冬野の土器~藤津郡陶磁器工業組合

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【原文】[Original text]
冬野の土器
 此地は既に王朝時代より植物を焼きしが如く、又近年冬野の池畔よりも土器を發掘せしが、それは少くも千年以前の作品といはれてゐる。

志田東山
 久間の創始せられしは、明暦年間(1655-1658)韓人の子孫來りて陶器を作りし由傳説あるも、前記の如く藩祖直澄が、五丁田の陶業を此地に移轉せしてあるに因れば、なほ少し遡りて承應年間(1652-1655)の創始さ見ねばならぬ。
 然るに此の古窯品なる物には、飴色釉や灰色釉の皿茶碗及び優秀なる三島手の大皿等を焼いてゐる、此事蹟に徹すれば、其以前に於いて韓人若くは其子孫等か、此處の陶器を製作し居たるにあらざるや想はしむるのである。而して共當時久間焼と稱せられは、後年の志田東山焼のこをさしたるものである。

志田西山
 元祿年間(1688-1704)に於いて、志田東山より分窯されしものが志田西山である。故に東山にして西山を新山さも稱せられたのであつた。當時此處の古窯品にも、栗色釉に白の化粧掛を施せし腰下無釉の八寸の徳利や飴色釉の大茶碗など焼かれてゐるを見れば、矢張同時に磁器製作の外に、一部のくろ物が製造されしと見る可きであらう。
 寛政年間(1789-1801)に至り、東西南山とも従来の吉田石に、天草石を加ふるに及んて、白磁の面目を一新するに至りしが、天保年間(1831-1845)に於いて、生産過剰の結果は、一時販路の閉塞を來せしより、雨山とも大いに衰頽するに至つたのである。

浦川與右エ門
 此時西山の浦川與右工門(貞壽の父)は、奮闘努力斯業の回復を計り、藩主雲叟(直興)又資を貸興し、或は薪木を給するに及んで漸く復興する事を得たのである。

志田鉢
 明治十年後は紙型捺染式染附にて、九寸、尺口、尺一寸、尺二寸の型打細工皿等盛んに製造された、之が所謂當時の志田鉢である。其他辨當及重箱等の製造も多額であつた。

浦川俊藏
 西山製陶の發展に盡瘁せし者に浦川俊臓がある。彼は元蓮池藩士にて斯業を経営し大正十五年十月二十六日、七十四才を以て卒去した。(前大審院檢事浦川忠臓の父である)

松兵衛と軍六
 西山の陶畫師にて、江口松兵衛といへる名工があつた。彼呉岳と號し、繪畫や彫刻の外、篆畫を善くし、永年有田の香蘭社に勤務せが、明治十六年三月七十一才にて卒去した。又久間村の仁平の男にて、浦川軍六(賴重)といへるは呉溪とし、弟錦水と共に陶畫の名人なりしが、呉溪は明治二十七年二月を以て卒去した。

藤津郡陶磁器會社
 明治二十二年藤津郡陶磁器株式會社組織され、内野山の富永源六が社長であつた。同四十二年には、西山にて資本金三萬志田陶磁器株武會社が成立し、(今資本金拾五萬圓)杵島郡上野の野田卯入之が社長に就任した。そして大正の朝鮮向好況時代には、此處も亦多大の製産額をげたのである。

上久間山
 上久間焼は、磁器製造を開始せしところなるも、當時は志田焼比較して、立値七合半立さいへる格落にて取引されたのである。今より十餘年前久間陶器株式會社創立され、平野重八其社長たりしが、今は解散されて彼は個人として営業しつゝある。其他現在の窯焼としては二三戸のみとなつてゐる。
 志田東山は、元十數戸の窯焼ありしが、今廢滅して一戸の斯業者もなく、西山は前記の志田陶磁器株式會社の外二三戸の営業者がある。

西山の火鉢
 現在の製品は重に瓶掛や火鉢類にて、原料は全く天草石のみ用ひてゐる。昔年久間三山の好況時代には年產額四十餘萬圓を擧げしさ稱するも、現時の産額は十二三萬圓であるさいはれてゐる。

上福の窯床焼
 塩田町は、元龍造寺の旗下原豊後守尚家(十郎五郎)が、百五十町を知行せし舊地にて、鍋島領となりて後、寛永十四年蓮池の釆色にしたのである。享保(1716-1736)の頃韓人の子孫なる者、此地の上福に開窯し、佐賀鄉今山の原料を以て有田焼に傚ひて磁器を製作し、一名窯床焼と稱せられてゐた。今其製品を見るに、色相純白ならざるも、青素地に赤繪を施し、芝居めきし元祿人物を描ける細口の徳利があり、又同じ赤繪模様の油瓶などあるが、頗る古典味のある釉相を呈してゐる。

上福の製陶差止
 然るに其頃佐嘉宗藩より、西次平(嘉次郎の祖)といへる者役義にて此地に赴任し、其際上福の磁器を見て珍敷思ひ、取敢へず宗藩に上申せしところ、抑赤繪附は有田皿山の秘密工業なるを、猥りに他所に於いて製造すること甚宜しからずとなし、こゝに上福焼が差留めらるゝに至ったのである。

鹽田の水利便
 其後天草石の使用隆盛となり、該地方の原料は和船にて早崎海峡を越え、有明海より鹽田川を遡って此地に陸揚げし、塩田、吉田嬉野等諸川の沿岸なる五丁田、敷波、大草野等が何れも水利の便多きを以て、スタンプ式の水車粉碎を利用し、之に吉田石一割内外を加へ燒成火度を低減して製造するに至ったのである。

西 嘉次郎
 斯くて塩田は、天草石運送船の要津として、各陶山への原料供給地たる媒介のみに止まりしが、今より五十餘年前蒲地定七(鶴太郎)此處に再び磁器を製造し、明治十八年西嘉次郎(彥作の父にて後年此地の製陶組合長)は、染附製重箱を齎らして、南洋新嘉坡より暹羅の磐谷方面まで販路の拡張を試みたのである。然るに該器の模様として書かれし昆虫が、彼等の宗教的見地より嫌忌されし爲め惜くも失敗に帰したのであつた。

盂買や浦鹽への活躍
 明治二十年有田上幸平の丸田權九郎及惣平父子來つて又此地に製陶した。同二十二年に至り西嘉次郎は、佐賀縣陶磁器業組合副長(此當時の組合長は有田の平林伊平)として、再び印度盂買方面へ賣込視察の爲出張した。同二十五年に彼は又露領浦塩斯徳に渡航して、クルシカ(厚手の手附カップ)等を販賣し。同二十八年には、西比利亞方面へ出張する等、活躍大いに努めしが、大正九年五月十日七十一才を以て卒去した。

與三郎等の滿韓視察
 明治三十九年九月廿三日此地の淵三郎(杉光和三郎の兄)は、東西松浦郡選出代議士川原茂輔及び有田の窯焼松尾徳助等と同時に、滿韓利源調査委員として、磁器販賣地狀況視察の爲出發したのである。
今塩田の代表窯焼としては、杉光貞雄、九田惣一(惣の舎弟)にて、其他に二三二戸がある。最初は志田鉢等重なる製品にて、其他は壺、重箱、辨など焼かれしが、今は火鉢、瓶掛の外食碗類を主として製造しつゝある。

第二窯業試験場
 昭和二年冬佐賀縣會に於いて豫て懸案の窯業試験場設立案可決され、唐津の特志家高取家の寄附を得て、有田町の外此地へ塩田町に分設さる事となり、同五年十一月二十五日第二窯業試験場として落成式を舉行した。場長は第一窯業試験場長大須賀眞藏兼務せしが、同七年より元砥部工業學校長たりし重富英が専務場長として赴任した(英は同九年五月十日五十才にて卒したのである)

藤津郡陶磁器工業組合

 昭和六年九月十一日に藤津郡陶磁器工業組合が創立され、同年十二月二十六日此地の杉光貞雄(和三郎の男)選擧されて、組合長となったのである。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]
冬野では、王朝時代からすでに植物を焼いた痕跡があり、近年も冬野の池のほとりから土器が発見された。少なくとも千年前のものとされる。

志田東山については、久間の創始は明暦年間(1655–1658)に韓人の子孫が来て陶器を作ったという伝承がある。しかし藩祖・鍋島直澄が五丁田の陶業をこの地へ移したことに照らせば、さらにさかのぼって承応年間(1652–1655)の創始と見るべきである。古窯の遺品には飴釉や灰釉の皿・茶碗、出来のよい三島手の大皿などがあり、これから考えると、その以前から韓人あるいはその子孫がここで陶器を作っていたとも推測される。なお当時「久間焼」と呼ばれたものは、のちの志田東山焼を指す。

志田西山は、元禄年間(1688–1704)に志田東山から分かれてできたため、東山では西山を「新山」とも呼んだ。ここでも、栗色釉に白化粧を施し腰下は無釉の八寸徳利や、飴釉の大茶碗などが焼かれており、磁器と並行して一部に黒物も作られていたと見られる。寛政期(1789–1801)には東・西・南の各山とも従来の吉田石に天草石を加え、白磁の出来栄えが一新したが、天保期(1831–1845)には生産過剰で販路が詰まり、各山とも大いに衰退した。

このとき西山の浦川與右工門(貞壽の父)が再興に尽力し、藩主・雲叟(鍋島直興)が資金や薪材を貸与したことで、ようやく復興した。

明治十年以後は、紙型による捺染式の染付で九寸・尺・尺一寸・尺二寸の型打ちの皿が盛んに作られ、いわゆる当時の「志田鉢」である。弁当箱や重箱の製造も多かった。

西山製陶の発展に尽くしたのが浦川俊蔵で、元蓮池藩士としてこの業を経営し、大正十五年(1926)十月二十六日、七十四歳で没した(前大審院検事・浦川忠蔵の父)。

西山の陶画師には江口松兵衛という名工がいた。号は呉岳。絵画・彫刻・篆刻に巧みで、長年有田の香蘭社に勤め、明治十六年三月、七十一歳で没した。久間村の仁平の子・浦川軍六(頼重、号・呉溪)は、弟の錦水とともに陶画の名手で、呉溪は明治二十七年二月に没した。

明治二十二年(1889)には藤津郡陶磁器株式会社が組織され、内野山の富永源六が社長となった。明治四十二年(1909)には西山で資本金三万円の志田陶磁器株式会社が発足し(現在資本金十五万円)、杵島郡上野の野田卯入之が社長に就任。大正期の朝鮮向け好況時代には、ここも多大な生産をあげた。

上久間焼は磁器生産を始めたものの、当時は志田焼と比べて相場が七割五分建てという格下で取引された。十余年前に久間陶器株式会社が設立され、平野重八が社長となったが、いまは解散し、彼は個人で営業している。現在の窯元は二、三戸にとどまる。志田東山はかつて十数戸あったが、今は廃絶して一戸もなく、西山は前記の志田陶磁器株式会社のほか二、三戸が操業している。

現在の製品は主に瓶掛や火鉢で、原料は天草石のみを用いる。かつて久間三山の好況期には年産四十数万円といわれたが、現在の産額は十二~十三万円ほどとされる。

塩田町は、もと龍造寺家の旗下・原豊後守尚家(十郎五郎)が百五十町を知行した旧地で、のち鍋島領となり、寛永十四年(1637)に蓮池領となった。享保期(1716–1736)には韓人の子孫が上福に開窯し、佐賀郷今山の原料で有田焼に倣って磁器を作り、「窯床焼」とも称した。現存品は純白ではないが、青味の素地に赤絵を施し、芝居風の元禄人物を描いた細口徳利や、同様の赤絵の油瓶があり、古典味のある釉調を示す。

しかし当時、佐嘉藩から役義として赴任していた西次平(嘉次郎の祖)が上福の磁器を見て珍重し、宗藩に上申したところ、赤絵付は有田皿山の秘業であり、他所での製造は不適切として、上福焼は差し止めとなった。

その後、天草石の利用が盛んになり、原料は和船で早崎海峡を越えて有明海に出て塩田川を遡り上陸。塩田・吉田・嬉野などの川沿いにある五丁田・敷浪・大草野などは水利がよく、スタンプ式水車で原石を粉砕し、吉田石を一割前後加えて焼成温度を下げて製造するようになった。

こうして塩田は天草石の舟運の要地として各陶山への原料供給の拠点にとどまっていたが、五十余年前に蒲地定七(鶴太郎)がここで再び磁器を作り、明治十八年(1885)には西嘉次郎(彦作の父、のち当地の製陶組合長)が染付の重箱を携え、南洋の新嘉坡(シンガポール)から暹羅の磐谷方面まで販路拡張を試みた。しかし意匠に描いた昆虫が相手方の宗教上の理由で忌避され、惜しくも失敗した。

明治二十年(1887)には有田上幸平の丸田權九郎・惣平父子が来て製陶を行い、明治二十二年には西嘉次郎が佐賀県陶磁器業組合副長(当時の組合長は有田の平林伊平)として、再び印度・盂買方面への売り込み調査に出張。明治二十五年には露領・浦塩斯徳へ渡ってクルシカ(厚手の持ち手付きカップ)などを販売し、二十八年には西比利亜方面にも出張するなど活躍したが、大正九年(1920)五月十日、七十一歳で没した。

明治三十九年(1906)九月二十三日、当地の淵三郎(杉光和三郎の兄)は、東西松浦郡選出の代議士・川原茂輔、有田の窯元・松尾徳助らとともに、満韓利源調査委員として磁器の販路事情視察に出発した。現在の塩田の代表的な窯元は杉光貞雄、九田惣一(惣の弟)で、そのほか二、三戸がある。はじめは志田鉢などが主力で、壺・重箱・弁当箱も作られたが、今は火鉢・瓶掛に加え、食碗類が主となっている。

昭和二年(1927)冬、佐賀県会で懸案の窯業試験場設置が可決され、唐津の篤志家・高取家の寄付を得て、有田町に加えて塩田町にも分設することになり、昭和五年(1930)十一月二十五日に第二窯業試験場の落成式を挙行した。場長は第一窯業試験場長・大須賀眞蔵が兼務し、昭和七年(1932)からは元砥部工業学校長の重富英が専任場長として赴任した(英は昭和九年〔1934〕五月十日、五十歳で没)。

昭和六年(1931)九月十一日、藤津郡陶磁器工業組合が創立され、同年十二月二十六日、当地の杉光貞雄(和三郎の子)が選ばれて組合長となった。


【英語訳】[English translation]
At Fuyuno, traces suggest vegetation was burned as far back as the court era, and earthenware recently unearthed along the pond shore is thought to date back at least a millennium.

As for Shida Higashiyama: one tradition says Kumano ware began in the Meireki era (1655–1658) when descendants of Koreans came and made pottery. Yet, since Lord Nabeshima Naozumi shifted the Gotōda pottery to this area, its origin should be placed earlier, in the Jōō era (1652–1655). Finds from old kiln sites include plates and bowls with amber or gray glazes and fine Mishima-style large dishes—evidence suggesting that even before then, Koreans or their descendants were already making pottery here. The “Kuma-yaki” of that time later came to be known as Shida Higashiyama ware.

Shida Nishiyama branched off from Higashiyama in the Genroku era (1688–1704), and in Higashiyama it was also called “Arayama” (the new hill). Old pieces from Nishiyama—such as eight-sun bottles with chestnut-brown glaze and white slip with the lower body unglazed, and large tea bowls with amber glaze—show that alongside porcelain a portion of stoneware (“kuro-mono”) was produced. In the Kansei era (1789–1801), all three—East, West, and South hills—improved their white porcelain by adding Amakusa stone to the customary Yoshida stone; but in the Tenpō era (1831–1845), overproduction choked off markets and all declined.

At that time Urakawa Yoemon (father of Teiju) of Nishiyama strove for recovery; Lord Un-sō (Nabeshima Nao’oki) lent funds and supplied firewood, enabling revival.

After 1877, stencil-printed underglaze blue was used to mass-produce pressed dishes—nine-sun, one-shaku, one-shaku-one-sun, one-shaku-two-sun—collectively called “Shida bowls.” Bento and tiered boxes were also made in quantity.

Urakawa Shunzō, formerly a Hasuike retainer, devoted himself to Nishiyama’s development, managing the business; he died on October 26, 1926, aged 74 (father of former Great Court of Judicature prosecutor Urakawa Tadazō).

Among Nishiyama’s decorators, Eguchi Matsubei—art name Gakai—was a noted master skilled in painting, sculpture, and seal engraving; after long service at Arita’s Kōransha, he died in March 1883 at 71. From Kuma village, Urakawa Goroku (Yorishige), art name Gokei, together with his brother Kinsui, were celebrated ceramic painters; Gokei died in February 1894.

In 1889 the Fujitsu-gun Porcelain Joint-Stock Company was organized with Tominaga Genroku of Uchino-yama as president. In 1909, Shida Tōjiki Co., Ltd. was established at Nishiyama with capital of 30,000 yen (now 150,000); Noda Uirino of Ueno, Kishima-gun, became president. During the Taishō-era boom for Korean markets, this district also achieved substantial output.

Kamikuma ware began with porcelain, but traded at about 75% of Shida’s price level. Some ten-plus years ago Kumano Tōki Co., Ltd. was founded with Hirano Jūhachi as president, but it has since been dissolved and he now operates privately; only two or three kilns remain. Shida Higashiyama once had over ten kilns but is now extinct; in Nishiyama, besides Shida Tōjiki, two or three operations continue.

Current products are chiefly kettle stands and hibachi; the body uses only Amakusa stone. In the heyday of the three Kuma hills, annual output reportedly exceeded 400,000 yen; today it is said to be around 120,000–130,000 yen.

Shiota town—once the fief of Hara Bungonokami Naouji (Jūrōgorō) under the Ryūzōji—became Nabeshima land and from 1637 Hasuike territory. In the Kyōhō era (1716–1736), descendants of Koreans opened a kiln at Kamifuku, making porcelain after Arita with raw materials from Saga-go Imayama; it was also called “Kayadoko-yaki.” Surviving pieces are not pure white but show red overglaze on bluish bodies—slim-necked sake bottles painted with Genroku-style theatrical figures—and oil bottles with similar red designs, all with a classical glaze character.

At the time, Nishi Jihei (ancestor of Kajirō), posted here on official duty by the Saga domain, admired Kamifuku porcelain and reported it. Since red overglaze was a secret technique of Arita Sarayama, production elsewhere was deemed improper, and Kamifuku ware was ordered to cease.

Later, Amakusa stone use flourished. Raw stone crossed the Hayasaki strait by coaster, came up the Ariake Sea, and was unloaded by ascending the Shiota River. Riverside sites such as Gotōda, Shikinami, and Ōkusano had excellent water power; stamp-mill waterwheels pulverized the stone, with about 10% Yoshida stone added to lower the firing temperature.

Thus Shiota served as a key transit point for Amakusa stone, supplying raw material to the kiln districts. Over fifty years ago Kamachi Teishichi (Tsurutarō) again made porcelain here; in 1885 Nishi Kajirō (father of Hikosaku; later head of the local pottery guild) took underglaze blue tiered boxes and attempted to open markets from Singapore to the Ban-ya area of Siam. But insect motifs in the designs conflicted with religious sensibilities there, and the effort unfortunately failed.

In 1887 Maruta Kengurō and his son Sōhei of Arita Kamikōhei also produced here. In 1889 Nishi Kajirō, as vice-chair of the Saga Prefectural Ceramic Industry Union (then chaired by Arita’s Hirabayashi Ihei), traveled again to promote sales in India (Bombay). In 1892 he went to Vladivostok to sell items such as krushka (thick-handled mugs), and in 1895 journeyed into Siberia. He died on May 10, 1920, aged 71.

On September 23, 1906, Fuchi Saburō (elder brother of Sugimitsu Wasaburō) of this area departed with Diet member Kawahara Shinsuke (elected from Higashi/Nishi-Matsuura) and Arita potter Matsuo Tokusuke as members of the “Man-Kan Resource Survey Committee” to inspect ceramic markets. Today Shiota’s representative kilns are Sugimitsu Sadao and Kuta Sōichi (younger brother of Sō), along with two or three others. Initially Shida bowls and the like were main products, plus jars, tiered boxes, and bento boxes; now hibachi, kettle stands, and table bowls form the core.

In winter 1927 the Saga prefectural assembly approved the long-pending plan for a ceramics testing station. With donations from the philanthropic Takatori family of Karatsu, a branch was added at Shiota alongside Arita; on November 25, 1930, the Second Ceramics Testing Station held its opening ceremony. Ōsuga Shinzō, head of the First Station, served concurrently; from 1932 Shigetomi Ei, former principal of Tobe Industrial School, became full-time director (he died on May 10, 1934, aged 50).

On September 11, 1931, the Fujitsu-gun Ceramics Industrial Association was founded; on December 26 that year, Sugimitsu Sadao (son of Wasaburō) of this town was elected chairman.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
冬野自王朝时代起即见焚烧植物的痕迹,近年在冬野池畔亦出土陶器,被认为至少距今一千年。

关于志田东山,久间之创始相传为明历年间(1655–1658)韩人后裔来此制陶。然而参照藩祖鍋島直澄将五丁田陶业移至此地的事实,应更上溯至承应年间(1652–1655)。古窑遗物有施飴釉、灰釉的盘与茶碗,以及优良的三岛手大盘,由此推测此前韩人或其后裔已在此制陶。彼时所谓“久间烧”,即后来之志田东山烧。

志田西山在元禄年间(1688–1704)自东山分窑,东山亦称其为“新山”。其遗品如栗色釉配白化妆、腰以下无釉的八寸德利,及飴釉大茶碗,显示除瓷器外亦并行烧造部分黑陶。至宽政期(1789–1801),东、西、南诸山在原用吉田石基础上掺入天草石,白瓷面貌一新;然天保期(1831–1845)因产能过剩、销路受阻而俱衰。

其时西山之浦川与右工门(貞壽之父)竭力复兴,藩主雲叟(鍋島直興)贷资给薪,方得渐复。

明治十年以后,采用纸模捺染的染付,九寸、尺、尺一、尺二等压模盘盛行,称“志田钵”。并大量制作便当盒、重箱。

致力于西山制陶发展的浦川俊藏,原为蓮池藩士,从事此业,1926年10月26日卒,享年74(前大审院检察官浦川忠藏之父)。

西山陶画师有名工江口松兵卫,号“呉岳”,工绘画、雕刻、篆刻,久任有田香兰社,1883年3月卒,享年71。久间村仁平之子浦川军六(赖重,号“呉溪”)与弟锦水皆为陶画名手;呉溪于1894年2月卒。

1889年设藤津郡陶瓷股份公司,内野山富永源六任社长。1909年西山成立志田陶瓷株式会社(资本三万元,今为十五万元),杵岛郡上野野田卯入之就任社长。大正期对朝鲜出口景气时,此地亦产量颇巨。

上久间烧虽开制瓷,交易价仅为志田烧七成五。十余年前创立久间陶器株式会社,平野重八任社长,今已解散,彼以个人经营,尚存二三户。志田东山昔有十数户,今全废;西山除志田陶瓷公司外尚有二三户。

现今产品以瓶挂、火钵为主,坯体仅用天草石。昔日久间三山景气时年产据称四十余万元,今仅十二三万元。

盐田町旧为龙造寺旗下原豊後守尚家(十郎五郎)知行百五十町之地,后属鍋島,1637年改隶蓮池。享保期(1716–1736)韩人后裔在上福开窑,以佐贺乡今山原料仿有田制瓷,亦称“窑床烧”。现存器虽不纯白,然青胎施赤绘,描元禄戏曲人物之细口德利及同纹油瓶,釉色古雅。

其时佐嘉藩役吏西次平(嘉次郎之祖)见上福瓷器上报。因赤绘为有田皿山秘业,他处擅制不当,上福烧遂被禁止。

其后天草石盛行,原石以和船越早崎海峡,经有明海溯盐田川登陆。五丁田、敷浪、大草野等沿河地水利便,利用冲杵式水车粉碎,掺入一成左右吉田石以降低烧成温度。

于是盐田成为天草石舟运要地与各陶山的原料供应枢纽。五十余年前蒲地定七(鹤太郎)复于此制瓷;1885年西嘉次郎(彦作之父、后任制陶组合长)携染付重箱,试拓自新嘉坡至暹罗磐谷等地之销路,但器上昆虫纹样为当地宗教所忌,惜败。

1887年有田上幸平之丸田權九郎父子亦来制陶。1889年西嘉次郎以佐贺县陶瓷业组合副长(时任组合长为有田平林伊平)再赴印度盂买推销;1892年至露领浦塩斯徳售“クルシカ”(厚手有柄杯)等;1895年复赴西伯利亚,1920年5月10日卒,享年71。

1906年9月23日,当地淵三郎(杉光和三郎之兄)与东西松浦郡代议士川原茂辅、有田窑元松尾德助等为“满韩利源调查委员会”成员,出发视察瓷器市场。今盐田代表窑元为杉光貞雄、九田惣一(惣之弟),另有二三户。初以志田钵为主,兼作壶、重箱、便当;今以火钵、瓶挂及食碗为主。

1927年冬,佐贺县会决定设窑业试验场,蒙唐津高取家捐资,于有田外在盐田分设,1930年11月25日举行第二窑业试验场落成。场长由第一试验场长大须贺眞藏兼任;1932年起由前砥部工业学校长重富英专任(英于1934年5月10日卒,享年50)。

1931年9月11日,藤津郡陶瓷工业组合成立;同年12月26日,当地杉光貞雄(和三郎之子)当选组合长。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
冬野自王朝時代起即見焚燒植物之跡,近年於冬野池畔亦出土陶器,推定至少千年之前。

關於志田東山,久間之創始相傳為明曆年間(1655–1658)韓人後裔來此制陶。然而參照藩祖鍋島直澄將五丁田陶業移至此地之事,宜更上溯至承應年間(1652–1655)。古窯遺物有施飴釉、灰釉之盤與茶碗,及優良三島手大盤,據此可推韓人或其後裔此前已在此制陶。當時所謂「久間燒」,即後之志田東山燒。

志田西山於元祿年間(1688–1704)自東山分窯,東山亦稱之為「新山」。其遺品如栗色釉配白化妝、腰下無釉之八寸德利,及飴釉大茶碗,顯示除瓷器外並行燒造部分黑陶。至寬政期(1789–1801),東、西、南諸山在原用吉田石基礎上摻入天草石,白瓷面貌一新;然天保期(1831–1845)因產能過剩、銷路受阻而俱衰。

其時西山之浦川與右工門(貞壽之父)力圖復興,藩主雲叟(鍋島直興)貸資給薪,方得漸復。

明治十年以後,採用紙模捺染之染付,九寸、尺、尺一、尺二等壓模盤盛行,稱「志田鉢」。並大量製作便當盒、重箱。

致力於西山製陶發展者為浦川俊藏,原蓮池藩士,經營斯業,1926年10月26日卒,享年74(前大審院檢事浦川忠藏之父)。

西山陶畫師有名工江口松兵衛,號「呉岳」,工繪畫、雕刻、篆刻,久任有田香蘭社,1883年3月卒,享年71。久間村仁平之子浦川軍六(賴重,號「呉溪」)與弟錦水皆陶畫名手;呉溪於1894年2月卒。

1889年設藤津郡陶瓷股份公司,內野山富永源六任社長。1909年西山成立志田陶瓷株式會社(資本三萬元,今為十五萬元),杵島郡上野野田卯入之就任社長。大正期對朝鮮輸出景氣時,此地亦產量頗巨。

上久間燒雖啟制瓷,交易價僅為志田燒七成五。十餘年前創立久間陶器株式會社,平野重八任社長,今已解散,彼以個人經營,尚存二三戶。志田東山昔有十數戶,今全廢;西山除志田陶瓷公司外尚有二三戶。

現今製品以瓶掛、火鉢為主,坯體僅用天草石。昔日久間三山景氣時年產稱四十餘萬元,今僅十二三萬元。

鹽田町舊為龍造寺旗下原豐後守尚家(十郎五郎)知行百五十町之地,後屬鍋島,1637年改隸蓮池。享保期(1716–1736)韓人後裔於上福開窯,以佐賀鄉今山原料仿有田製瓷,亦稱「窯床燒」。現存器雖不純白,然青胎施赤繪,描元祿戲曲人物之細口德利及同紋油瓶,釉色古雅。

其時佐嘉藩役吏西次平(嘉次郎之祖)見上福瓷器上報。以赤繪為有田皿山秘業,他所擅製不當,上福燒遂被禁止。

其後天草石盛行,原石以和船越早崎海峽,經有明海溯鹽田川登陸。五丁田、敷浪、大草野等沿河地水利便,利用沖杵式水車粉碎,摻入一成左右吉田石以降低燒成溫度。

於是鹽田成為天草石舟運要地與諸陶山原料供應樞紐。五十餘年前蒲地定七(鶴太郎)復於此制瓷;1885年西嘉次郎(彦作之父、後任製陶組合長)攜染付重箱,試拓自新嘉坡至暹羅磐谷等地之銷路,惟器上昆蟲紋樣為當地宗教所忌,惜敗。

1887年有田上幸平之丸田權九郎父子亦來製陶。1889年西嘉次郎以佐賀縣陶瓷業組合副長(時任組合長為有田平林伊平)再赴印度盂買推銷;1892年至露領浦鹽斯德售「クルシカ」(厚手有柄杯)等;1895年復赴西伯利亞,1920年5月10日卒,享年71。

1906年9月23日,當地淵三郎(杉光和三郎之兄)與東西松浦郡代議士川原茂輔、有田窯元松尾德助等為「滿韓利源調查委員」成員,出發視察瓷器市場。今鹽田代表窯元為杉光貞雄、九田惣一(惣之弟),另有二三戶。初以志田鉢為主,兼作壺、重箱、便當;今以火鉢、瓶掛及食碗為主。

1927年冬,佐賀縣會決定設窯業試驗場,蒙唐津高取家捐資,於有田外在鹽田分設,1930年11月25日舉行第二窯業試驗場落成。場長由第一試驗場長大須賀眞藏兼任;1932年起由前砥部工業學校長重富英專任(英於1934年5月10日卒,享年50)。

1931年9月11日,藤津郡陶瓷工業組合成立;同年12月26日,當地杉光貞雄(和三郎之子)當選組合長。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
冬野处自宫廷时代即有焚烧植被之迹;池畔近年出土的陶器,年代推定至少千年。

志田东山:相传明历(1655–1658)韩人后裔来制陶,但因鍋島直澄将五丁田陶业迁来,其起始应更早至承应(1652–1655)。旧窑出土有飴釉、灰釉盘碗与上佳“三岛手”大盘,说明更早已有韩人或其后裔制陶;彼时“久间烧”即后来的志田东山烧。

志田西山由东山在元禄(1688–1704)分出,亦称“新山”。遗品显示除瓷外并制黑陶。宽政(1789–1801)起加用天草石,白瓷焕然;至天保(1831–1845)因过剩而式微。其间浦川与右工门力图复兴,藩主雲叟资助薪资得以复起。

1877年后以纸模捺染之青花大量压模皿(九寸至一尺二寸)——“志田钵”——并制便当、重箱。浦川俊藏(前大审院检察官浦川忠藏之父)致力其业,1926年卒。

装饰名工江口松兵卫(号呉岳)久在香兰社,1883年卒;浦川军六(号呉溪)与弟锦水亦名手,1894年卒。

1889年设藤津郡陶瓷公司;1909年设志田陶瓷株式会社,野田卯入之为社长;大正期对朝鲜出口旺盛。上久间烧价格仅及志田七成五;久间陶器公司已解散,今仅二三窑存。东山灭绝,西山除公司外尚二三家。

今以瓶挂、火钵为主,仅用天草石;昔年年产四十余万元,今约十二三万元。

盐田町旧属龙造寺,后属鍋島,1637年归蓮池。享保期上福开窑仿有田,称“窑床烧”,存器青胎施赤绘,绘元禄人物,釉色古雅。后因赤绘属有田秘技,上福烧被禁。

其后天草石舟运至盐田,沿河诸地以水车粉碎,掺一成吉田石降温。盐田遂为原料枢纽。五十余年前蒲地定七复制瓷;1885年西嘉次郎携染付重箱拓销新加坡与暹罗,因昆虫纹样触犯宗教而败。1887年丸田權九郎父子来制陶;1889年西嘉次郎以副长赴印度盂买;1892年至浦盐斯德售“krushka”杯;1895年至西伯利亚;1920年卒。

1906年,淵三郎与川原茂辅、松尾德助赴满韩考察。今代表窑为杉光貞雄、九田惣一,另二三家;先制志田钵、壶、重箱、便当,今以火钵、瓶挂、食碗为主。

1927年冬决定设窑业试验场,受高取家捐资,于盐田设分场;1930年11月25日开幕。大须贺眞藏兼任场长,1932年重富英专任(1934年卒)。1931年9月11日成立藤津郡陶瓷工业组合,12月26日杉光貞雄任会长。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
冬野自宮廷時代即有焚燒植被之跡;池畔近年出土陶器,推定至少千年。

志田東山:相傳明曆(1655–1658)韓人後裔來製陶,惟因鍋島直澄移五丁田陶業於此,起始應更早至承應(1652–1655)。舊窯出土有飴釉、灰釉盤碗與優良三島手大盤,示更早已有韓人或其後裔製陶;當時「久間燒」即後來之志田東山燒。

志田西山由東山於元祿(1688–1704)分出,亦稱「新山」。遺品示除瓷外亦製黑陶。寬政(1789–1801)起加用天草石,白瓷煥然;天保(1831–1845)因過剩而衰。其間浦川與右工門力圖復興,藩主雲叟資薪相助而復起。

1877年後以紙模捺染之青花大量壓模皿(九寸至一尺二寸)——「志田鉢」——並製便當、重箱。浦川俊藏(前大審院檢事浦川忠藏之父)致力其業,1926年卒。

裝飾名工江口松兵衛(號呉岳)久在香蘭社,1883年卒;浦川軍六(號呉溪)與弟錦水亦名手,1894年卒。

1889年設藤津郡陶瓷公司;1909年設志田陶瓷株式會社,野田卯入之為社長;大正期對朝鮮輸出旺盛。上久間燒價格僅及志田七成五;久間陶器公司已解散,今僅二三窯存。東山絕跡,西山除公司外尚二三家。

今以瓶掛、火鉢為主,僅用天草石;昔年年產四十餘萬元,今約十二三萬元。

鹽田町舊屬龍造寺,後屬鍋島,1637年歸蓮池。享保期上福開窯仿有田,稱「窯床燒」,存器青胎施赤繪,繪元祿人物,釉色古雅。後以赤繪為有田祕技,上福燒被禁。

其後天草石舟運至鹽田,沿河諸地以水車粉碎,摻一成吉田石降溫。鹽田遂為原料樞紐。五十餘年前蒲地定七復製瓷;1885年西嘉次郎攜染付重箱拓銷新嘉坡與暹羅,因昆蟲紋觸宗教而敗。1887年丸田權九郎父子來製陶;1889年西嘉次郎以副長赴印度盂買;1892年至浦鹽斯德售「krushka」杯;1895年至西伯利亞;1920年卒。

1906年,淵三郎與川原茂輔、松尾德助赴滿韓考察。今代表窯為杉光貞雄、九田惣一,另二三家;先製志田鉢、壺、重箱、便當,今以火鉢、瓶掛、食碗為主。

1927年冬決議設窯業試驗場,受高取家捐資,於鹽田設分場;1930年11月25日落成。大須賀眞藏兼任場長,1932年重富英專任(1934年卒)。1931年9月11日成立藤津郡陶瓷工業組合,12月26日杉光貞雄任會長。