吉田下窯築造~朝鮮輸出一手問屋定款

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【原文】[Original text]
吉田下窯築造
 其後斯業の發展と共に、十六人の窯焼の次男以下營業用の名義を以て、藩の許可を得ることゝなり、資本家副島彌左工門が、新たに下窯を築造せしは、文化年間(1804-1818)であった。而して窯焼は少しく資金を要する場合にも、永代潰す可からすてふ、藩祖が奥へし村雲の鴉の一巻を楯にとり、いつも藩主へ出資を過まるのが定であった。之には蓮池藩に於いてもほとほと困却したのは無理もなかつた。
 いつの時代なりしか、和田菜といへる代官ありて、此墨附を鳥渡と借受けて、蓮池へ持去りし儘任せざりしかば、藩祖以来の特権保護書も、其名の村雲の鴉の消へし如く、全く雲隠れと成り終つた。蓋し此地の窯焼は明治七八年頃までは、相當に勝手を振舞ひしといはれてゐる。

吉田の茶漬製造
 正徳年間(1711-1716)より天草石の使用發見となり、此製陶主料は此處より二里を隔つる田津まで帆船着荷の便があり、之に鳴川の地石を加合して製造すること成った。其重なる種類は廣東茶漬碗や、平茶漬碗にて、全くの日用品であつた。文化文政時代より、窯焼は大阪へ直接取引を開始して、空前の盛況を呈し、斯くて製品の不足を補ふため、従来の前窯及下窯の外に、新窯が築造されたのである。

文政天保の吉田悲境
 文政の末年(1830)より、天保の初年(1831)に至り生産過剰を来たし、爲に價格低落して經營困難となるや、さしも往時より豪華な生活を続けし窯焼も、漸時悲境に沈淪するに至り、廢業者相継いで生じ、風雨に晒さる陶窯は雑草生へ伸びて、秋風に戰く惨状を呈するに至つた。邃に窯燒は資金の枯渇を訴へて、其挽回策を請ふに及び、蓮池藩主雲叟(摂津守直興)は、尾形惟晴を遣はして陶窯を改築し、或は物資を供して舊態にさしめたのである。

副島雲月
 天保年間(1831-1845)の名陶家副島茂右工門(六代か)は、當時の名君雲叟より雲月の號を授かりし者にて、青花の優秀なる磁器を製作して盛名があつた。彼は又四時庵と號して俳諧を好みしが、當時諸國の俳友より贈られし選句多く残されてある。曾て都の高橋道八(三代)も亦此邸を訪れし一人にて、其製品を残してゐる。蓋し彼が有田に來りし明治の初年であらう。

副島次作
 副島家は、代々茂右工門を襲名し者多く、且屢名工が輩出した。八代次作(壽梅茂右工門の養子)の如きも、捻り細工に、彫刻に、抜群の名工なりしが、明治二十六年十一月十四日六十一才にて卒去した。斯くて現代茂八に及んで廃業したのである。
 家永家も、後代に至つて廢業せしもの如く(今の教育家家永利三郎、陸軍少將家永直太郎兄弟は後裔である)而して藩制時代の十六人窯焼の子孫にて、今向斯業を経續しつゝある者は、副島辰三郎一人といはれてゐる。

精盛社と副島利三郎
 明治維新となり、士族に舊祿公債証書を下附せらるゝや、政府は之を産業に投資して、實業に従事すべく獎勵せしかば、吉田山は副島利三郎(茂右工門の分系)の發案に基づき、地方舊士族の出資を中心として、明治十三年精盛社を設立した。此當時より非常なる好景氣を呈し、同十五年には舊藩の羈絆を脱して、新たに一登りを築窯し、之を社の窯としてゐた。之より以後従来の共同積せし、三ヶ所の登窯は全く痩せられ、後年には銘々個人の登窯が新築されたのである。
 而して如上の活況も暫時にして止み、彼の不換紙幣の影響を蒙れる一般の不況は、陶業者のみ獨り逆行すべくもあらず、明治十五六年の難航路に遭遇せる吉田山は、此巨濤を乗り越すべく羅針のコースを更し、従来の内地向製品を、支那向製品に轉換することなったのである。

吉田の支那向時代
 此時少額ながら、支那人へ吉田焼の賣込を開始せしは、岩永彌九郎にて、次に将来に着眼して、大規模の取引製造を契約せしは副島利三郎であつた。此好端緒を得しは、恰も爲替相場の下落より貿易の増進をせし如く、當時不況に面して、吉田焼価格の低下されをりし爲であつた。
 爾來十數年支那向製造時代として活躍し、非常なる好況をせしより、大串寅次郎、石井種五郎山口又七等盛んに製造した。然るに日清戦争後支那の商人は、長崎よりも神戸の方、自國との輸出入に便利なりしとて、移轉する者多くなり、従つ長崎との取引疎隔すると同時に、従来の高空的飛躍は、低空に傾きしかば、再び内地向に立戻り、伊豫及尾濃の製品に類するものを製造するに至ったのである。

吉田の朝鮮向時代
 之より先き明治二十二年、朝鮮京城の商估恒春號及び丁致國の兩人見本を携へ來り、石井種五郎の紹介にて、岡三平、大渡権藏、山口又七と特約して取引を開始した。尚之より先き同十九年に山口叉七、同二十年に石井檀五郎登窯を築造し。同二十六年には大串音松、又登窯を築きて着々と産額を擴大した。

吉田の大正景氣
 其後恒春號等の取引杜絶するに及んで、山口又七は仁川に支店を設け、同二十九年大串音松は、伊萬里の陶商末石久次郎(1久)が朝鮮貿易を開始せるをし、之さ特約して大々的に製造販賣を開始した。同三十三年頃に至りては、各窯焼は直接又は店舗を設けて取引を擴大し、茲に朝鮮向製造の大正景気を現出するに至つたのである。

朝鮮輸出一手問屋定款
 明治二十一年十二月十五日朝鮮國輸出一手問屋定款なるもの作成されしが、左に掲出して當時の状勢を伺ふ参考とする。

朝鮮國京城商業會議所ト結約シタル定書第二章第三條旨趣=基今般朝鮮國仁川港ニ於テ一ノ問屋ヲ設ヶ我肥前陶磁器販路ヲ擴張シ永遠ノ公盆ヲ目的トシ豫テ京城商業會議所卜氣息通同國需要者嗜好ニ適スルト否トニ注意シ粗製濫造ヲ以テ輸出前途塞絶スル等ノ害無カラシメンが爲メ此問屋定款ヲ設クル左ノ如シ
第一條
一肥前陶磁器輸出便宜ヲル爲メ朝鮮國仁川於一ノ問屋設ヶ朝鮮國輸出物品テ該問屋ニ於テ取扱物トス
第二條
一一手問屋大日本帝國肥前陶磁器一手問屋ト稲ス可シ
第三條
一一手問屋定期航海船舶ト特別輕減規約ヲ結運搬費額等該問屋取扱物品限リテ經費ノ多カラサラン事ヲ勉ム可シ
第四條
一朝鮮國輸出物品長崎港ョリ輸出分長港一手間屋ノ手數フ經伊萬里ョリ直航分伊萬里派出所手ヲス可シ
但本條箇所外ョリ輸送スルヲ許サス
第五條
一注文品アル時ハ同所問屋ハ見本及ヒ代價其他定規ノ要領書ヲ添へ其ノ注文フ要スル組合事務所へ通知ス可シ
但問屋ヨリ勝手に注文スルヲ許サス
第六條
一注文品受授際確定規約(朝鮮京城會議所ト取結ビタル規約第二章)ヲ履行ス可シ
第七條
一問屋貨物受濟上問屋ヨリ品名及と個數代價共記載各取締所へ届出可シ
第八條
一朝鮮國輸出荷物狀ラ各地委員ノ加印ヲ要シ第四條ノ手數ヲ經可シ
第九條
一同所問屋口錢藏敷並爲換金利子ヲ定事左ノ如シ
一問屋口錢賣込代百分ノ十下定ム
一運賃諸掛等費荷主負擔タル可シ
一歳一ヶ月壹俵付六厘トス
一荷物運賃其爲換金利子日步六屋トス
第十條
一荷渡節現損荷主ノ負擔タル可シ
第十一條
一荷物着港上直各荷主へ報知ス可シ
第十二條
一荷物着ノ上水火風災地震遭遇セシ時勿論荷主ノ負擔タル可シ
第十三條
一各地荷主於彼地へ直航スルモ大日本帝國肥前陶磁器一手問屋=據り之レヲ販賣ス可シ
但直航ノ者=シチ!手問屋ノ手ョ經スシラ賣却セ者物品代價差押內地各取所へ通知可シ
第十四條
一此ノ定履行期限滿五ヶ年下定メ滿期ニ至り尚之レヲ經績スル時ハ組合會議ノ上之レヲ決定ス可シ
但年限ト雖問屋=於不正所業アリタル時之ヲ更ス可シ
第十五條
一各地荷主ニ於テ競争濫賣シ又荷中不正品ヲスレ置キテ規則ヲ犯シタル者問屋於其物品代償ヲ差押へ其ノ顛末ヲ詳記シ直ニ各取締所へ通知スヘシ
第十六條
一第四條、第八條、第九條、第十三條、第十五條ヲ犯シタル者参圓以上五圓以下ノ違約金出サシム
第十七條
一前條ノ違約徵收金十分ノ七ヲ取所費充十分ノ三一手問屋附興スルトス
但各地違背者徵收金其ノ管轄取締所ノ經充ツ可シ
第十八條
一此定歇佐賀縣廳及長崎縣廳認可ヲ請と増減加除スル場合ニ於テ陶磁業組合取締所並大日本帝國肥前陶磁器朝鮮國仁川港一手問屋ト協議ノ上更兩縣廳認可ヲフ可シ
追加
一組合内製品組合外者=渡シタル時直=長崎一手問屋或朝鮮國一手問屋へ共旨通知シ買主拔ヶ出荷ノ節ニ對スル請求権限依頼爲スへキモノトス

一組合外者ニシテ聯合規約第八條ニ要スル承諾書ヲシタル上萬一揆ヶ出荷等ヲ爲セシ者再ど物品ノ賣却ヲ爲ス可カラズ


【現代語訳】[Modern Japanese translation]
その後、窯業の発展にともない、藩の許可のもとで十六家の窯元の次男以下にも営業名義が与えられ、資本家の副島彌左工門が新たに「下窯」を築いたのは文化年間(1804–1818)であった。資金が必要になると、窯元たちは「永代に潰してはならぬ」とする藩祖の保護状――通称「村雲の鴉」の一巻――を盾に、たびたび藩主に出資を求めたため、蓮池藩にとっても対応に苦慮することが少なくなかった。いつの頃か、和田菜という代官がこの墨付を一時貸与の体で借り出し、そのまま蓮池へ持ち去って返さなかったため、藩祖以来の特権保護状は名のとおり雲散霧消してしまった。とはいえ、この地の窯元は明治七、八年頃までは相当に我が物顔で振る舞っていたという。

正徳年間(1711–1716)には天草石の使用が広まり、主原料はこの地から二里の田津まで帆船で運び入れるのに便利だった。これに鳴川の地石を混ぜて製造し、主として廣東茶漬碗や平茶漬碗といった日用品を焼いた。文化・文政期からは大阪との直取引を始めて空前の活況となり、品不足を補うため従来の前窯・下窯に加えて新窯も築かれた。

しかし文政末(1830)から天保初(1831)にかけて過剰生産となり、価格が下落して経営は行き詰まった。ぜいたくな暮らしを続けてきた窯元たちも次第に困窮し、廃業が相次ぎ、風雨に晒された窯場は雑草が伸び、秋風に揺れる惨状を呈した。資金枯渇の訴えに対し、蓮池藩主・雲叟(摂津守直興)は尾形惟晴を派遣して窯の改築や物資の供給を行い、旧態の回復を図った。

天保年間(1831–1845)には名工・副島茂右工門(六代か)が現れ、名君・雲叟から「雲月」の号を賜り、優れた青花磁器で名を轟かせた。彼は号を「四時庵」と称し俳諧を好み、諸国の俳友から贈られた選句も多く残る。都の高橋道八(三代)も明治初年にこの邸を訪ね、作品を残したという。

副島家では代々「茂右工門」を襲名する者が多く、名工もたびたび輩出した。八代・次作(壽梅茂右工門の養子)は捻り細工や彫刻に抜群の腕を示したが、明治二十六年十一月十四日、六十一歳で没した。その後、現代の茂八の代で廃業に至った。家永家も後年には廃業し(教育者・家永利三郎、陸軍少将・家永直太郎兄弟はその後裔)、藩制期の十六家の子孫で今も窯業を継ぐ者は、副島辰三郎ただ一人といわれる。

明治維新後、士族に旧禄の公債証書が下付され、これを産業に投資して実業に就くことが奨励された。吉田山では副島利三郎(茂右工門の分家)の発案で、地域の旧士族出資を中核として明治十三年に精盛社を設立。たちまち好況となり、同十五年には旧藩のしがらみを脱して新たに登窯一基を築き、社の窯とした。以後、従来の共同の三か所の登窯は衰え、のちには各人が個人の登窯を新築した。だが活況は長く続かず、不換紙幣の影響による不況は陶業だけが逆行できるはずもなく、明治十五、六年の難局に直面した吉田山は羅針盤の針を切り替え、内地向けから支那向け製品へと転換した。

支那向けでは、まず岩永彌九郎が小口ながら吉田焼の売り込みを開始し、将来性を見越して大規模な製造・取引契約を結んだのが副島利三郎であった。為替相場下落で貿易が伸長した時勢と、不況で吉田焼の価格が下がっていた事情が追い風となり、その後十数年にわたり支那向け製造で活躍、好況を謳歌した。大串寅次郎、石井種五郎、山口又七らが盛んに生産したが、日清戦争後は支那商人が輸出入の便から長崎より神戸へ移る者が増え、長崎取引が疎遠になると、かつての高空飛行は失速し、再び内地向けへと回帰して伊豫や尾濃の製品に類するものを作るようになった。

これに先立つ明治二十二年、朝鮮・京城の商店「恒春號」と丁致國の二人が見本を携えて来訪し、石井種五郎の紹介で岡三平・大渡権藏・山口又七と特約して取引を開始した。さらに明治十九年に山口又七、二十年に石井檀五郎が登窯を築き、二十六年には大串音松も登窯を設けて、着々と生産を拡大した。

のちに恒春號らとの取引が途絶えると、山口又七は仁川に支店を設置。二十九年には大串音松が伊萬里の陶商・末石久次郎と特約し、朝鮮貿易で大々的な製造販売を開始した。三十三年頃には各窯元が直接、あるいは店舗を構えて販路を広げ、ここに朝鮮向け製造の「大正景気」ともいうべき活況を現出した。

明治二十一年十二月十五日には「朝鮮国輸出一手問屋定款」が作成された。要旨は、朝鮮国京城商業会議所と連携し、仁川港に一手問屋を設けて肥前陶磁器の販路を拡張し、粗製濫造を戒めて長久の利益を図るというもので、主な条項は次のとおり。
一 仁川に一手問屋を設け、朝鮮向け輸出品は同問屋で取り扱う。
一 一手問屋は「大日本帝国肥前陶磁器一手問屋」と称する。
一 定期航路の船会社と特別の軽減規約を結び、当問屋取り扱い分に限り運搬費等の経費を抑えるよう努める。
一 朝鮮向け荷は、長崎経由分は長崎一手問屋を、伊萬里直航分は伊萬里派出所を通すこと(他経路は禁止)。
一 注文があるときは、問屋は見本・代価・仕様書を添えて、所定の組合事務所へ通知する(問屋の勝手発注は禁止)。
一 受渡しは、京城商業会議所と取り交わした確定規約(第二章)に従う。
一 受領後は品名・数量・代価を記して各取締所へ届出る。
一 朝鮮向け貨物状には各地委員の加印を要し、第四条の手続きを経る。
一 口銭・倉敷・為替金利は次のとおり。①口銭は売込代の百分の十。②運賃・諸掛は荷主負担。③倉敷料は一か月につき一俵当たり六厘。④運賃・為替の金利は日歩六厘。
一 引渡し時の現損は荷主負担。
一 着荷後は直ちに各荷主へ報知する。
一 着荷後に水火風災・地震等に遭遇した場合も荷主負担。
一 各地荷主が現地へ直航する場合も、一手問屋に拠って販売すること(経由せず売却した場合は代金を差し押さえ、内地の各取所へ通報)。
一 本定款の期間は五年。満期後継続の際は組合会議で決定。不正があれば期間内でも改める。
一 濫売や不正品混入など規則違反があれば、問屋はその品代を差し押さえ、顛末を詳記して直ちに各取締所へ通知する。
一 第四・第八・第九・第十三・第十五条の違反者には三円以上五円以下の違約金。
一 違約金の七割を取所費、三割を一手問屋の費用に充てる(各地の違反金は当該取締所の経費に充当)。
一 本定款の改廃は佐賀県庁・長崎県庁の認可を経、陶磁業組合取締所および「大日本帝国肥前陶磁器朝鮮国仁川港一手問屋」と協議のうえ認可申請する。
〔追加〕
一 組合内製品を組合外者に渡した場合は、直ちに長崎一手問屋または朝鮮一手問屋へ通知し、買主が抜荷・直送した際の請求権行使を依頼すること。

一 組合外者が連合規約第八条の承諾書を交わしたうえで、なお抜荷等を行ったときは、以後一切の売却を認めない。


【英語訳】[English translation]
As the craft expanded, the domain permitted second sons and younger of the sixteen licensed kiln families to operate under commercial titles. The capitalist Soejima Yaemon built a new “Lower Kiln” during the Bunka era (1804–1818). Whenever funds were needed, the potters regularly pressed the lord for advances, brandishing the founder’s perpetual protection writ—famously called the “Murakumo no Karasu” (“Crow in the Gathering Clouds”)—as their shield, which understandably vexed Hasuike Domain. At some point the magistrate Wada Na borrowed this ink-signed charter “for a moment,” carried it off to Hasuike, and never returned it; the privilege vanished as if its name had dissolved into the clouds. Even so, the kilns reportedly acted with considerable latitude until around 1874–1875.

From the Shōtoku era (1711–1716) the use of Amakusa stone spread. The main raw material could conveniently be landed by sailing craft at Tazu, about two ri away; mixed with local Narukawa stone, it yielded everyday wares such as Guangdong-style rice-and-tea bowls and flat ochazuke bowls. From Bunka–Bunsei onward, direct trade with Osaka brought unprecedented prosperity, and a new kiln was added alongside the Front and Lower kilns to meet demand.

In late Bunsei (1830) into early Tenpō (1831) overproduction depressed prices and crippled operations. Households that had long lived in splendor sank into hardship; closures followed; rain-beaten kilns grew weeds and presented a desolate scene. Pleas of insolvency moved the lord of Hasuike, Un-sō (Settsu-no-kami Nao’oki), to dispatch Ogata Koreharu, rebuild kilns, and supply materials to restore former conditions.

During Tenpō (1831–1845) the noted potter Soejima Mōemon (perhaps the sixth) received the art name “Ungetsu” from the enlightened lord Un-sō and won renown for excellent blue-and-white porcelain. Styling himself “Shijian,” he loved haikai; many selected verses sent by friends around the country remain. Takahashi Dōhachi III visited in early Meiji and left works as well.

The Soejima line often assumed the name Mōemon and produced many masters. The eighth, Jisaku (adopted by Jubae Mōemon), excelled in modeled and carved work, but died aged 61 on November 14, 1893; by the time of Shigehachi the line ceased trading. The Ienaga family also ended later (the educator Ienaga Risaburō and Army Major General Ienaga Naotarō are descendants). Of the sixteen domain-era houses, only Soejima Tatsuzaburō is said to continue the craft today.

After the Restoration, former samurai received public-bond certificates of their stipends and were urged to invest them in industry. On Yoshida-yama, following a plan by Soejima Risaburō (a collateral Mōemon line), the Seisei Company was founded in 1880 with capital mainly from local former samurai. A strong boom ensued; in 1882 the group cast off old feudal ties, built a new climbing kiln as the company kiln, and thereafter the three communal climbing kilns declined, replaced by personally owned kilns. The boom soon waned, however; the nationwide slump under inconvertible paper money also struck pottery. Faced with rough seas in 1882–83, Yoshida-yama changed course from domestic to China-bound products.

Sales to Chinese buyers began modestly with Iwanaga Yakurō; seeing the future, Soejima Risaburō contracted for large-scale manufacture and trade. Exchange depreciation and low prices during the slump proved favorable. For over a decade Yoshida thrived on China-bound wares, with Ōgushi Torajirō, Ishii Tamegorō, Yamaguchi Masashichi and others producing heavily. After the Sino-Japanese War, many Chinese merchants shifted from Nagasaki to Kobe for convenience in foreign trade. Dealings with Nagasaki thinned and the earlier high-flying boom lost altitude; Yoshida reverted to domestic lines, making wares akin to those of Iyo and Ono.

Earlier, in 1889, two Korean merchants—Hangchun-gō and Tei Chikoku of Keijō—brought samples; introduced by Ishii Tamegorō, they concluded exclusive agreements with Oka Sanpei, Ōwatari Genzō, and Yamaguchi Masashichi. Yamaguchi had built a climbing kiln in 1886; Ishii Dangorō in 1887; Ōgushi Otomatsu added another in 1893, steadily raising output.

When the Hangchun-gō line later lapsed, Yamaguchi opened a branch at Incheon; in 1896 Ōgushi Otomatsu made a special contract with Imari dealer Sueishi Kyūjirō and launched large-scale manufacture and sales. By about 1900 kilns expanded trade directly or via shops, producing a “Taishō-boom-like” prosperity in Korea-bound production.

On December 15, 1888, the “Exclusive Wholesaler By-laws for Exports to Korea” were drafted. In essence, coordinating with the Keijō Chamber of Commerce, a sole agency at Incheon would expand the market for Hizen ceramics, prevent crude mass production, and secure lasting profit. Key provisions:

  1. Establish a sole wholesaler at Incheon; all Korea-bound goods pass through it.
  2. Style: “Empire of Japan Hizen Ceramics Sole Wholesaler.”
  3. Conclude special discount terms with scheduled steamship lines to reduce carriage costs for handled goods.
  4. Exports via Nagasaki go through the Nagasaki sole agent; Imari direct sailings through the Imari out-station; other routes are forbidden.
  5. For orders, the wholesaler must notify the union office with samples, price, and specifications; no unilateral ordering.
  6. Delivery follows the confirmed rules (Chapter 2 of the agreement with the Keijō Chamber).
  7. Upon receipt, report item names, quantities, and prices to each office.
  8. Export manifests require local committee seals and the Article 4 procedures.
  9. Fees/interest: commission 10% of sale price; freight/charges borne by shipper; warehouse fee six rin per sack per month; carriage/exchange interest at six rin per diem.
  10. Loss at delivery is borne by the shipper.
  11. Notify each consignor upon arrival.
  12. Loss from water, fire, wind, or earthquake after arrival is borne by the consignor.
  13. Even on direct sailings, sales must proceed through the sole agent; bypass sales will see proceeds seized and notified inland.
  14. Term five years; renewal by union vote; misconduct allows mid-term change.
  15. For dumping or smuggling in sub-standard goods, the wholesaler may seize the proceeds and report details immediately.
  16. Violations of Articles 4, 8, 9, 13, 15 incur a penalty of ¥3–¥5.
  17. Seventy percent of penalties fund local offices; thirty percent go to the sole agent.
  18. Any amendment requires approval by Saga and Nagasaki prefectures after consultation with the guild offices and the sole agent at Incheon.
    Addenda:
    – If guild wares pass to non-members, notify the Nagasaki or Korea sole agent at once and entrust claims should buyers “ship around” the system.
    – Non-members who, even after filing the consent required by the joint rules, engage in such bypass shipments shall thereafter be barred from any sales.

【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
其后随着窑业发展,藩许可十六家窑户的次子以下以营业名义从业。资本家副岛弥左工门在文化年间(1804–1818)新建“下窑”。一旦需要资金,窑户便以藩祖的保护状——俗称“村云之鸦”——为凭向藩主求资,蓮池藩也常为此犯难。后来有名为和田菜的代官借走此墨付而不还,自藩祖以来的特权状遂如其名般“云隐”,但据说至明治七、八年左右当地主窑仍颇为放纵。

正德年间(1711–1716)起使用天草石。主料可由离此二里之田津以帆船登陆,再与鸣川地石混用,烧制广东茶渍碗、平茶渍碗等日用品。文化・文政期开始与大阪直销,空前繁荣,因而除前窑、下窑外,又新建一座窑。

然自文政末(1830)至天保初(1831)产能过剩,价格下落,经营困难。昔日华奢的窑户渐入困境,停烧相继,风雨侵蚀之窑草莽丛生,景象凄然。窑户诉乏后,蓮池藩主雲叟(摄津守直兴)遣尾形惟晴修窑并供给物资,复其旧观。

天保年间(1831–1845),名工副岛茂右工门(或第六代)受雲叟赐号“雲月”,以优异青花著称。其号“四时庵”,好俳谐,留有多篇诸友所赠选句。都之高桥道八(三代)亦于明治初来访留作。

副岛家历代多袭名“茂右工门”,名匠辈出。第八代次作(寿梅茂右工门养子)以捏制与雕刻见长,然于明治二十六年十一月十四日卒,享年六十一;至茂八时遂废业。家永家亦后废(教育家家永利三郎、陆军少将家永直太郎兄弟为其后裔)。藩制期十六家子孙中,今仍续业者仅副岛辰三郎一人。

明治维新后,士族获旧禄公债,政府劝其投资实业。吉田山依副岛利三郎(茂右工门分家)之议,于明治十三年设“精盛社”,以地方旧士族出资为主。景气大好;明治十五年脱旧藩束缚,新建一座登窑为社窑;此后旧有三座共同登窑式微,继以个人新建窑。然荣景不久,受不换纸币影响的萧条波及陶业。明治十五、十六年之难关中,吉田山改弦更张,自内销转为对华产品。

对华销售初由岩永弥九郎小额开路,后副岛利三郎洞见未来,签订大规模制造贸易。适逢汇率下跌与价格走低,十余年间对华生产大旺,Ōgushi寅次郎、石井种五郎、山口又七等踊跃生产。然日清战后,多数华商自长崎转向神户,长崎交易疏远,繁华转衰,遂再归内销,仿制伊豫、尾濃类产品。

此前明治二十二年,朝鲜京城商店“恒春號”与丁致國携样到访,经石井种五郎介绍,与冈三平、大渡权藏、山口又七订立特约。又明治十九年山口又七、二十年石井檀五郎建登窑;二十六年大串音松亦建窑,逐步扩产。

及恒春號等交易中断,山口又七设仁川支店;二十九年大串音松与伊万里陶商末石久次郎特约,开展大规模生产销售。至三十三年左右,各窑直接或设店扩展交易,呈现面向朝鲜的“ 大正景气 ”般繁荣。

明治二十一年十二月十五日制定《朝鲜国出口一手问屋定款》:与京城商業會議所协力,于仁川设一手问屋,拓展肥前陶磁器销路,防粗制滥造以保长久利益。要点:①仁川一手问屋统管对朝鲜出口;②名称为“大日本帝国肥前陶磁器一手问屋”;③与定期航路订优惠以减运费;④长崎经由走长崎一手、伊万里直航走伊万里派出所,禁止他径;⑤订单须附样品、价格、要项通知组合,禁私自下单;⑥交收依与京城商议规则;⑦收讫申报品名、数量、价格;⑧货单需各地委员加印并经第四条手续;⑨费用:口钱售额10%,运杂费由货主负担,仓栈费每月每俵六厘,运费与汇兑金利日步六厘;⑩交货时现损由货主担;⑪到港即通知;⑫到港后遇灾亦由货主担;⑬直航亦须经一手问屋,绕行者代价没收并通报;⑭有效期五年,可续期;⑮违规(濫賣、不正品)得扣押价金并通报;⑯犯第4、8、9、13、15条者罚金三至五圆;⑰罚金七成充当地取所,三成归一手问屋;⑱改废须经佐贺、长崎两县许可。〔追加〕将组内品交予组外者者,须即告长崎或朝鲜一手并委托维权;组外者虽具同意书而仍行“拔货”者,今后不许售卖。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
其後隨窯業發展,藩許可十六家窯戶之次子以下以營業名義從業。資本家副島彌左工門於文化年間(1804–1818)新建「下窯」。凡資金告急,窯戶即以藩祖之保護狀——俗稱「村雲之鴉」——為據向藩主請資,蓮池藩亦屢感為難。後有名為和田菜之代官借走此墨付不還,特權狀遂如其名雲散。然至明治七、八年頃,當地主窯仍頗恣意。

正德年間(1711–1716)起用天草石。主料可自距此二里之田津以帆船登岸,與鳴川地石合用,燒廣東茶漬碗、平茶漬碗等日用品。文化・文政期始與大阪直易,極一時之盛,遂於前窯、下窯之外新築一窯。

然自文政末(1830)至天保初(1831)產過於供,價跌難營。久享華麗生活之窯戶漸陷困頓,停燒相繼,風雨摧殘之窯草深,景象淒然。窯戶訴乏後,蓮池藩主雲叟(攝津守直興)遣尾形惟晴修窯給資,以復舊觀。

天保年間(1831–1845),名工副島茂右工門(或第六代)受賜號「雲月」,以上乘青花著名。自號「四時庵」,嗜俳諧,諸友所贈選句尚存。都之高橋道八(三代)亦於明治初來訪留作。

副島家歷代多襲名「茂右工門」,名匠輩出。第八代次作(壽梅茂右工門養子)以捏塑、雕刻稱絕,然明治二十六年十一月十四日卒,享六十一;至茂八遂廢業。家永家亦後廢(教育家家永利三郎、陸軍少將家永直太郎兄弟為其後裔)。藩制期十六家之裔,今仍襲業者惟副島辰三郎一人。

明治維新後,士族受舊祿公債,政府勸投實業。吉田山依副島利三郎(茂右工門分家)之議,於明治十三年設「精盛社」,以地方舊士族出資為主。景氣大好;明治十五年脫舊藩束,新築一座登窯為社窯;此後三處共同登窯式微,繼以各人新築。然榮景不久,受不換紙幣影響之不況及於陶業。明治十五、十六年之難,吉田山轉向,改內銷為對華製品。

對華銷售,初由岩永彌九郎小試啼聲,繼由副島利三郎締大規模製造貿易。適值匯率下跌與價低,十餘年間對華製造鼎盛,Ōgushi寅次郎、石井種五郎、山口又七等競作。日清戰後,多華商自長崎轉神戶,長崎交易疏遠,盛況轉衰,復歸內銷,作類伊豫、尾濃之器。

先是明治二十二年,朝鮮京城商號「恒春號」與丁致國攜樣而至,由石井種五郎介紹,與岡三平、大渡權藏、山口又七訂特約。又明治十九年山口又七、二十年石井檀五郎築登窯;二十六年大串音松亦築窯,拓產漸進。

及恒春號等交易絕,山口又七設仁川支店;二十九年大串音松與伊萬里陶商末石久次郎特約,大展製銷。至三十三年左右,各窯直營或設店擴市,呈對朝鮮製造之「大正景氣」般榮況。

明治二十一年十二月十五日訂《朝鮮國輸出一手問屋定款》:與京城商業會議所協力,於仁川設一手問屋,拓肥前陶磁器之路,防粗製濫造以保久利。要點:①仁川一手問屋統管朝鮮輸出;②名為「大日本帝國肥前陶磁器一手問屋」;③與定期航路訂優惠減運費;④長崎經由走長崎一手、伊萬里直航走伊萬里派出所,禁他徑;⑤訂單附樣品、價金、要項告組合,禁私單;⑥交收依與京城商議之規;⑦收訖申報品名、數量、價金;⑧貨單需各地委員加印並循第四條;⑨費率:口錢售額一成,運雜費貨主負擔,倉栈每月每俵六厘,運費與匯兌金利日步六厘;⑩交貨現損貨主當之;⑪到港即報;⑫到港後遇災亦貨主任之;⑬直航亦須經一手,繞行者沒收價金並通報;⑭期五年,可續;⑮違規(濫賣、不正品)得扣押價金並通報;⑯犯第4、8、9、13、15條者罰三至五圓;⑰罰金七成充取所費、三成歸一手;⑱改廢須經佐賀、長崎兩縣認可。〔追加〕組內品交組外者者,應即告長崎或朝鮮一手並委托維權;組外者縱具承諾而仍行拔貨者,嗣後不得售賣。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
随着行业扩张,藩许可十六家窑户的次子等以营业名义从业。资本家副岛弥左工门于文化年间(1804–1818)新建“下窑”。需资时,窑户常以藩祖保护状“村云之鸦”为凭向藩主求资;后因代官和田菜借走未还,此特权如名而散。至1874–1875年前后,窑户仍颇放达。

正德(1711–1716)起用天草石,于田津登陆,与鸣川石混合,烧广东式茶渍碗和平茶渍碗。文化—文政后与大阪直销,鼎盛,增建新窑。

1830–1831年过剩生产致价跌与困境。蓮池藩主雲叟(摄津守直兴)派尾形惟晴重修并供料,复旧。

天保期名工副岛茂右工门(或第六代)得号“雲月”,青花名噪;号“四时庵”,好俳谐;高桥道八(三代)亦留作。

副岛家屡出名匠。第八代次作(寿梅茂右工门养子)擅塑刻,1893年11月14日卒;至茂八停业。家永家亦亡;后裔有家永利三郎、家永直太郎。今仅副岛辰三郎续业。

维新后创“精盛社”(1880),1882建社窑;共用登窑衰,私窑兴。旋遭不换纸币不况,改做对华品。

对华最初由岩永弥九郎开路,副岛利三郎签订大单;因汇跌价低而旺十余年,Ōgushi寅次郎、石井种五郎、山口又七等多产。日清战后华商多转神户,长崎交易疏,转回内销。

1889年,朝鲜“恒春号”与丁致国携样来,结与冈三平、大渡权藏、山口又七特约。先前1886、1887、1893年接连建窑扩产。

后交易断,山口在仁川设支店;1896年大串与伊万里商末石久次郎特约,扩销。至1900年前后各窑直营或设店,朝鲜向现“类似大正景气”的繁荣。

1888年12月15日制定《对朝鲜出口独家批发章程》:与京城商会合作,在仁川设一手总经销,扩展肥前陶瓷,防止粗制滥造以求长久利益。要点同上英译九至十八条及附加条。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
隨著行業擴張,藩許可十六家窯戶次子等以營業名義從業。資本家副島彌左工門於文化年間(1804–1818)新建「下窯」。需資時常以藩祖保護狀「村雲之鴉」為據向藩主請資;後因代官和田菜借去不還,特權如名而散。至1874–1875年前後,窯戶仍頗放達。

正德(1711–1716)起用天草石,自田津登岸,與鳴川石混合,燒廣東式茶漬碗和平茶漬碗。文化—文政後與大阪直銷,鼎盛,增築新窯。

1830–1831年過剩生產致價跌與困境。蓮池藩主雲叟(攝津守直興)遣尾形惟晴修窯供料,恢復舊觀。

天保期名工副島茂右工門(或第六代)賜號「雲月」,青花著名;號「四時庵」,好俳諧;高橋道八(三代)亦留作。

副島家屢出名匠。第八代次作(壽梅茂右工門養子)擅塑刻,1893年11月14日卒;至茂八停業。家永家亦亡;其裔家永利三郎、家永直太郎。今僅副島辰三郎續業。

維新後創「精盛社」(1880),1882建社窯;共用登窯衰、私窯興。旋遭不換紙幣不況,改為對華品。

對華最初由岩永彌九郎開路,副島利三郎締大單;因匯跌價低而旺十餘年,Ōgushi寅次郎、石井種五郎、山口又七等多產。日清戰後華商多轉神戶,長崎交易疏,復歸內銷。

1889年,朝鮮「恒春號」與丁致國攜樣來,與岡三平、大渡權藏、山口又七特約。此前1886、1887、1893年相繼建窯擴產。

後交易絕,山口於仁川設支店;1896年大串與伊萬里商末石久次郎特約,擴銷。至1900年前後各窯直營或設店,對朝鮮形成「類大正景氣」之繁榮。

1888年12月15日訂《對朝鮮出口獨家批發章程》:與京城商會協作,在仁川設一手總經銷,拓展肥前陶瓷,防粗製濫造、求久利。要點同英譯第九至十八條及附加條。