得てに内田の同族は有田に移住するの大決心を起せしものにて、それにつきては何分大勢の事故に武雄領主より本藩へ交渉ありしに相違なく、又本藩にては陶工大淘汰以前の事とて、徴税の關係上直に之を許せしものなるべく、そしてそれは磁器試作後の一二年目にて寛永七八年頃に行はれしと見るべきであらう。
内田より有田へ移轉
未亡人は此住み馴れし内田を引拂ひ、平左工門を始め同族工人九百六十人を率ゐて有田の稗古場に轉住せしは、彼亦決して尋常一様の婦人にあらざりしことが察せらる。
其後有田に於いても磁器製造者として相當の地位にありし者の如く、今稗古場觀音巖にある霊廟に金ヶ江氏と並んで深海氏と刻記されてゐる。
百婆仙卒去す
斯くて此女丈夫は、明暦二年三月十日(1656年 李參平歿後四年目にて)九十六才の高齢を以て卒去した。今同地報恩寺境内にある百婆仙の墓碑と稱するもの、即ち前に碑文を掲げし萬了妙泰道婆の塔がそれである。
深海家の略系左の如くである。(深海略系参照)
三男宗家を嗣ぐ
五代市郎が長男平左工門次男森右エ門を描いて、三男に六代市郎として宗家を嗣がしめしは、それが白眉の名陶家なりしことが察せらる。此六代市郎の代に於いて臨時的ながら宮中の御器を謹製せしこさがあり、其當時の御用命書に左の如きものがある。
個
一品柄 個數
金子仕拂の事
鷹司邸 鈴木左工門大尉印
肥前有田皿山
深海市郎殿
ヒウラク舞
内田及黑牟田に於ける古来よりの風俗にヒウラク舞といふのがある。それは舊春三月の十五日一家の老幼男女は全村々蒿飯や酒肴を用意し、又大竹二本に銘々の名を書きし短冊を結びつけしものを押立て、兩村落の中間なる岳の古場へうち登り、三味や太鼓にて歌舞の限りを盡す風習にて、秋も亦十月十五日必ず此頂上に行樂せしが、後年此山上に殖林せしより遂に中止成ったのである。
朝鮮の風樂
此ヒウラクは想ふに朝鮮の風樂の轉化にて、韓土にては八月十五日に於いて、當年刈取りし穀物の初穂をとつて之を配ひ、其夜の明月を興じて宴を張り、その時に風樂を舞へる由にて、我邦の新嘗祭に似通へるものであらう。そして正月の十五日にも銘々祖先の墳墓を修理清掃し、此日も亦盛宴を設けて風樂を舞ふの外、種々の儀式が行はれるといはれてゐる。
察するに遠く故園を離れて此異邦に渡せし韓人達が、折ふしは望郷の念に堪えざるものあるを此日偶々其憂心を散せん爲め此處の山上に酒宴を張り、彼等が得意のプンラク舞を興しより、それがヒウラク舞とて後世まで傳へられし遺風であらう。
丸田寅馬
此處は黒牟田の外丸尾や幸など、有田と同じき地名あるは何か關係があるかも知れぬ。此幸平には今九田寅馬が種々の雅品を製してゐる、それには飴釉に渦刷毛目を施し是に櫛目波紋を現はせし茶碗や、栗色釉の内部だけに波刷毛目を施せし茶碗などがある。
黒牟田の現製品
現時黑牟田の製品は多く下手物にて、湯婆、植木鉢、茶出、浅瓶等の製作者が四戸、又植木鉢、胡麻熬、胎盤壺等の焙烙焼が八戸にて、年産額一萬圓を出でであらう。而して原料は若木村本部の土及中通村三間坂の土などが調製されてゐる。
西の角
黒牟田の窯焼丸田大四郎、江口大吉 丸田松三、丸田友次郎等は真手野の西の角(内田より六七町、三間坂驛より十五六町の里程にて戸數十四五戸)に開窯し、植木鉢、擂鉢、徳利などを製造せしが廢窯に帰し、二拾年前同地の江口博之助來つて再興し五ヶ年にして止みしを、次に又木下安一來つて復興せるが、昭和四年全く廢滅に帰したのである。
安田原
武内村眞手野の多々良(内田より一里半、三間坂驛より二里以上あり、戸數七十戸)には、安田原と西岳の二ヶ處に古窯趾がある。 安田原の殘缺は重に鼈甲釉にて、或は青茶釉や褐色地に鐵粉点のある茶碗が多く焼かれてゐる。そして何れも無釉高臺にて、新月形の螺尻になつてゐるのが少くない。又此山上には山の神として高麗神を祀ってある。
西岳
西岳は全く甕類専門に焼きものゝ如く、此處の山裾なる檜原の下には當時大規模に製造されし多くの殘缺が散亂してゐる。なほ其下手には此處の邑主西岳壹岐守の墳墓がある。
多々良甕山
現今多々良の甕山と稱するは、なほ北部桃の川より近き半里許りの地に於いて製造されてゐる。種類は甕の外土管、植木鉢、擂鉢、捏鉢、蒸甕(古代の形なるべし)等にて、此處もすでに百年以前の創業に成り、窯元には山口文八外三戸にて年産額三千圓位といはれてゐる。
川古窯
若木村川古の古窯には、甕屋の裏の外山中にて見上の尾、戸別當、火口谷、商人山、窯の谷左、窯の谷右等ありて現在製造するところは一戸もない。川古は高橋驛より一里二十町の里程にて、往時は澁江右馬頭公勢が領地なりしが、乳母が末子公親(母は鬼子嶽城主波多氏の女)を後嗣にせんと企みし策動より、武雄の後藤純明に日鼓山城を攻落されしも、重臣馬渡甲斐守俊明下村の舘に在りて此地を支配せしが、天文十二年十二月二十六日純明の軍押寄せ來り、俊明遂に戸坂山に戦死せしより、爾後藤氏の管下に属するに至つた。
甕屋の裏と見上の尾
甕屋の裏と稱する慮は甕類専門の古窯なりし如く、往年既に滅して今其窯趾さへ知る者稀である。見上の尾の古窯品には灰色釉や飴色釉茶碗の外、栗色釉に白刷毛目を施高臺無釉の深皿などがある。尤も川古焼の代表作品は窯の谷にて此遊は戸數三十四戸、街道端に馬渡俊明の建碑があり、此處を三丁許り山奥へ上れば窯の谷左窯である。そして大形なる窯趾と見るべきが三十間位登りしがあり、其近傍には無數の殘缺が散亂してゐる。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
武内の磁器づくりは、何度挑んでも完成品に至るのが難しく、それも当然だった。肥前各地の窯場を見て回った三河内の今村三之亟が明言したように、武内での磁器製作の開始は寛永六年とみられ、これは宗傳の死後十二年に当たる。
軟質の原料で失敗を重ねたのち、領主茂綱(家信の子)の許可を得て、内田の同族は有田への移住を決断した。大人数の移転である以上、武雄領主から本藩へ交渉があったのは確実であり、本藩でも陶工大淘汰以前の時期で徴税の都合から、直ちに許可が下りたと考えられる。これは磁器試作後一、二年のうち、寛永七〜八年頃に行われたと見るのが妥当だろう。
未亡人は住み慣れた内田を引き払い、平左工門をはじめ同族の職人九百六十人を率いて有田の稗古場へ移った。彼女が尋常ならぬ胆力の持ち主だったことが窺える。その後も有田で磁器生産者として相応の地位にあったらしく、いま稗古場の觀音巖の霊廟には、金ヶ江氏と並んで深海氏の名が刻まれている。
この女丈夫、すなわち百婆仙は明暦二年三月十日(1656年、李參平の没後四年)に九十六歳で逝去した。報恩寺境内にある百婆仙の墓碑、すなわち前掲の萬了妙泰道婆の塔がそれである。(深海家の略系は別掲)
五代市郎は長男平左工門、次男森右エ門ではなく、三男を六代市郎として宗家を継がせた。彼が抜きん出た名工だったからだろう。六代市郎の代には、臨時ながら宮中の御用品を謹製したことがあり、当時の御用命書に次のような記載が見える。
「個/一品柄 個数/金子仕拂の事/鷹司邸 鈴木左工門大尉印/肥前有田皿山/深海市郎殿」
内田と黒牟田には、古くから「ヒウラク舞」という風習があった。旧暦三月十五日には、家族総出で蒿飯や酒肴を整え、二本の大竹に名を書いた短冊を結び付けて立て、両集落の間にある岳の古場へ登って、三味線や太鼓で歌い踊り尽くす。秋の十月十五日にも必ず頂上で遊楽したが、のちに山上が植林されて中止となった。
このヒウラクは、朝鮮の風樂が変化したものと思われる。韓土では八月十五日に当年の初穂を分け、名月を楽しんで宴を張り、そのとき風樂を舞うという。わが国の新嘗祭にも似ている。正月十五日にも先祖の墓を掃除し、やはり盛宴と舞い、諸儀式が行われるといわれる。遠い故郷を離れて渡来した韓人たちが、折に触れて募る望郷の念を晴らすため、この日に山上で酒宴を開き、得意のプンラク舞を披露したのが、ヒウラク舞として後世に伝わった遺風なのだろう。
このあたりには黒牟田のほか、丸尾や幸など、有田と同じ地名もあり、何らかの関係があったのかもしれない。幸平では今、九田寅馬がさまざまな雅趣の品を作っており、飴釉に渦刷毛目と櫛目の波文を表した茶碗や、栗色釉で内側だけに波刷毛目を施した茶碗などがある。
現在の黒牟田の製品は多くが下手物で、湯婆・植木鉢・茶出・浅瓶などを作る家が四戸、また植木鉢・胡麻熬・胎盤壺などの焙烙焼が八戸で、年産額は一万円ほどだという。原料は若木村本部の土や中通村三間坂の土などを調合している。
黒牟田の窯焼である丸田大四郎・江口大吉・丸田松三・丸田友次郎らは、真手野の西の角(内田から六〜七町、三間坂驛から十五〜十六町、戸数十四〜十五戸)に開窯し、植木鉢・擂鉢・徳利などを製造したが廃窯となった。二十年前に同地の江口博之助が再興して五年でやめ、次いで木下安一が復興したものの、昭和四年に全く廃滅した。
武内村真手野の多々良(内田から一里半、三間坂驛から二里余、戸数七十戸)には、安田原と西岳の二か所に古窯跡がある。安田原の出土は鼈甲釉が多く、ほかに青茶釉や褐色地に鉄粉点のある茶碗が多く焼かれている。いずれも高台は無釉で、新月形の螺尻が少なくない。山上には山の神として高麗神を祀っている。
西岳は甕類専門で焼いていたらしく、山裾の檜原の下には、当時大規模に製造された多くの破片が散乱している。またその下手には、ここの邑主・西岳壹岐守の墓がある。
現在「多々良甕山」と呼ばれる所でも、北の桃の川に近い半里ほどの地点で製造が続いている。品目は甕のほか、土管・植木鉢・擂鉢・捏鉢・蒸甕(古代の形とみられる)などで、ここも創業はすでに百年以上前。窯元は山口文八ほか三戸で、年産約三千円とされる。
若木村川古の古窯には、甕屋の裏のほか、山中の見上の尾・戸別當・火口谷・商人山・窯の谷左・窯の谷右などがあり、現在は製造している家は一戸もない。川古は高橋驛から一里二十町。往時は澁江右馬頭公勢の領地であったが、乳母が末子の公親(母は鬼子嶽城主波多氏の女)を後継にしようと企んだ策動から、武雄の後藤純明に日鼓山城を攻め落とされた。重臣の馬渡甲斐守俊明は下村の館にあってこの地を支配したが、天文十二年十二月二十六日、純明の軍勢が押し寄せ、俊明は戸坂山で戦死し、その後この地は後藤氏の管下となった。
「甕屋の裏」と呼ぶ場所は甕類専門の古窯だったようで、すでに失われ、窯跡を知る者も稀である。見上の尾の古窯品には、灰色釉や飴色釉の茶碗のほか、栗色釉に白刷毛目、高台無釉の深皿などがある。川古焼の代表作は「窯の谷」にあり、ここは戸数三十四戸。街道端に馬渡俊明の碑が建ち、そこから三丁ほど山奥に入ると窯の谷左窯である。大規模な窯跡と見られるものが三十間ほど連なり、その近辺には無数の破片が散らばっている。
【英語訳】[English translation]
Founding period of Takeuchi porcelain
Despite repeated attempts, it was only natural that achieving finished porcelain proved difficult. As Imamura Sannojō of Mikawachi—who surveyed the kiln mountains of Hizen—asserted, production of porcelain at Takeuchi dates to Kan’ei 6, twelve years after Sōden’s death.
After many failures with soft raw materials, permission was obtained from the lord Shigetsuna (son of Ienobu), and the Uchi-da kin group resolved to relocate to Arita. Given the scale of the move, negotiations must have passed from the Takeo lord to the main domain; since this was before the great cull of potters, the domain, for tax reasons, likely granted approval at once. This relocation seems to have occurred a year or two after the porcelain trials, around Kan’ei 7–8.
The widow left familiar Uchida, leading Heizaemon and 960 related craftsmen to move to Arita’s Hiekoba—evidence of her exceptional resolve. She appears to have held a respectable position in Arita as a porcelain producer; at the Hiekoba Kannon-iwa mausoleum, the name Shinkai stands carved alongside Kanegae.
This stalwart woman—Hyakubasen—died on March 10, Meireki 2 (1656), four years after the death of Yi Sampyeong, at the age of ninety-six. Her grave, the stela of Manryō Myōtaidōbō, stands in the Hōonji precincts. (For the Shinkai lineage, see the abbreviated genealogy.)
The fifth Ichirō bypassed his first son Heizaemon and second son Moriemon to have the third son succeed as the sixth Ichirō—the family head—presumably because he was an outstanding potter. In his time, though only on a temporary commission, utensils for the Imperial Court were made; an order of the period reads:
“Item / kind — quantity / payment in gold / Takatsukasa residence — sealed by Captain Suzuki Sakoemon / Hizen Arita Sarayama / To Mr. Shinkai Ichirō.”
In Uchida and Kuromuta there was long a folk custom called the “Hiuraku dance.” On the fifteenth day of the third lunar month, all households prepared mugwort rice and viands; they stood two tall bamboos hung with name slips, climbed to the old kiln site on the ridge between the two villages, and sang and danced with shamisen and drums. On the fifteenth of the tenth month they likewise made holiday at the summit, but after later reforestation on the mountain the custom ceased.
This Hiuraku likely evolved from Korean pungnyak: in Korea on the fifteenth of the eighth month, people distribute the year’s first sheaves, feast under the bright moon, and dance to court music—akin to Japan’s Niiname-sai. On the fifteenth of the first month they clean family graves and again hold feasts and dances with various rites. It seems that Koreans who had crossed to this foreign land, unable at times to suppress homesickness, held banquets on the mount on those days and performed their favored Punraku dance, which survived as the Hiuraku dance.
Besides Kuromuta, place names such as Maruo and Sachi match those in Arita, perhaps indicating a tie. In Kōhei today, Kuda Torama makes refined wares—bowls with amber glaze and spiral brushwork over which combed wave patterns appear, and bowls whose interiors alone bear wave brushwork in chestnut glaze.
Modern Kuromuta mainly produces utility wares: four households make yutampo, flowerpots, teacaddies, and shallow jars; eight households fire hŏraku wares such as flowerpots, sesame roasters, and “taiban” jars, with an annual output around 10,000 yen. Clays are blended from Wakaki-mura Motobu and Nakadōri-mura Mikamasaka.
Maruta Daishirō, Eguchi Daikichi, Maruta Matsuzō, Maruta Tomojirō and others from Kuromuta opened kilns at Nishi-no-kado in Mate-no (6–7 chō from Uchida; 15–16 chō from Mikamasaka Station; 14–15 households), producing flowerpots, mortars, and sake flasks, but the kilns fell idle. Eguchi Hiro-nosuke revived them twenty years ago and ceased after five years; Kinoshita An’ichi revived them again, but in Shōwa 4 they were completely abandoned.
In Tate’no of Mate-no in Takeuchi village (1.5 ri from Uchida; over 2 ri from Mikamasaka Station; 70 households), two old kiln sites remain: Yasudahara and Nishidake. Sherds from Yasudahara are mostly tortoiseshell glaze; many bowls bear blue-brown glazes or brown bodies with iron specks. All have unglazed footrings, often with crescent-shaped spiral “tail” marks. A Koma-gami (Koryō deity) is enshrined on the mountaintop.
Nishidake appears to have specialized in jars; beneath the mountain’s cypress grove lie heaps of large-scale production sherds. Downhill stands the tomb of the local lord, Nishidake Ikino-kami.
What is now called the “Tadara Jar Mountain” still produces near the north, about half a ri from Momo-no-kawa. Besides jars, they make earthen pipes, flowerpots, mortars, kneading bowls, and steaming jars (of ancient form). The enterprise dates back over a century; with Yamaguchi Bunpachi and three other kilns, annual output is said to be about 3,000 yen.
At the old kilns of Kawago in Wakaki-mura—behind the jar makers and in the hills—are Miage-no-o, Tobettō, Hōguchi-dani, Shōnin-yama, Kama-no-tani (left), and Kama-no-tani (right). None are active today. Kawago lies 1 ri 20 chō from Takahashi Station. Formerly it belonged to Shibue Umanokami Kimise, but due to the wet nurse’s plot to make the youngest son Kimoshi (his mother a daughter of Hata of Oniko-dake) the heir, Gotō Sumiaki of Takeo captured Nikkozanyama Castle. The retainer Mawatari Kai-no-kami Toshiaki governed from the manor at Shimomura, but on December 26, Tenmon 12, Sumiaki’s army advanced; Toshiaki fell at Tosakayama, and thereafter the district came under Gotō control.
The place called “Behind the Jar Makers” seems to have been a jar-specialty kiln long since lost; few now know the kiln site. Sherds from Miage-no-o include gray- and amber-glazed bowls and deep plates in chestnut glaze with white brushed slip and unglazed footrings. Representative Kawago ware comes from “Kama-no-tani”: the hamlet has 34 households, with a stele to Mawatari Toshiaki by the roadside. Climbing some three chō into the hills stands the left kiln of Kama-no-tani; considerable kiln foundations extend for about 30 ken, and innumerable sherds lie scattered nearby.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
武内瓷器的创始期
武内的制瓷多次尝试而难成器,这是情理之中。正如走访肥前诸窑的三河内今村三之亟所言,武内开始制瓷应在寛永六年,距宗傳去世十二年。以软质原料屡试屡败之后,在领主茂綱(家信之子)的许可下,内田同族决意迁往有田。因人数众多,武雄领主必与本藩交涉;本藩亦在陶工大淘汰之前,出于征税考虑,立刻准许。大约在试作后一两年,即寛永七、八年间实施。
未亡人撤离久居的内田,率平左工门及同族工人九百六十人迁至有田稗古场,其胆识非常。不久她在有田亦据有相当地位。今在稗古场觀音巖的陵所,深海氏之名与金ヶ江氏并列镌刻。
这位女丈夫百婆仙于明暦二年三月十日(1656,李參平逝后四年)以九十六岁高龄卒。其墓碑即报恩寺境内之萬了妙泰道婆塔。(深海家略系另见)
五代市郎未以长子平左工门、次子森右エ门承家,而令三子为六代市郎继宗家,盖其为一流名工。六代市郎时,曾临时恭制宫中御器。其时的御用命书载曰:「个/一品柄 个数/金子支付事/鷹司邸 鈴木左工门大尉印/肥前有田皿山/深海市郎殿」。
内田与黒牟田自古有「ヒウラク舞」之俗。旧历三月十五日,村人备蒿饭与酒肴,立两竿大竹系名札,登两村之间之岳古场,以三味与太鼓极尽歌舞。十月十五日亦必登顶游乐,后因山上造林而停。
此舞疑为朝鲜风樂之变体。韩土八月十五日分初穗、赏明月、设宴并舞风樂,近似我国新尝祭。正月十五日亦修墓扫塚、设盛宴而舞,行诸仪。远离故园来此的韩人,于此日登山设宴,表演所长之プンラク舞,遂传为「ヒウラク舞」。
其地除黒牟田外,尚有丸尾、幸等与有田同名地名,或相关。幸平今有九田寅马制雅器,如飴釉配渦刷毛目并出櫛目波纹之碗,或栗色釉仅内壁施波刷毛目之碗。
今黒牟田多为下手物:四户制湯婆、植木鉢、茶出、浅瓶;八户烧焙烙(植木鉢、胡麻熬、胎盤壶等),年产额约一万元。原料调配自若木村本部土与中通村三间坂土。
丸田大四郎、江口大吉、丸田松三、丸田友次郎等于真手野「西之角」(距内田六七町,距三间坂驿十五六町,十四五户)开窑,制植木鉢、擂鉢、徳利等,后废。二十年前江口博之助再兴,五年而止;继而木下安一复兴,至昭和四年全废。
武内村真手野多々良(距内田一里半,距三间坂驿二里余,七十户)有安田原与西岳两处古窑址。安田原出土多鼈甲釉,亦有青茶釉与褐色胎带铁粉点之碗;皆高台无釉,螺尾作新月形。山顶祀高丽神为山神。
西岳似专烧甕类。山麓檜原下散布当年大规模生产之破片;其下手有邑主西岳壹岐守之墓。
今所谓「多々良甕山」仍在北侧近桃之川半里处生产。除甕外,尚制土管、植木鉢、擂鉢、捏鉢、蒸甕(似古式)。创始已逾百年,窑元为山口文八等三户,年产约三千元。
若木村川古古窑:除「甕屋之裏」,山中尚有见上之尾、戸別當、火口谷、商人山、窑之谷左、窑之谷右,今无在产。川古距高桥驿一里二十町。昔属澁江右马头公势,因乳母谋立幼子公亲(母系鬼子嶽波多氏女)为嗣,被武雄后藤純明攻陷日鼓山城。重臣马渡甲斐守俊明据下村之馆治此地;天文十二年十二月二十六日純明军至,俊明战殁于戸坂山,尔后属后藤氏。
「甕屋之裏」疑为甕类专窑,今已亡佚,知其址者寡。见上之尾出土有灰、飴釉茶碗及栗釉配白刷毛目、高台无釉之深盘。川古烧代表作在「窑之谷」,今三十四户;街道旁立马渡俊明碑。自此入山三町即至窑之谷左窑,约三十间之大型窑趾连缀,附近散落无数破片。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
武內瓷器之創始期
武內製瓷屢試難成器,情理所當然。依三河內今村三之亟之言,武內始製瓷在寛永六年,距宗傳卒十二年。以軟質原料屢敗後,得領主茂綱(家信之子)允許,內田同族決意遷往有田。緣人數眾多,武雄領主必與本藩交涉;本藩亦因稅務,在陶工大淘汰之前即予許可。概在試作後一二年,寛永七、八年間。
寡婦撤離素居之內田,率平左工門及同族工匠九百六十人移稗古場,其膽略可知。其後於有田亦具相當地位。今於稗古場觀音巖之陵所,深海氏與金ヶ江氏並列刻名。
此女丈夫百婆仙於明曆二年三月十日(1656,李參平卒後四年)以九十六高齡卒。其墓碑即報恩寺境內萬了妙泰道婆塔。(深海家略系另見)
五代市郎不以長子平左工門、次子森右エ門繼家,而以三子為六代市郎承宗家,蓋其名陶之冠。六代市郎時曾臨時恭製宮中御器。其時御用命書曰:「個/一品柄 個數/金子支付事/鷹司邸 鈴木左工門大尉印/肥前有田皿山/深海市郎殿」。
內田、黒牟田素有「ヒウラク舞」之俗。舊曆三月十五日,舉村備蒿飯酒肴,立二大竹繫名札,登兩村之間岳之古場,以三味、太鼓極盡歌舞。十月十五日亦登頂遊樂,後因山上植林而止。
此舞疑為朝鮮風樂之轉化。韓土八月十五日分初穗、賞明月、設宴而舞,近似我國新嘗祭。正月十五日亦修墓掃塚,設盛宴而舞,行諸儀。遠離故園之韓人,於此日登山設宴,演其所長之プンラク舞,因而傳為「ヒウラク舞」。
其地除黒牟田外,尚有丸尾、幸等與有田同名之地,或相關。幸平今有九田寅馬造雅器,如飴釉渦刷毛目並出櫛目波文之碗,或栗色釉僅內施波刷毛目之碗。
今黒牟田多下手物:四戶製湯婆、植木鉢、茶出、淺瓶;八戶燒焙烙(植木鉢、胡麻熬、胎盤壺等),年產約一萬元。原料調自若木村本部土及中通村三間坂土。
丸田大四郎、江口大吉、丸田松三、丸田友次郎等於真手野「西之角」(距內田六七町,距三間坂驛十五六町,十四五戶)開窯,製植木鉢、擂鉢、德利等,後廢。二十年前江口博之助再興,五年而止;繼之木下安一復興,至昭和四年全廢。
武內村真手野多々良(距內田一里半,距三間坂驛二里餘,七十戶)有安田原與西岳二古窯址。安田原出土多鼈甲釉,亦有青茶釉及褐胎鐵粉點之碗;皆高臺無釉,螺尾作新月形。山頂祀高麗神。
西岳似專燒甕類。山麓檜原下散布當年巨量製造之破片;其下手有邑主西岳壹岐守之墓。
今所稱「多々良甕山」仍於北側近桃之川半里處生產。除甕外,尚製土管、植木鉢、擂鉢、捏鉢、蒸甕(似古式)。創業已逾百年,窯元山口文八等三戶,年產約三千圓。
若木村川古古窯:除「甕屋之裏」,山中尚有見上之尾、戸別當、火口谷、商人山、窯之谷左、窯之谷右,今無在產。川古距高橋驛一里二十町。昔屬澁江右馬頭公勢,因乳母謀立幼子公親(母系鬼子嶽波多氏女)為嗣,被武雄後藤純明攻陷日鼓山城。重臣馬渡甲斐守俊明據下村之館治此地;天文十二年十二月二十六日純明軍至,俊明戰殁於戸坂山,爾後屬後藤氏。
「甕屋之裏」疑甕類專窯,今已亡佚,知其址者寡。見上之尾出土有灰、飴釉茶碗及栗釉配白刷毛目、高臺無釉之深皿。川古燒代表作在「窯之谷」,今三十四戶;街道旁立馬渡俊明碑。由此入山三町即至窯之谷左窯,約三十間之大型窯趾相連,近旁散落無數破片。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
武内瓷器的创立时期
尽管反复尝试,武内制瓷难以成器并不意外。三河内的今村三之亟考察肥前诸窑后称,武内制瓷始于寛永六年,距宗傳去世十二年。多次以软料试作失败后,在领主茂綱(家信之子)许可下,内田同族决定迁往有田;规模甚大,应经武雄领主与本藩交涉,本藩出于税收在陶工大淘汰前即予批准,约在试作后一两年(寛永七至八年)。
寡妇离开内田,率平左工门与九百六十名同族工匠迁至有田稗古场,显见其魄力。她在有田也有相当地位;稗古场觀音巖陵所刻有深海氏与金ヶ江氏之名。
百婆仙于明暦二年三月十日(1656,李參平卒后四年)以九十六岁卒。其墓即报恩寺境内萬了妙泰道婆塔。
五代市郎不以长子平左工门、次子森右エ门承家,而以三子为六代市郎继宗家,显其名工之才。其代曾临时制御用器。命书载:“品目—数量/以金支付/鷹司邸 鈴木左工门大尉印/肥前有田皿山/深海市郎殿”。
内田、黒牟田旧有“ヒウラク舞”:农历三月十五日,立竹挂名札,登两村之间古场,以三味线与太鼓歌舞;十月十五日亦如之,后因造林而止。此舞或源自朝鲜“风樂”:八月十五日分初穗、赏月设宴而舞,似日本新尝祭;正月十五日修墓再宴。渡来韩人或以此排遣乡愁,所擅“プンラク舞”遂传为“ヒウラク舞”。
地名如丸尾、幸与有田相同或有渊源。幸平的九田寅马制雅器:飴釉渦刷毛目并櫛目波纹之碗,或栗釉仅内壁施波刷毛目之碗。
今黒牟田多下手物:四户制湯婆、植木鉢、茶出、浅瓶;八户烧焙烙(植木鉢、胡麻熬、胎盤壶),年产约一万元。原料取自若木村本部与中通村三间坂之土。
丸田大四郎、江口大吉、丸田松三、丸田友次郎等在真手野“西之角”(距内田6–7町,距三间坂驿15–16町,14–15户)开窑,制植木鉢、擂鉢、徳利,后废;江口博之助二十年前再兴五年即止,继之木下安一复兴,至昭和四年全废。
真手野多々良(距内田1.5里,距三间坂驿2里余,70户)存安田原与西岳二古窑。安田原多鼈甲釉,亦有青茶釉与褐胎铁粉点之碗;皆高台无釉,常见新月形螺尾。山上祀高丽神。
西岳似专烧甕;檜原下散布大量旧片;下方有邑主西岳壹岐守墓。
今“多々良甕山”仍产于北侧近桃之川半里处;除甕外制土管、植木鉢、擂鉢、捏鉢、蒸甕(古式)。创立逾百年,窑元山口文八等三户,年产约三千元。
若木村川古古窑:除“甕屋之裏”,山中有见上之尾、戸別當、火口谷、商人山、窑之谷左、右,今皆不产。川古距高桥驿一里二十町。昔属澁江右马头公势;因乳母谋立幼子公亲(母为鬼子嶽波多氏女)为嗣,被武雄后藤純明攻陷日鼓山城。重臣马渡甲斐守俊明据下村治之;天文十二年十二月二十六日纯明军至,俊明战殁戸坂山,此地遂属后藤氏。
“甕屋之裏”疑为甕专窑,今已湮没;见上之尾出灰、飴釉碗及栗釉白刷毛目、高台无釉之深盘。川古烧代表在“窑之谷”,34户;路旁立马渡俊明碑。自此入山三町至“窑之谷左窑”,约三十间之大窑趾相连,四周碎片遍地。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
武內瓷器之創立期
反覆試作難成器,於武內製瓷並不意外。三河內今村三之亟勘諸肥前窯山稱其始於寛永六年,距宗傳卒十二年。以軟料屢敗後,得領主茂綱(家信之子)許可,內田同族決遷有田;規模浩大,當經武雄領主與本藩交涉,本藩為稅務於陶工大淘汰前即准之,約在試作後一二年(寛永七至八年)。
寡婦撤內田,率平左工門與九百六十同族工匠遷稗古場,見其魄力。其於有田亦具地位;觀音巖陵所刻深海氏與金ヶ江氏並列。
百婆仙明曆二年三月十日(1656,李參平卒後四年)九十六卒。墓在報恩寺境內萬了妙泰道婆塔。
五代市郎不以長子平左工門、次子森右エ門承家,而立三子為六代市郎,蓋名工也。其時臨時製御用器。命書曰:「品目—數量/金子給付/鷹司邸 鈴木左工門大尉印/肥前有田皿山/深海市郎殿」。
內田、黒牟田素有「ヒウラク舞」:農三月十五日立竹掛名札,登兩村間古場,以三味與太鼓歌舞;十月十五日亦然,後因植林而止。其或本於朝鮮風樂:八月十五日分初穗、賞月設宴而舞,類我新嘗祭;正月十五日修墓復宴。渡來韓人或以此排鄉愁,所擅「プンラク舞」遂傳為「ヒウラク舞」。
地名如丸尾、幸與有田同,或有淵源。幸平之九田寅馬制雅器:飴釉渦刷毛目並櫛波之碗,或栗釉僅內施波刷毛目之碗。
今黒牟田多下手物:四戶製湯婆、植木鉢、茶出、淺瓶;八戶燒焙烙(植木鉢、胡麻熬、胎盤壺),年產約一萬元。料取若木村本部及中通村三間坂之土。
丸田大四郎、江口大吉、丸田松三、丸田友次郎等於真手野「西之角」(離內田6–7町,離三間坂驛15–16町,14–15戶)開窯,製植木鉢、擂鉢、德利,後廢;江口博之助二十年前再興五年而止,繼之木下安一復興,至昭和四年全廢。
真手野多々良(離內田一里半,離三間坂驛二里餘,70戶)有安田原與西岳二古窯。安田原多鼈甲釉,亦有青茶釉與褐胎鐵粉點之碗;皆高臺無釉,常見新月形螺尾。山上祀高麗神。
西岳似專甕;檜原下散舊片叢積;下方有邑主西岳壹岐守墓。
今「多々良甕山」仍於北側近桃之川半里生產;除甕外製土管、植木鉢、擂鉢、捏鉢、蒸甕(古式)。創於百餘年前,窯元山口文八等三戶,年產約三千圓。
若木村川古古窯:除「甕屋之裏」,山中有見上之尾、戸別當、火口谷、商人山、窯之谷左、右,今皆不產。川古距高橋驛一里二十町。昔屬澁江右馬頭公勢;因乳母謀立幼子公親(母為鬼子嶽波多氏女)為嗣,為武雄後藤純明所攻落日鼓山城。重臣馬渡甲斐守俊明據下村治之;天文十二年十二月二十六日純明軍至,俊明殞於戸坂山,後歸後藤氏。
「甕屋之裏」疑甕專窯,今亡佚;見上之尾出灰、飴釉碗及栗釉白刷毛目、高臺無釉之深皿。川古燒代表在「窯之谷」,三十四戶;路旁立馬渡俊明碑。自此入山三町至「窯之谷左窯」,約三十間之大窯趾相連,四周破片漫地。

