【原文】[Original text]
藤津系 嬉野窯
嬉野氏
藤津の莊嬉野は、正曆五年(995年)大村直澄が彼杵、高木、藤津の三莊を支配せし當時の領地にて、以前は其支族の大村氏を能古見に配し、嬉野氏を嬉野に居らしめて東西の兩鎮とした。抑も嬉野氏の祖先は、藤原鎌足十三世摂政関白太政大臣教通より出でしものにて崇徳天皇の大治年間(1126-1131)教通五代の孫藤原幸通肥前権守に任じて養父の綾部城主となり、二條天皇の平治元年(1159)肥前の總追補使と成ったのである。
其子日向太郎通良亦同じく總追補使となりて神崎領せが、當時の権柄清盛に叛き、永暦七年(1167年)平家方の將平家貞と戰ひ死して梟首された。其子通盆に至つて後鳥羽天皇の文治三年(1188年)杵島莊白石を領し、之より代々稲佐郷の地頭職となつた。それより六代白石六郎道恭(贈従四位)は龍造寺季盆、草野永等と共に弘安の外寇と戰ひ、偉勳を奏して嬉野を併領するに至ったのである。
宇禮志野を姓とす
通恭より七代越前介通臣は文中三年足利勢と戰ひ死し、其子彌太郎通晴は、藤津莊宇禮志野に居住して姓となし宇禮志野祐三と称した、曾孫通久に至り高來の領主有馬仙巖の旗下となりしが、彼は領内大草野に十六善神を經營し或は河瀬に寶積寺を建立した。そして亦元文年間權現山に築造せしものが湯之田城である。其子通盆の時龍造寺隆信に属し宇禮志野を嬉野に改めしといはれてゐる。嬉野系岡左の如くである。
別派の嬉野氏
然るに嬉野系には又別派ありてそれは高來の有馬治部大輔澄通の後裔萬五郎通次なる者、有馬氏の旗下さして宇禮志野治郎少輔と改め、南袴野、宇土手、河瀬、庭木、神六、小田志大草野及び北南今川より西五百三十町を領有して天正元年九月八日卒し、長子刑部大輔通治又同じ岩屋の城主なりし云々との一説がある。
而して前記の嬉野氏が支配せし範圍も亦吉田、宇土手 河瀬、庭木、神六 小田志、大草野、今川に及び、天正四年九月九日嬉野直通(通稱通治とあり)は、柄崎の後藤貴明と戰ひ嬉野下宿に於いて戦死せし稱せられ。有馬系の通治は同六年十二月後藤貴明と岩谷城外に戰ふ云々と傳へられて、何れが正當なりや精しくはなほ考可であらう。
嬉野焼の區域
今茲に嬉野焼として記述するものは、前記の如く杵島郡の東西川登と、藤津郡の全部を指せ各山である。東西川登地方は後藤氏の領域なるも、時折兩郡領主の争奪地なりしが如く、而して此處の内田、袴野、弓野、庭木、小田志の古窯品か、全く武内と相似たるものあるを以て、畢竟後藤家信に從ひ來りし韓人の分布なりの説は肯定の價あるも、此地方が奮嬉野領であり且嬉野焼の開窯中には尚頗る往時に渉れるものあるを以て、特に藤津系として記述することにせしものである。
杵島郡部の古窯にては東川登の内田を最古とし藤津郡部に於いては塩田の大草野と、嬉野の不動山を以て最古の開窯せらる。而して之を地理順により杵島郡より記述せんに、東川登は南北朝時代既に相當の集落をなせしもの如く、袴野の貴船神社の石鳥居などは村社としては見る可き建造物であり、そしてそれには元享元年(1321年)後藤兵庫頭光明(武雄十一代の領主)祈山刻まれてある。
内田の皿屋
永野の内田の古窯地は武雄より一里二三丁にて、此處の高麗神と稱する韓人墓は、街道より四丁許り横の谷奥なる皿屋谷にある。其嘘の奥山家の脊戸を登れば、山腹に高さ三尺餘りの長方形自然石が建られてあり、その頭部が烏帽子形に斜に成ってゐる。
内田高麗神の碑考
碑面の右方は寛永元年(1624年)と記され、左方には十月二十日施主敬白と記されてある。そして中央なる奉の字の下に「建立ス池春石升已禪定尼伏詐若祖也(不明の字多し推讀也)とあるが、禪定の銘あるは婦人なるべく、或は文祿慶長の朝鮮役後に渡せし韓人の妻であらう。此處の窯跡には既に一と抱へほど成長し梨樹あるを見れば、相當の年代を經しに相違ない。
川登内田の古窯品
此古墳は元谷奥の頭にありしを、其處に溜池を築造する際浦川榮作なる農人が、我家の脊戸山に移せしものである。此山裾が古窯の窯頭に當ると覺しく、此處の竹林を漁れば薄青地や、灰色釉又は鶯茶釉飴釉、黒茶釉、赤茶釉、飴釉等の茶碗や小皿があり。小皿には深形や形及突底があり、總て高台の無釉部頗る弘く、中には蜷尻のものも雜り、或は縮緬の生せしものもある。
又飴色釉や灰色釉の七寸皿にて、ゆりの廣線に蹴猫にてギリを廻はし、底には二三本芦を描きしものや、又茶碗や小皿には厳ともつかぬ草の穂先を曲げし如き拙な鐵描があり。或は薄飴釉の八寸皿に得体の知れぬ草の如き模様がある。そして凡てに於いて頗る元始的な作風である。
忠平谷
内田の忠平谷に於いて、此地數人の農家が合資を計り、有田稗古場の元窯焼中島忠作を招聘し、此地(今東川登村役場の裏)をして五六間の登窯を築造し、有田や小田志より工人を招きて磁器を製せしものにて、原料は天草石を用ひ、製品には捺染型打染附の火鉢、丼、皿、鉢、平碗、花立等凡て下手物を製造し、伊萬里市場にて販賣せしが、四五年にして廢窯したのである。
袴野甕屋
前記內田皿屋の分窯が袴野の甕屋谷といはれてゐる、蓋し此處は全く石器質の甕のみを製作しが如く、採掘すれば其破片のみが現出する。此處も相當の年代を經しことは、當時の窯江口勘右工門の墓に正保五年とあり、此江口系が又弓野に分窯して其處にても甕を焼いたものらしい。以上が東川登村にある古窯地で現在製陶する者は皆無である。
弓野山
次は西川登村の弓野山である、此處は今八十戸の村落にて、寛永年間前記の内田及袴野より分窯せしといはれてゐる。古窯品には栗色地に白化粧を掛け鐡釉にて繪刷毛をし、それに青藥を流せし大皿があり。又白化粧地に松を青薬に盛り、技幹のみ鐵描にて面白く文せる水甕などは、全く武雄系の川古の谷と同技工にて、又之が筑後國三池の二川焼に摸寫されてゐるのである。
庭切擂鉢
而して此地の製品は幾許もなく、甕や擂鉢などの下手物製作に移りしもの如く、今庭木や小田志の如き技巧品の殘缺が頗る乏しき所以である。其當時より庭木、小田志よりも格式一段下位にありしことは、同じ擂鉢製作に就いても小田志物には高台造りありしに封し、弓野物には庭切と稱して高台附を赦されず、乃ち糸切でありしなど、如何にも藩制時代の階級的區別のさまが窺ばれる。
弓野の目茶漬
隣地神六山の磁石が発見されしより、有田の製磁法に做らひ薄鼠色の軟質磁器を製造した。それは重に目茶積と稱し反形碗の底を蛇の目に剝釉して重ね積をしたのである。此時從來の古窯の外に上窯が出来、次に下窯が築造されたのである。斯くて天草石使用發見より之を神六の地土と混用することゝなり、一時非常に盛業を極めしも逐年衰退して轉業する者多く、まさに明滅の境地にあったのである。
江口龜次郎
愛に筑前福岡大名町なる原田卯右工門の次男龜次郎といへる者、博多人形の細工師藤原清重に入門して其技法を學びしが、後年田舎廻りの細工師として放浪の末、藤津郡吉田山に漂泊してゐたのである。折柄弓野の中村佐平、中尾文左工門の二人が或動機より龜次郎を弓野山へ同伴せしを、奥川權左工門之を自宅に招き、始めて造らせしものが今の弓野人形の濫觴にて、是れ實に明治十五年であつた。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
藤津系の嬉野窯について。
まず嬉野氏。藤津の荘・嬉野は、正暦五年(995)に大村直澄が彼杵・高木・藤津の三荘を支配したときの所領である。それ以前は一族の大村氏を能古見に、嬉野氏を嬉野に置いて、東西二つの拠点とした。嬉野氏の祖は藤原鎌足十三世の流れに連なる摂政関白太政大臣・教通の一門で、崇徳天皇の大治年間(1126–1131)に、教通の五代の孫・藤原幸通が肥前権守に任じられ、養父の綾部城主となり、二條天皇の平治元年(1159)には肥前の総追捕使となった。
その子・日向太郎通良も総追捕使となって神崎を領したが、当時権勢を振るった清盛に叛き、永暦七年(1167)に平家方の将・平家貞と戦って討死し、斬首のうえ首を晒された。子の通盆は、後鳥羽天皇の文治三年(1188)に杵島荘白石を領し、以来、代々稲佐郷の地頭職となった。六代目の白石六郎道恭(贈従四位)は、龍造寺季盆・草野永らとともに弘安の蒙古襲来と戦い、功績を挙げて嬉野も併せ領した。
「宇禮志野を姓とす」。通恭から七代の越前介通臣は文中三年に足利勢と戦って戦死し、その子・彌太郎通晴は藤津荘宇禮志野に住み、これを姓として宇禮志野祐三と称した。曾孫の通久は高來の領主・有馬仙巖の旗下に入り、領内の大草野に十六善神を祀り、河瀬に寶積寺を建立した。また元文年間に權現山に築いたのが湯之田城である。子の通盆のとき、龍造寺隆信に属し、宇禮志野を嬉野に改めたと伝えられる。嬉野系岡左の如くである(原文ママ)。
別派の嬉野氏について。嬉野氏には他系もあり、高來の有馬治部大輔澄通の後裔・萬五郎通次が有馬氏の旗下に入り、名を宇禮志野治郎少輔と改め、南袴野・宇土手・河瀬・庭木・神六・小田志・大草野および北南今川から西の五百三十町を領し、天正元年九月八日に没した。長子の刑部大輔通治も同じく岩屋の城主であったという説がある。前掲の嬉野氏が支配した範囲も吉田・宇土手・河瀬・庭木・神六・小田志・大草野・今川に及ぶ。天正四年九月九日、嬉野直通(通称通治とも)は柄崎の後藤貴明と戦い、嬉野下宿で戦死したとされる。有馬系の通治は同六年十二月、後藤貴明と岩谷城外で戦ったとも伝わるが、どちらが正しいかは、なお検討を要する。
嬉野焼の区域について。ここで嬉野焼として述べるのは、前述のとおり杵島郡の東西川登と藤津郡の全域、すなわち各山(窯場)である。東西川登は後藤氏の領域だが、しばしば両郡領主の争奪地ともなった。この地域の内田・袴野・弓野・庭木・小田志の古窯品に武内の作とよく似たものがあるのは、後藤家信に従って来住した韓人(朝鮮出身者)が分布した結果だとする説に一定の根拠があるためである。ただし、この地方はもともと嬉野領であり、嬉野焼の開窯の中にはかなり古い時期に遡るものもあるので、ここでは特に藤津系として記す。
杵島郡側の古窯では東川登の内田が最古で、藤津郡側では塩田の大草野と嬉野の不動山が最古の開窯とされる。地理順に杵島郡から述べると、東川登は南北朝時代にはすでに相当の集落が形成されていたらしく、袴野の貴船神社の石鳥居は村社として見応えがあり、そこには元享元年(1321)に後藤兵庫頭光明(武雄十一代領主)が祈願した旨が刻まれている。
内田の皿屋について。永野の内田の古窯地は武雄から一里二、三丁の地点で、ここには「高麗神」と呼ばれる韓人の墓がある。街道から四丁ほど入った谷奥の皿屋谷に所在し、奥山家の裏手を上ると、山腹に高さ三尺余の長方形の自然石が立ち、頭部が烏帽子形に斜めになっている。
内田高麗神の碑について。碑面右には寛永元年(1624)とあり、左には「十月二十日 施主敬白」とある。中央の「奉」の下には「建立ス池春石升已禪定尼伏詐若祖也(判読困難な文字多く、推読)」と記され、「禅定」の語があるので女性だろう。文禄・慶長の朝鮮役後に渡来した韓人の妻かもしれない。窯跡にはすでに抱え込むほどに成長した梨の木があり、相応の年代が経過していることがうかがえる。
川登内田の古窯品。もとの墓石は谷奥の高みにあったが、溜池を築く際、農夫・浦川榮作が自家の裏山に移したという。この山裾が古窯の窯頭に当たるらしく、竹林を探ると、薄青地や灰色釉、鶯茶釉、飴釉、黒茶釉、赤茶釉といった茶碗や小皿が出土する。小皿には深い形や突き出た底のものがあり、いずれも高台の無釉部が広く、中には蜷尻高台のものも交じり、縮緬皺が出ているものもある。さらに、飴色釉や灰色釉の七寸皿で、ゆりの広線に蹴ろくろ(原文「蹴猫」)でギリを回し、見込みに二、三本の芦を描いたもの、茶碗や小皿に、草の穂先を曲げたような拙い鉄描を施したもの、薄飴釉の八寸皿に得体の知れない草のような文様があるものなど、いずれもきわめて原初的な作風である。
忠平谷では、数軒の農家が出資して、有田・稗古場の元窯焼・中島忠作を招聘し、この地(現在の東川登村役場の裏)に五、六間の登窯を築いて、有田や小田志から職人を招き、磁器を焼いた。原料は天草石を用い、捺染型押しの染付を施した火鉢、丼、皿、鉢、平碗、花立など、いずれも下手物を製造し、伊萬里の市場で販売したが、四、五年で廃窯となった。
袴野の甕屋谷は、前記内田皿屋の分窯と伝えられる。ここは石器質の甕のみを作ったようで、掘ると破片ばかりが出る。相当の年代が経っていることは、当時の窯主・江口勘右工門の墓に正保五年の年号が見えることからも分かる。江口家は弓野にも分窯し、そこで甕を焼いたらしい。以上が東川登村にある古窯地で、現在、製陶する者はない。
弓野山(西川登村)について。現在八十戸ほどの集落で、寛永年間に内田・袴野から分窯したと伝える。古窯品には、栗色地に白化粧を施し、鉄釉で刷毛目を入れ、青釉を流した大皿がある。白化粧地に松を青釉で盛り、枝幹のみを鉄描にした趣味のよい水甕などは、武雄系の川古の谷と全く同じ技法で、筑後国三池の二川焼にも写されている。
庭切擂鉢。当地の製品は多くなく、しだいに甕や擂鉢などの下手物へ移ったようで、庭木や小田志のような技巧品の残欠が乏しいのはそのためである。藩政期から、庭木・小田志より一段低い格式に置かれ、同じ擂鉢でも小田志物には高台作りが許されたのに対し、弓野物は「庭切」と称して高台付きを許されず、糸切り仕上げであったなど、当時の階層的な区別がうかがえる。
弓野の「目茶漬」。隣接する神六山で磁石(陶石)が発見されて以後は、有田の製磁法にならい、薄鼠色の軟質磁器を作った。主に「目茶漬」と称し、反形の碗の底を蛇の目に剥ぎ釉として重ね積みにする方法であった。このとき従来の古窯とは別に上窯ができ、次いで下窯が築かれた。天草石の使用が広まり、神六の地土と混ぜて用いるようになり、一時は非常に盛んになったが、年とともに衰え、転業する者が多く、まさに明滅の境に置かれた。
江口龜次郎。筑前福岡大名町の原田卯右工門の次男・龜次郎は、博多人形の細工師・藤原清重に入門して技法を学び、のち田舎回りの細工師として放浪の末、藤津郡吉田山に漂着していた。折から弓野の中村佐平・中尾文左工門の二人がある縁で龜次郎を弓野山へ伴い、奥川權左工門が自宅に招き、初めて作らせたものが今日の弓野人形の起こりで、明治十五年(1882)のことであった。
【英語訳】[English translation]
On the Fujitsu lineage and the Ureshino kilns.
The Ureshino clan: The manor of Ureshino in Fujitsu was part of the domains governed in Shōryaku 5 (995) by Ōmura Naozumi over the three manors of Sonogi, Takagi, and Fujitsu. Before that, a branch of the Ōmura was placed at Nokomi and the Ureshino clan resided at Ureshino, forming two strongholds to the east and west. The Ureshino trace their ancestry to Kyōtsū, Regent and Grand Minister of State, a thirteenth-generation descendant of Fujiwara no Kamatari. During Emperor Sutoku’s Daiji era (1126–1131), Kyōtsū’s fifth-generation grandson Fujiwara no Yukimichi was appointed Hizen no Gon-no-kami and became lord of Ayabe Castle under his foster father; in Emperor Nijō’s Heiji 1 (1159) he became the provincial Chief Pursuit and Arrest Officer (総追捕使) for Hizen.
His son Hyūga Tarō Michiyoshi likewise served as 総追捕使 and held Kanzaki, but he rebelled against the powerful Taira no Kiyomori and, in Eiryaku 7 (1167), fell in battle against the Heike general Taira no Iesada and was beheaded with his head exposed publicly. His son Michison was granted the Shiroishi estate of Kishima Manor in Emperor Go-Toba’s Bunji 3 (1188), and from then on the family served for generations as jitō (stewards) of Inasa-gō. Six generations later, Shiroishi Rokurō Michiyasu (posthumously Junior Fourth Rank) fought the Mongol invasions in Kōan alongside Ryūzōji Suemori and Kusano Naga, earned great merit, and came to hold Ureshino as well.
“Adopting Ureshino (宇禮志野) as a surname.” Seven generations after Tsuneyasu, Echizen-no-suke Michitomi died in battle against Ashikaga forces in Bunchū 3; his son Yatarō Michiharu resided at Ureshino in Fujitsu Manor, adopted it as his surname, and called himself Ureshino Yūzō. His great-grandson Michihisa entered the banner of Arima Sengan, lord of Takaku; he enshrined the Sixteen Good Deities at Ōkusano within the domain and founded Hōshaku-ji at Kawaze. The fortress built on Gongen-yama in the Genbun era was Yunoda Castle. In the time of his son Michison they served Ryūzōji Takanobu and are said to have changed the place name from Ureshino (宇禮志野) to Ureshino (嬉野). “The Ureshino lineage is as ‘Okasa’ states” (原文ママ).
A separate branch of Ureshino also existed. According to one account, Mangorō Michitsugu, a descendant of Arima Jibu-no-daibu Sumimichi of Takaku, entered the Arima banner, changed his name to Ureshino Jirō Shōshō, and held 530 chō to the west from Minami-Hakamano, Udo-te, Kawaze, Niwaki, Kamiroku, Odashi, Ōkusano, and North–South Imagawa; he died on the eighth day of the ninth month, Tenshō 1. His eldest son Gyōbu-no-daibu Michiharu likewise ruled Iwaya Castle. The range ruled by the previously mentioned Ureshino clan also reached Yoshida, Udo-te, Kawaze, Niwaki, Kamiroku, Odashi, Ōkusano, and Imagawa. On the ninth day of the ninth month, Tenshō 4, Ureshino Naomichi (also called Michiharu) fought Gotō Takaaki of Karasaki and was killed in action at Ureshino Shimojuku. The Arima-line Michiharu is said to have fought Gotō Takaaki outside Iwaya Castle in the twelfth month of Tenshō 6; which account is correct remains to be examined.
The scope of Ureshino ware: Here “Ureshino ware” refers to the kiln sites (各山) of both East/West Kawanobori in Kishima District and all of Fujitsu District. Although East/West Kawanobori lay in Gotō territory, the area was at times contested by the lords of the two districts. Old kiln products from Uchida, Hakamano, Yumino, Niwaki, and Odashi in this area closely resemble those of Takeuchi; therefore the theory that Koreans (韓人) who followed Gotō Ienobu settled here and spread their techniques has some value. Yet because this area had long been Ureshino territory and some Ureshino kilns go back quite far, it is described here specifically as the Fujitsu line.
Among old kilns on the Kishima side, Uchida of Higashi-Kawanobori is the oldest; on the Fujitsu side, Ōkusano of Shiota and Fudō-yama of Ureshino are considered the earliest kilns. In geographic order from Kishima: by the Nanbokuchō era, Higashi-Kawanobori already seems to have had a sizable settlement. The stone torii of Kibune Shrine at Hakamano is noteworthy for a village shrine; it bears an inscription that in Genkyō 1 (1321) Gotō Hyōgo-no-kami Mitsuaki (the 11th lord of Takeo) offered prayers.
Uchida’s “Saray a” (皿屋). The old kiln site of Uchida in Nagano lies one ri and two–three chō from Takeo. The grave called “Komaijin” (高麗神), said to be of a Korean person, stands in Sarayadani, a valley about four chō off the highway. Climb behind the house of the Okuyama family and midway up the slope stands a natural rectangular stone a little over three shaku high, its top slanted like an eboshi cap.
Notes on the Komaijin stele at Uchida. The right of the face reads Kan’ei 1 (1624); the left reads “Tenth month, twentieth day—Humbly offered by the patron.” Beneath the central character 奉 is “建立ス池春石升已禪定尼伏詐若祖也” (many unclear characters; tentative reading). The term 禪定 suggests a woman—perhaps the wife of a Korean who came after the Bunroku–Keichō campaigns. A mature pear tree already grows at the kiln site, indicating considerable age.
Old wares from Kawanobori Uchida. The grave originally stood at the head of the valley; when a reservoir was built there, a farmer named Urakawa Eisaku moved it to his back hill. The foot of this hill seems to be the kiln head of an old kiln. In the bamboo grove one finds tea bowls and small dishes with pale bluish bodies, gray glaze, warbler-brown glaze, amber glaze, black-brown glaze, red-brown glaze, etc. Small dishes include deep forms and ones with protruding bases; all have very broad unglazed footrings, some with twisted “snail-tail” feet and some showing fine crepe-like wrinkles. There are also seven-sun plates in amber or gray glaze with “yuri no hiro-sen,” a giro line turned on the kick-wheel (原文「蹴猫」), and two or three reeds painted in the well; bowls and small dishes bear clumsy iron-pigment sketches like bent grass tips. An eight-sun plate in light amber glaze shows a mysterious grass-like motif. Overall, the style is highly primitive.
Tadahira Valley. In Uchida’s Tadahiradani, several farm households pooled funds and invited Nakashima Chūsaku, formerly of the Hie-Koba kiln in Arita. They built a climbing kiln five to six ken long at this site (behind today’s Higashi-Kawanobori village office), brought workers from Arita and Odashi, and produced porcelain using Amakusa stone. They made low-grade wares—braziers, bowls, plates, basins, flat bowls, flower vases—decorated by stencil-printed underglaze blue, sold them at the Imari market, but after four or five years the kiln was abandoned.
Hakamano “jar makers.” The branch kiln of the above Uchida “Saray a” is called Hakamano’s Kameyadani. This site seems to have produced only jar-type stoneware; excavations yield nothing but such fragments. Its age is attested by the tomb of the then kiln master Eguchi Kan’uemon dated Shōhō 5. The Eguchi line also branched to Yumino, where jars were likewise fired. These are the old kiln sites in Higashi-Kawanobori; today no one produces pottery there.
Yumino-yama. Next is Yumino-yama in Nishi-Kawanobori village, now a settlement of about eighty households. It is said to have branched from Uchida and Hakamano in the Kan’ei era. Old wares include large plates with chestnut-brown bodies coated in white slip, brushwork in iron glaze, and flows of blue glaze; and water jars with white slip grounds bearing pine motifs modeled in blue glaze with trunks and branches in iron linework—exactly the same technique as Kawago no Tani of the Takeo line—and these were copied at Nikawa-yaki of Miike in Chikugo Province.
“Niwakiri” mortars. Production here was never extensive and shifted to low-grade wares such as jars and mortars; hence few remnants of the refined works seen at Niwaki and Odashi. From that time, Yumino stood one rank below Niwaki and Odashi in status. Even with mortars, Odashi pieces were allowed formed footrings, whereas Yumino pieces were called “niwakiri,” not permitted to have footrings and finished by string-cutting—clearly reflecting class distinctions under the domainal regime.
Yumino “Mechazuke.” After porcelain stone was discovered at neighboring Kamiroku-yama, they emulated Arita’s porcelain-making and produced soft porcelain of light gray color. Mainly called “Mechazuke,” inverted bowls had the glaze scraped from the center (“snake-eye”) so they could be stacked in the kiln. At this time, in addition to the old kilns, an upper kiln was built, followed by a lower kiln. With the spread of Amakusa stone they mixed it with Kamiroku’s local clay. Business flourished for a time but declined year by year; many changed trades, and the industry flickered in and out.
Eguchi Kamejirō. Kamejirō, second son of Harada Uemon of Daimyō-machi in Fukuoka (Chikuzen), apprenticed under the Hakata doll maker Fujiwara Kiyoshige. Later, after wandering as a traveling craftsman, he drifted to Yoshidayama in Fujitsu District. By chance, Yumino’s Nakamura Sahei and Nakao Bunzaemon brought him to Yumino-yama; Okugawa Gonzaemon invited him to his home and had him make the first pieces—this marked the origin of today’s Yumino dolls, in Meiji 15 (1882).
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
关于藤津系与嬉野窑。
首先是嬉野氏。藤津之荘・嬉野在正历五年(995)为大村直澄所辖的彼杵、高木、藤津三荘之一。更早以前,一族的大村氏驻于能古见,嬉野氏居于嬉野,形成东西两据点。嬉野氏之祖出自藤原镰足第十三世的摄政关白太政大臣教通一门。崇德天皇大治年间(1126–1131),教通五代之孙藤原幸通任肥前权守,成为养父的绫部城主;二条天皇平治元年(1159)又任肥前总追捕使。
其子日向太郎通良亦为总追捕使,领神崎,然叛于权势赫赫之清盛,永历七年(1167)与平家方将平家贞战死,被斩首示众。其子通盆于后鸟羽天皇文治三年(1188)领杵岛荘白石,自此世代任稻佐郷地头。第六代白石六郎道恭(赠从四位)与龙造寺季盆、草野永等共抗弘安之外寇,立功并兼领嬉野。
“以宇礼志野为姓”。自通恭起七代的越前介通臣在文中三年与足利军作战阵亡,其子弥太郎通晴居于藤津荘宇礼志野,以地为姓称宇礼志野祐三。曾孙通久入高来领主有马仙巖旗下,于领内大草野营建十六善神,又于河瀬建立宝积寺;元文年间在权现山所筑者为汤之田城。其子通盆时隶属龙造寺隆信,据传将宇礼志野改为嬉野。嬉野系岡左之如是(原文保留)。
嬉野氏另有别支。据一说,高来有马治部大辅澄通之后裔万五郎通次入有马氏旗下,改名宇礼志野治郎少辅,领南袴野、宇土手、河瀬、庭木、神六、小田志、大草野及北南今川以西五百三十町,天正元年九月八日卒。长子刑部大辅通治亦为岩屋城主。前述嬉野氏所辖范围亦及吉田、宇土手、河瀬、庭木、神六、小田志、大草野、今川。天正四年九月九日,嬉野直通(亦称通治)与柄崎之后藤贵明交战,战死于嬉野下宿;又传有马系通治于同六年十二月与后藤贵明战于岩谷城外。孰是孰非,尚待详考。
关于嬉野烧之区域:此处所谓“嬉野烧”,指杵岛郡之东西川登与藤津郡全域诸“山”(窑场)。东西川登虽属后藤氏,然时为两郡领主争夺之地。其地内田、袴野、弓野、庭木、小田志诸古窑出土,与武内作品多有相似,故“随后藤家信来日之韩人(朝鲜出身者)分布其技”的说法颇有根据。然而此地本为旧嬉野领,且嬉野烧开窑之中亦有可上溯之古例,故特以藤津系叙述。
杵岛郡侧古窑以东川登之内田最古;藤津郡侧以塩田之大草野与嬉野之不动山为最早开窑。按地理顺序述之:东川登至南北朝时已成相当聚落;袴野贵船神社石鸟居为村社所罕见之壮观,其铭刻元享元年(1321)后藤兵库头光明(武雄第十一代领主)祈愿事。
“内田皿屋”。永野内田古窑地距武雄一里二三町,所谓“高丽神”之韩人墓在距大道约四町之谷奥“皿屋谷”。由奥山家后方攀上,山腹立有高三尺余之长方自然石,其顶部斜成乌帽子形。
内田“高丽神”碑。碑右记寛永元年(1624),左记“十月二十日 施主敬白”。中央“奉”字下刻“建立ス池春石升已禅定尼伏詐若祖也”(多字难辨,推读)。以“禅定”观之,当为女性,或为文禄・庆长朝鲜之役后渡来的韩人妻。窑址已长成一株可合抱之梨树,可见年代久远。
川登内田古窑器。原墓在谷头,筑塘时农人浦川荣作迁于自家后山。山麓似为古窑窑头。竹林间可得薄青胎、灰色釉、莺茶釉、飴釉、黑茶釉、赤茶釉等茶碗与小皿。小皿或深腹、或突底,皆足圈无釉部甚广,间有蜷尻(扭转)之式,亦有生“缩緬皱”者。又有七寸皿施飴色或灰色釉,作“ゆりの广线”,以蹴轱辘(原文“蹴猫”)旋出“ギリ”,见込画两三芦叶;茶碗小皿多以铁绘拙作,如曲折草穗;亦有薄飴釉八寸皿绘似草之不明纹。作风皆极为原始。
忠平谷。内田忠平谷中,数户农家合资,延请有田・稗古场元窑烧中岛忠作,于此(今东川登村役场之背)筑五六间登窑,自有田与小田志延工,烧制磁器。原料用天草石,制品为模板印捺之染付火盆、丼、皿、鉢、平碗、花立等下手物,于伊万里市场贩售,然四五年即废窑。
袴野甕屋。前述内田皿屋之分窑称袴野“甕屋谷”。此处似专制石器质之甕,掘之尽出其片。其年代之久,可由当时窑主江口勘右工门墓之正保五年年记知之。江口一系又分窑于弓野,亦烧甕。以上为东川登村古窑地,今已无人制陶。
弓野山(西川登村)。今约八十户,传寛永年间自内田、袴野分窑。古器有栗色地施白化妆、以铁釉作刷毛目并泻青釉之大皿;又有白化妆地松纹水甕,松以青釉堆塑,枝干仅以铁绘,颇有情趣。其技法与武雄系“川古之谷”全同,筑后国三池之二川烧亦仿之。
“庭切擂鉢”。当地制品不多,渐转为甕、擂鉢等下手物,故存之技巧品(如庭木、小田志)残件稀少。自藩政期起,其格式较庭木、小田志低一等。即以擂鉢言,小田志物许作高台,而弓野物称“庭切”,不许附高台,乃以线切收口,足见当时之阶层区分。
弓野之“目茶漬”。邻地神六山发现磁石后,仿效有田制瓷,制浅灰色软质瓷器。其法主称“目茶漬”,在反形碗底剥釉作“蛇之目”,以便层层相积。时于旧窑之外新建上窑,继又筑下窑。自发现并使用天草石后,与神六当地粘土混用,一时极盛,然逐年衰落,转业者众,几至明灭之境。
江口龟次郎。筑前福冈大名町原田卯右工门次子龟次郎,入博多人形师藤原清重门下习艺,后以流动细工师漂泊,终至藤津郡吉田山。其时弓野中村佐平、中尾文左工门二人缘事偕龟次郎至弓野山,奥川权左工门延入其家,令其初制,是为今之弓野人形之滥觞,实在明治十五年(1882)。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
關於藤津系與嬉野窯。
首先是嬉野氏。藤津之莊・嬉野在正曆五年(995)屬大村直澄所轄之彼杵、高木、藤津三莊之一。更早以前,一族之大村氏駐於能古見,嬉野氏居於嬉野,形成東西兩據點。嬉野氏之祖出自藤原鎌足第十三世之攝政關白太政大臣教通一門。崇德天皇大治年間(1126–1131),教通五代之孫藤原幸通任肥前權守,為養父之綾部城主;二條天皇平治元年(1159)又任肥前總追捕使。
其子日向太郎通良亦為總追捕使,領神崎,然叛於權勢顯赫之清盛,永曆七年(1167)與平家方將平家貞戰死,被斬首示眾。其子通盆於後鳥羽天皇文治三年(1188)領杵島莊白石,自此世代任稻佐郷地頭。第六代白石六郎道恭(贈從四位)與龍造寺季盆、草野永等共抗弘安外寇,立功並兼領嬉野。
「以宇禮志野為姓」。自通恭起第七代之越前介通臣於文中三年與足利勢作戰戰歿,其子彌太郎通晴居於藤津莊宇禮志野,以地為姓稱宇禮志野祐三。曾孫通久入高來領主有馬仙巖旗下,於領內大草野營建十六善神,又於河瀨建立寶積寺;元文年間於權現山所築者為湯之田城。其子通盆時隸屬龍造寺隆信,傳將宇禮志野改為嬉野。嬉野系岡左之如是(原文保留)。
嬉野氏另有別支。據一說,高來有馬治部大輔澄通之後裔萬五郎通次入有馬氏旗下,改名宇禮志野治郎少輔,領南袴野、宇土手、河瀨、庭木、神六、小田志、大草野及北南今川以西五百三十町,天正元年九月八日卒。長子刑部大輔通治亦為岩屋城主。前述嬉野氏所轄範圍亦及吉田、宇土手、河瀨、庭木、神六、小田志、大草野、今川。天正四年九月九日,嬉野直通(亦稱通治)與柄崎之後藤貴明交戰,戰歿於嬉野下宿;又傳有馬系通治於同六年十二月與後藤貴明戰於岩谷城外。孰真孰偽,尚待詳考。
關於嬉野燒之區域:此處所稱「嬉野燒」,指杵島郡之東西川登與藤津郡全域諸「山」(窯場)。東西川登雖屬後藤氏,然時為兩郡領主爭奪之地。其地內田、袴野、弓野、庭木、小田志諸古窯出土,與武內作品多相似,故「隨後藤家信來日之韓人(朝鮮出身者)分布其技」之說頗有根據。然而此地本為舊嬉野領,且嬉野燒開窯之中亦有可上溯之古例,故特以藤津系敘述。
杵島郡側古窯以東川登之內田最古;藤津郡側以塩田之大草野與嬉野之不動山為最早開窯。按地理順序述之:東川登至南北朝時已成相當聚落;袴野貴船神社石鳥居為村社所罕見之壯觀,其銘刻元享元年(1321)後藤兵庫頭光明(武雄第十一代領主)祈願事。
「內田皿屋」。永野內田古窯地距武雄一里二三町,所謂「高麗神」之韓人墓在距大道約四町之谷奧「皿屋谷」。由奧山家後方攀上,山腹立有高三尺餘之長方自然石,其頂部斜成烏帽子形。
內田「高麗神」碑。碑右記寛永元年(1624),左記「十月二十日 施主敬白」。中央「奉」字下刻「建立ス池春石升已禪定尼伏詐若祖也」(多字難辨,推讀)。以「禪定」觀之,當為女性,或為文祿・慶長朝鮮之役後渡來之韓人妻。窯址已有一株可合抱之梨樹,可見年代久遠。
川登內田古窯器。原墓在谷頭,築塘時農人浦川榮作遷於自家後山。山麓似為古窯窯頭。竹林間可得薄青胎、灰色釉、鶯茶釉、飴釉、黑茶釉、赤茶釉等茶碗與小皿。小皿或深腹、或突底,皆足圈無釉部甚廣,間有蜷尻(扭轉)之式,亦有生「縮緬皺」者。又有七寸皿施飴色或灰色釉,作「ゆり之廣線」,以蹴轆轤(原文「蹴猫」)旋出「ギリ」,見込畫二三蘆葉;茶碗小皿多以鐵繪拙作,如曲折草穗;亦有薄飴釉八寸皿繪似草之不明紋。作風皆極為原始。
忠平谷。內田忠平谷中,數戶農家合資,延請有田・稗古場元窯燒中島忠作,於此(今東川登村役場之背)築五六間登窯,自有田與小田志延工,燒製瓷器。原料用天草石,製品為模板印捺之染付火盆、丼、皿、鉢、平碗、花立等下手物,於伊萬里市場販售,然四五年即廢窯。
袴野甕屋。前述內田皿屋之分窯稱袴野「甕屋谷」。此處似專製石器質之甕,掘之盡出其片。其年代之久,可由當時窯主江口勘右工門墓之正保五年年記知之。江口一系又分窯於弓野,亦燒甕。以上為東川登村古窯地,今已無人製陶。
弓野山(西川登村)。今約八十戶,傳寛永年間自內田、袴野分窯。古器有栗色地施白化妝、以鐵釉作刷毛目並瀉青釉之大皿;又有白化妝地松紋水甕,松以青釉堆塑,枝幹僅以鐵繪,頗具情趣。其技法與武雄系「川古之谷」全同,筑後國三池之二川燒亦仿之。
「庭切擂鉢」。當地製品不多,漸轉為甕、擂鉢等下手物,故存之技巧品(如庭木、小田志)殘件稀少。自藩政期起,其格式較庭木、小田志低一等。即以擂鉢言,小田志物許作高台,而弓野物稱「庭切」,不許附高台,乃以線切收口,足見當時之階層區分。
弓野之「目茶漬」。鄰接之神六山發現磁石後,仿效有田製瓷,製淺灰色軟質瓷器。其法主稱「目茶漬」,於反形碗底剝釉作「蛇之目」,以便層層相積。時於舊窯之外新建上窯,繼又築下窯。自發現並使用天草石後,與神六當地黏土混用,一時極盛,然逐年衰落,轉業者眾,幾至明滅之境。
江口龜次郎。筑前福岡大名町原田卯右工門次子龜次郎,入博多人形師藤原清重門下習藝,後以流動細工師漂泊,終至藤津郡吉田山。其時弓野中村佐平、中尾文左工門二人因緣偕龜次郎至弓野山,奥川權左工門延入其家,令其初製,是為今之弓野人形之濫觴,實在明治十五年(1882)。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
关于“藤津系・嬉野窑”的记述。
嬉野氏:藤津之荘的嬉野在正历五年(995)为大村直澄所辖。此前,大村氏驻能古见,嬉野氏居嬉野,东西分镇。嬉野氏自藤原镰足第十三世之摄政关白太政大臣教通一系。崇德天皇大治年间(1126–1131),教通五代之孙藤原幸通任肥前权守并为绫部城主;二条天皇平治元年(1159)又任肥前总追捕使。其子日向太郎通良亦任总追捕使,领神崎,但叛于清盛,永历七年(1167)与平家贞作战阵亡,被梟首。其子通盆于文治三年(1188)领杵岛荘白石,自此为稻佐郷地头;第六代白石六郎道恭与龙造寺季盆、草野永等抗击弘安外寇,因功并领嬉野。
“以宇礼志野为姓”:越前介通臣(通恭之后七代)文中三年战死于足利军,其子弥太郎通晴居藤津荘宇礼志野,改以当地为姓;曾孙通久入有马仙巖旗下,于大草野祭十六善神、在河瀬建宝积寺,元文年间于权现山筑汤之田城。其子通盆时从龙造寺隆信,据说将宇礼志野改为嬉野。“嬉野系岡左如是”(原文)。
另有别支:据说万五郎通次(有马治部大辅澄通之后)入有马氏麾下,改名宇礼志野治郎少辅,领南袴野、宇土手、河瀬、庭木、神六、小田志、大草野及北南今川以西530町,天正元年九月八日卒。长子刑部大辅通治亦为岩屋城主。前述嬉野氏所辖亦及吉田、宇土手、河瀬、庭木、神六、小田志、大草野、今川。天正四年九月九日嬉野直通(亦称通治)与柄崎后藤贵明战死于嬉野下宿;又传有马系通治于同六年十二月与后藤贵明战于岩谷城外,孰真待考。
嬉野烧的范围:本文所谓“嬉野烧”指杵岛郡东西川登与藤津郡全域各“山”(窑场)。虽属后藤氏,然常为两郡争夺。内田、袴野、弓野、庭木、小田志等古窑品与武内相似,故有“随后藤家信来之韩人(朝鲜人)传播技艺”的说法。但此地素属嬉野领,且开窑年代颇早,故以藤津系叙述。杵岛侧以东川登内田为最古;藤津侧以塩田大草野及嬉野不动山为最早开窑。元享元年(1321)袴野贵船神社石鸟居刻后藤兵库头光明(武雄第十一代)祈愿。
内田“皿屋”:距武雄一里二三町。所谓“高丽神”之韩人墓在皿屋谷(离大道约四町)。奥山家背后山腰立一块高逾三尺之自然长方石,顶部斜如乌帽。碑右记寛永元年(1624),左记“十月二十日 施主敬白”,中央“奉”下有难读文,含“禅定”字,疑为女性,或文禄・庆长役后来日者之妻。窑址有一株粗大的梨树,年代久远可知。
川登内田古器:墓原在谷头,筑塘时农人浦川荣作移至自家后山。山麓似为古窑窑头。竹林中可拾薄青胎、灰色釉、莺茶釉、飴釉、黑茶釉、赤茶釉等碗盘。小皿多深腹或突底,足圈无釉处甚广,间有“蜷尻”式及生“缩緬皱”者。亦见七寸飴/灰釉皿作“ゆり之广线”,以踢轮(原“蹴猫”)转出线纹,见込画二三芦叶;茶碗小皿多以铁绘草穗;薄飴釉八寸皿有不明草纹。风格原始。
忠平谷:数户合资延请中岛忠作(有田・稗古场元窑烧)来此(今东川登村役场后)筑五六间登窑,自有田、小田志延工,以天草石为料,制模板印捺染付之火盆、丼、皿、鉢、平碗、花立等下手物,于伊万里售卖,四五年即废。
袴野甕屋:为内田皿屋分窑。此处专制石质甕,掘即得其片。窑主江口勘右工门墓刻正保五年,可知其久。江口系亦分窑至弓野烧甕。东川登诸古窑今皆无人制陶。
弓野山(西川登村):约八十户,传寛永年间自内田、袴野分窑。古器有栗色地白化妆、铁釉刷毛目并泻青釉之大皿;白化妆地青釉堆松、枝干铁绘之水甕,技法与武雄系“川古之谷”同,筑后国三池二川烧亦仿之。
“庭切擂鉢”:当地制品不多,转作甕、擂鉢等下手物,故少见庭木、小田志式技巧品残件。藩制期其地位较庭木、小田志低:同为擂鉢,小田志许作高台,弓野称“庭切”,不许高台,以线切收口,反映阶层差别。
弓野“目茶漬”:神六山发现瓷石后,仿有田制瓷,制浅灰软瓷。主称“目茶漬”,在反形碗底剥釉作“蛇之目”,便于层叠。其时旧窑外有上窑、继又下窑。天草石与神六土混用,一时极盛,继而衰落,改业者众,产业明灭不定。
江口龟次郎:福冈(筑前)大名町原田卯右工门次子龟次郎,师从博多人形师藤原清重;后为流动细工师,漂至藤津郡吉田山。其时弓野中村佐平、中尾文左工门偕之至弓野山,奥川权左工门延至其家令制,遂为今“弓野人形”之滥觞,明治十五年(1882)。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
關於「藤津系・嬉野窯」之記述。
嬉野氏:藤津之莊的嬉野於正曆五年(995)為大村直澄所轄。此前大村氏居能古見,嬉野氏居嬉野,形成東西二鎮。其祖承自藤原鎌足第十三世之攝政關白太政大臣教通一系。崇德天皇大治年間(1126–1131),教通五代之孫藤原幸通任肥前權守並為綾部城主;二條天皇平治元年(1159)又任肥前總追捕使。子日向太郎通良亦任總追捕使,領神崎,然叛於清盛,永曆七年(1167)戰歿於與平家貞之戰,被梟首。其子通盆於文治三年(1188)領杵島莊白石,自此為稻佐郷地頭;第六代白石六郎道恭與龍造寺季盆、草野永等抗弘安外寇,因功兼領嬉野。
「以宇禮志野為姓」:越前介通臣(通恭之後七代)文中三年戰歿於足利軍,其子彌太郎通晴居藤津莊宇禮志野,以地為姓;曾孫通久入有馬仙巖旗下,於大草野祭十六善神、在河瀨建寶積寺,元文年間於權現山築湯之田城。其子通盆時從龍造寺隆信,據傳改宇禮志野為嬉野。「嬉野系岡左如是」(原文)。
別支:傳萬五郎通次(有馬治部大輔澄通之後)入有馬氏麾下,改名宇禮志野治郎少輔,領南袴野、宇土手、河瀨、庭木、神六、小田志、大草野及北南今川以西五百三十町,天正元年九月八日卒。長子刑部大輔通治亦為岩屋城主。前述嬉野氏所轄亦及吉田、宇土手、河瀨、庭木、神六、小田志、大草野、今川。天正四年九月九日嬉野直通(亦稱通治)與柄崎後藤貴明戰歿於嬉野下宿;又傳有馬系通治於同六年十二月與後藤貴明戰於岩谷城外,孰真尚待考。
嬉野燒之範圍:本文所稱「嬉野燒」,指杵島郡東西川登與藤津郡全域諸「山」(窯場)。雖屬後藤氏,然常為兩郡爭奪。內田、袴野、弓野、庭木、小田志等古窯品與武內相似,故有「隨後藤家信來之韓人(朝鮮人)傳播技藝」之說。但此地素屬嬉野領,且開窯年代甚早,故以藤津系述之。杵島側以東川登內田最古;藤津側以塩田大草野及嬉野不動山為最早開窯。元享元年(1321)袴野貴船神社石鳥居刻後藤兵庫頭光明(武雄第十一代)祈願。
內田「皿屋」:距武雄一里二三町。「高麗神」之韓人墓在皿屋谷(離大道約四町)。奧山家背後山腰立一塊高逾三尺之自然長方石,頂斜似烏帽。碑右記寛永元年(1624),左記「十月二十日 施主敬白」,中央「奉」下文多難讀,含「禪定」字,疑為女性,或文祿・慶長役後來日者之妻。窯址有一株粗大梨樹,可知年代久遠。
川登內田古器:墓原在谷頭,築塘時農人浦川榮作移至自家後山。山麓似為古窯窯頭。竹林中可拾薄青胎、灰色釉、鶯茶釉、飴釉、黑茶釉、赤茶釉等碗盤。小皿多深腹或突底,足圈無釉處甚廣,間有「蜷尻」式與生「縮緬皺」者。亦見七寸飴/灰釉皿作「ゆり之廣線」,以踢轆轤(原「蹴猫」)轉出線紋,見込畫二三蘆葉;茶碗小皿多以鐵繪草穗;薄飴釉八寸皿有不明草紋。風格原始。
忠平谷:數戶合資延請中島忠作(有田・稗古場元窯燒)來此(今東川登村役場後)築五六間登窯,自有田、小田志延工,以天草石為料,製模板印捺染付之火盆、丼、皿、鉢、平碗、花立等下手物,於伊萬里販售,四五年即廢。
袴野甕屋:內田皿屋分窯。此處專製石質甕,掘即得其片。窯主江口勘右工門墓刻正保五年,可知其久。江口系亦分窯至弓野燒甕。東川登諸古窯今皆無人製陶。
弓野山(西川登村):約八十戶,傳寛永年間自內田、袴野分窯。古器有栗色地白化妝、鐵釉刷毛目並瀉青釉之大皿;白化妝地青釉堆松、枝幹鐵繪之水甕,技法與武雄系「川古之谷」同,筑後國三池二川燒亦仿之。
「庭切擂鉢」:當地製品不多,轉作甕、擂鉢等下手物,故少見庭木、小田志式技巧品殘件。藩制期其地位較庭木、小田志低:同為擂鉢,小田志許作高台,弓野稱「庭切」,不許高台,以線切收口,反映階層差別。
弓野「目茶漬」:神六山發現瓷石後,仿有田製瓷,製淺灰軟瓷。主稱「目茶漬」,於反形碗底剝釉作「蛇之目」,便於層疊。其時舊窯外有上窯、繼又下窯。天草石與神六土混用,一時極盛,繼而衰落,改業者眾,產業明滅不定。
江口龜次郎:福岡(筑前)大名町原田卯右工門次子龜次郎,師從博多人形師藤原清重;後為流動細工師,漂至藤津郡吉田山。其時弓野中村佐平、中尾文左工門偕之至弓野山,奥川權左工門延至其家令製,遂為今「弓野人形」之濫觴,明治十五年(1882)。

