西田市兵衛の下宿焼から二代源六

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【原文】[Original text]
西田市兵衛の下宿焼
 西田市兵衛は嬉野下宿(戸數五十戸)の舊家市郎右工門の男にて、當時下宿焼と稱させられしもの、實は此地にて製造し物にてはなく、此處の管谷といへる谷山より粘土を採掘し、そして小田志山に運びて黒物を製せしものにて。今同家にある尺五寸の大徳利を見るに、赤き胎土に飴釉を施し、肩部と腰に三島手を印花せるが、中胴には白にて小さき鶴と鷺を象嵌し、嘴と脛を鐵描せしものである。斯くて市兵衛は文政十二年十月十一日(1830年)卒去してゐる。

鷹の巣甕山
 同下宿大字鷹の巣の稲荷山に於て明治二十二年春此地の小野原清吉が、六間登を築窯して甕類を焼きしものが甕山である。原料は此處の地土を用ひ、甕の外土管、擂鉢、蘭鉢等を製造し、年額三千圓を塞げたりしが、大正五年其子雪松の代に於いて廢窯せしものである。

内野山高麗神
 嬉野内野山の、新窯と下窯との間なる松樹の下に、天神祠と並び建つ高麗神の石祠には、天正十六年(1589年)の彫字がある。それは屋根造りにて観音開扉の中に、神像が高浮彫に現はされてあり。 なほ傍に明和九辰三月吉日(1772年)山中と刻まれてある。
 明和九年は、此地悪疫流行して全山に蔓延せしかば、内野山の山中より其祈願して彫込みしものらしく、元此石祠は別地高見といへる處に祀りありしを、昭和五年天神祠と並べて此處に移轉されしものである。而して此處の殘缺を檢するに、天正時代の開窯とは認め難しさの説あるも、慶長と天正とは五六年の隔りである。而して此物原調査とても、徹底的の検討なりや否やじ難く、故に此認めざる説を認めざる説もある。精しくはなほ調ぶ可きであらう。

相源と金源
 慶長三年鍋島直茂朝鮮役より歸陣の頃、我邦に渡來せる韓人の陶工にて、相源、金源及外一名の者此内野山に来つて旅装を解きしといはれてゐる。而して今此處には相源の墓碑のみあるは、他の二人は此地を去って他山に開窯せしにあらざるか詳でない。

相源の大墓碑
 此處の高尾山腹の墓地に、高さ八尺、巾二尺一寸の平面なる大墓碑とがあり、表銘には清譽妙讀と心月妙績とが並記され、右に寛永十七庚辰八月十三日(1641年)として下に相原宗左工門尉とあるは其子であらう、之が相源夫婦の墓碑である。
 今其後裔相原作といへる者、此地に農業を営んでゐる。そして内野山の窯焼は例年二月十五日十一月十五日の両日、此相源の碑に祭典を執行することが慣例と成つてゐる。猶此墓地には自然石に完月妙真と刻せし韓人墓らしきものがあり、それに施主人か小島伊衛門と記し、右に延寶甲寅二年にて(1645年)と刻まれてあるも、果して然るや否や詳でない。

内野山新窯
 内野山の古窯趾は古窯と下窯及新窯の三ヶ所である。新窯の古窯品には、外靑地に内は青釉を掛けし窯變の茶碗があり、同じ窯機にて蛇の目積の中皿や、灰色釉底三つ目積の茶碗がある。又同釉にて突蛇の目積五寸の丼や外鼠色内空色釉なる茶碗があり、或は暗黄色釉の半磁器茶碗など、何れも高臺無釉に焼かれてゐる。

内野山下窯
 下窯の古窯品には、外黒釉に内は白の琺瑯流しにて、蛇の目積七寸の淺井や、内白琺瑯にて外黒釉なる蛇の目積六寸の丼があり。又鶯釉八寸の淺井等何れも高臺無釉である。或は栗黒釉に白釉の波刷毛目を施せし蛇の目積八寸の丼などもある。
 其他此處の古窯品には、口黒にて胴鐡色釉に白釉流しの徳利や鶯色釉に口遊天目の徳利がある。古窯の殘缺を見るに、前記二窯の破片と異なるところなきは、察するに此處は古き廢窯趾とて、此物原へ前二窯の殘缺を運びて打来てしものであらう。又此内野山製品には鐵暗色なる六寸の目積皿が當時肥後行きて多く焼かれてゐたのである。
 之より先寛永年間(1624-1645)に至り、其後渡來せし韓人の子孫と、内地人との斯業者大に繁殖し、又地方よりの轉住者も増加して戸數百七八十戸を數ふるに及び正徳の晩年(1716年)より、従来の陶器の外、天草石を主料として更に白磁を製造する者生じ、古窯の外に下窯及新窯を築造するに至つたのである。

内野山番所と保護
 内野山は鍋島宗藩の支配地とて、製陶の保護又頗る厚く、此處の陶山を貫通す南北の出入口には閲門を設けて番所を建て、見張役の傍には槍、棒、袖搦等を備へて警固され、張りに旅人の通行を禁じられたのである。
 寛保年間(1741-1744)より有田代官の所轄に属し、毎年正月には當山より精製せし高麗焼の酒盃と、床置物を宗藩主へ献納する事が定例されてあつた。又有田の横目役所(元の代官所)に於ける年始の蔵盃と、銚子の製作も此内野山焼のくろ物と定められ、毎年末に此處より納められてゐたのである。
 又此地に費消する製陶燃料は、二十四個處の地元山林より、僅少の課金を以て下附されたのであつた。そして例年六月二十日限り返納すべき規定を以て、有田代官の手を経て、窯焼資金なるものを貸興されしが、それは全山に玄米百俵と、金子三百両に限られたのである。

疫病後の頽廢
 然るところ明和の末年に於いて此地の疫病激甚を極める者算なく、其上凶年打績きて米穀不作の爲め、営業者は全く疲弊の極に達し、本藩より救恤を喋りしも、此頃より數百戸内外に減じ、古窯と下窯は遂に廃窯さるに至つたのである。
 其後維新當時に於いて、なほ十六戸の窯焼を有せしも漸時衰頽し、爾後十四年を経て新窯は火災に罹りしまゝ再興せず、倒産する者他業に轉する者相次ぎ、残りしは磁器焼にて三戸、陶器燒にて一戸となり、職工又僅に十四五人に過ぎさるに至つた。

富永源六
 明治二十一年(1889)此地の富永源六は一の新窯を築造し、青花の磁器を製して頗る名声を揚ぐるに至りしが、同三拾年には残れる四戸の窯焼中三戸は廢業して源六一人の内野山となり、往年彼の高原五郎七にまで訪はれし此地の高麗燒も、途に其跡を断つに至つたのである。

源六焼
 之より源六は全國各地の製陶を観察して具さに研究せる結果、茲に一種のオリジナリテイーに、源六焼なる作風を製作した。それは染附墨きにて牡丹を書き、花を正圓子にて彩色し葉を呉洲にて隈取誼染せしものである。そしてマークには(トミの意)の銘が用ひられ、同四十四年には源六燒株式會社を設立して、嬉野温泉に添へろ一名産と稱せらるゝに至ったのである。

新湯温泉のタイル
 今嬉野温泉の新湯には、源六製染附の六角と、四角のタイルが使用されてゐる。其底部用のタイルには、浴客の滑りを防ぐため、象や龜などを浮彫されてあるが、彩料には呉須の外金茶や緑及正圓子等を用ひ、竹の子、佛子柑等種々の畫り式にて、蓮池の永田石梁(成富椿屋門人明治二十八年卒、五十九才)が書きしものである。
 富永源六は大正九年二月五日六十三才にて卒去した。彼は明治二十二年西嬉野村長となり同三十二年には佐賀縣々合議員に擧げられたのである。

二代源六

 長子真一(有田工業學校第二回卒業)二代源六を襲名し、大正十一年一月源六燒合名會社に改めたのである。 二代源六は、大正十二年七月四日第五〇四三號陶磁器焼成用連結窯につき特許を得たのである。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]
西田市兵衛は嬉野下宿(戸数五十戸)の旧家・市郎右工門の子で、当時「下宿焼」と呼ばれたものは、この地で焼いた品ではなく、管谷という谷から採った粘土を小田志山へ運び、そこで黒ものを焼いたものである。現在、同家に残る尺五寸の大徳利は、赤い胎土に飴釉を掛け、肩と腰に三島手の印花をめぐらせ、中胴には白で小さな鶴と鷺を象嵌し、嘴と脚を鉄描きした作である。市兵衛は文政十二年十月十一日(1830年)に没した。

同じ下宿の大字・鷹の巣の稲荷山では、明治二十二年春に小野原清吉が六間の登窯を築き、甕類を焼いたのが「甕山」である。地元の土を原料とし、甕のほか土管・擂鉢・蘭鉢などを作り、年間三千円を売り上げたが、大正五年、子の雪松の代に廃窯となった。

嬉野内野山では、新窯と下窯の間の松の下に、天神祠と並んで高麗神の石祠があり、天正十六年(1589年)の刻字が見える。屋根造りで、観音開きの扉の内に神像が高浮彫で表されている。そばには「明和九辰三月吉日(1772年)山中」とも刻む。明和九年には悪疫が流行し、内野山の山中の祈願によって彫り込んだものらしく、もと高見という別の場所に祀られていたが、昭和五年に天神祠の隣へ移された。出土遺物からは天正期の開窯とは断じがたいという説もあるが、慶長と天正は五、六年しか隔たらず、物原調査も徹底したか判然としないため、否定説にはなお再検討の余地があるだろう。

慶長三年、鍋島直茂が朝鮮役から帰陣したころ、韓人陶工の相源・金源と、もう一人が内野山に来て荷を解いたと伝える。現在ここに相源の墓碑だけが残るのは、他の二人が他山へ移って開窯したためかもしれないが、詳らかではない。

高尾山腹の墓地には、高さ八尺、幅二尺一寸の平らな大墓碑があり、表には「清譽妙讀」「心月妙績」と並記し、右に寛永十七年庚辰八月十三日(1641年)、下に「相原宗左工門尉」と刻む。相源夫妻の墓で、相原宗左工門尉はその子だろう。現在も後裔の相原作が当地で農業を営み、内野山の窯元は毎年二月十五日と十一月十五日にこの碑に祭礼を行う。墓地にはほかに、自然石に「完月妙真」と刻む韓人墓らしきものがあり、施主を小島伊衛門とし、右に延宝甲寅二年(1645年)とあるが、確証はない。

内野山の古窯跡は、古窯・下窯・新窯の三か所である。新窯の遺品には、外面青地で内に青釉を掛けた窯変の茶碗、同系の蛇の目積の中皿、灰色釉で底に三つ目積の茶碗、同釉の突き蛇の目積五寸丼、外ねずみ色・内うつぶしの空色釉の茶碗、暗黄色釉の半磁器茶碗などがあり、いずれも高台は無釉である。

下窯の遺品には、外黒釉・内白の琺瑯流しで蛇の目積七寸の浅鉢、内白琺瑯・外黒釉の蛇の目積六寸丼、鶯釉の八寸浅鉢などがあり、いずれも高台無釉。ほかに、口縁黒・胴は鉄色釉に白釉流しの徳利、鶯色釉で口に天目を遊ばせた徳利、栗黒釉に白の波刷毛目を施した蛇の目積八寸丼なども見られる。古窯の残欠が前二窯の破片と変わらないのは、この古い廃窯跡へ前二窯の残欠を運び込んだためだろう。また内野山の製品には、鉄色の六寸目積皿が多く肥後送りに焼かれていた。やがて寛永年間(1624–1645)には、渡来韓人の子孫と在地の陶工が増え、他所からの移住もあって戸数は百七、八十戸に達し、正徳末(1716年)からは従来の陶器に加えて天草石を主原料とする白磁が生まれ、古窯のほかに下窯・新窯が築かれた。

内野山は鍋島宗藩の直支配で保護が厚く、陶山の南北の出入口に関門と番所を設け、番人のそばには槍・棒・袖搦などを備えて警固し、むやみな通行を禁じた。寛保年間(1741–1744)からは有田代官の所轄となり、毎年正月には当地精製の高麗焼の盃と床置物を藩主へ献納するのが例であった。さらに有田の横目役所(旧代官所)での年始の蔵盃と銚子の制作も内野山焼の黒ものと定め、毎年末に納めた。燃料は二十四か所の地元山林から少額の課金で払い下げられ、毎年六月二十日限りの返納規定のもと、有田代官を通じて窯焼資金の貸付(全山で玄米百俵・金子三百両まで)も行われた。

しかし明和末には疫病が猛威を振るい、凶作も続いて陶業者は疲弊の極に達した。本藩からの救恤もあったが戸数は数百から減り、古窯と下窯はついに廃窯となる。維新のころにはなお十六戸の窯元があったものの、やがて衰え、十四年後に新窯が火災で焼失して再興せず、倒産・転業が相次ぎ、残ったのは磁器三戸・陶器一戸、職工も十四、五人ほどになった。

明治二十一年(1889)、富永源六が新窯を築いて青花の磁器を作り、名声を高めた。明治三十年には残る四戸のうち三戸が廃業し、内野山は源六一人となり、往年は高原五郎七まで訪れて称えられた高麗焼も、ついに跡絶えた。

その後、源六は全国の産地を視察して研究を重ね、「源六焼」という独自の作風を生み出した。染付の墨気で牡丹を描き、花は正圓子で彩色し、葉は呉須で隈取りと滲みをつける。商標には「トミ(富)」の銘を用い、明治四十四年には源六燒株式会社を設立、嬉野温泉に添う名産と称されるに至った。

嬉野温泉の新湯には、源六製の染付六角・四角タイルが使われている。床用タイルには滑り止めのため象や亀の浮彫を施し、彩料には呉須のほか金茶・緑・正圓子を用い、竹の子・佛子柑など種々の画題を、蓮池の永田石梁(成富椿屋の門人、明治二十八年没・五十九歳)が描いた。富永源六は大正九年二月五日、六十三歳で没。明治二十二年に西嬉野村長、同三十二年には佐賀県会議員に選ばれている。

長子の真一(有田工業学校第二回卒)が二代源六を襲名し、大正十一年一月に源六燒合名会社へ改組。二代源六は大正十二年七月四日、第五〇四三号「陶磁器焼成用連結窯」の特許を得た。


【英語訳】[English translation]
Nishida Ichibē, son of the long-established Ichirōuemon family of Ureshino Shimojuku (50 households), produced what was then called “Shimojuku ware.” In fact it was not fired there: clay was dug at the valley named Kandani and carried to Odashi-yama, where black stoneware was made. A 1-shaku-5-sun (about 45 cm) large tokkuri preserved in the family has an iron-rich red body covered in amber glaze, Mishima stamped bands at the shoulder and waist, and, on the mid-section, small inlaid cranes and herons in white with beaks and shanks picked out in iron. Ichibē died on October 11, 1830 (Bunsei 12).

In Inari-yama at Taka-no-su, a district of the same Shimojuku, Onohara Seikichi built a six-bay climbing kiln in the spring of Meiji 22 (1889) and fired jars—hence “the jar hill.” Using local clays, he made not only jars but also earthen pipes, mortars, and orchid pots, reaching about 3,000 yen in annual sales. The kiln was abandoned in Taishō 5 under his son Yukimatsu.

Between the “new kiln” and the “lower kiln” at Ureshino Uchino-yama stands a stone shrine to Komae-shin beside a Tenjin shrine. It bears the inscription Tenshō 16 (1589) and, within its gabled, double-door housing, a deity in high relief. Nearby another stone reads “Meiwa 9, third month, auspicious day (1772), Yamanaka.” When pestilence swept the mountain in Meiwa 9, this was likely carved in prayer by residents of Uchino-yama. The shrine originally stood at a site called Takami and was moved in Shōwa 5 to stand beside the Tenjin shrine. Some argue the sherds do not prove a kiln opening in the Tenshō era; given the five or six years between Keichō and Tenshō and the limited thoroughness of earlier surveys, the negative view is not definitive and merits further inquiry.

Around Keichō 3, when Nabeshima Naoshige returned from the Korean campaigns, Korean potters—Sōgen, Kingen, and another—are said to have come to Uchino-yama and unpacked their gear. Only Sōgen’s gravestone remains; perhaps the other two moved on to open kilns elsewhere.

On the mid-slope cemetery of Mt. Takao stands a large flat stele about eight shaku high and two shaku one sun wide. Its face records “Seiyo Myodoku” and “Shingetsu Myoseki,” and to the right “Kan’ei 17, eighth month 13th day (1641),” with “Aihara Sōzaemon-no-jō” below—likely the son. This is the tomb of Sōgen and his wife. A descendant, Aihara Saku, still farms locally. Kilnfolk of Uchino-yama customarily hold rites at Sōgen’s stele on February 15 and November 15 each year. Another natural-stone marker there, probably a Korean’s grave, bears “Kangetsu Myōshin,” notes the sponsor as Kojima Iemon, and is inscribed “Enpō, ki-in, year two (1645),” though authenticity is uncertain.

Uchino-yama has three kiln sites: the Old Kiln, Lower Kiln, and New Kiln. Finds from the New Kiln include tea bowls with blue exterior and blue-glazed interior showing kiln-change, medium plates with snake-eye stacking marks, tea bowls with gray glaze and three tripod spur marks, five-sun bowls with pronounced snake-eye scars under the same glaze, tea bowls gray outside and sky-blue inside, and half-porcelain tea bowls in dark yellow glaze—all with unglazed footrings.

From the Lower Kiln come shallow bowls seven sun across with black exterior and white enamel wash inside, snake-eye stacked; six-sun bowls with white enamel interior and black-glazed exterior; and eight-sun shallow bowls in warbler-green glaze—all with unglazed feet. There are also tokkuri with black lips and iron-brown bodies washed with white glaze, and warbler-glazed tokkuri with tenmoku at the mouth; and eight-sun bowls in chestnut-black glaze brushed with white wave patterns. Because sherds at the Old Kiln match those of the two later kilns, the Old Kiln site likely received throw-outs from them. Uchino-yama also shipped many six-sun snake-eye plates in dark iron tone to Higo. In the Kan’ei era (1624–1645) the descendants of the Korean newcomers and local potters multiplied, with immigrants from other districts, raising households to 170–180. From late Shōtoku (1716), makers began adding white porcelain using Amakusa stone, and—beyond the Old Kiln—built the Lower and New kilns.

As direct territory of the Nabeshima main house, Uchino-yama enjoyed strong protection. Gates and guard posts were set at the north and south approaches; guards kept spears, staves, and sodegarami at hand, and casual passage was forbidden. From Kanpō (1741–1744) it fell under the Arita daikan. Each New Year the hill presented refined Kōrai-yaki sake cups and display pieces to the lord. The New Year’s storehouse cups and sake ewers for the Arita sub-prefecture (former daikan office) were also designated as Uchino-yama black ware and delivered every year-end. Fuel for the kilns was allotted from 24 local woodlands for a small levy. Loans of kiln funds—capped at 100 koku of hulled rice and 300 ryō in cash for the whole hill—were advanced via the Arita daikan, to be repaid by June 20 each year.

In the late Meiwa years, pestilence was severe; successive bad harvests deepened distress. Despite relief from the domain, households fell by the hundreds; the Old and Lower kilns finally closed. Around the Restoration sixteen kilns still worked, but decline continued. Fourteen years later the New Kiln burned and was not rebuilt. Bankruptcy and career changes followed; only three porcelain and one pottery kiln remained, with merely 14–15 workers.

In 1889 (Meiji 21) Tominaga Genroku built a new kiln, produced blue-and-white porcelain, and won considerable renown. By Meiji 30 three of the remaining four kilns had closed, leaving Uchino-yama to Genroku alone; the famed Kōrai-yaki once visited by Takahara Goroshichi also died out.

Genroku then surveyed kilns nationwide and, through careful study, created an original style called “Genroku-yaki”: peony sprays drawn in sometsuke ink-tone, blossoms colored with Shōenji pigment, leaves shaded and stained with gosu. The mark used the “Tomi” device. In Meiji 44 he founded Genroku-yaki Co., Ltd., and the ware became known as a specialty accompanying Ureshino Onsen.

At Ureshino Onsen’s Shinyu baths, Genroku’s sometsuke hexagonal and square tiles are installed. Floor tiles bear reliefs of elephants and turtles to prevent slipping and are colored, besides gosu, with kincha, green, and Shōenji, in motifs such as bamboo shoots and buddha’s-hand citron. The designs were painted by Nagata Sekiryō of Hasuike (a pupil of Naritomi Tsubakiya; d. Meiji 28, aged 59). Tominaga Genroku died on February 5, Taishō 9 (1920), aged 63. He had served as mayor of Nishi-Ureshino in Meiji 22 and became a Saga prefectural assemblyman in Meiji 32.

His eldest son, Shin’ichi (Arita Technical School, 2nd graduating class), succeeded as the second Genroku and, in January Taishō 11, reorganized the firm as Genroku-yaki Partnership. On July 4, Taishō 12, he obtained Patent No. 5043 for a linked kiln for firing ceramics.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
西田市兵卫是嬉野下宿(50户)的旧家市郎右工门之子。所谓“下宿烧”,并非在下宿烧成,而是从名为管谷的山谷采粘土,运至小田志山烧制黑器。今其家所藏一件尺五寸的大德利,赤胎施飴釉,肩与腰压印三岛手,中腹以白象嵌小鹤、小鹭,并以铁描点嘴与腿。市兵卫于文政十二年十月十一日(1830)去世。

同下宿的大字“鷹の巣”稻荷山,明治二十二年春,小野原清吉筑六间登窑烧制甕器,是为“甕山”。原料用本地土,制甕、土管、擂钵、兰盆等,年销约三千日元;大正五年其子雪松时废窑。

嬉野内野山的新窑与下窑之间的松树下,有与天神祠并立的“高丽神”石祠,刻有天正十六年(1589)年号。祠为屋顶造,观音开扉内神像高浮雕。旁刻“明和九辰三月吉日(1772)山中”。明和九年疫病流行,此碑似为内野山山中祈愿所刻。原祠在“高见”,昭和五年迁至今处。出土物证认为难以断为天正期开窑之说亦存;慶長与天正相隔不久,且旧调查未必彻底,否定说仍待详考。

慶長三年,鍋島直茂自朝鲜役归时,韩籍陶工相源、金源及另一人据传来至内野山。今仅存相源墓碑,或因其余二人他往别山开窑,未可详。

高尾山腹墓地有一高八尺、宽二尺一寸之大碑,额记“清譽妙讀”“心月妙績”,右题“寛永十七年八月十三日(1641)”,下书“相原宗左工门尉”,应为其子,是相源夫妇之墓。其裔相原作今仍在此务农。内野山窑户每年二月十五日、十一月十五日例行祭碑。墓地另有自然石刻“完月妙真”的韩人墓状物,记施主小岛伊卫门,并刻“延宝甲寅二年(1645)”,然真伪未明。

内野山古窑址有古窑、下窑、新窑三处。新窑遗物有外青地内青釉之窑变茶碗,蛇目积中皿,灰釉底三足垫痕之茶碗,同釉突蛇目积五寸丼,外鼠色内天蓝釉之茶碗,暗黄釉半瓷茶碗等,皆高台无釉。

下窑出物有外黑釉内白珐琅流的蛇目积七寸浅钵,内白珐琅外黑釉之蛇目积六寸丼,鶯釉八寸浅钵等,亦皆高台无釉;另有口黑、胴铁色釉白流的德利,鶯色釉口施天目之德利,栗黑釉配白波刷毛目之蛇目积八寸丼等。古窑残片与前二窑一致,恐为后者废片运至古窑址所致。内野山并多烧铁色六寸蛇目皿销往肥后。寛永年间(1624–1645),韩人后裔与本地陶工繁衍,外郡移住亦增,户数达百七八十。正德末(1716)起以天草石为主料制白瓷,除古窑外又建下窑与新窑。

内野山为鍋島宗藩直辖,保护甚厚。陶山南北口设关门与番所,备槍、棒、袖搦,禁随意通行。寛保期(1741–1744)属有田代官所辖,每元旦以精制高丽烧酒盃与床置献藩主;有田横目役所新年用之蔵盃与銚子亦定为内野山黑物,年末供纳。燃料由二十四处山林以少额课金给付;并由有田代官贷予窑资,限全山玄米百俵、金子三百两,须于每年六月二十日归还。

明和末疫病大作,凶歉叠至,业者困敝。虽蒙本藩赈济,户口锐减,古窑与下窑遂废。维新时尚存十六窑,渐次衰颓;十四年后新窑焚毁不复,倒闭转业相继,所存仅磁器三窑、陶器一窑,工人不过十四五人。

明治二十一年(1889),富永源六建新窑,制青花瓷,名声大振。至明治三十年,余四窑中三窑停烧,内野山唯源六独存;昔日连高原五郎七亦曾来访称赏之高丽烧遂绝迹。

其后源六遍观各地产地,精研而创“源六烧”:以染付墨气写牡丹,花用正圓子着色,叶以呉須晕染。商标用“トミ(富)”字。明治四十四年设立源六燒株式会社,称为嬉野温泉之名产。

嬉野温泉“新汤”所用地面与墙面,有源六制染付六角、四角砖。地砖为防滑,浮雕象与龟,彩料除呉須外用金茶、绿与正圓子,题材有竹笋、佛手柑等,绘者为蓮池之永田石梁(成富椿屋门人,明治二十八年卒,五十九岁)。富永源六于大正九年二月五日卒,享年六十三。明治二十二年任西嬉野村长,明治三十二年任佐贺县会议员。

长子真一(有田工業学校第二回毕业)承名二代源六,大正十一年一月改组为源六燒合名会社。二代源六于大正十二年七月四日取得第五〇四三号“陶磁器烧成用连结窑”专利。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
西田市兵衛為嬉野下宿(50戶)舊家市郎右工門之子。所謂「下宿燒」,並非於下宿燒成,而是自名為管谷之谷採黏土,運至小田志山燒製黑器。今其家藏一件尺五寸大德利,赤胎施飴釉,肩與腰壓印三島手,中腹以白象嵌小鶴、小鷺,並以鐵描點嘴與足。市兵衛於文政十二年十月十一日(1830)卒。

同下宿大字「鷹の巣」稻荷山,明治二十二年春,小野原清吉築六間登窯燒甕,稱「甕山」。用本地土,製甕、土管、擂鉢、蘭鉢等,年額約三千圓;大正五年其子雪松時廢窯。

嬉野內野山之新窯與下窯之間松下,有與天神祠並立之「高麗神」石祠,刻天正十六年(1589)。祠為屋頂造,觀音開扉內神像高浮雕。旁刻「明和九辰三月吉日(1772)山中」。明和九年疫病流行,疑為內野山山中祈願所刻。原祠在「高見」,昭和五年移置現址。由出土物觀之,亦有難以斷為天正期開窯之說;慶長與天正相隔不久,且舊調未必徹底,否定說仍待詳考。

慶長三年,鍋島直茂自朝鮮役歸時,韓籍陶工相源、金源及一人據傳抵內野山。今僅存相源墓碑,或因其餘二人赴他山開窯,未可詳。

高尾山腹墓地有高八尺、寬二尺一寸之大碑,額記「清譽妙讀」「心月妙績」,右題「寛永十七年八月十三日(1641)」,下書「相原宗左工門尉」,應為其子,為相源夫婦之墓。其裔相原作仍在此務農。內野山窯戶每年二月十五日、十一月十五日例行祭碑。墓地另有自然石刻「完月妙真」之韓人墓狀物,記施主小島伊衛門,並刻「延寶甲寅二年(1645)」,真偽未明。

內野山古窯址有古窯、下窯、新窯三處。新窯遺物有外青地內青釉之窯變茶碗、蛇目積中皿、灰釉底三足墊痕之茶碗、同釉突蛇目積五寸丼、外鼠內天藍釉之茶碗、暗黃釉半瓷茶碗等,皆高臺無釉。

下窯出物有外黑釉內白珐瑯流之蛇目積七寸淺鉢、內白珐瑯外黑釉之蛇目積六寸丼、鶯釉八寸淺鉢等,亦皆高臺無釉;另有口黑、胴鐵色釉白流之德利,鶯色釉口施天目之德利,栗黑釉配白波刷毛目之蛇目積八寸丼等。古窯殘片與前二窯一致,疑為後者廢片運至古窯址所致。內野山亦多燒鐵色六寸蛇目皿銷往肥後。寛永年間(1624–1645),韓人後裔與本地陶工繁衍,外郡移住亦增,戶數達百七八十。正德末(1716)起以天草石為主料製白瓷,除古窯外復建下窯、新窯。

內野山為鍋島宗藩直轄,保護甚厚。陶山南北口設關門與番所,備槍、棒、袖搦,禁恣意通行。寛保期(1741–1744)屬有田代官所轄,每歲正月以精製高麗燒酒盃與床置獻藩主;有田橫目役所新年之藏盃與銚子亦定為內野山黑物,歲末納之。燃料由二十四處山林以微課給付;並由有田代官貸予窯資,上限全山玄米百俵、金子三百兩,須於每年六月二十日歸還。

明和末疫病肆虐,凶歉相仍,業者困敝。雖蒙本藩賑濟,戶數銳減,古窯與下窯遂廢。維新時尚存十六窯,漸次衰頹;十四年後新窯焚毀不復,倒閉轉業相繼,所存僅磁器三窯、陶器一窯,工人不過十四五人。

明治二十一年(1889),富永源六建新窯,製青花瓷,聲譽大振。至明治三十年,餘四窯三窯停燒,內野山唯源六獨存;往昔連高原五郎七亦曾來訪稱賞之高麗燒遂斷絕。

其後源六遍察諸窯,創「源六燒」:以染付墨氣寫牡丹,花用正圓子著色,葉以呉須暈染。商標用「トミ(富)」。明治四十四年設源六燒株式會社,稱為嬉野溫泉之名產。

嬉野溫泉「新湯」今用源六製染付六角、四角瓷磚。地磚為防滑,浮雕象與龜;彩料除呉須外用金茶、綠與正圓子,題材有竹筍、佛手柑等,筆者為蓮池之永田石梁(成富椿屋門人,明治二十八年卒,五十九歲)。富永源六大正九年二月五日卒,享年六十三。明治二十二年任西嬉野村長,明治三十二年任佐賀縣會議員。

長子真一(有田工業學校第二回畢)襲名二代源六,大正十一年一月改組為源六燒合名會社。二代源六於大正十二年七月四日獲第五〇四三號「陶磁器燒成用連結窯」專利。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
西田市兵卫(嬉野下宿旧家市郎右工门之子)所称“下宿烧”,并非在当地烧成,而是取管谷粘土运至小田志山烧制黑器。家藏一件约45厘米的大德利,红胎施飴釉,肩腰压印三岛手,中腹以白象嵌小鹤与小鹭,嘴脚以铁彩描绘。市兵卫逝于1830年10月11日。

同一地区的“鷹の巣”稻荷山,1889年小野原清吉建六间登窑烧制甕器,亦制土管、擂钵与兰盆,年销约3000日元;其子雪松于1916年停窑。

嬉野内野山新窑与下窑之间有“高丽神”石祠(铭1589年),祠内高浮雕神像;旁刻“1772年 山中”。据称疫病年间为祈愿而刻,原在“高见”,1930年移至现址。关于是否天正期开窑,因年代接近与旧调查不尽,尚存异议。

据传慶長三年,韩人陶工相源、金源及一人至内野山;今仅存相源墓碑,余二人或他往。高尾山腹有大碑(1641年),下刻“相原宗左工门尉”,为相源夫妇墓。后裔相原作仍在当地务农,窑户每年2/15与11/15祭碑。另有“完月妙真”自然石碑(刻1645年),真伪未详。

内野山三窑:古窑、下窑、新窑。新窑出青地青釉之窑变茶碗、蛇目积中皿、灰釉三垫痕茶碗、五寸丼等,皆高台无釉。下窑出外黑内白之七寸浅钵、六寸丼及鶯釉八寸浅钵,亦见口黑铁色身白流德利与鶯釉口天目德利;栗黑釉配白波刷毛目八寸丼。古窑遗片与二窑同,疑为后者弃片所致。寛永间户数至170–180;正德末起以天草石制白瓷,并新建二窑。

内野山为鍋島宗藩直辖,关门番所严禁通行;1741–1744年起属有田代官。每新年献高丽烧盃与陈设,年末供“藏盃”“銚子”;燃料自24林地配给,并有上限为“百俵米+三百两金”的年贷,6月20日前偿还。

明和末疫病与歉收,古窑、下窑停烧。维新时尚有16窑,后衰落;14年后新窑焚毁不复,仅余瓷窑三、陶窑一,工人14–15人。

1889年富永源六建新窑制青花瓷,声名起;至1897年余窑多废,内野山仅源六独存,昔日名声赫赫之“高丽烧”亦告中绝。其后创“源六烧”:以染付墨调绘牡丹,花以“正圓子”着色,叶以呉須晕染;商标为“トミ”。1911年设源六烧株式会社,成为嬉野温泉名品。嬉野温泉“新汤”铺设其六角与方形染付砖,地砖浮雕象龟防滑,彩用呉須、金茶、绿与正圓子,图案由蓮池永田石梁绘制(1895年卒,59岁)。富永源六1920年2月5日卒,曾任西嬉野村长(1889)与佐贺县会议员(1899)。

长子真一(有田工业学校第2期)为二代源六,1922年改为合名会社,1923年获第5043号“陶磁器烧成用连结窑”专利。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
西田市兵衛(嬉野下宿舊家市郎右工門之子)所稱「下宿燒」,非於當地燒成,乃取管谷黏土運至小田志山燒製黑器。家藏約45公分大德利,紅胎施飴釉,肩腰壓印三島手,中腹白象嵌小鶴小鷺,嘴足以鐵彩描繪。市兵衛卒於1830年10月11日。

同區「鷹の巣」稻荷山,1889年小野原清吉築六間登窯燒甕,亦製土管、擂鉢、蘭盆,年銷約3000日圓;其子雪松於1916年停窯。

嬉野內野山之新窯與下窯間,有銘1589年的「高麗神」石祠,內有神像高浮雕;側刻「1772 山中」。傳為疫年祈願所刻,原在「高見」,1930年移至現址。關於是否天正期開窯,因年代相近與舊調有限,尚存爭議。

傳慶長三年,韓籍陶工相源、金源及一人至內野山;今惟存相源墓碑,餘二人或赴他所。高尾山腹有大碑(1641),下刻「相原宗左工門尉」,為相源伉儷之墓。裔孫相原作仍務農,窯戶每年2/15與11/15祭碑。另有「完月妙真」自然石碑(刻1645),真偽未明。

內野山三窯:古窯、下窯、新窯。新窯出外青地內青釉之窯變茶碗、蛇目積中皿、灰釉三垫痕茶碗、五寸丼等,皆高臺無釉。下窯出外黑內白七寸淺鉢、六寸丼與鶯釉八寸淺鉢;亦見口黑鐵色身白流德利與鶯釉口天目德利;栗黑釉白波刷毛目八寸丼。古窯殘片與二窯同,疑為後者棄片所致。寛永間戶數達170–180;正德末起以天草石製白瓷,並新建二窯。

內野山為鍋島宗藩直轄,關門番所嚴禁通行;1741–1744年起隸有田代官。每歲正月進獻高麗燒盃與陳設,歲末供「藏盃」「銚子」;燃料自24林地配給,並有上限「百俵米+三百兩金」之年貸,限6月20日前清償。

明和末疫病與歉收,古窯、下窯停燒。維新時尚有16窯,繼而衰落;14年後新窯焚毀不復,僅存瓷窯三、陶窯一,工人14–15人。

1889年富永源六建新窯製青花瓷,聲名起;至1897年餘窯多廢,內野山唯源六獨存,昔日著名之「高麗燒」亦告式微。其後創「源六燒」:以染付墨調繪牡丹,花用「正圓子」著色,葉以呉須暈染;商標為「トミ」。1911年設源六燒株式會社,成為嬉野溫泉名品。嬉野溫泉「新湯」鋪其六角、方形染付磚,地磚浮雕象龜防滑,彩用呉須、金茶、綠與正圓子,圖案由蓮池永田石梁繪(1895卒,59歲)。富永源六1920年2月5日卒,曾任西嬉野村長(1889)與佐賀縣會議員(1899)。

長子真一(有田工業學校第二期)襲二代源六,1922年改為合名會社,1923年獲第5043號「陶磁器燒成用連結窯」專利。