【原文】[Original text]
大音製
而して朝鮮向き好況時代に於ける吉田山製品の三分の一産額(約二十餘萬圓)は、大串音松に依って製造されしいはれてゐる。當時美濃や尾張の製品も、亦朝鮮向として彼地に輸出せられしが、それが皆大音製の銘を記入して販賣されし如きは、如何に吉田の製品が韓人に歓迎さしかを察するに除りある。
蚯蚓嵌止の研究
此間に擡頭せる製技上の研究としては、上繪附の完成であつた。元来何れの陶山も、凡て天草石を原料とする製品、殊に對州土の多量なる施釉物には、上繪附の際釉面に、必ず蚯蚓嵌なる赤線を露出するのが通有性であつた。
蓋し有田石の製品のみは、例ひ長く濕氣中に置かれても、敢て此礎質を現はす憂がない。
此研究は始め明治十三年精盛社にて試みしも、生地の關係に依って良結果を得ず、全く不可能事として推棄されたのである。同四十四年に至り笠原五郎甚だ之を遺憾とし、有田黒牟田の梶原墨之助を迎へて再び起業せしめ、傍ら副島茂八が生地製作の改良研究に依って、漸く之を完成するに至つた。今八寸大の組井や、蓋井、大外蓋及菓子碗等の日用向に、此上綸附(中附程度)が應用されてゐる。
吉田の石炭窯
大正十二年四月笠原平五郎、副島茂八、相川茂吉、石井清一、大串脇次等は、尾濃製陶地視察を終へてより、陶窯の研究となり、翌十三年より十五六戸の窯焼は、石炭窯に改築せしも、低價製産に於いては、一日の長ある尾濃品に敵し難く、加ふるに歐洲大戦後の経済界恐慌の一般不況に禍せられ、又再び内地向の製造に轉換したのである。
大正十五年の大旋風は、吉田山の陶業に大いなる損害を奥へしも、此地の當業者は不撓不屈之が復舊に努力したのである。此處の盛況時に於ける年産額は、實に六十數萬圓を算したりしも、現時は頗る低下されてゐることは申すまでもない。當今重なる窯焼には大串音松、石井清一、山口忠藏、大串脇次、大串兼次等十五六戸である。
大渡商店
又卸問屋として大渡商店ありて、窯元とも便利を計りつゝある(大渡權藏は明治四十五年卒去し、舎弟勇三郎大正四年卒し、末弟長八の男が現在の熊次にて、彼は今佐賀縣々會議員にして参事會員である)此地塩田町及鹿島町へ行程二里、嬉野町温泉へ一里を隔て、常に定期のタキシーがある。當今の不況と雖も、其製産額に於いては、外山中なほ第一の地位であらう。
大草野と空海
塩田の大草野は、平城天皇の大同二年(807年)僧空海(弘法大師)唐より歸朝するや大磐若經及十六善神を守護して此地に來り、真言宗正福寺を開基せしところである。其後嵯峨天皇の弘仁九年(819年)天下疫病流行しかば、空海に疫病轉除の敷あり、彼は都より再び大草野に来錫し、正福寺に於て磐若心経鍵を作り、大祈禱を結願せし傅へらる由緖地である。
韓人が此大草野に来て開窯せしことは、甚だ古きもの如く傳ふるも、前記の正福寺廢滅の趾が今畑地となり終れると同じく、其陶窯の趾を探ぐるも正確の地を指定し得ざるを恨みとす。
燈籠掛
只此處の山の神と稱する地に僅に小石を積める高麗といへるがあり、毎年八月頃に至れば、定日の設けはなきも、己がじゝ農閑の折を選みて、燈籠掛と稱するさゝやかな祭を催す位である。
此邊りより探收されし殘缺には、稀に無釉高臺の施釉茶碗などあるも、多くは全無釉陶にて、高火に焼締めしより地肌に光澤を生せしものらしく、そして茶碗の高臺の如きは、竹にてえぐりしものがあり、頗る元始的作品である。又此處にては、古く軟質青瓷を焼成せしさの口碑がある。今其製品を實見せざるも、此地方が宗教的にもそ需要せことは、必然の所縁さいふべきであらう。
眞言宗儀式と青瓷
當時弘法大師が、真言密教を流布するや、共宗儀の式に天部の諸天を供養するとき、必ず青瓷の佛器を用ひし由にて、それは支那傳來の法式であらう。加ふるに隣地鹿島は興教大師(康治二年十二月十二日(1142年)寂す、四十九才)の生地である。故に真言宗流布地たる大草野陶山に於いて、後年青瓷を焼きしとの説は、然る可き認識である。而して此地の斯業久しき以前に廢絶して、其沿革に就いては、全く調査すべき據がない。
敷浪
明治二十六年(1893年)小田志山の窯焼樋口覺左工門、此處の敷波へ来りて開窯し専ら染附の食碗を製造せしが、大正九年十月六十九才にて卒し、今嗣子彥三が斯業を継承しつゝある。三、四年前までは朝鮮向専門に製造せしも、今は食碗、土瓶 茶碗等の染附物を焼いてゐる。
原料は天草石に、三の股石の一乃至二割を加へて製作してゐる。先代開窯以来同業者とはなく全く樋口家一戸の陶業地である。此地方水利に便にして、諸に原石粉砕の水車場があり、他面此の水流豊なる大草野の名は、源氏螢の名所として耀いてゐる。
久間村は天正の頃、龍造寺氏の旗下久間權次郎盛種(薩摩守)の領地なりしが、其後鍋島氏の支配となりて、志田東山の外は、寛永十四年(1637年)より蓮池の所領となった。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
朝鮮向けの好況期には、吉田山の製品のうち三分の一(約二十数万円分)を大串音松が担ったと伝わる。当時は美濃や尾張の品も朝鮮へ輸出されたが、それらにも「大音製」の銘を記して販売されたというほどで、吉田の製品が現地でいかに歓迎されたかがうかがえる。
この間に台頭した技術研究の成果は、上絵付の完成であった。もともと各陶山の、天草石を原料とする製品――とくに對州土を多く用いた釉薬もの――では、上絵付の際に釉面へ赤い線状の「蚯蚓嵌」が現れるのが通例であった。ただし有田石の製品だけは、長く湿気にさらしてもこの性質が出る心配がない。明治十三年、精盛社で対策研究が試みられたが、生地の問題で成果は出ず、不可能として退けられた。ところが明治四十四年、笠原五郎がこれを遺憾として有田黒牟田の梶原墨之助を招き再挑戦し、副島茂八が素地改良を重ねた結果、ようやく抑止に成功した。現在は八寸ほどの組鉢や蓋鉢、大外蓋、菓子碗といった日用品に、こうした上絵付(中付程度)が応用されている。
大正十二年四月、笠原平五郎・副島茂八・相川茂吉・石井清一・大串脇次らは尾濃の製陶地を視察し、窯の研究を進め、翌十三年からは十五、六戸の窯元が石炭窯へ改築した。しかし低価格大量生産では一日の長がある尾濃品に太刀打ちしがたく、さらに欧州大戦後の不況にも見舞われ、再び内地向け製造へ切り替えた。大正十五年の大旋風は吉田山の陶業に大きな被害を与えたが、地元の業者は不撓不屈で復旧に努めた。最盛期の年産額は六十数万円に達したものの、現在は大きく落ち込んでいる。現在主な窯元は大串音松、石井清一、山口忠藏、大串脇次、大串兼次など十五、六戸である。
卸問屋としては大渡商店があり、窯元との便宜を図っている(大渡權藏は明治四十五年没、弟の勇三郎は大正四年没、末弟長八の子・熊次が現当主で、いま佐賀県会議員・参事会員である)。ここから塩田町・鹿島町へは二里、嬉野町温泉へは一里で、定期タクシーが常時運行している。今日の不況下でも、産額の面ではなお外山中で第一の地位にあるだろう。
塩田の大草野は、平城天皇の大同二年(807年)に空海(弘法大師)が唐から帰朝して大般若経と十六善神を奉じ、この地に来て真言宗・正福寺を開いたところである。のち嵯峨天皇の弘仁九年(819年)に疫病が全国に流行し、空海に祈祷の請いがあり、都から再び大草野に来て正福寺で般若心経の鍵を作り、大祈祷を結願したと伝わる由緒地である。韓人がこの大草野に来て開窯したのも古いと伝わるが、正福寺の跡が今は畑地となったのと同様、窯跡も確かな場所を指し示せないのが惜しまれる。
ただ「山の神」と呼ばれる場所に小石を積んだ「高麗」と称するものがあり、毎年八月頃、決まった日取りはないが、農閑期を見計らって「燈籠掛」というささやかな祭が行われる。周辺から見つかる破片には、高台無釉の施釉茶碗がまれにあるものの、多くは全体無釉で高火度に焼き締めて地肌に艶が出たものらしく、茶碗の高台が竹でえぐったように仕上げられた、きわめて原始的な作風である。また、ここでは古く軟質青瓷を焼いたという口碑があり、実物は見ないが、この地が宗教的にも需要を持ったのは当然の縁といえる。
当時、弘法大師が真言密教を広めるにあたり、宗儀で天部の諸天を供養するときには必ず青瓷の仏器を用いたとされ、これは支那伝来の作法であろう。隣地の鹿島は興教大師(康治二年十二月十二日(1142年)寂、四十九歳)の生地でもある。ゆえに真言宗の流布地たる大草野の陶山で、後年青瓷を焼いたという説は首肯しうる。ただ、この地の陶業は久しく以前に絶え、沿革の調査拠点は残っていない。
明治二十六年(1893年)、小田志山の窯元・樋口覺左工門がこの敷浪に来て開窯し、専ら染付の食碗を作ったが、大正九年十月に六十九歳で没し、現在は嗣子・彥三が継いでいる。三、四年前までは朝鮮向け専門だったが、今は食碗・土瓶・茶碗などの染付物を焼いている。原料は天草石に三の股石を一~二割加えて用いる。先代の開窯以来、同業者はなく、全く樋口家一戸の陶業地である。この地域は水利に恵まれ、原石粉砕の水車場がいくつもある一方、豊かな水流をもつ大草野の名は源氏蛍の名所としても知られている。久間村は天正の頃、龍造寺氏の旗下・久間權次郎盛種(薩摩守)の領地であったが、その後は鍋島氏の支配となり、志田東山以外は寛永十四年(1637年)から蓮池の所領となった。
【英語訳】[English translation]
In the boom years for exports to Korea, roughly one-third of Yoshida-yama’s output—about a little over 200,000 yen—was said to have been produced by 大串音松. At that time, wares from 美濃 and 尾張 were also shipped to Korea, yet many of those were sold bearing the mark “大音製,” which shows how warmly Yoshida products were received there.
A major technical advance in this period was the successful control of overglaze decoration. For bodies made with 天草石—especially heavily glazed wares with much 對州土—it had been customary for fine reddish “earthworm inlay” lines (蚯蚓嵌) to appear on the glaze during overglaze work. Only wares made with 有田石 were notably free from this tendency even after long exposure to humidity. An initial attempt at countermeasures, undertaken by 精盛社 in 明治十三年, failed due to body issues and was abandoned as impracticable. In 明治四十四年, however, 笠原五郎, dissatisfied with that outcome, invited 梶原墨之助 from 有田黒牟田 to try again; alongside improvements to the body by 副島茂八, the problem was finally solved. Today, overglaze (at about the “中付” grade) is applied to everyday items such as eight-sun 組鉢, 蓋鉢, 大外蓋, and 菓子碗.
In 大正十二年四月, 笠原平五郎, 副島茂八, 相川茂吉, 石井清一, and 大串脇次 inspected the pottery districts of 尾濃, studied kilns, and from the following year about fifteen or sixteen workshops rebuilt their kilns to fire with coal. Even so, they struggled to match 尾濃 products in low-cost production, and the general post-World War I slump further hurt demand, pushing them back to domestic lines. The great windstorm of 大正十五年 caused heavy damage to Yoshida-yama’s pottery, but local producers worked tenaciously to restore operations. At its height, annual output exceeded 600,000 yen, though it has since fallen sharply. Principal workshops now include 大串音松, 石井清一, 山口忠藏, 大串脇次, and 大串兼次—about fifteen or sixteen in all.
As a wholesaler, 大渡商店 coordinates closely with the kilns (大渡權藏 died in 明治四十五年; his younger brother 勇三郎 in 大正四年; the current head is 熊次, son of 長八, now a Saga prefectural assembly member and councilor). It is two ri to 塩田町 and 鹿島町, one ri to 嬉野町温泉, with regular taxis running. Even amid today’s slump, Yoshida-yama likely still ranks first among the surrounding kiln districts by output.
大草野 in 塩田 is where, in 大同二年(807年), 空海(弘法大師)returned from 唐, brought the 大般若経 and 十六善神, and founded the Shingon temple 正福寺. Later, in 弘仁九年(819年), amid a nationwide epidemic, 空海 was requested to conduct rites; he again came from the capital to 大草野, prepared the key to the 般若心経 at 正福寺, and completed a great prayer rite—such is the site’s tradition. Koreans are said to have come to 大草野 and opened kilns very early, yet—just as 正福寺’s site has become farmland—the exact kiln sites can no longer be pinpointed.
There is, however, a small stone mound called “高麗” at a place known as the “mountain god,” and around August each year—on no fixed day but chosen during the farm off-season—a modest festival called 燈籠掛 is held. Sherds collected nearby include, rarely, glazed bowls with unglazed feet, but most are entirely unglazed, high-fired, and show a sheen from vitrified body; some bowl feet look as if carved with bamboo—very primitive work. There is also an oral tradition that soft celadon (軟質青瓷) was fired here long ago; though no examples are now seen, the region’s religious needs make such production plausible.
As 真言密教 spread under 弘法大師, ritual offerings to the heavenly deities (天部) reportedly used celadon ritual vessels—a practice likely of Chinese origin. Moreover, neighboring 鹿島 is the birthplace of 興教大師(康治二年十二月十二日(1142年)寂, aged forty-nine). Thus, the notion that 大草野’s pottery hills later fired celadon accords with reason. The craft there, however, died out long ago, leaving no firm basis for tracing its history.
In 明治二十六年(1893年), 樋口覺左工門 of 小田志山 came to 敷浪, opened a kiln, and produced mainly blue-and-white rice bowls; he died in 大正九年 at sixty-nine, and his heir 彥三 continues the work. Until three or four years ago the output was chiefly Korea-bound; now dyed pieces such as rice bowls, teapots, and tea bowls are made. The body uses 天草石 with one to two tenths of 三の股石. Since the first opening, there have been no competitors here: it is solely the 樋口 family’s pottery site. Water is abundant, with several water-wheel crushing mills for raw stone; the rich streams have also made 大草野 famous as a habitat of 源氏螢. In 天正 times, 久間村 was the fief of 久間權次郎盛種(薩摩守)under the 龍造寺; later it came under the 鍋島, and—apart from 志田東山—became Hasuike land from 寛永十四年(1637年).
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
在对朝鲜出口的繁荣期,吉田山产品约三分之一(约二十多万日元)据说由大串音松承担。当时美浓、尾张的器物也出口到朝鲜,但不少都标记“ 大音製 ”之铭售卖,可见吉田作品在当地何等受欢迎。
其间崛起的技术成果,是上绘付的完善。原本各陶山凡以天草石为原料的制品,尤其大量使用對州土的施釉器,在上绘付时釉面常会显出称为“蚯蚓嵌”的红线。唯有有田石的制品,即使长期处于潮湿环境,也几乎不会出现此性状。明治十三年精盛社曾试图对策,但因素地问题无果作罢。明治四十四年,笠原五郎对此不满,邀有田黑牟田的梶原墨之助再度起事,配合副島茂八对素地的改良,终于抑止成功。如今,八寸左右的组鉢、盖鉢、大外盖、菓子碗等日用品,已可施以此类上绘付(约“中付”等级)。
大正十二年四月,笠原平五郎、副島茂八、相川茂吉、石井清一、大串脇次考察尾濃产区,研究窑制;翌年起十五六家改建为石炭窑。然而在低价量产上难敌尾濃,加之后一战后的不景气,便再度转回内销。大正十五年的强风给吉田山陶业以重创,但业者不屈复旧。最盛时年产额逾六十万日元,如今大幅下滑。当前主要窑元有大串音松、石井清一、山口忠藏、大串脇次、大串兼次等十五六家。
批发方面有大渡商店,与窑元紧密配合(大渡權藏卒于明治四十五年,弟勇三郎卒于大正四年,现任为末弟长八之子熊次,现任佐贺县会议员兼参事会员)。至盐田町、鹿岛町二里,至嬉野町温泉一里,常有定期出租车往返。即使不景气,产量上仍可谓周边诸山之首。
盐田之大草野据传为大同二年(807年)空海(弘法大師)自唐返日,奉大般若经与十六善神来此开创真言宗正福寺之地。弘仁九年(819年)疫病流行,应请空海再临大草野,于正福寺制《般若心经》之“鍵”并结大祈祷。相传韩人亦早年来此开窑,然如同正福寺旧址已为农地,窑址今已难以确指,殊可叹惋。
不过,在所谓“山之神”之处有小石堆成的“高丽”,每年八月左右择农闲之日举行名为“燈籠掛”的小祭。附近所见残片,偶有高台无釉之施釉茶碗,多为全器无釉、高火烧成、地肌生光者,且有以竹削成般之高台,颇为原始。此外,尚有早年烧制软质青瓷之口碑,虽未见实物,但就宗教需求而言,亦属情理之中。
弘法大師弘扬真言密教时,据称宗仪供养天部诸天必用青瓷佛器,此或为中国传来之法式。且邻地鹿岛为興教大師(康治二年十二月十二日(1142年)寂,享年四十九)之生地。故大草野陶山后年烧青瓷之说,理所当然。惟是地之业已久绝,沿革已无可据可考。
明治二十六年(1893年),小田志山窑元樋口覺左工門至敷浪开窑,专作染付饭碗;大正九年卒,享年六十九,今由嗣子彥三继业。三四年前仍以朝鲜向为主,如今改烧饭碗、土瓶、茶碗等染付器。素地以天草石为主,配三の股石一至二成。自先代开窑以来无同行竞争,完全为樋口家一户之陶业地。此地水利便,设有多座原石粉碎水车场;且大草野以清流著称,亦以源氏萤名所而闻名。久间村于天正时为龍造寺氏旗下久間權次郎盛種(薩摩守)领地,后属鍋島氏,除志田東山外,自寛永十四年(1637年)起为蓮池领地。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
在對朝鮮出口的繁榮期,吉田山之製品約三分之一(約二十餘萬日圓)據稱由大串音松擔當。當時美濃、尾張之器亦輸往朝鮮,然多標「大音製」之銘而售,可見吉田器在當地深受歡迎。
其間崛起之技術成果,為上繪付之完善。凡以天草石為原料之器,尤其大量用對州土之施釉品,在上繪付時釉面常現紅線「蚯蚓嵌」。惟有田石之器,久處濕氣亦少見其性。明治十三年精盛社曾試圖對治,因素地問題未果。明治四十四年,笠原五郎延請有田黑牟田之梶原墨之助再興其事,配合副島茂八改良素地,終獲成功。今八寸組鉢、蓋鉢、大外蓋、菓子碗等日用器,皆可施以此類上繪付(約中付等級)。
大正十二年四月,笠原平五郎、副島茂八、相川茂吉、石井清一、大串脇次勘察尾濃產區,研窯制;翌年起十五六家改為石炭窯。然低價量產難敵尾濃,又遭戰後不況,復轉內銷。大正十五年強風重創吉田山陶業,然業者不撓復舊。極盛時年產逾六十萬日圓,今已大幅下滑。現主要窯元為大串音松、石井清一、山口忠藏、大串脇次、大串兼次等十五六家。
批發方面有大渡商店,與窯元協作(大渡權藏卒於明治四十五年,弟勇三郎卒於大正四年,現任為末弟長八之子熊次,任佐賀縣會議員兼參事會員)。至鹽田町、鹿島町二里,至嬉野町溫泉一里,常有定期出租。即遇不況,產額仍居諸山之首。
鹽田之大草野,據傳為大同二年(807年)空海(弘法大師)自唐還歸,奉大般若經與十六善神來此創建真言宗正福寺之地。弘仁九年(819年)疫病流行,空海再詣大草野於正福寺造《般若心經》之「鍵」並結大祈禱。相傳韓人亦早來此開窯,然如正福寺舊址已為田畝,窯址今已難指,殊可慨歎。
然於所謂「山之神」之處,尚有小石堆成之「高麗」,每年八月近農閒時舉行小祭「燈籠掛」。附近殘片,偶見高臺無釉之施釉茶碗,多為全器無釉、高火燒締而肌理見澤者,且有以竹削之態之高臺,頗具原始面貌。又有早年燒軟質青瓷之口碑,雖未見實物,就宗教需求言之,誠屬當然。
弘法大師弘宣真言密教時,據稱宗儀供養天部諸天必用青瓷佛器,或源自中土法式。且鄰地鹿島為興教大師(康治二年十二月十二日(1142年)寂,年四十九)之生地。故大草野陶山後年燒青瓷之說,合情合理。惟是地之業久已絕,沿革已無可據。
明治二十六年(1893年),小田志山窯元樋口覺左工門至敷浪開窯,專作染付飯碗;大正九年卒,享年六十九,今由嗣子彥三承業。三、四年前猶以朝鮮向為主,今燒飯碗、土瓶、茶碗等染付器。素地以天草石為主,配三の股石一至二成。自先代開窯以來無同行競爭,純為樋口家一戶之陶業地。水利便,多設原石粉碎水車;且大草野水脈豐,亦以源氏螢名所著稱。久間村於天正時為龍造寺氏旗下久間權次郎盛種(薩摩守)之領,後歸鍋島氏,除志田東山外,自寬永十四年(1637年)屬蓮池領。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
在对朝鲜出口的繁荣时期,吉田山约三分之一的产量(逾二十万日元)据称由大串音松生产。当时美浓、尾张器物也外销朝鲜,但不少带“ 大音製 ”款识销售,足见吉田器物在当地的欢迎程度。
这一时期的重要进展,是成功控制上绘付时釉面出现的“蚯蚓嵌”红线。以天草石为坯体的器物——尤其大量用對州土者——常在上绘过程中露出红线;唯有有田石胎几乎不现此状。明治十三年的初次对策未果;明治四十四年,笠原五郎邀有田黑牟田的梶原墨之助再试,配合副島茂八改良坯体,终于抑止。如今,上绘(约“中付”级)用于八寸组鉢、盖鉢、大外盖、菓子碗等日用品。
大正十二年四月,笠原平五郎等考察尾濃,翌年十五六家改建煤烧窑;但低价量产难敌尾濃,又逢战后萧条,于是回归内销。大正十五年的强风重创吉田山陶业,业者坚持复工。最盛时年产逾六十万日元,如今已大幅下降。现有主要窑元凡十五六家,包括大串音松、石井清一、山口忠藏等。
大渡商店为批发商,与窑元协同(大渡權藏卒于明治四十五年,弟勇三郎卒于大正四年,现任熊次为长八之子,任佐贺县会议员兼参事)。距盐田町、鹿岛町二里,距嬉野温泉一里,常有定期汽车。即便不景气,产量仍居周边之首。
盐田的大草野,据传为大同二年(807年)空海(弘法大師)自唐还国,奉大般若经与十六善神来此创建真言宗正福寺之地;弘仁九年(819年)疫起,再至大草野作大祈祷。相传朝鲜人亦早来开窑,但与正福寺旧址化为农地相似,窑址今难确指。
然“山之神”处有小石堆“高丽”,每年八月农闲时举行“燈籠掛”小祭。附近残片,少见高台无釉之施釉碗,多为全器无釉、高火烧成、胎体发亮者,足见原始风貌。又有久昔烧软质青瓷之口碑;虽未见实物,但宗教需求使之合情合理。
随真言密教传播,供养天部诸天据称必用青瓷佛器,此或源自中国礼式。邻近鹿岛为興教大師(康治二年十二月十二日(1142年)寂)故里,故谓大草野后年烧青瓷,亦顺理成章。此地陶业久已断绝,沿革难以稽考。
明治二十六年(1893年),樋口覺左工門至敷浪开窑,专作染付饭碗;大正九年卒,嗣子彥三继业。此前三四年仍以朝鲜向为主,今作饭碗、土瓶、茶碗等染付器。坯体以天草石为主,掺三の股石一至二成。自先代以来无同行,完全为樋口家一户之业。水利充足,多设水车粉碎原石;大草野以清流、源氏萤名所而著称。久间村天正时属龍造寺氏旗下久間權次郎盛種(薩摩守),后归鍋島,除志田東山外,自寛永十四年(1637年)属蓮池。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
在對朝鮮出口繁榮時期,吉田山約三分之一之產量(逾二十萬日圓)據稱由大串音松生產。當時美濃、尾張器亦外銷朝鮮,然多加「 大音製 」款識,足見吉田器物之受歡迎。
此期重要進展為抑制上繪付時釉面「蚯蚓嵌」紅線之出現。以天草石為胎者——尤以大量用對州土者——常在上繪時顯紅線;唯有田石胎罕見此狀。明治十三年首次對策未果;明治四十四年,笠原五郎邀有田黑牟田之梶原墨之助再試,配合副島茂八改良胎體,遂獲成功。今上繪(約「中付」級)用於八寸組鉢、蓋鉢、大外蓋、菓子碗等日用品。
大正十二年四月,笠原平五郎等考察尾濃,翌年十五六家改建煤燒窯;然低價量產難敵尾濃,又逢戰後不況,乃復歸內銷。大正十五年強風重創吉田山陶業,業者力圖復舊。極盛時年產逾六十萬日圓,今已大幅下滑。現有主要窯元約十五六家,包括大串音松、石井清一、山口忠藏等。
大渡商店為批發商,與窯元協同(大渡權藏卒於明治四十五年,弟勇三郎卒於大正四年,現任熊次為長八之子,任佐賀縣會議員兼參事)。至鹽田町、鹿島町二里,至嬉野溫泉一里,常有定期車。即值不況,產量仍居周邊之首。
鹽田之大草野,相傳大同二年(807年)空海(弘法大師)自唐還,奉大般若經與十六善神至此創建真言宗正福寺;弘仁九年(819年)疫起,再至大草野作大祈禱。相傳韓人亦早來開窯,然與正福寺舊址為田相似,窯址今難確考。
「山之神」處有小石堆「高麗」,每年八月農閒時舉行「燈籠掛」小祭。附近殘片,少見高臺無釉之施釉碗,多為全器無釉、高火燒成而胎現光者,風貌原始。亦有古時燒軟質青瓷之口碑;雖未見實物,然以宗教需求論,理所當然。
隨真言密教傳播,供養天部諸天據稱必用青瓷佛器,此或源自中華禮式。鄰鹿島為興教大師(康治二年十二月十二日(1142年)寂)故里,故謂大草野後年燒青瓷,亦合情理。此地陶業久已中絕,沿革難稽。
明治二十六年(1893年),樋口覺左工門至敷浪開窯,專作染付飯碗;大正九年卒,嗣子彥三繼業。前三四年仍以朝鮮向為主,今作飯碗、土瓶、茶碗等染付器。胎以天草石為主,摻三の股石一至二成。自先代以來無同行,純為樋口家一家之業。水利充沛,多設水車粉碎原石;大草野以清流、源氏螢名所而聞名。久間村於天正時屬龍造寺氏旗下久間權次郎盛種(薩摩守),後歸鍋島,除志田東山外,自寬永十四年(1637年)屬蓮池。

