【原文】[Original text]
弓野人形
明治二十年龜次郎は、江口友三郎の養子となりて江口姓を嗣き其子又次郎と稱してゐる。爾來此地は全く土偶の製造地となり、龜次郎の外六戸の同業者がある。近來此技漸く世に現はるゝに至り、本縣蓮池出身なる江崎利一の大阪グリコ製菓より大量の注文があり、今や佐賀縣唯一の郷土人形として發展の機運に向ひ、現今同業組合を組織し中島弘義(有田工業學校第六回卒業)其組合長として斡旋しつゝある。
龜次郎の頌徳碑
近年大阪其他より多くの注文に接し、年産額三萬餘圓を撃てゐる。土偶製造の原料としては、東川登村の永野及び中通村鳥海の粘土を使用してゐる。昭和七年二月二十九日此地の同業者は、此人形製作の創始者江口龜次郎の頌徳碑を弓野の東口に建設したのである。
弓野人形の作風
弓野人形は元來博多系なるも彼れの文化的作風なるに反し、此處のは多く古典的なるローカルカラーを發揮してゐる。作法は殆んと押込型にて、五寸以上の製品には底部に紙を貼りてあるなども全国に類がない。種類は玩具類福神、貯金玉、床置、假面、神佛像等頗る廣汎である。就中龜次郎作の花魁土偶は尺除もありて變形態振った作風を顕はし。古瀬與三郎作の踊子供、清正馬乘なご稚氣掬すべきものがある。
内田皿屋の韓人か、或は別に渡來せし韓人かは不明なるも、西川登村なる庭木と小田志に分窯し殊に萬治、寛文頃より元祿時代まで盛んに製陶されしが如く、今此兩山の古窯趾多きを見ても察するに徐りある。然して庭木、小田志及び前記弓野の三山は何れ同系の分窯せしものであるらしい。
庭木山
庭木は元百五十戸の戸數ありし由なるも、今は百十餘戸に過ぎぬ。此處の古窯趾としては、河内口(庭木甕屋ともいふ)より奥に涉り祖頭先、芋母口、梅木原根地、新山、土井木原、八人塚、板屋窯の谷、板屋物原上、板屋物原下、道祖の元、鎔物師口上、物師口下等がある。
庭木の鶉手
此地薪料に富み、且原料地なる神六山に近便宜を有してゐる。而して又製技に長しことは發掘せる古窯品を見ても、同系と稱せらるる武内窯と比して敢て遜色なきものの如く中には鶉手などは他山に類作なき優品を遺してる。(白に卵色又は褐色などの土を練り合せて巧みに斑文を現はすものにて、信楽焼の「揉み込み」と同技巧であらう)
土井木原
土井木原の古窯品には、栗色釉に白にて紗綾目文やギリ模様を現はせし緑淵に、見込みには群菊花を白描せし尺口の目積皿があり。白化粧地に四段花模様押文を繞らし、上に青藥を掛けし八寸皿がある。或は薄褐色釉に白と紫にてなだれ刷毛目を飾せる七寸皿など、何れも高臺廣く無釉である。
栗色地にて緑淵には白の波模様、中は白釉にて立筋を引き続らし、それが乾かぬうちに横筋數段を続らして、立筋を掻き跳ねし文様を見せ、其上に金茶を流せし尺三寸の水鉢があり。或は同地に波刷毛目を施せし徳利がある。又赤錆地に飴釉を掛けそれに白琺瑯を流せし尺口の徳利や、青味栗色釉に白にて螺旋筋を繞らせし六寸の徳利等がある。
板屋窯の谷
板屋窯の谷の古窯品には、鐵色地無釉尺口の大胴花瓶や、黒鐵地にトロ色釉涙痕にて、獨樂形肩張四方結び穴附尺五寸の葉茶壺があり、又同鐵地に白化粧掛耳附五寸の花立がある。
板屋物原
板屋物原の古窯品には、鐡地に白化掛の徳利や、同地にトロ色釉を施し、縁邊には白色釉を掛けし尺口大胴張の徳利がある。
芋母口と河内口
芋母口の古窯品には飴色釉に花三島手を飾せし瓢形の小徳利があり。河内口の古窯品は概して甕類や壺及蘭鉢等の大物にて、此處は一名甕屋といはれてゐる。製品の中には鐵地肩附形に押文様を繞らし、それに飴釉を流せし尺五寸の花瓶なども焼かれてゐる。
庭木の古窯品
其他庭木の古窯品中には、小豆色地に白の波刷毛目を施し、底は菊紋刷毛目を文し其上に青藥と金茶を流せし大皿があり。又茶色釉に白の網刷毛目や波刷毛目をせしもの或は剣先三島手の精巧なる大皿がある。そして裏部は縁邊の外全く無釉であるのは庭木皿に共通である。
又暗線釉に篩目や波刷毛目などを六段に文飾せし大皿があり。栗色の薄釉に白の筋を廻はしそれに男波女波の雄勁なる櫛目を掻き其上に青藥をむら流しせる大皿がある。又薄栗釉にて縁には小形立浪刷毛目を施し、底には渦刷毛目をせし大皿がある。
或は暗色鶯釉に白化粧を掛け、緑邊に網櫛目を掻きし大皿や、黄色釉化粧掛に底を波形に櫛掻せし大皿がある。又鶯茶釉に白にて三島手を文し、底には菊文櫛目を施せし大皿があり、或は底部獨樂筋刷毛目の上を、濃茶釉にて總掛したる八つ目積の大皿など何れも高臺部弘く無釉である。
天和年間(1681-1684)有田の坂口權藏なる者來り、此處の庭木燒を平戸地方に運びて大に販賣せしといはれてゐる。
庭木の磁器製作
其後いつ頃なりや不明なるも板屋、河内口の原料を發見し、有田の工人を招きて磁器を製作せしが、何れも軟質にて薄鼠色を呈してゐる、それは土井木原と河内口と二窯の外、今悉く磁器の殘缺が發見さる、此中色相清白に焼かれし分は、晩年神六の石へ天草石を加合せし製品であらう。
板屋磁器
板屋八人塚古窯の磁器の中には、廣緑形耳附五寸の花立に、下呉須にて松竹梅を描きたるが、其筆勢飛んで逸するが如き奇抜さがありそして同柄の油瓶などもあつた。板屋物原の磁器には、染附肩張口附の徳利や大白口反の徳利などがあり。其他の古窯磁器には鳶色又は黄色の食碗及び皿等がある。
而して此木の磁器は、今より百二三十年以前廢窯に帰し、或者は大村領の三の股に、又は有田鄉黒牟田等へ移轉せしといはれてゐる。此地韓人の墳墓とせしもの道祖の元に二十基許りの土饅頭ありしも、いつの頃か畑地に墾かれて今は其影だにない。
土井木原の古窯
當時の古窯として残れるは土井木原のみにて、七八室の間敷の中に大なるは五六坪の廣さがある。此處の百姓にて仕事嫌ひの靑年などが、折々行方が知れぬとき此古窯を探索すれば、大方此内に晝寝をしてるので、此古窯をけ者の隠れ家と呼ばれてゐる。
梅の木原の韓人屋敷
又梅の木原には高麗人の住宅とて、草葺屋根の長さ十間入り六間、それに玄關が突出され前には立派な庭園があつだ。然るに颱風にて全く崩壊されたとのことである。想ふに韓人の一世帯が住宅と工場とを兼ねし建物なりしが如く、今此家にありし一臺の陶車が遺つてゐる。
百間窯と庭木
此地韓人の開窯後、何れの陶山より多くの工人が任せしかは不詳なるも、現今住民中に住吉村立野川内なる悉地院の檀徒が十八戸ある。此處立野川内とは二里半位隔てゐるも、そこが百間窯の所在地なることを考察するときに、或は其百間窯の流れ人が庭木へ轉任せしにあらざるかを思はしむ。而して此地今や農村と化し終り、小學校内に若干の殘缺を見るの外陶煙全絶えてゐるのである。
小田志山
此處の飛松峠を越ゆれば小田志山である。此地又全く頽廢に儲し全村戸數百二十戸の内、陶山の村落は僅に三十戸に満たず、中に窯焼は唯一戸のみ残つてゐる。此處の古窯趾は大川口新窯の外新立山、小田志窯の頭、白木原、上松山、下松山、野仙谷、樫の木山、瓶屋谷一の窯、同二の窯、同三の窯等である。
新立山
新立山の古窯品には、大綠鉢に七段筋を廻し、其問へ花形押文を繞らせる上に、白の化粧掛を施せしが、地質炻器の如く硬度に焼かれてゐる。そして高臺裏弘く無釉なると作風とに於いて、概して小田志は庭木と相似たものである。
小田志の窯の頭
窯の頭の古窯品には、薄栗色釉の上に天目吹掛の茶碗があり又栗天目の大皿に印花式にて櫻花紋及菊花紋を繞らしたのがある。
或は灰色釉に白にて三本の獨樂筋を廻はし、それに青藥を流せし大皿や、暗色灰釉に白の獨樂筋を廻はせし大皿などがある。
白木原
白木原の古窯品には、栗色釉に波刷毛目を施し、見込みの上を目積せし縁反尺口の皿がある。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
弓野人形について。明治二十年、龜次郎は江口友三郎の養子となって江口姓を継ぎ、その子は「又次郎」と称した。以後、この地は土人形の産地となり、亀次郎のほかにも六戸の同業者がいた。近年、この技がようやく世に知られるようになり、本県蓮池出身の江崎利一(大阪グリコ製菓)から大量の注文が入り、佐賀県で唯一の郷土人形として発展の機運に向かった。現在は同業組合が組織され、中島弘義(有田工業学校第六回卒業)が組合長として取りまとめている。
亀次郎の顕彰碑について。近年は大阪ほか各地から多くの注文があり、年産額は三万円余に達している。原料の粘土は東川登村・永野および中通村・鳥海のものを用いる。昭和七年二月二十九日、当地の同業者は人形制作の創始者・江口亀次郎の頌徳碑を弓野の東口に建てた。
弓野人形の作風は、もとは博多人形の系統であるが、博多の文化的な作風とは異なり、古典的で土地色の濃い趣を示す。制作はほとんど押し込み型で、五寸以上の作品の底に紙を貼るなど、全国でも例の少ない特徴をもつ。種類は玩具、福神、貯金玉、床置、仮面、神仏像など幅広い。なかでも亀次郎作の花魁像は一尺余の大きさで、変形や大胆な造形を見せる。古瀬與三郎作の「踊子供」や「清正馬乗」には、愛らしい稚気があふれる。
内田皿屋に由来する韓人(朝鮮出身者)か、別に渡来した韓人かは不明だが、西川登村の庭木と小田志に分窯し、とくに万治・寛文のころから元禄期まで製陶が盛んであったらしい。両山に古窯跡が多いことからも推察でき、庭木・小田志・弓野の三山はいずれも同系の分窯とみられる。
庭木山は、かつて戸数百五十戸と伝わるが、今は百十余戸に過ぎない。古窯跡は、河内口(庭木甕屋)から奥に、祖頭先・芋母口・梅木原根地・新山・土井木原・八人塚・板屋窯の谷・板屋物原上・板屋物原下・道祖の元・鋳物師口上・物師口下などがある。
庭木の「鶉手」は、薪に恵まれ原料地の神六山にも近い利点と、優れた技術に支えられ、同系とされる武内窯に比しても遜色がない。白と卵色または褐色の土を練り合わせて斑文を表す巧みな作で、信楽焼の「揉み込み」と同様の技法であろう。
土井木原の古窯品には、栗色釉に白で紗綾目文やギリ文様を出し、見込みに群菊を白描した口径一尺の目積皿、白化粧地に四段の花押文を巡らし上から青釉を掛けた八寸皿、薄褐色釉に白と紫のなだれ刷毛目を飾った七寸皿などがあり、いずれも広い無釉の高台をもつ。栗色地に緑縁で白の波文、中面は白釉で立筋を連ね、乾かぬうちに横筋を重ねて立筋を掻き跳ねた意匠の上に金茶を流した尺三寸の水鉢、同地に波刷毛目を施した徳利、赤錆地に飴釉を掛け白琺瑯を流した口径一尺の徳利、青味を帯びた栗色釉に白で螺旋筋を巡らせた六寸徳利なども見られる。
板屋窯の谷の古窯品には、鉄色地無釉で口径一尺の大胴花瓶、黒鉄地にトロ色釉の涙痕があり独楽形で肩が張り四方に結び穴の付いた尺五寸の葉茶壺、同鉄地に白化粧を掛け耳付き五寸の花立がある。板屋物原の古窯品には、鉄地に白化粧の徳利、同地にトロ色釉を施し縁に白釉を掛けた口径一尺の大胴張り徳利がある。芋母口には飴釉に花三島手の瓢形小徳利があり、河内口は甕や壺・蘭鉢など大物が多く「甕屋」と呼ばれ、鉄地の肩付形に押文様を巡らし飴釉を流した尺五寸の花瓶なども焼かれた。
庭木の古窯品には、小豆色地に白の波刷毛目、底に菊文刷毛目を施し、その上に青釉と金茶を流した大皿、茶色釉に白の網刷毛目や波刷毛目、剣先三島手の精巧な大皿などがあり、いずれも縁外を除き裏は無釉という共通性がある。さらに、原文「暗線釉」と記す暗色の釉で篩目や波刷毛目などを六段に飾った大皿、栗色の薄釉に白筋を巡らせ、男波・女波の力強い櫛目を掻き、その上に青釉をむら流しした大皿、薄栗釉で縁に小さな立浪刷毛目、底に渦刷毛目を見せる大皿、暗色の鶯釉に白化粧を掛けて縁に網櫛目を掻いた大皿、黄色釉の化粧掛で底を波形に櫛掻きした大皿、鶯茶釉に白で三島手をあしらい、底に菊文櫛目を施した大皿、底の独楽筋刷毛目の上から濃茶釉を総掛けした八つ目積の大皿など、いずれも広い無釉高台を備える。天和年間(1681–1684)には有田の坂口權藏が来て、庭木焼を平戸方面に運び販売したという。
庭木の磁器は、のちに板屋・河内口で原料を見いだし有田から工人を招いて製作されたが、いずれも軟質で薄鼠色を呈する。土井木原と河内口の二窯のほか一帯で磁器の残欠が見つかり、色味が澄んだ白に焼けたものは晩年に神六の石へ天草石を加えた製品であろう。
板屋の磁器では、八人塚古窯出土の耳付き五寸花立に下呉須で松竹梅を描いたものがあり、筆勢が跳ね逸れるような奇抜さがある。同柄の油瓶もあった。板屋物原の磁器には、肩張り口付きの染付徳利や大ぶりで口反りの白磁徳利、ほかに鳶色や黄色の飯碗・皿がある。庭木の磁器は今から百二、三十年前に廃窯となり、一部は大村領の三の股や有田郷黒牟田などへ移ったという。道祖の元にあった韓人の墳墓二十基ほどの土饅頭も、いつしか畑地に開かれ跡形もない。
現存する古窯は土井木原だけで、連房式で七、八室、最大の室は五、六坪ほどの広さがある。当地の百姓で仕事嫌いの若者が行方知れずのとき、この古窯を探すと大抵ここで昼寝をしているので、「け者の隠れ家」と呼ばれている。
梅の木原には、かつて高麗人の住居があり、草葺きで長さ十間・入り六間、玄関が張り出し、前には立派な庭園があったが、台風で全壊したという。韓人の一家が住居と工房を兼ねた建物だったらしく、その家にあった陶車(ろくろ)一台がいまも残る。
百間窯と庭木について。韓人が開窯したのち、どの陶山から多くの工人が来たかは不詳だが、現在の住民の中に住吉村立野川内の悉地院の檀徒が十八戸ある。立野川内はここから二里半ほど離れ、そこが百間窯の所在地であることから、その流れの職人が庭木へ転じたのではないかとも思われる。今や当地は農村化し、小学校内にわずかな遺物を見るほか、窯煙は完全に絶えている。
飛松峠を越えると小田志山で、ここもすっかり衰え、全村百二十戸のうち陶山の集落は三十戸に満たず、窯焼は一戸のみ残る。古窯跡は大川口新窯のほか、新立山・小田志窯の頭・白木原・上松山・下松山・野仙谷・樫の木山・瓶屋谷一の窯・同二の窯・同三の窯などである。
新立山の古窯品は、大ぶりの緑釉鉢に七段の筋を巡らせ、その間に花形の押文を配し、上から白化粧を施し、焼き締まりは炻器のように堅い。高台裏が広く無釉である点や作風から見て、小田志は概して庭木と似ている。
小田志の「窯の頭」の古窯品には、薄栗色釉に天目吹掛の茶碗、栗天目の大皿に印花の桜花・菊花文を巡らせたもの、灰色釉に白で三本の独楽筋を回し青釉を流した大皿、暗灰釉に白の独楽筋を回した大皿などがある。白木原の古窯品には、栗色釉に波刷毛目を施し、見込みに目積を入れ、縁反りで口径一尺の皿がある。
【英語訳】[English translation]
On the Yumino dolls. In 1887 (Meiji 20), Kamejirō was adopted by Eguchi Tomosaburō, took the Eguchi surname, and his son was called Matajirō. From then on the area became a production center for clay dolls, with six other households in the same trade besides Kamejirō. In recent years the craft has finally gained wider notice; Riichi Ezaki of Osaka Glico Seika, originally from Hasuike in this prefecture, placed large orders. The work is now poised to develop as Saga Prefecture’s only local folk doll. An industry association has been formed, coordinated by Nakashima Hiroyoshi (6th graduating class, Arita Technical School) as its head.
Commemorative stele for Kamejirō. Orders have recently come from Osaka and elsewhere, and annual output has surpassed 30,000 yen. Clay for the dolls is taken from Nagano in Higashi-Kawanobori Village and from Toriumi in Nakadōri Village. On February 29, 1932 (Shōwa 7), fellow artisans erected a monument at the east entrance of Yumino to honor Eguchi Kamejirō, the founder of the doll-making tradition.
Style of the Yumino doll. Though of Hakata lineage, unlike the cultured tone of Hakata dolls, those here display a markedly classical local color. Production is almost entirely by press-mold; pieces over five sun in size have paper pasted to the base— a feature rare nationwide. Types range widely— toys, gods of good fortune, coin banks, floor ornaments, masks, and images of deities and Buddhas. Notably, Kamejirō’s oiran (courtesan) figure measures over one shaku and shows adventurous, transforming forms. Works by Furuse Yosaburō such as “Dancing Child” and “Kiyomasa on Horseback” brim with charming naiveté.
It is unclear whether the origin was Koreans from Uchida Saraya or other arrivals, but branch kilns were set up at Niwaki and Odashi in Nishikawanobori Village; pottery was especially active from the Manji and Kanbun eras through Genroku. The many old kiln sites on these two hills support this view. Niwaki, Odashi, and the aforementioned Yumino appear to have been branch kilns of the same line.
Niwaki-yama. Niwaki is said to have once had 150 households, now only a little over 110. Old kiln sites include, from Kawauchiguchi (also called Niwaki Kameya) inward: Sodō-saki, Imoboguchi, Umegihara-nechi, Arayama, Doigihara, Hachininzuka, Itaya-gama no Tani, Itaya-monobara (upper and lower), Dōso-no-moto, Imonoshi-guchi (upper) and Monoshi-guchi (lower).
Niwaki’s quail-mottle (uzura-de). Rich in fuel and close to the raw-material source of Kamiroku-yama, and with superior technique—judging from excavated wares—it bears no shame compared to the kindred Takeuchi kilns. Among them are superb “quail-mottle” pieces unmatched elsewhere: white clay kneaded with egg-colored or brown clay to produce mottling, akin to Shigaraki’s momikomi technique.
Doigihara. Finds include a one-shaku plate with a green rim showing sayagata and “giri” patterns in white over a chestnut glaze, and massed chrysanthemums in line-drawing in the well; an eight-sun plate with white-slip ground encircled by four tiers of stamped floral motifs under blue glaze; and seven-sun plates of light brown glaze with white-and-purple “avalanche” brushwork— all with broad unglazed footrings. There is a 1-shaku-3-sun water basin: chestnut ground, green rim with white wave pattern, white-glazed interior with vertical ribs, across which horizontal ribs were drawn before drying to “flick” the verticals, then a flow of golden-brown over all. Also seen are tokkuri with wave brushwork; a one-shaku tokkuri of rust-red ground with amber glaze and a pour of white enamel; and a six-sun tokkuri of bluish chestnut glaze with white spiral ribs.
Itaya-gama no Tani. Finds include a large-shouldered flower vase, one shaku at the mouth, iron-colored and unglazed; a leaf-tea jar, black-iron ground with tear traces of toroiro glaze, top like a spinning top, shoulders flared, with four tying holes, 1 shaku 5 sun; and a five-sun white-slipped flower holder on iron ground with lugs. At Itaya Monobara, there are tokkuri of iron ground with white slip, and large-shouldered tokkuri with toroiro glaze and white-glazed rims.
Imoboguchi and Kawauchiguchi. Imoboguchi yields a small gourd-shaped tokkuri with amber glaze and hana-mishima motifs. Kawauchiguchi mostly has large jars, pots, and orchid planters; hence the name “Kameya.” Among its wares is a 1-shaku-5-sun flower vase on iron ground, shouldered form encircled by pressed patterns and flowed with amber glaze.
Other Niwaki wares. Examples include a large plate of azuki-colored ground with white wave brushwork, chrysanthemum-brushwork in the center, then a flow of blue glaze and golden-brown; large plates with brown glaze and white mesh or wave brushwork; and finely executed ken-saki mishima pieces. A common trait of Niwaki plates is that the reverse is entirely unglazed except for the rim. Other pieces include a large plate with (orig. “dark-line glaze”) dark-hued glaze decorated in six tiers with sieve or wave brushwork; a large plate of thin chestnut glaze with white ribs, over which strong male/female combing was carved and a mottled blue glaze flowed; and a large plate of thin chestnut glaze with small standing-wave brushwork on the rim and a whirl-brush in the center. There are also large plates of dark warbler-brown glaze with white slip and mesh-combing on the rim; plates of yellow-glaze slip with the bottom combed in wave form; plates of warbler-brown with white mishima and chrysanthemum-combed centers; and “eight snake-eye stack” plates with the bottom’s spinning-stripe brushwork overlaid completely with dark-brown glaze— all with broad unglazed feet. In the Tenna era (1681–1684) a certain Sakaguchi Gorzō from Arita is said to have carried Niwaki ware to the Hirado area for vigorous sale.
Porcelain at Niwaki. Later—date unknown—raw materials were found at Itaya and Kawauchiguchi; artisans from Arita were invited to produce porcelain. These are soft-bodied and light gray; besides the two kilns at Doigihara and Kawauchiguchi, porcelain sherds are now found throughout. Pieces fired to a clear white likely date to the later phase when Amakusa stone was blended with Kamiroku stone.
Itaya porcelain. Among sherds from the Itaya Hachininzuka kiln are five-sun, lugged flower holders painted underglaze with pine, bamboo, and plum in underglaze blue— with a daring, flying brush. Oil flasks with the same pattern also existed. From Itaya Monobara come tokkuri with flared shoulders and lips in underglaze blue, and large white tokkuri with flared mouths. Other old porcelain includes bowls and plates in kite-brown or yellow. Niwaki porcelain fell into disuse 120–130 years ago; some potters moved to Sannomata in the Ōmura domain or to Kuromuta in Arita. About twenty earthen mounds once identified as Korean graves at Dōso-no-moto were reclaimed as fields; nothing remains.
Doigihara’s old kiln. The sole surviving old kiln is at Doigihara: a multi-chamber climbing kiln of seven or eight rooms, the largest five or six tsubo in area. Local layabouts who go missing are often found napping there, hence its nickname, “the idler’s hideout.”
Korean residence at Ume-no-kihara. Here once stood a Korean dwelling: a thatched building ten ken long by six ken deep with a protruding entrance and a fine garden in front, reportedly destroyed by a typhoon. It appears to have combined home and workshop; one potter’s wheel from that house survives.
Hyakken-gama and Niwaki. After Koreans opened kilns here, it is unclear from which pottery hill most workers came, but among current residents are eighteen parishioners of Shitchiin at Tateno-kawauchi in Sumiyoshi Village. Though two and a half ri distant, that place is the site of the Hyakken-gama; perhaps its journeymen transferred to Niwaki. Today the area has become purely agricultural; aside from a few remnants kept at the elementary school, no smoke rises from kilns.
Odashi-yama. Crossing Tobi-matsu Pass lies Odashi-yama, now also in decline. Of the village’s 120 households, fewer than thirty are pottery households, and only one kiln remains active. Old kiln sites here include Ōkawaguchi Shingama, and also Aratateyama, Odashi Kama-no-kashira, Shirakihara, Kamimatsuyama, Shimomatsuyama, Nozendani, Kashinokiyama, and Kameyadani kilns Nos. 1–3.
Aratateyama. Finds include a large green-glazed bowl with seven encircling ribs, flower-shaped stamps between them, and an overall white slip; the body is fired hard like stoneware. In its broad unglazed foot and overall manner, Odashi generally resembles Niwaki.
Odashi “Kama-no-kashira.” Finds include tea bowls with tenmoku spray over light chestnut glaze; and large bowls in chestnut tenmoku with stamped sakura and chrysanthemum roundels. There are also large plates with gray glaze and three white “spinning-top” rings and flows of blue glaze, and large plates in dark gray glaze with white spinning-top rings.
Shirakihara. Finds include a one-shaku rim-flared plate with chestnut glaze and wave brushwork, with a meshed center.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
关于弓野人形。明治二十年,龟次郎被江口友三郎收为养子,改姓江口,其子称“又次郎”。此后本地成为土人形的产地,除龟次郎外尚有六户同行。近年技艺渐为世人所知,出身于本县莲池的江崎利一(大阪格力高制菓)大量下单,作为佐贺县唯一的乡土人形,业已迎来发展契机。现已组织同业公会,由中岛弘义(有田工业学校第六届毕业)任会长统筹。
关于龟次郎的颂德碑。近年来自大阪等地的订单繁多,年产额逾三万日元。原料黏土取自东川登村永野与中通村鸟海。昭和七年二月二十九日,当地同行在弓野东口建立了人形创始者江口龟次郎的颂德碑。
弓野人形的风格,虽承博多系,却不同于博多的雅致文化气,呈现更为古典且浓厚的乡土色。制作几乎皆为压模,五寸以上作品底部贴纸,这在全国亦罕见。品类广泛,涵盖玩具、福神、储金玉、地摆、假面、神佛像等。其中特别是龟次郎作的花魁像,尺余之大,造形大胆;古濑與三郎作的《舞蹈孩童》《清正乘马》洋溢稚趣。
至于源流,或出自内田皿屋的韩人,或另有渡来者,不可详。然于西川登村之庭木与小田志分窑,万治、宽文至元禄间尤盛。两山古窑址甚多,可资旁证;庭木、小田志与弓野三山,应为同系分窑。
庭木山昔有户一百五十,今仅一百十余。古窑址自河内口(亦称庭木甕屋)向奥,凡祖头先、芋母口、梅木原根地、新山、土井木原、八人冢、板屋窑之谷、板屋物原上与下、道祖之元、铸物师口上、物师口下等。
庭木之“鹌鹑手”,燃料充足,且近原料地神六山,技艺亦精。出土品观之,不逊于同系武内窑。其白土与蛋色或褐土揉合成斑者,尤为上乘,似信乐烧“揉入”之法。
土井木原所见:栗色釉配白绘纱绫纹、吉利纹,口径一尺之目积盘,见内白描群菊;白化妆地四圈花押纹,覆以青釉之八寸盘;薄褐釉上白与紫“雪崩刷毛目”之七寸盘,皆广足无釉。又有尺三之水钵:栗地绿沿白浪纹,内以白釉立筋,趁未干横笔连作,使立筋呈掻跳之趣,上覆金茶;并有施浪刷毛目之德利;赤锈地覆飴釉并泼白珐琅之尺口德利;青味栗釉白绘螺旋筋之六寸德利等。
板屋窑之谷:铁色地无釉尺口大胴花瓶;黑铁地泪痕托罗釉之叶茶壶,独乐形、肩张、四方绑孔,尺五寸;铁地白化妆耳付五寸花立。板屋物原:铁地白化妆德利;又有托罗釉并口沿白釉之尺口大胴德利。芋母口出土飴釉花三岛手葫芦小德利。河内口多甕、壶、兰钵等大件,故号“甕屋”,亦烧有铁地肩付押纹、覆飴釉之尺五寸花瓶。
庭木其他古品:有小豆色地白浪刷毛目,底作菊纹刷毛目,再泼青釉与金茶之大盘;棕釉白网或白浪刷毛目,或精巧之剑先三岛手大盘。其通例为背面除边外全无釉。又有原文称“暗线釉”的暗色釉器,筛目与浪刷毛目六段装饰;薄栗釉白筋环绕,掻出雄浑之男波女波櫛目,上淋青釉;薄栗釉器缘作小立浪刷毛目,底作涡刷毛目。另有暗色鸫茶釉白化妆、绿缘网櫛目之大盘;黄釉化妆底作波形櫛掻之大盘;鸫茶釉白绘三岛手、底作菊纹櫛目之大盘;以及底部独乐筋刷毛目上全覆浓茶釉之“八目积”大盘,皆广足无釉。天和年间(1681–1684),有田之坂口权藏运庭木烧至平户贩售。
庭木之瓷:后于板屋、河内口得原料,延请有田工人制瓷,胎软色浅灰。除土井木原与河内口二窑外,今一带皆见瓷片。其色清白者,疑为晚期以天草石配神六石所成。
板屋瓷:八人冢古窑有五寸耳付花立,底绘松竹梅之下呉須,笔势飞动;并有同纹油瓶。板屋物原见染付肩张口付德利与大白口反德利。其余瓷片多见鸢色或黄色饭碗与盘。庭木瓷于今前一百二三十年废窑,或迁三之股(大村领)、或迁有田郷黑牟田。道祖之元昔有韩人坟冢二十余,后被垦为田,踪迹全无。
存留古窑唯土井木原,为连房式七八室,最大者五六坪。当地懒散青年偶失踪,多被发现在此古窑昼寝,故号“懒人藏身处”。
梅之木原曾有高丽人宅,草顶,长十间、进深六间,玄关外挑,前有佳园,后为台风摧毁。疑兼居住与作坊,尚存一台陶车(拉坯轮)。
百间窑与庭木。韩人开窑后工匠来源未详,但现居民中有住吉村立野川内悉地院檀徒十八户。彼处距此二里半,为百间窑所在,或其流寓工匠转至庭木。今地已成农村,除小学内少量残物外,窑烟全绝。
越飞松岭为小田志山,亦大为凋敝。全村一百二十户中,陶山聚落不足三十户,烧窑仅存一户。古窑址有大川口新窑、另有新立山、小田志窑之头、白木原、上松山、下松山、野仙谷、栎木山、瓶屋谷第一至第三窑等。
新立山出土:大绿釉钵环七道筋,间饰花形押纹,上施白化妆,烧成坚硬如炻器。其广足无釉与作风,概与庭木相似。
小田志“窑之头”出土:薄栗釉上天目喷洒之茶碗;栗天目大盘印花环饰樱花、菊花;灰釉白绘三道独乐筋并泼青釉之大盘;暗灰釉白绘独乐筋之大盘。白木原出土:栗釉波刷毛目、见内作目积、缘反口径一尺之盘。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
關於弓野人形。明治二十年,龜次郎為江口友三郎之養子,改姓江口,其子稱「又次郎」。自此本地成為土人形產地,除龜次郎外尚有六戶同行。近年技藝漸為人知,出身本縣蓮池之江崎利一(大阪格力高製菓)大量訂購,作為佐賀縣唯一之鄉土人形,已迎來發展機運。今已組成同業公會,由中島弘義(有田工業學校第六屆)任會長統籌。
關於龜次郎頌德碑。近年自大阪等地訂單繁多,年產額逾三萬日圓。原料黏土取自東川登村永野與中通村鳥海。昭和七年二月二十九日,當地同行於弓野東口建頌德碑,以紀念人形創始者江口龜次郎。
弓野人形之風格,雖承博多系,然不同於博多之雅馴氣質,而呈古典且濃厚之鄉土色。制作幾皆押模,五寸以上之作底貼紙,此舉全國罕見。種類廣泛,涵玩具、福神、儲金玉、地擺、假面、神佛像等。尤以龜次郎作花魁像,尺餘之大,造形大膽;古瀨與三郎作《舞踊兒》《清正乘馬》洋溢稚趣。
源流或自內田皿屋之韓人,或另有渡來者未可知。然於西川登村之庭木、小田志分窯,萬治、寬文至元祿間尤盛。兩山古窯址甚多,可資旁證;庭木、小田志與弓野三山,疑為同系分窯。
庭木山昔有戶百五十,今僅百十餘。古窯址自河內口(亦稱庭木甕屋)入內,凡祖頭先、芋母口、梅木原根地、新山、土井木原、八人冢、板屋窯之谷、板屋物原上、下、道祖之元、鑄物師口上、物師口下等。
庭木之「鶉手」,薪料充足且近原料地神六山,技藝精湛。出土品觀之,不遜同系武內窯。其白土與蛋色或褐土揉合成斑者,尤為上乘,近於信樂燒「揉入」之法。
土井木原所見:栗色釉白繪紗綾、吉利紋,口徑一尺目積盤,見內白描群菊;白化妝地四圈花押紋覆青釉之八寸盤;薄褐釉上白、紫雪崩刷毛目之七寸盤,皆廣足無釉。又有尺三水鉢:栗地綠沿白浪紋,內白釉立筋,未乾橫筆疊作,令立筋呈掻跳,上覆金茶;並有浪刷毛目德利;赤鏽地飴釉泼白琺瑯之尺口德利;青味栗釉白繪螺旋筋六寸德利等。
板屋窯之谷:鐵色地無釉尺口大胴花瓶;黑鐵地托羅釉淚痕之葉茶壺,獨樂形、肩張、四方結孔,尺五寸;鐵地白化妝耳付五寸花立。板屋物原:鐵地白化妝德利;托羅釉並口沿白釉之尺口大胴德利。芋母口出飴釉花三島手葫蘆小德利。河內口多甕、壺、蘭鉢等大件,故號「甕屋」,亦燒鐵地肩付押紋、覆飴釉尺五寸花瓶。
庭木其餘古品:小豆色地白浪刷毛目、底作菊紋刷毛目,上泼青釉與金茶之大盤;棕釉白網或白浪刷毛目、或精巧劍先三島手大盤。通例背面除邊外全無釉。又有原文稱「暗線釉」之暗色釉器,篩目與浪刷毛目六段飾;薄栗釉白筋環繞,掻出雄勁男波女波櫛目,上淋青釉;薄栗釉器,緣施小立浪刷毛目,底作渦刷毛目。另有暗色鶯釉白化妝、綠邊網櫛目之大盤;黃釉化妝底作波形櫛掻之大盤;鶯茶釉白繪三島手、底作菊紋櫛目之大盤;及底部獨樂筋刷毛目上全覆濃茶釉之「八目積」大盤,皆廣足無釉。天和年間(1681–1684),有田坂口權藏運庭木燒至平戶販售。
庭木之瓷:後於板屋、河內口得原料,延請有田工人制瓷,胎軟色淺灰。除土井木原與河內口二窯外,今一帶皆見瓷片。色清白者,疑晚期以天草石配神六石所成。
板屋瓷:八人塚古窯有五寸耳付花立,下呉須繪松竹梅,筆勢飛動;並有同紋油瓶。板屋物原見染付肩張口付德利與大白口反德利。其餘多鳶色或黃色飯碗與盤。庭木瓷於今前一百二三十年廢窯,或遷三之股(大村領),或遷有田郷黑牟田。道祖之元昔有韓人墳冢二十許,後墾為田,杳無蹤影。
存留古窯唯土井木原,連房式七八室,最大五六坪。當地懶散青年偶失蹤,多被發現於此古窯晝寢,故號「懶人藏身處」。
梅之木原曾有高麗人宅,草葺,長十間、進六間,玄關外挑,前有庭園,後為颱風摧毀。疑兼居住與作坊,尚存一臺陶車(轆轤)。
百間窯與庭木。韓人開窯後工匠來源未詳,然現居民有住吉村立野川內悉地院檀徒十八戶。彼處距此二里半,為百間窯所在,或其流寓工匠轉至庭木。今地皆為農村,除小學內少量殘物外,窯煙全絕。
越飛松嶺為小田志山,亦多頹敝。全村一百二十戶中,陶山聚落不足三十,僅存一窯。古窯址有大川口新窯,另有新立山、小田志窯之頭、白木原、上松山、下松山、野仙谷、樫之木山、瓶屋谷第一至第三窯等。
新立山出土:大綠釉鉢環七道筋,間飾花形押紋,上施白化妝,燒成堅若炻器。其廣足無釉與作風,大抵與庭木相近。
小田志「窯之頭」出土:薄栗釉上天目噴灑茶碗;栗天目大盤印花環飾櫻花、菊花;灰釉白繪三道獨樂筋並泼青釉之大盤;暗灰釉白繪獨樂筋之大盤。白木原出土:栗釉波刷毛目、見內作目積、緣反口徑一尺之盤。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
关于弓野人形。1887年,龟次郎被江口友三郎收为养子,改姓“江口”,其子名“又次郎”。此后本地成为泥塑人形中心,除龟次郎外尚有六户从业。近年技艺广为人知;出身本县莲池的江崎利一(大阪格力高制菓)大量订货,作为佐贺县唯一的乡土人形正在发展。已成立同业公会,由中岛弘义(有田工业学校第六届)任会长协调。
龟次郎纪念碑。近来来自大阪等地的订单增加,年产值超过三万日元。用土取自东川登村的永野和中通村的鸟海。1932年2月29日,当地同行在弓野东口建碑,纪念创制者江口龟次郎。
弓野人形风格:虽承自博多,但不同于博多的文雅气质,更具古典而强烈的乡土色。制作多为压模,五寸以上作品底部贴纸,此举全国少见。类别广泛:玩具、福神、储钱罐、地摆、假面、神佛像等。龟次郎作“花魁”高逾一尺,造形大胆;古濑与三郎的《舞蹈孩童》《清正骑马》稚趣盎然。
分窑与沿革:源头或为内田皿屋韩人,或另有渡来者。西川登村的庭木与小田志设有分窑,万治、宽文至元禄间尤盛,古窑址众多。庭木、小田志、弓野三山应属同系。
庭木山:昔有150户,今余110余。古窑址包括河内口(亦称庭木甕屋)一带之祖头先、芋母口、梅木原根地、新山、土井木原、八人冢、板屋窑之谷、板屋物原上/下、道祖之元、铸物师口上、物师口下等。
“鹌鹑手”:燃料充足,近神六山原料,技艺精湛,不逊武内窑。以白土与蛋色或褐土揉成斑,似信乐“揉入”。
土井木原出土:一尺目积盘(栗釉、白绘纱绫与吉利纹、见内群菊),白化妆地四段花押纹覆青釉之八寸盘,薄褐釉白/紫“雪崩刷毛目”七寸盘——皆广足无釉。另有尺三水钵等德利多器。
板屋窑之谷与物原:见铁地无釉尺口花瓶、黑铁地托罗釉泪痕叶茶壶(独乐形、肩张、四孔)、耳付花立;铁地白化妆德利,托罗釉并口沿白釉大德利。芋母口有飴釉花三岛手小德利;河内口多大件,故称“甕屋”。
庭木其他大盘:小豆地白浪刷毛目、底菊纹刷毛目并覆青釉与金茶;棕釉白网/白浪刷毛目;剑先三岛手等,背面除边外无釉。另有暗色釉六段装饰、男波女波櫛目等多式。天和年间(1681–1684),有田坂口权藏贩运至平户。
庭木瓷:后于板屋、河内口采料,邀有田匠制软胎浅灰瓷;除土井木原与河内口外,各地皆见瓷片。清白者疑为晚期以天草石配神六石。
板屋瓷:八人冢出五寸耳付花立,下呉須绘松竹梅,笔势飞动;并有同纹油瓶。物原见染付德利与大白德利。其余多鸟色/黄色碗盘。庭木瓷于120–130年前废窑,部分迁三之股或黑牟田。韩人坟冢已被垦为田。
土井木原古窑:连房七八室,最大五六坪。常被称为“懒人藏身处”。梅之木原曾有高丽人宅(兼居住与作坊),后为台风毁,仅余一台拉坯轮。
百间窑与庭木:住吉村立野川内悉地院有18户檀徒,距此二里半,系百间窑所在,或其工匠转至庭木。今已农村化,仅小学存少量残物。
小田志山:越飞松岭即达。村计120户,陶山不足30户,唯余一窑。古窑址有大川口新窑、另有新立山、小田志窑之头、白木原、上/下松山、野仙谷、栎木山、瓶屋谷1–3号窑等。新立山出土大绿釉钵七道筋、花押纹、白化妆,烧成坚如炻器,与庭木相似。小田志“窑之头”有天目茶碗、栗天目大盘印花樱菊、灰釉白绘独乐筋并泼青釉大盘、暗灰釉白绘独乐筋大盘。白木原出一尺反口栗釉波刷毛目、见内作目积之盘。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
關於弓野人形。1887年,龜次郎為江口友三郎之養子,改姓江口,其子名「又次郎」。此後本地成為泥塑人形中心,除龜次郎外尚有六戶從業。近年技藝廣為人知;出身本縣蓮池之江崎利一(大阪格力高製菓)大量訂貨,作為佐賀縣唯一之鄉土人形正待發展。已組成同業公會,由中島弘義(有田工業學校第六屆)任會長協調。
龜次郎紀念碑。近年自大阪等地之訂單漸增,年產值逾三萬日圓。用土取自東川登村永野與中通村鳥海。1932年2月29日,當地同行於弓野東口建碑,以紀念創製者江口龜次郎。
弓野人形風格:雖承自博多,但異於博多之文雅氣質,更具古典且濃烈之鄉土色。制作多為壓模,五寸以上作品底貼紙,於全國罕見。品類廣泛:玩具、福神、儲錢罐、地擺、假面、神佛像等。龜次郎所作「花魁」高逾一尺,造形大膽;古瀨與三郎《舞踊孩童》《清正騎馬》稚趣盎然。
分窯與沿革:源頭或為內田皿屋韓人,或另有渡來者。西川登村之庭木與小田志設分窯,萬治、寬文至元祿間尤盛,古窯址甚多。庭木、小田志、弓野三山應屬同系。
庭木山:昔有150戶,今餘110餘。古窯址包括河內口(亦稱庭木甕屋)一帶之祖頭先、芋母口、梅木原根地、新山、土井木原、八人塚、板屋窯之谷、板屋物原上/下、道祖之元、鑄物師口上、物師口下等。
「鶉手」:燃料充足,近神六山原料,技藝精湛,不遜武內窯。以白土與蛋色或褐土揉成斑,類似信樂「揉入」。
土井木原:出土一尺目積盤(栗釉、白繪紗綾與吉利紋、見內群菊),白化妝地四段花押紋覆青釉之八寸盤,薄褐釉白/紫「雪崩刷毛目」七寸盤——皆廣足無釉。另有尺三水鉢與多式德利。
板屋窯之谷與物原:見鐵地無釉尺口花瓶、黑鐵地托羅釉淚痕葉茶壺(獨樂形、肩張、四孔)、耳付花立;鐵地白化妝德利與托羅釉口沿白釉大德利。芋母口有飴釉花三島手小德利;河內口多大件,故稱「甕屋」。
庭木其他大盤:小豆地白浪刷毛目、底菊紋刷毛目並覆青釉與金茶;棕釉白網/白浪刷毛目;劍先三島手等,背面除邊外無釉。另有暗色釉六段裝飾、男波女波櫛目等。天和年間(1681–1684),有田坂口權藏行銷至平戶。
庭木瓷:後於板屋、河內口採料,邀有田匠制軟胎淺灰瓷;除土井木原與河內口外,各處皆見瓷片。清白者疑為晚期以天草石配神六石。
板屋瓷:八人塚出五寸耳付花立,下呉須繪松竹梅,筆勢飛動;並有同紋油瓶。物原見染付德利與大白德利。其餘多鳶色/黃色碗盤。庭木瓷於120–130年前廢窯,部分遷三之股或黑牟田。韓人墳冢已被墾為田。
土井木原古窯:連房七八室,最大五六坪,俗稱「懶人藏身處」。梅之木原曾有高麗人宅(兼居與作坊),後為颱風毀,僅存一臺轆轤。
百間窯與庭木:住吉村立野川內悉地院有18戶檀徒,距此二里半,為百間窯所在,或其工匠轉至庭木。今已農村化,僅小學存少量殘物。
小田志山:越飛松嶺即至。村計120戶,陶山不足30戶,僅存一窯。古窯址有大川口新窯,另有新立山、小田志窯之頭、白木原、上/下松山、野仙谷、樫之木山、瓶屋谷1–3號窯等。新立山出大綠釉鉢七道筋、花押紋、白化妝,燒成堅若炻器,與庭木相似。小田志「窯之頭」見天目茶碗、栗天目大盤印花櫻菊、灰釉白繪獨樂筋並泼青釉大盤、暗灰釉白繪獨樂筋大盤。白木原出一尺反口栗釉波刷毛目、見內作目積之盤。

