伊万里焼衰退の複合要因

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肥前の陶磁器、特に伊万里焼(伊万里港を経由して搬出された肥前磁器の汎称)は、主に流通経路の変化、経済状況の悪化、社会・政治的変革、そして災害といった複合的な要因によって、その繁栄に陰りが見え、衰退へと向かいました

以下に主な衰退の理由を詳述します。

1. 流通・販売経路の変化による伊万里港の役割の低下

  • かつての伊万里港の重要性: 明治30年頃まで、伊万里は有田内外の窯元が生産した陶磁器の主要な集積地であり、仲買商人は伊万里の問屋を介して全国の顧客と取引を行っていました。この時代、まだ白磁(磁器)の生産が他地域で進んでいなかったため、「伊万里焼」という名称が磁器全体の代名詞となるほど、その地位は確立されていました。
  • 鉄道開通による直接取引の増加: しかし、明治後期に長崎線が有田皿山まで開通すると、地方からの仕入れ客は直接有田の産地へ訪れるようになり、伊万里港を経由する必要がなくなりました。また、有田地元の仲買商も汽車を利用して直接県外へ販路を開拓し、主要都市に支店を設けて直接販売を試みるようになりました。
  • 伊万里陶器街の衰退: これらの流通・販売経路の変化により、かつて繁栄を極めた伊万里の陶器街は「全くうち疲れ」、その衰退は「時勢の変遷として是非もない」現象であったと記されています。伊万里港も陶磁器輸送の便宜を失い、従来の和船積み輸送が困難になったことが、伊万里から積み出されていた椎の峰の陶器の販路減少につながったとも述べられています。

2. 経済状況の悪化と市場の変化

  • 世界経済の影響: ヨーロッパ大戦後の経済恐慌に伴う世界的な不況は、肥前全体の陶業に大きな影響を与えました。多くの陶家が休業に追い込まれ、失業者や破産する商人が増加しました。これは、欧州大戦後の不健全な企業機構の欠陥が世界的に波及した結果とされています。
  • 需要の変化: 朝鮮向け日用品の需要にも変化が見られました。朝鮮人の生活水準向上と日本文化との接触により、従来の伝統的な飯碗(サパル)や汁碗(テイチョープ)の需要が減少し、日本式の食器が好まれる傾向が生じました。このような市場の変化に対応するための製品開発や戦略の変更が求められました。
  • 品質と価格の下落: 椎の峰の陶器の例では、価格とともに作風も漸次下落したとされており、品質の低下が競争力の喪失につながった可能性も示唆されます。

3. 社会・政治的変革と保護体制の崩壊

  • 明治維新と藩の保護喪失: 明治維新に伴う廃藩置県(明治4年7月)は、窯業を直営したり手厚く保護したりしていた藩の体制を崩壊させました。藩からの手厚い保護を受けていた窯元や職人たちは、これにより大きな打撃を受けました。
  • 大川内山の藩窯解散: 特に、鍋島藩の御用窯であった大川内山の藩窯が解散された際には(明治4年頃)、31人の職工が士族に編入されたものの、その後の生活は困窮し、職人たちは各地に離散せざるを得ませんでした(「大川内崩れ」)。これは、高度な技術を持った職人の流出と生産体制の混乱を招き、肥前磁器の質と生産量に影響を与えました。
  • 資金繰りの問題: 藩からの借入金も新政府に継承されましたが、未返済者が多く存在し、これが陶業者の資金繰りに影響を与えた可能性も指摘されています。

4. 災害の影響

  • 天保飢饉時の大火: 天保飢饉(1833-1839年頃)の際に有田皿山が大火に見舞われ、その繁華な焼物町は「全くの烏有に帰し」ほぼ全焼しました。これにより、数千人の窮民が生じ、多くの職工が地方の各山へ移転せざるを得ませんでした。この大火は、伊万里焼として流通する肥前磁器の生産体制に甚大な被害を与え、一時的な生産能力の低下を招いたと考えられます。
  • その他の自然災害: 大正15年の大旋風が吉田山の陶業に大きな損害を与えた事例も記されており、自然災害も陶業に打撃を与え得る要因でした。

これらの複合的な要因が絡み合い、伊万里焼(肥前磁器)は、かつて世界に誇る名声を確立していたにもかかわらず、その生産と流通のあり方を大きく変え、その地位を変化させていったと考えられます。