海江田侍從御差遣~窯焼の兼業權

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【原文】[Original text]
海江田侍從御差遣
 同十五年肥筑平野に於ける大演習舉行の際、總帥閑院宮載仁親王殿下には、産業御奨の思召を以て、特に海江田侍従を源六燒工場へ御差遣遊ばされたのである。
 昭和四年十月には、又源六燒株式會社の組織に変更し、今や別府市流川通、佐世保市島瀬町、佐賀市呉服町等に支店を設け或は長崎市鍛冶屋町に代理店を置き又嬉野町には源六燒事務所がある。

吉田山
 藤津郡吉田の開地は頗古く、此處の村社章筒神社の勸請に、和銅二年九月三日(710年)とあるを見れば、人皇四十三代元明天皇の御代既に此集落ありしことが察せらる。降つて後白河天皇の明應年間(1492-1501)某太郎左工門尉なる者吉田鄉三百拾町を領し吉田を以て姓氏さした。

吉田家宗
 それより數代の孫左工門太夫家宗に至り、高來の有馬氏の旗下たりしが、天正四年二月(1577)龍造寺隆信攻略し來り、對戰利あらず、家宗は嬉野諸將と共に隆信に降ったのである。同年 六月隆信は大擧して高來の有馬領へ進軍するや、家宗は手勢を率ゐて東道の役を命られたのである。

鳴川石の發見
 此時彼は吉田莊内なる閑道を過ぎる可鳴川に差かゝるや、川底に安山岩の白石あるを発見し、直に馬を止めて之を探らしめしが之が吉田石の採掘されし動機である。此兵馬惚の中に於いて、治國興業の念深き家宗が人さなりを察す可きであらう。

鳴川石の分析表(吉田鳴川石の分析表)
珪酸七六.三七% 礬土一三.八九% 酸化鐵〇.六二% 石灰〇.四四% 苦土〇.〇九% 加里四.七九% 曹達三.三八% 灼熱減量〇.六八%

吉田皿屋
 蓋し當時は隣地の陶山より此原料を探して、陶器の化粧掛や刷毛目などに使用せしものゝ如く、後年有田磁器の製法傳へられてより中通なる鳥居原の礬土(含水珪酸礬土なるべし)を加へ、此地に於いて薄鼠色の軟質磁器を焼くに至り、陶家又漸時増加して十二戸を数えるに至り、此處を吉田皿屋と稱するに至った。蓋し中通一名藤津系 嬉野窯上吉田の地である。

傳兵衛領地
 鍋島勝茂が父直茂の封を襲くや、吉田は伯父豊前守信房の采邑となり、慶長十四年(1610年)に至つて両岩は鹿島領へ分割し寛永十六年(1640年)吉田の地は蓮池藩の領地となった。そして吉田の内納戸料、中通寺邊田、峯の村、萬財、岩の下、赤瀬、川内、春日を信房の孫傳兵衛茂(實は武雄の後藤家信の次男也、伊萬里系圖参照)の領邑として、二千六百六十石を知行せしむるに至つた。
 此吉田の半地なる傳兵衛領邑だけは、本藩の支配に属するを以て、此地の窯焼へは特に賓暦十二年(1762年)より、有田泉山の磁石五百苞(四萬二千五百斤)だけ毎年採ることを赦されて、明治十四年頃(1882年)まで此皿屋に於いて製陶せしものである。然るに其後隣地なる蓮池領吉田山の勃興に依りて此地の窯焼は悉く之に移転するに至り舊吉田は全く廢窯に帰したのである。

今の吉田山
 現今の吉田山と稱するは、蓮池藩の領地にて、最初は皿屋と同じく鳴川石を主料として製作せしものであつた。此處の古窯品とて發掘せる小皿や茶碗を見るに、何れも鐵分多き色相を呈し、之に粗笨な吳洲畫を描きし軟質磁器である。此地の創業は詳ならぬも、前記皿屋人の轉住と、内野山陶家の移住ならんさ推せらる。蓋し吉田山發展の基礎を造りたるは、蓮池藩祖直澄が大いに斯業を獎勵せしに因ることは勿論にて、蓮池鍋島系圖左の如くである。(蓮池鍋島系圖参照)

鍋島直澄
 鍋島勝茂の三男にて、寛永十五年二月二十七日(1638年)島原切支丹の敵城へ一番に乗込んで、勇名を天下に馳せし甲斐守直澄は、本領神埼郡蓮池に於いて五萬二千六百二十五石を、嗣子攝津守直之に譲り、同十六年八月二十三日別領地藤津郡内(二千六百二十五石)五丁田に退隠し、専ら産業獎勵を志し、采邑地の陶業を補助したのである。

南川原より指導者招聘
 直澄は始め五丁田に於いて斯業を試みしも、此地製陶に適せすさなし、先づ吉田の陶山を發展せしむべく、領地なりし有田郷の南川原より、副島、牟田、金ヶ江、家永の四人を招致して指導者となし、従来の小窯を廢して大窯に改築し、其製造と販賣に便宜を奥へし而已ならす、窯焼には物資を補給するの外、門地を尊ばしむる等、あらゆる優遇の道を講したのである。そして五丁田の陶業は承應年間(1652-1655)之を久間村に移轉せしめたのである。蓋し久間村の開窯は明暦年間と稱せらる>も實は既に此時創始されたものであらう。

五丁田の窯の口
 直澄が五丁田に於いて開窯せ場所は、今何れなるかは不明なるも、此地には火の口、又は窯の口なる地名あるに鑑みて物色せしに、窯の口と稱する處は直澄の吉浦別邸趾と、五丁田小學校との間にある馬蹄形の杉谷にて、一見せし丈けにては當時の残屑を見出し得ざりしも尚一歩を進めて探究すべきであらう。

吉田窯焼數の限定
 斯くて直澄は、吉田の高地に醫福寺(明治八年炎上し、其跡へ今大定寺が建立されてゐる)を開基して別隠居所となし、従来の窯焼へ連れりし蓮池藩士と、それに副島等四人の指導者を加へ、総計十六人に限定して陶業を經營せしめ、已れは醫福寺の高所より、其陶煙の擧がるを望みつゝ親しく斯業の扶掖に力めたのである。
 此十六人の窯焼には、斯業保護の爲め永代許可の特権を興へ、後之を十七人半と定めて、直澄自ら其一人半前の権利を保持しが、卒去するに及んで此内の一人前は消滅に歸せしめ、半人前を副島茂右工門に増興して、爰に十六人半と改めらるゝに至った。但し此割當は登窯の間数と、大小に依って割合はされたのであらう。

副島茂右エ門
 此初代副島茂右工門は、南川原より來りし指導者頭にて、特に直澄の知遇を得し者らしく、そして彼は正徳四年六月十九日九十六才の高齢を以て卒去した。斯くて吉田及久間山の製陶を育みし領主直澄は、寛文九年三月五日(1670)行年五十五才を以て五丁田村なる吉浦の館に卒去したのである。

村雲の鴉
 直澄は卒去したれども、吉田山窯焼の権利保有待遇には、永代易らざるべく保護された直澄の墨附があり、之を叢雲の鴉と稱し此處の斯業者には無上の賓卷であつた。此掟の中には吉田山中にて呉服屋、酒屋、米屋或は豆腐屋に至るまでの商賣は、皆窯焼の営業權内に附属せしめあるを以て、是等の商人は窯焼組合の許可を得されば、営業し能はざるのみでなく、此の總ての営業運上は窯焼が取立て、之を勝手に使用し得權利さへ附興されてあつた。

窯焼の兼業權

 蓋し此の諸營業は、最初より窯燒保護のため、其兼業として興へられしものにて此十六人の斯業者中にて、米屋も、酒屋も、呉服屋も、持廻りに營業することゝ成つてゐた。故に此組合の下に營業を許されし商人は、少しく窯焼の反感を買ふことあれば、彼等は不當なる多額の納税を課せらるゝ故に、岡三平の如きは此煩に堪へず、後年多額の一時金を出して、酒造權を組合より買収せしといはれてゐる。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]
同十五年、肥筑平野で大演習が行われた際、総帥の閑院宮載仁親王殿下は産業奨励のご意向により、特に海江田侍従を源六焼工場へ派遣された。昭和四年十月には組織を改めて源六焼株式会社とし、現在は別府市流川通・佐世保市島瀬町・佐賀市呉服町に支店を置き、長崎市鍛冶屋町に代理店、嬉野町に源六焼事務所を設けている。

藤津郡吉田の開発はたいへん古く、村社・章筒神社の勧請が和銅二年九月三日(710年)とあることから、元明天皇の時代にはすでに集落が存在していたとわかる。のち後白河天皇の明応年間(1492–1501)には、某太郎左工門尉が吉田郷三百十町を領し、「吉田」を姓とした。

数代後の孫左工門太夫家宗は高来の有馬氏に属していたが、天正四年二月(1577)に龍造寺隆信の攻撃を受けて敗れ、嬉野の諸将とともに降伏した。同年六月、隆信が大軍で高来の有馬領へ進軍した際、家宗は自軍を率いて東の道筋の任を受けた。

このとき家宗が吉田荘内の閑道を過ぎて鳴川にさしかかると、川底に白い安山岩を見つけ、馬を止めて採取させた。これが吉田石採掘の端緒である。戦時の只中でも治国興業の志に厚かった家宗の人となりがうかがえる。

〈吉田・鳴川石の分析〉
珪酸 76.37%/礬土 13.89%/酸化鉄 0.62%/石灰 0.44%/苦土 0.09%/加里 4.79%/曹達 3.38%/灼熱減量 0.68%

当初は隣接の陶山からこの原料を求め、陶器の化粧掛や刷毛目に用いたらしいが、のちに有田磁器の製法が伝わると、中通の鳥居原の礬土(含水珪酸礬土とみられる)を加え、当地で薄ねずみ色の軟質磁器を焼くようになった。陶工も次第に増えて十二戸となり、ここは吉田皿屋と呼ばれた。すなわち中通、別名藤津系・嬉野窯の上吉田である。

鍋島勝茂が父・直茂の跡を継ぐと、吉田は伯父の豊前守信房の采邑となり、慶長十四年(1610)に両岩は鹿島領へ分割、寛永十六年(1640)には吉田は蓮池藩領となった。吉田のうち納戸料・中通寺辺田・峯の村・万財・岩の下・赤瀬・川内・春日を、信房の孫・伝兵衛茂(実は武雄の後藤家信の次男、伊万里系図参照)の領邑として二千六百六十石を知行させた。
この吉田の半分にあたる伝兵衛領のみは本藩の支配に属し、特に宝暦十二年(1762)以降は毎年、有田・泉山の磁石五百包(四万二千五百斤)の採取を許され、明治十四年頃(1882)までこの皿屋で製陶した。その後、隣接の蓮池領・吉田山が興るに及び、窯場はこぞってそちらへ移り、旧吉田は完全に廃窯となった。

現在「吉田山」と称するのは蓮池藩領で、当初は皿屋と同様に鳴川石を主原料としていた。発掘される小皿や茶碗はどれも鉄分の多い色合いで、粗放な呉須絵付を施した軟質磁器である。創業の詳細は不明だが、前記の皿屋の転住者や内野山の陶工が移ってきたものと推される。吉田山発展の基礎を築いたのは、藩祖・直澄が産業を強く奨励した功によることは言うまでもない(蓮池鍋島系図参照)。

鍋島直澄は勝茂の三男で、寛永十五年二月二十七日(1638)島原の切支丹方の城に真っ先に乗り込み、その勇名を天下に馳せた甲斐守である。本領の神埼郡蓮池で五万二千六百二十五石を嗣子・摂津守直之に譲り、同十六年八月二十三日に別領の藤津郡内(二千六百二十五石)五丁田に隠退し、産業奨励に努め、配下の陶業を援助した。

直澄はまず五丁田で製陶を試みたが土地が適さず、吉田の陶山を発展させるため、領内の有田郷・南川原から副島・牟田・金ヶ江・家永の四人を指導者として招き、従来の小窯を廃して大窯へ改築、製造・販売の便宜を図った。物資の補給や家格の尊重などあらゆる優遇策も講じ、五丁田の陶業は承応年間(1652–1655)に久間村へ移した。久間の開窯は明暦年間といわれるが、実際はこのときすでに始まっていたのであろう。

五丁田での開窯地は今は定かでないが、「火の口」「窯の口」という地名があり、後者は直澄の吉浦別邸跡と五丁田小学校の間の馬蹄形の杉谷である。目視だけでは当時の残滓は見つからなかったが、さらに踏査の余地がある。

直澄は吉田の高地に医福寺(明治八年に焼失、跡地に現在の大定寺)を開基して隠居所とし、蓮池藩士に南川原の四指導者を加え、計十六名に限定して陶業を営ませた。自らも医福寺の高所から煙の上がり具合を見渡し、積極的に後援した。十六人の窯焼には永代許可の特権を与え、のち十七人半と定め、直澄自身が一人半の権利を保持した。没後は一人前分を消滅させ、半人前を副島茂右工門に加増して十六人半に改めた。割当は登窯の間数や規模によって配分されたのであろう。

初代・副島茂右工門は南川原から来た筆頭指導者で、直澄の厚遇を受け、正徳四年六月十九日、九十六歳で没した。吉田・久間の製陶を育てた直澄は寛文九年三月五日(1670)、行年五十五で五丁田村の吉浦館にて逝去した。

直澄没後も、吉田山の窯焼は直澄の「墨付」(いわゆる「叢雲の鴉」)により、永代不変の保護を受けた。掟では吉田山内の呉服屋・酒屋・米屋・豆腐屋に至るまでの商いを窯焼の営業権に付属させ、商人は組合の許可なく営業できず、諸営業の運上は窯焼が徴収して自由に使える権利さえ認められていた。

これらの兼業は本来、窯焼保護のために与えられ、十六人の陶工の間で米屋・酒屋・呉服屋などを持ち回りで営む仕組みであった。そのため、組合の許しで商いする者が窯焼の不興を買えば、高額の賦課を科されることがあり、岡三平はこれに耐えかね、のちに多額の一時金で酒造権を組合から買い取ったという。


【英語訳】[English translation]
In the same fifteenth year, during the large-scale maneuvers held on the Hichiku Plain, Prince Kan’in-no-miya Kotohito, the commander-in-chief, dispatched Chamberlain Kaieda to the Genroku-yaki works in support of industry. In October of Shōwa 4 (1929), the organization was changed to Genroku-yaki Co., Ltd., which now has branches on Ryukawa-dōri in Beppu, in Shimase-machi, Sasebo, and in Gofuku-machi, Saga; it also maintains an agency in Kajiyamachi, Nagasaki, and an office in Ureshino.

The development of Yoshida in Fujitsu District is very old. The local shrine, Shōzutsu Jinja, records its enshrinement on September 3, Wadō 2 (710), showing that a settlement already existed under Empress Genmei. Later, in the Meiō era (1492–1501) under Emperor Go-Shirakawa, a man styled Tarō Saemon-no-jō ruled 310 chō in Yoshida-gō and adopted “Yoshida” as his surname.

Several generations later, Yoshida Iesō (Magosakuden Tayū Iesō) served under the Arima of Takaku, but in the second month of Tenshō 4 (1577) Ryūzōji Takanobu attacked; unable to prevail, Iesō surrendered with the Ureshino commanders. When, in the sixth month of that year, Takanobu advanced into the Arima domain of Takaku, Iesō led his men as the eastern-route contingent.

As he passed along a byroad within Yoshida-shō and came to Narukawa, he noticed a white andesite in the riverbed, halted his horse, and had it collected. This became the starting point of quarrying “Yoshida stone.” Even amid military operations, it reveals Iesō’s strong bent toward public works and industry.

Analysis of Yoshida (Narukawa) stone:
SiO₂ 76.37%; Al₂O₃ 13.89%; Fe₂O₃ 0.62%; CaO 0.44%; MgO 0.09%; K₂O 4.79%; Na₂O 3.38%; Loss on ignition 0.68%.

At first, material was obtained from the neighboring pottery hills and used for slips and hakeme decoration on earthenware; after Arita porcelain techniques arrived, alumina from Torii-bara in Nakadōri (likely a hydrated aluminosilicate) was added, and a soft, light gray porcelain was fired locally. Potters increased to twelve households, and the site came to be called Yoshida Saraya—i.e., Kami-Yoshida of the Fujitsu-line Ureshino kilns, also known as Nakadōri.

When Nabeshima Katsushige succeeded his father Naoshige, Yoshida became the fief of his uncle, Buzen-no-kami Nobufusa. By Keichō 14 (1610) the two Iwa districts were split to Kashima, and in Kan’ei 16 (1640) Yoshida became Hasuike-domain land. Within Yoshida, the areas of Nandoryō, Nakadōji-Beta, Mine-no-mura, Manzai, Iwa-no-shita, Akase, Kawauchi, and Kasuga were granted—totaling 2,660 koku—to Denbē Shigeru, Nobufusa’s grandson (actually the second son of Gotō Ienobu of Takeo; see Imari genealogy).

Only Denbē’s half of Yoshida remained under the main Saga house; from Hōreki 12 (1762) it was specially licensed to take 500 bales (42,500 catties) per year of porcelain stone from Izumi-yama in Arita, and wares were made at this Saraya until about Meiji 14 (1881–82). Thereafter, as Hasuike-domain Yoshida-yama next door flourished, the kilns moved over wholesale, and old Yoshida fell entirely into disuse.

Present-day “Yoshida-yama,” in Hasuike domain, likewise began with Narukawa stone as its principal material. Excavated small plates and tea bowls are iron-tinted, with coarse gosu painting on a soft porcelain body. Though details of its founding are unclear, it likely drew settlers from the Saraya and migrants from Uchino-yama kilns. Its growth, needless to say, rested on the strong industrial patronage of Nabeshima Naozumi, the Hasuike founder (see the Hasuike Nabeshima genealogy).

Naozumi, third son of Katsushige, won fame by being first to storm a Christian-held fort at Shimabara on February 27, Kan’ei 15 (1638). He ceded 52,625 koku of his main patrimony in Kanzaki-gun, Hasuike, to his heir, Settsu-no-kami Nao-yuki, and on August 23 of the following year retired to Gochōda in Fujitsu District (2,625 koku), devoting himself to industrial promotion and aiding pottery within his fiefs.

He first attempted pottery at Gochōda, but the ground proved unsuitable. To develop Yoshida’s potting hills, he invited four instructors—Soejima, Muta, Kanegae, and Ienaga—from Minamikawara in the Arita district, replaced small kilns with large ones, facilitated manufacture and sales, supplied materials, honored family standing, and generally extended every privilege. The Gochōda works were moved to Kuma-mura in the Jōō era (1652–1655). Although Kuma’s opening is often dated to the Meireki era, it was in fact already underway.

The exact kiln site in Gochōda is unknown, but given place names like “Hi-no-kuchi” and “Kama-no-kuchi,” the latter— a horseshoe-shaped cedar ravine between Naozumi’s Yoshiura villa site and Gochōda Elementary School—has been identified; surface inspection has yet to yield kiln refuse, and further survey is warranted.

Naozumi founded Ifuku-ji on high ground at Yoshida (burned in Meiji 8; present Daijō-ji stands on the site) as his retreat, and limited the potting enterprise to sixteen men: Hasuike retainers already attached to the kilns plus the four instructors. From the temple height he watched the kiln smoke and personally lent support. He granted them perpetual licenses; later the quota was set at “seventeen and a half,” with Naozumi himself holding one and a half shares. At his death, one full share was extinguished and the remaining half was added to Soejima Mōemon, yielding sixteen and a half. Allocation appears to have reflected the number and size of climbing-kiln chambers.

Soejima Mōemon, the chief instructor from Minamikawara, was especially favored by Naozumi and died at age ninety-six on June 19, Shōtoku 4 (1714). Naozumi, patron of the Yoshida and Kuma kilns, died at Gochōda’s Yoshiura residence on March 5, Kanbun 9 (1670), aged fifty-five.

Even after his death, Yoshida-yama’s kiln privileges remained perpetually protected under Naozumi’s written warrant, known as the “Crow in the Clustered Clouds” (Murakumo no Karasu)—the highest charter to the trade. Under its articles, all trades within Yoshida-yama—clothiers, sake brewers, rice merchants, even tofu makers—were appurtenant to the kiln franchise; no merchant could operate without the guild’s leave, and the kilns collected and freely disposed of all commercial imposts.

These side businesses were originally granted to protect the kilns and were rotated among the sixteen masters (rice, sake, dry-goods, etc.). Merchants trading under the guild who incurred the potters’ displeasure could be burdened with excessive dues; Okasanpei, unable to endure such vexations, is said to have later paid a large lump sum to buy the brewing right from the guild.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
同十五年,肥筑平原举行大演习时,总帅閑院宮載仁親王殿下为振兴产业,特派海江田侍从视察源六烧工场。昭和四年十月改组为“源六烧株式会社”,现于别府市流川通、佐世保市岛濑町、佐贺市呉服町设支店,在长崎市鍛冶屋町设代理店,并在嬉野町设有源六烧事务所。

藤津郡吉田的开发极为古老。村社“章筒神社”记载其创祀于和铜二年九月三日(710年),可知至元明天皇时已成聚落。后于后白河天皇的明应年间(1492–1501),一名“某太郎左工门尉”者领有吉田乡三百十町,并以“吉田”为氏。

数代之后的孫左工门太夫家宗隶属高来的有马氏。天正四年二月(1577),龙造寺隆信来攻,败北后家宗与嬉野诸将一同降服。是年六月,隆信大举进军高来有马领,家宗率兵承担东路之役。

当其行经吉田庄内的岔路抵达鸣川时,发现河床有白色安山岩,遂停马采集,由此开启“吉田石”的开采。兵事之中仍惦念治国兴业,可见家宗之志。

【吉田·鸣川石分析】
二氧化硅 76.37%/氧化铝 13.89%/氧化铁 0.62%/氧化钙 0.44%/氧化镁 0.09%/氧化钾 4.79%/氧化钠 3.38%/灼减 0.68%。

最初多自邻近陶山取材,用于陶器的化妆土与刷毛目。及至有田瓷法传入,又加入中通鸟居原的矾土(应为含水铝硅酸盐),在当地烧成浅灰色软质瓷;陶工渐增至十二户,称“吉田皿屋”,即中通(藤津系・嬉野窑)的上吉田。

鍋島胜茂继直茂之后,吉田成其叔丰前守信房的采邑。至庆长十四年(1610)两岩并入鹿岛领,寛永十六年(1640)吉田属莲池藩。其内之纳户料、中通寺边田、峯之村、万财、岩之下、赤濑、川内、春日等地,赐予信房之孙传兵卫茂(实为武雄后藤家信次子,参见伊万里系图)合计二千六百六十石。
吉田半地之“传兵卫领”隶本藩,自宝历十二年(1762)起特许每年采有田泉山磁石五百包(四万二千五百斤),至明治十四年(约1882)仍在此皿屋制陶。其后邻近莲池领“吉田山”兴起,窑场悉数迁往,旧吉田遂全废。

今所谓“吉田山”为莲池藩地,初与皿屋同以鸣川石为主料。出土小皿、茶碗多呈富铁色调,施以粗犷呉须绘的软质瓷。创始未详,推为皿屋转住与内野山陶工迁来所致。其发展之基,当然仰赖藩祖鍋島直澄大力奖励(参见莲池鍋島系图)。

直澄为胜茂三子,寛永十五年二月二十七日(1638)率先突入岛原切支丹城而驰名。将本领神埼郡莲池五万二千六百二十五石让与嗣子摄津守直之,翌年八月二十三日退隐于藤津郡五丁田(二千六百二十五石),专志振兴产业,扶助陶业。

最初在五丁田试制,土质不宜,遂为开发吉田陶山,自有田郷南川原延聘副岛、牟田、金ヶ江、家永四人为导师,废小窑、建大窑,兼施物资补给与门第礼遇等优待。五丁田陶业于承应年间(1652–1655)移至久间村;久间开窑虽称明历年间,实已肇始于此时。

五丁田开窑之处未详;因地名“火之口”“窑之口”尚存,其“窑之口”在直澄吉浦别邸址与五丁田小学校之间之马蹄形杉谷。表面调查未见遗滓,仍宜深勘。

直澄在吉田高地开基医福寺(明治八年焚毁,今大定寺在其址)为别邸,限以十六人经营陶业:既有随行之莲池藩士,亦有南川原四导师。其人自寺上远眺烟色,亲力扶掖。赐以永代许可,后定为“十七人半”,直澄自持一人半。殁后销一人前,半人前增与副岛茂右工门,遂为“十六人半”。其配额当随登窑间数与大小而定。

首任副岛茂右工门为南川原之总导师,受直澄厚遇,正德四年六月十九日以九十六岁卒。培育吉田与久间陶业之直澄,则于寛文九年三月五日(1670)卒于五丁田村吉浦馆,享年五十五。

直澄虽逝,吉田山窑业仍以其“墨付”(俗称“丛云之鸦”)受永代不易之保护。其规条以吉田山内之呉服、酒、米、豆腐等业皆附属于窑业营业权;商贩非得组合法准不得营业,且一切商业税收由窑业征解,并得自专其用。

诸兼营本为护窑所设,由十六名陶工轮流执掌米店、酒造、呉服等。若商贩触忤窑工,往往被科以重赋。相传冈三平不堪其扰,后以巨款自组合买得酒造权。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
同十五年,肥筑平原舉行大演習時,總帥閑院宮載仁親王殿下為振興產業,特派海江田侍從赴源六燒工場。昭和四年十月改組為「源六燒株式會社」,今於別府市流川通、佐世保市島瀨町、佐賀市呉服町設分店,長崎市鍛冶屋町設代理店,嬉野町設源六燒事務所。

藤津郡吉田之開發極古。村社章筒神社創祀記于和銅二年九月三日(710),可知至元明天皇時已成聚落。後于後白河天皇之明應年間(1492–1501),一名「某太郎左工門尉」者領吉田鄉三百十町,遂以「吉田」為氏。

數代後之孫左工門太夫家宗隸高來有馬氏。天正四年二月(1577)龍造寺隆信來攻,戰不利,家宗與嬉野諸將同降。是年六月,隆信大舉進軍高來有馬領,家宗統兵任東道之役。

其經吉田莊之岔道至鳴川時,見河床白色安山岩,停馬取之,是為「吉田石」開採之始。兵事之中猶念治國興業,可見家宗之志。

【吉田・鳴川石分析】
二氧化矽 76.37%/氧化鋁 13.89%/氧化鐵 0.62%/氧化鈣 0.44%/氧化鎂 0.09%/氧化鉀 4.79%/氧化鈉 3.38%/灼減 0.68%。

初多自鄰近陶山取材,用於陶器化妝土與刷毛目。及有田瓷法傳入,復加中通鳥居原之礬土(應為含水鋁矽酸鹽),於當地燒成淺灰軟質瓷;陶工漸增至十二戶,稱「吉田皿屋」,即中通(藤津系・嬉野窯)之上吉田。

鍋島勝茂嗣直茂後,吉田為叔豐前守信房采邑。至慶長十四年(1610)兩岩入鹿島領,寬永十六年(1640)吉田屬蓮池藩。其內納戶料、中通寺邊田、峯之村、萬財、岩之下、赤瀨、川內、春日等,授信房孫傳兵衛茂(實為武雄後藤家信次子,參見伊萬里系圖)計二千六百六十石。
吉田半地之傳兵衛領隸本藩,自寶曆十二年(1762)起特許歲采有田泉山磁石五百包(四萬二千五百斤),至明治十四年(約1882)仍於此皿屋製陶。其後鄰蓮池領「吉田山」興起,窯場悉遷,舊吉田遂廢。

今所稱「吉田山」為蓮池藩地,初同以鳴川石為主料。出土小皿、茶碗多呈富鐵色調,施粗放呉須繪之軟質瓷。創始未詳,推為皿屋轉住與內野山陶工遷徙所致。其發展之基,固賴藩祖鍋島直澄大力獎勵(參見蓮池鍋島系圖)。

直澄為勝茂三子,寬永十五年二月二十七日(1638)率先突入島原切支丹城而馳名。以神埼郡蓮池五萬二千六百二十五石讓嗣子攝津守直之,翌年八月二十三日退隱藤津郡五丁田(二千六百二十五石),專志振興產業,扶助陶業。

初試五丁田製陶,土不宜,乃為拓吉田陶山,自有田鄉南川原延聘副島、牟田、金ヶ江、家永四人為導師,廢小窯、建大窯,兼行物資補給與門第禮遇等優待。五丁田陶業於承應年間(1652–1655)移至久間村;久間開窯雖稱明曆年間,實已肇於此時。

五丁田開窯之址未詳;以地名「火之口」「窯之口」觀之,其「窯之口」在直澄吉浦別邸址與五丁田小學校間之馬蹄形杉谷。表查未見遺滓,尚宜深勘。

直澄於吉田高地開基醫福寺(明治八年焚毀,今大定寺在其址)為別居,限十六人營陶:既有隨行蓮池藩士,亦有南川原四導師。其人自寺上望煙,躬親扶掖。授以永代許可,後定「十七人半」,直澄自持一人半。殁後銷一人前,半人前增與副島茂右工門,遂為「十六人半」。配額當隨登窯間數與規模而定。

首任副島茂右工門為南川原總導師,受直澄厚遇,正德四年六月十九日以九十六歲卒。培育吉田、久間陶業之直澄,寬文九年三月五日(1670)卒於五丁田村吉浦館,享年五十五。

直澄既卒,吉田山窯業仍以其「墨付」(稱「叢雲之鴉」)受永代不易之保護。其條規令吉田山內之呉服、酒、米、豆腐等業悉附屬於窯業營業權;商賈無組合之許不得營業,且諸營業之稅課由窯業徵收並得自用。

諸兼營本為護窯而設,由十六名陶工輪替擔當米店、酒造、呉服等。若商賈觸忤窯工,或加重科。傳岡三平不堪其擾,後以巨金自組合購得酒造權。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
同一年(第十五年),肥筑平原举行大演习时,总司令閑院宮載仁親王为鼓励产业,派海江田侍从赴源六烧工厂。昭和四年十月改组为“源六烧株式会社”,在别府市流川通、佐世保市岛濑町、佐贺市呉服町设分店,于长崎市鍛冶屋町设代理,在嬉野设办公室。

藤津郡吉田开发甚早。村社“章筒神社”记其创祀于710年(和铜二年九月三日),表明至元明天皇时已成聚落。明应年间(1492–1501),一位号称“太郎左工门尉”的人物领有吉田乡310町,并取“吉田”为姓。

数代后,孫左工门太夫家宗隶属于高来的有马氏。天正四年二月(1577)遭龙造寺隆信进攻而降,同年六月隆信进军高来,有马领境,家宗率兵担任东路部队。

行至吉田庄内的岔道、来到鸣川时,他在河床发现白色安山岩,停马采得,是“吉田石”开采之始。战事之中仍顾产业,足见其志。

【鸣川石分析】SiO₂ 76.37%;Al₂O₃ 13.89%;Fe₂O₃ 0.62%;CaO 0.44%;MgO 0.09%;K₂O 4.79%;Na₂O 3.38%;灼减 0.68%。

最初自邻近陶山取材,用作化妆土与刷毛目。后得有田瓷法,配以中通鸟居原之矾土(疑为含水铝硅酸盐),烧成浅灰软瓷,陶工增至十二户,称“吉田皿屋”,即藤津系嬉野窑的上吉田(中通)。

鍋島胜茂继其父后,吉田属其叔丰前守信房。1610年并入鹿岛领,1640年划归莲池藩。其内数地合计2,660石授予信房之孙传兵卫茂(实为武雄后藤家信次子)。此“传兵卫领”隶本藩,自1762年起每年特许取有田泉山瓷石500包(42,500斤),至约1882年仍在此制陶。后邻侧莲池领“吉田山”兴起,窑场迁移,旧吉田废弃。

今“吉田山”亦以鸣川石为主料。出土小盘茶碗多呈富铁色,粗笔呉须,软瓷胎。创始未详,或由皿屋与内野山陶工迁入。其发展赖藩祖鍋島直澄大力扶持。

直澄(胜茂三子)于1638年率先突入岛原教徒城而闻名。让出本领52,625石,翌年退隐藤津郡五丁田(2,625石),致力于产业与陶业。

起初在五丁田试制不利,遂为振兴吉田陶山,自有田郷南川原延聘副岛、牟田、金ヶ江、家永四师,改小窑为大窑,优待供给。五丁田窑于1652–1655年移至久间村(久间开窑虽称明历年间,实际已始于此时)。

五丁田窑址未定;据地名“火之口”“窑之口”,后者在直澄吉浦别邸址与五丁田小学校之间之马蹄形杉谷,尚需调查。

直澄在吉田高地开医福寺(明治八年焚毁,今大定寺)为别邸,限十六人从业(含藩士与四导师),并自寺上观烟督导。授予永代许可,后定“十七人半”,直澄持一人半;卒后销一人前,半人前授副岛茂右工门,成“十六人半”。配额随登窑间数与规模。

总导师副岛茂右工门1714年九十六岁卒。直澄1670年卒于五丁田吉浦馆,享年五十五。

直澄身后,吉田山窑业赖其“墨付”(称“丛云之鸦”)得以永固。规定吉田山内之布商、酒、米、豆腐等业均隶属窑业特许;未经许可不得营业,税课由窑业征收并自用。

此等兼营为护窑而设,由十六名陶工轮换经营。触怒窑方者或被课重税;据称冈三平曾以巨资自公会购得酿酒权以免烦扰。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
同年第十五年,肥筑平原大演習時,總司令閑院宮載仁親王為鼓勵產業,遣海江田侍從赴源六燒工廠。昭和四年十月改組為「源六燒株式會社」,於別府市流川通、佐世保市島瀨町、佐賀市呉服町設分店,長崎市鍛冶屋町置代理,嬉野設辦公所。

藤津郡吉田開發甚早。村社「章筒神社」記創祀於和銅二年九月三日(710),顯示至元明天皇時已成聚落。明應年間(1492–1501)一位號「太郎左工門尉」者領吉田鄉三百十町,取「吉田」為氏。

數代後,孫左工門太夫家宗隸高來有馬氏。天正四年二月(1577)遭龍造寺隆信攻擊而降;六月進軍高來時,家宗率兵任東路。

至吉田莊之岔道、抵鳴川處,見河床白色安山岩,停馬採得,為「吉田石」開採之始。兵間仍顧產業,可見其志。

【鳴川石分析】SiO₂ 76.37%;Al₂O₃ 13.89%;Fe₂O₃ 0.62%;CaO 0.44%;MgO 0.09%;K₂O 4.79%;Na₂O 3.38%;灼減 0.68%。

初自鄰陶山取材,用於化妝土與刷毛目;後得有田瓷法,配中通鳥居原礬土(疑含水鋁矽酸鹽),燒成淺灰軟瓷,陶工增至十二戶,稱「吉田皿屋」,即藤津系嬉野窯之上吉田(中通)。

鍋島勝茂嗣父後,吉田為叔豐前守信房采邑。1610年入鹿島領,1640年屬蓮池藩。其內若干地計二千六百六十石授信房孫傳兵衛茂(實為武雄後藤家信次子)。「傳兵衛領」隸本藩,自1762年歲取有田泉山瓷石五百包(42,500斤),至約1882年仍製陶;後鄰「吉田山」興起,窯皆遷徙,舊吉田廢。

今「吉田山」亦以鳴川石為主料。出土小盤、茶碗多富鐵色,粗筆呉須,軟瓷胎。創始未詳,或由皿屋與內野山陶工遷入。其發展賴藩祖鍋島直澄之扶持。

直澄(勝茂三子)1638年率先突入島原教徒城而知名;讓出本領52,625石,翌年退隱藤津郡五丁田(2,625石),致力產業與陶業。

始試五丁田而土不宜,轉為振吉田陶山,自有田鄉南川原延聘副島、牟田、金ヶ江、家永四師,改小窯為大窯,優待供給。五丁田窯1652–1655年移至久間村(久間開窯雖稱明曆,實肇於此)。

五丁田窯址未確;據「火之口」「窯之口」地名,後者在直澄吉浦別邸址與五丁田小學校間之馬蹄杉谷,尚待詳勘。

直澄於吉田高地建醫福寺(明治八年焚,今大定寺)為別居,限十六人從業(含藩士與四師),自寺上觀煙督導。賦永代許可,後定「十七人半」,直澄持一人半;卒後銷一人前,半人前授副島茂右工門,成「十六人半」。配額隨登窯間數與規模。

總導師副島茂右工門1714年九十六卒。直澄1670年卒於五丁田吉浦館,享年五十五。

其後,吉田山窯業憑其「墨付」(稱「叢雲之鴉」)得永保。章程以山內布、酒、米、豆腐諸業皆附窯業特許;未得許可不得營業,稅課由窯業徵收並自用。兼營原為護窯設置,由十六陶工輪替經營;若觸忤窯方,或重科。傳岡三平終以巨金自公會購得釀酒權以解其擾。