【原文】
後堀河天皇の貞應二年四月(1223年)、深草の陶工加藤四郎左工門景正なる者ありて、越前國永平寺の開祖道元禪師(承陽大師建長五年八月二十八日寂五十四才)の入宋に從ひ天童山に至り、そして其附近の陶窯 (南方九江邊或は舟山列島の舟山窯又は寧波の象窯など諸説あり)に於いて施釉の陶技を學び、六年目なる安貞二年三月(1229年)に至つて帰朝した。
之より彼は良質の陶土を求めつゝ、堺の陶村、近江の信樂、伊勢の桑名、尾張の半田及末森等に試焼すること十四年を経て、四條天皇の仁治三年(1242年)尾張國瀬戸村に於て、祖母懐の土─祖母懐(紅色の木節土)を使用せるを見て大いに喜び、此處の馬ヶ城、小曾根、椿等に開窯し堅緻なる施釉陶を製作した。其種類は塩壺、佛具の花立、おろし目、小鉢、瓶子形の神酒瓶、及び大小の皿、甕等なりしが、晩年に及んで肩附の茶入を製せしといはれてゐる。而して景正が此處に開窯せしより今年まで實に六百九十四年を経たのである。
建盞天目釉
中にも従来の鉛色及褐色又は緑色等の釉陶の外に始めて建盞天目(鐡料に依る黒き着色釉、建盞は後漢の獻帝の年號にて我仲哀天皇の朝である)の施釉物を製作した。蓋し天目とは宋の天目山に留學せし我邦の禪僧が持帰りし黒手の下手物茶碗ありしを、其釉色が珍重されて茶家の間に大に流行するに至りしものである。そして此景正時代の作品が後世に愛翫さるゝところの古瀬戸である。
瀬戸物の汎稱
此頃まで陶器なる物は、概ね貴族及富豪の器具として専有されし觀ありしも、後世瀬戸の製陶彌盛なるに及び、之より廣く民間に使用され、後には關東地方に於いて焼物を汎稱して瀬戸物といふに至り。景正は此地の深川神社の境内に陶彥社として祭祀された。而して瀬戸の發展は今や市制が布かるゝに至ったのである。
藤四郎
加藤四郎左工門氏名を略稱して藤四郎といひ、後年春慶と號した。元大和國諸輪の庄道蔭村の人左工門督基連(或は橘基安とも)の男にて、母は深草の人平道風の女と言傳へらる。嘗て大納言久我通親に仕へしが、致仕して深草に製陶せる折、適々僧道元が通親の次子なる縁故を以つて彼の入朱に從ひ得たのである。斯くて弘安七年三月十九日(1284年)八十二才を以つて卒去せしといはれ、明治三十九年十一月十八日特旨を以って正五位を贈られたのである。
沾酒禁制令
後深草天皇の朝に至り、財力欠乏せる北條氏の政策は勤儉質素を超越して、彼の青砥藤綱が滑川の錢拾ひにまで脱線せる程なりしが途に建長四年九月三十日(1252年)、沾酒禁制をして一戸一壺を限り、其他の酒壺の悉くを破壊せしめたるもの鎌倉のみにても三萬七千二百七十四個と註せる。若しそれ全國に涉つては如何に其多数なしかを推して知る可く、之が爲に陶壺の製作上一大打撃を蒙ったのである。
黄瀬戸
亀山天皇の文永年間(1264-1275年)、景正二世加藤藤九郎基通は、猫田、板谷、南洞の各窯に製陶し、青磁の粗製なる黄瀬戸といへる頗る日本化せし雅品を製作した。之が世にいふ真中古と稱する名物である。(寛永年間幕府の醫員曾谷伯庵黄瀬戸の茶盤を秘藏す、時人之を賞して當時又製作せし同種にも伯庵と稱するに至つた)
信楽焼
後宇多天皇の弘安二年(1289年)、近江國長野村(甲賀郡)に信楽焼が創製された。多く農家の種壺又種浸壺にて質頗る堅く、重に黄赤色釉の上に淡青の斑釉透を施せしものを良品とせられ、此時代の製品が所謂古信楽と稱する物である。
金華山焼
後伏見天皇の永仁年間(1293-1299年)、景正三世加藤藤五郎景國が茨迫間、古林、反の各窯にて製せしものが後世中古焼とせらる。又美濃國金華山(厚見郡稻葉山)の土を瀬戸に運びて金華山焼を創製した。それは茶褐色の施釉に斑の黒色釉を施せしものである。
經正の失敗
同朝の正安年間(1299-1302年)、僧經正製陶に委はしと稱し、法を深草の瓦工に授けて一種の陶器を焼かしめしが、火力の調度と法を詳にせざりし爲め多く器を成さなかつたのである。
丸柱焼
後醍醐天皇の建武年間(1334-1338年)、伊賀國に丸柱焼(阿拜郡今の阿山郡)が創製された。或は天平寶宇年間(757-765年)の創始なりしも中絶せしといはれてゐる釉色は青黄又は純白にて偶々赤釉を施されしものがあり、或は自然の吹出し釉に雅致を生じ、又談青釉を厚く施されしが高火度にて黒色に焦げたる石器特に珍重され、之等を古伊賀稱せられた。
(天正年間新二郎といへる名手があつた。後年藤堂和泉守高虎「寛永七年(1630年)十月十五日卒七十五才」伊賀を領するに及び、京都の陶工孫兵衛、傳藏を招きて作らしめしものを藤堂伊賀と稱せられ、寛永年間(1624-1645年)小堀遠江守政一此地の陶工に意匠を授けて茶器を造らしめしが、其器薄うして質又潤であり之が遠州伊賀させられてゐる)
破風手
同建武年間(1334-1338年)景正四世の名工、加藤藤三郎政連破風手の茶壺を創製した。其器埀下せる釉藥が遍く高臺に及ばずして地質を露はす形が山狀をなし、又恰も家屋の破風のさまを成せるより其名がある。釉は茶褐色にて其上に黄色を施してあり、或は割胡桃を押印しものがある。此外に澁紙手なる名物があり、其に後世之をも中古焼と稱せらる。
吉野朝時代=之より南北朝時代となりて戦亂相尋いで起り、九州は北部邊海の土民武装して韓土を脅す者絶えず、高麗國は使を派して倭冠の禁を乞ふこと屢なりしが、後亀山天皇の元中九年(1392年)七月高麗國亡びて李朝の統世となり、此間我が製陶史上特に記す可き事項もなかつた。
室町足利時代=伊部焼復興
後小松天皇の朝に至り、南北朝の合一成って天下漸く鎮静するに及び、應永年間(1394-1428年)備前國に忌部焼(和氣郡)が復興された。此地も忌瓷を製せしより忌部焼と稱せしも、後年伊部(又印部)の字に改められた。製品は種壺、種浸の如き農具を製せしが又花瓶、酒壺を造り、天正頃より茶器を製作した。此處の古備前焼には火襷、松葉焦、榎肌なる名品がある。
(後年又茶褐色の釉に更に黄色の濃釉を撒したるものに胡摩藥と稱する種類が製せられたのである)
七官青瓷の渡来
此頃明との交通頻繁となり、同朝の應永十年(1403年)八月三日、彼國の僧岐陽貢物とし詩四書及陶器數品を貢献せしが、此時彼の七官手青瓷なるもの始めて渡來した。そして將軍足利義持(落飾して道詮と號す正長元年(1428年)正月十八日卒四十三才)北山亭に於いて盛んに明使を饗應せしものである。蓋し七官手とは、彼國第七の位階ある官人の乗船にて渡來せしを以て名つけられしものにて、之を古渡りと稱賞し、天正、文祿年間の渡来品を中渡りと云ひ、延寶頃の渡来品を後渡り又新渡りと唱へられてゐる。
相阿彌能阿彌珠光
後花園天皇の朝となり、將軍足利義政(落飾して道顧又道慶と號す延徳二年(1490年)正月七日卒五十六才)の侍臣相阿彌(中尾氏名は眞相號は鑑岳又松雪齋と稱す銀閣寺の造庭者)頗る古器の鑑識に富めるより珍器奇什を奨め。又南都の僧能阿彌(中尾氏名は眞能鷗齋又春鷗齋と號す周文門下の畫家)は點茶に精通し、唐宋の茶法を改良して始めて茶の湯の式を定めたのである。
之より村田珠光(通稱茂吉別號は獨盧又香庵南星といふ一休の門人文亀二年(1502年)五月十五日卒す八十一才)の如き茶匠輩出して斯道の流行は茶器の愛翫となり。斯くて驕奢なる義政が華美艶麗なる趣味と簡素なる茶道趣味とは、當時の工藝界に大なる變化を来たすに至った。
【現代語訳】
鎌倉北条時代、加藤景正について。
後堀河天皇の貞応二年(1223年)、深草の陶工・加藤四郎左衛門景正は、越前国永平寺の開祖である道元禅師(承陽大師、建長五年に五十四歳で入寂)の入宋に従い、中国の天童山へ渡った。そしてその近隣の陶窯(南方九江辺、舟山列島の舟山窯、または寧波の象窯など諸説がある)で施釉の陶技を学び、六年後の安貞二年(1229年)に帰国した。
帰国後、景正は良質の陶土を求めて堺・信楽・桑名・尾張半田・末森などで十四年間試焼を重ね、四条天皇仁治三年(1242年)、尾張国瀬戸村で「祖母懐」と呼ばれる赤みのある木節土を見つけて大いに喜び、馬ヶ城・小曾根・椿などで窯を開いた。そして堅牢で緻密な施釉陶を製作した。主な製品は塩壺、仏具の花立、すり鉢、小鉢、瓶子形の神酒瓶、大小の皿や甕であったが、晩年には肩付きの茶入も作ったと伝わる。景正の開窯から今日まで実に694年が経過している。
景正は従来の鉛色・褐色・緑色の陶器に加え、初めて「建盞天目釉」(鉄分による黒色の釉薬)を施した器を作った。天目とは宋の天目山に留学した禅僧が持ち帰った黒釉茶碗で、その釉色が珍重され茶人の間に流行したものである。この景正の時代の作品が、後世「古瀬戸」と呼ばれ愛好された。
陶器は当初、貴族や富豪の専有品であったが、瀬戸の陶業が盛んになると広く民間でも用いられるようになった。やがて関東地方では焼物を「瀬戸物」と総称するに至った。景正は深川神社の境内に「陶彦社」として祀られ、瀬戸の発展はやがて市制施行に至るほどとなった。
加藤四郎左衛門は略して「藤四郎」と呼ばれ、のち「春慶」と号した。大和国諸輪庄道蔭村の出身で、父は左衛門督基連(または橘基安とも伝わる)、母は深草の平道風の娘とされる。大納言久我通親に仕えたが退官後に深草で製陶をしていた折、通親の子であった道元との縁で渡宋に従うことができた。弘安七年(1284年)に八十二歳で没し、明治三十九年(1906年)に正五位が追贈された。
後深草天皇の建長四年(1252年)、北条氏の倹約政策の一環として「沾酒禁制令」が出され、一戸につき一壺を限り、それ以外の酒壺は破壊された。その数は鎌倉だけで三万七千二百七十四個にのぼった。全国規模では膨大な数であり、陶業に大打撃を与えた。
亀山天皇の文永年間(1264-1275年)、景正二世・加藤藤九郎基通は猫田・板谷・南洞の窯で製陶し、粗製ながら日本的な風格を持つ「黄瀬戸」を生み出した。これは「真中古」と呼ばれる名品である。寛永年間には医師・曽谷伯庵が黄瀬戸の茶盤を秘蔵し、その名声から同類の品を「伯庵」と称するに至った。
弘安二年(1289年)、近江国長野村で「信楽焼」が始まった。農家の種壺や浸種壺として作られ、堅牢で黄赤釉に淡青の斑釉がかかるものが良品とされ、これが「古信楽」と呼ばれる。
永仁年間(1293-1299年)、景正三世・加藤藤五郎景国は茨迫間・古林・反の窯で製陶し、後世「中古焼」と称された。また美濃の金華山の土を瀬戸に運び「金華山焼」を作った。これは茶褐色の釉に黒斑釉を施したものである。
正安年間(1299-1302年)、僧・経正が陶業を指導したが、火力や技法の不備で多くは失敗に終わった。
建武年間(1334-1338年)、伊賀国で「丸柱焼」が創始された。青黄や純白の釉、赤釉、自然釉などを特色とし、高温で黒く焦げた石器も珍重され「古伊賀」と呼ばれた。後年、藤堂高虎や小堀遠州の指導により「藤堂伊賀」「遠州伊賀」が生まれた。
同じく建武年間、景正四世・加藤藤三郎政連は「破風手」と呼ばれる茶壺を作った。釉が高台にかからず山形に残る姿からその名がある。ほかに「渋紙手」などもあり、これらは「中古焼」と称された。
吉野朝時代、南北朝の戦乱が続き、九州では倭寇が高麗を脅かし、高麗は倭寇禁制を求める使者を派遣した。だが元中九年(1392年)、高麗は滅び李氏朝鮮が成立した。この間、日本陶業に特筆すべき事はなかった。
室町足利時代、後小松天皇の時代に南北朝が統一され、応永年間(1394-1428年)、備前国で忌部焼が復興した。農具や壺を作り、やがて茶器も製作され、「古備前」と呼ばれる名品が生まれた。
応永十年(1403年)、明の僧・岐陽が四書と陶器を献じた際、七官手青磁が初めて渡来した。これを「古渡り」と称し、のち「中渡り」「後渡り」と区分された。
後花園天皇の時代、将軍足利義政の侍臣・相阿弥は古器鑑識に優れ、珍器を収集した。僧・能阿弥は点茶に精通し、唐宋の茶法を改良して茶の湯の式を定めた。さらに村田珠光らの茶匠が現れ、茶器の愛玩が盛んになった。義政の華美な趣味と簡素な茶道趣味が並立し、工芸界に大きな変化をもたらした。
【英語訳】
The Kamakura Hojo Period – Kato Kagemasa
In 1223 (Jōō 2), Kato Shirōzaemon Kagemasa, a potter from Fukakusa, accompanied the Zen master Dōgen, founder of Eiheiji in Echizen, on his journey to Song China. There, near Mount Tiantong (with theories pointing to kilns at Jiujiang, Zhoushan, or Xiang in Ningbo), he studied glazed ceramic techniques. After six years, he returned to Japan in 1229 (Antei 2).
Upon his return, he searched for fine clay and conducted trial firings in Sakai, Shigaraki, Kuwana, Handa, and Suemor i. After fourteen years of experimentation, in 1242 (Ninji 3), he discovered the red sobogai clay in Seto, Owari Province, and was delighted. He established kilns at Magajō, Ozone, and Tsubaki, producing durable glazed pottery. His wares included salt jars, Buddhist flower vases, graters, small bowls, sake flasks, dishes, and storage jars. Later in life, he also made tea caddies with distinctive shoulders. From his founding of Seto kilns, 694 years have passed to the present.
Among his innovations was the use of Tenmoku glaze, a black glaze derived from iron, in addition to conventional lead-colored, brown, and green glazes. The name Tenmoku comes from bowls brought back by Japanese Zen monks studying at Mount Tianmu in Song China. Their distinctive black glaze was treasured by tea masters, sparking a trend. The works from Kagemasa’s era became known as Ko-Seto (Old Seto), cherished in later generations.
Until then, ceramics had been mainly for aristocrats and wealthy families. With the flourishing of Seto ware, they spread widely among commoners. In the Kanto region, pottery came to be called simply “Setomono.” Kagemasa was enshrined at Fukagawa Shrine as “Suehiko,” and Seto grew into a major center, eventually becoming a city.
Kato Shirōzaemon was nicknamed “Tōshirō” and later took the name “Shunkei.” He was originally from Michikage Village in Yamato Province, son of Saemon no Kami Mototsura (or Tachibana no Motoyasu) and a mother from Fukakusa, said to be the daughter of Taira no Michikaze. He once served the court noble Koga Michichika, and through his connection with Michichika’s son Dōgen, he was able to travel to China. He died in 1284 (Kōan 7) at age 82. In 1906, he was posthumously awarded the Senior Fifth Rank of Honor.
In 1252 (Kenchō 4), during Emperor Go-Fukakusa’s reign, the Hōjō regency issued the “Sake Jar Restriction Decree.” It limited each household to one jar, with excess jars smashed—37,274 in Kamakura alone. Nationwide, the number would have been immense, dealing a major blow to ceramic production.
During the Bun’ei era (1264–1275), Kagemasa’s successor, Kato Tōkurō Motomichi, worked at the Nekoda, Itadani, and Nandō kilns, producing Ki-Seto (Yellow Seto), a rustic Japanese-style celadon regarded as an elegant masterpiece. This became famous as “Shinchūko” wares. In the Edo period, similar wares were known as “Bakuan” after the physician Soya Bakuan, who prized them.
In 1289 (Kōan 2), Shigaraki ware began in Nagano Village, Kōka District, Ōmi Province. These sturdy jars, used for seed storage and soaking, were often yellowish-red with patches of pale blue glaze. These early works are called “Old Shigaraki.”
In the Einin era (1293–1299), Kagemasa’s grandson Kato Tōgorō Kagenobu produced wares at Ibazama, Kobayashi, and Tano kilns, later called Chūko-yaki. He also transported clay from Mount Kinka in Mino to Seto, producing Kinka-zan ware, characterized by brown glaze with mottled black overglaze.
Around 1300, the monk Kyōshō attempted ceramic production but failed due to poor kiln control and technique.
In the Kenmu era (1334–1338), Marubashira ware was founded in Iga Province. Its glazes ranged from yellow-green to white, sometimes with red or natural ash effects. Heavily glazed pieces fired at high temperature turned black, highly prized as Old Iga. Later, under daimyō Tōdō Takatora and tea master Kobori Enshū, new styles emerged as Tōdō Iga and Enshū Iga.
Also in the Kenmu era, Kagemasa’s descendant Kato Tōsaburō Masatsura created Hafu-de tea jars. These featured glaze drips resembling the gables (hafu) of a roof. Other notable wares included Shibugamite. These, too, were called Chūko-yaki.
During the Nanbokuchō (Northern and Southern Courts) era, Japan was in turmoil, and pirates from Kyushu harassed Goryeo. In 1392, Goryeo fell and the Joseon dynasty was established, but no notable ceramic developments occurred in Japan during this time.
The Muromachi Ashikaga Period – Revival of Imbe Ware
Under Emperor Go-Komatsu, the reunification of the courts brought stability, and during the Ōei era (1394–1428), Imbe ware in Bizen Province was revived. Originally associated with ritual wares, Imbe (later written as “Ibe” or “Inbe”) produced agricultural jars, sake jars, flower vases, and eventually tea wares. Famous styles of Old Bizen include Hidasuki, Matsuba-koge, and Enohada.
Import of Shichikan Celadon
In 1403 (Ōei 10), the Chinese monk Jiyang presented books and ceramics, introducing Shichikan celadon to Japan. These were later classified as Ko-watari (old imports), followed by Chū-watari (mid imports, Tenshō–Bunroku era), and Ato-watari (later imports, Enpō era).
Sōami, Nōami, and Murata Jukō
During Emperor Go-Hanazono’s reign, Shogun Ashikaga Yoshimasa patronized art and tea. His retainer Sōami (Nakao clan, also known as Kankaku or Shōgetsusai, designer of Ginkaku-ji gardens) was a connoisseur of antique wares. The monk Nōami (Nakao clan, painter under Shūbun) refined tea practices and established the style of chanoyu. Murata Jukō, a disciple of Ikkyū, further developed the aesthetics of tea, combining simplicity with refined taste. Yoshimasa’s luxurious inclinations contrasted with the wabi ideals of tea, bringing profound change to Japanese arts and crafts.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】
镰仓北条时代,加藤景正。
1223年(贞应二年),深草陶工加藤四郎左卫门景正随同越前国永平寺开祖道元禅师入宋,至天童山,参学附近窑场(有说在九江边、舟山窑或宁波象窑),学习施釉陶艺。六年后的1229年(安贞二年)归国。
归国后,他遍寻良土,在堺、信乐、桑名、尾张半田、末森等地试烧十四年,1242年(仁治三年),于尾张国濑户村发现名为“祖母怀”的红色木节土,喜而开窑于马城、小曾根、椿等地,制成坚致的施釉陶。器类有盐壶、佛具花立、磨钵、小碗、瓶子形神酒瓶,以及皿与甕。晚年亦作肩付茶入。据传自其开窑至今已六百九十四年。
景正首制“建盏天目釉”,黑釉由铁分呈色。天目为宋代天目山僧传来的黑釉茶碗,其釉色珍贵,被茶家推崇流行。景正作品后称“古濑户”,世代珍玩。
陶器原为贵族富豪所用,自濑户陶盛行后,渐普及于民间。关东遂以“濑户物”泛指烧物。景正奉祀于深川神社陶彦社。濑户陶业兴盛,终成市制之地。
加藤四郎左卫门简称“藤四郎”,号“春庆”。本出大和国诸轮庄道蔭村,父基连(或橘基安),母为深草平道风之女。曾仕久我通亲,后辞归深草制陶,因通亲子道元之缘得随入宋。1284年卒,享年八十二。明治三十九年追赠正五位。
1252年(建长四年),后深草天皇时,北条氏为节财,下“沾酒禁制令”,一户限一壶,余皆毁之。仅镰仓毁三万七千二百七十四壶,全国更多,陶业受重挫。
文永年间(1264-1275年),景正二世加藤藤九郎基通制“黄濑户”,粗青瓷化日本风雅品,名“真中古”。寛永时医师曽谷伯庵藏黄濑户茶盘,时人称同类为“伯庵”。
1289年(弘安二年),近江长野村始制“信乐烧”,多作农家种壶、浸壶,坚硬,以黄赤釉上透淡青斑釉为佳,称“古信乐”。
永仁年间(1293-1299年),景正三世加藤藤五郎景国制“中古烧”,并以美浓金华山土运濑户,创“金华山烧”,褐釉施黑斑釉。
正安年间(1299-1302年),僧经正授陶法于深草瓦工,但因火候不足,多不成器。
建武年间(1334-1338年),伊贺国创“丸柱烧”,釉色青黄、纯白,或施赤釉,自然釉亦多,厚施青釉高温成黑色者尤珍,称“古伊贺”。后藤堂高虎、小堀远州助其制茶器,名“藤堂伊贺”“远州伊贺”。
同建武年间,加藤藤三郎政连制“破风手”茶壶,釉不到高台,露胎成山形如屋破风,釉色褐上施黄。又有“涩纸手”,皆称“中古烧”。
南北朝时,战乱频仍,倭寇扰高丽,1392年高丽亡,李氏朝鲜立,此间陶史无大事。
室町足利时,南北朝统一,1394-1428年应永年间,备前忌部烧复兴,制农具壶瓶,后制茶器,生“古备前”。名品有火襷、松叶焦、榎肌。
1403年,应永十年,明僧岐阳献陶器,七官手青瓷始来,称“古渡”。后有“中渡”“后渡”。
后花园天皇时,足利义政宠臣相阿弥鉴识古器,僧能阿弥改良点茶,立茶汤式。村田珠光出,茶器爱玩盛行。义政之华美与侘茶简素并存,工艺界大变。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】
鎌倉北條時代,加藤景正。
1223年(貞應二年),深草陶工加藤四郎左衛門景正隨同越前國永平寺開祖道元禪師入宋,至天童山,參學附近窯場(有說在九江邊、舟山窯或寧波象窯),學習施釉陶藝。六年後1229年(安貞二年)歸國。
歸國後,遍尋良土,於堺、信樂、桑名、尾張半田、末森等試燒十四年,1242年(仁治三年),於尾張國瀨戶村發現名為「祖母懷」之紅色木節土,喜而開窯於馬城、小曾根、椿等,製堅緻施釉陶。器有鹽壺、佛具花立、磨鉢、小碗、瓶子形神酒瓶、皿與甕,晚年製肩付茶入。自開窯至今六百九十四年。
景正首制「建盞天目釉」,黑釉由鐵分呈色。天目為宋代天目山僧傳來黑釉茶碗,釉色珍貴,茶家推崇流行。景正作品後稱「古瀨戶」,世代珍玩。
陶器本為貴族富豪專用,自瀨戶陶盛行,漸普及民間。關東遂以「瀨戶物」泛稱燒物。景正祀於深川神社陶彥社。瀨戶陶業盛,終成市制之地。
加藤四郎左衛門簡稱「藤四郎」,號「春慶」。本大和國諸輪庄道蔭村人,父基連(或橘基安),母深草平道風女。曾仕久我通親,退後於深草製陶,因通親子道元之緣得隨入宋。1284年卒,享八十二。明治三十九年追贈正五位。
1252年(建長四年),後深草天皇時,北條氏節財,下「沾酒禁制令」,一戶限一壺,餘皆毀之。僅鎌倉毀三萬七千二百七十四壺,全國更巨,陶業受重挫。
文永年間(1264-1275年),景正二世加藤藤九郎基通製「黃瀨戶」,粗青瓷化日本風雅品,名「真中古」。寛永時醫師曽谷伯庵藏黃瀨戶茶盤,時人稱同類為「伯庵」。
1289年(弘安二年),近江長野村始製「信樂燒」,農家種壺、浸壺,堅硬,以黃赤釉淡青斑釉者佳,稱「古信樂」。
永仁年間(1293-1299年),景正三世加藤藤五郎景國製「中古燒」,並以美濃金華山土運瀨戶,創「金華山燒」,褐釉施黑斑釉。
正安年間(1299-1302年),僧經正授陶法於深草瓦工,火候不精,多不成器。
建武年間(1334-1338年),伊賀國創「丸柱燒」,釉色青黃、純白,或施赤釉,自然釉亦多,厚施青釉高溫成黑尤珍,稱「古伊賀」。後藤堂高虎、小堀遠州助制茶器,名「藤堂伊賀」「遠州伊賀」。
同建武年間,加藤藤三郎政連製「破風手」茶壺,釉不到高台,露胎成山形如屋破風。又有「澀紙手」,皆稱「中古燒」。
南北朝時,戰亂頻仍,倭寇擾高麗,1392年高麗亡,李氏朝鮮立,此間陶史無大事。
室町足利時,南北朝統一,1394-1428年應永年間,備前忌部燒復興,製農具壺瓶,後製茶器,生「古備前」,名品有火襷、松葉焦、榎肌。
1403年,應永十年,明僧岐陽獻陶器,七官手青瓷始來,稱「古渡」。後有「中渡」「後渡」。
後花園天皇時,足利義政臣相阿彌鑑識古器,僧能阿彌改良點茶,立茶湯式。村田珠光出,茶器愛玩盛。義政華美與侘茶簡素並立,工藝界大變。
【中国語訳(英語から簡体字)】
1223年,加藤景正随道元赴宋,在天童山附近学习釉陶,1229年归国。
后寻土试烧十四年,1242年在尾张濑户建窑,制坚硬釉陶:盐壶、花瓶、碗、甕、茶入等,始称“古濑户”。
他创用“天目釉”,黑釉铁质,茶僧自天目山携回,珍为茶人所好。
濑户陶由贵族专用普及民间,关东以“濑户物”泛称。景正祀于深川神社。
加藤称藤四郎,号春庆。1284年卒,82岁,1906年追赠正五位。
1252年,北条下令限酒壶一户一口,毁余三万余壶,陶业受创。
1264-1275年,其子制“黄濑户”,雅品名“真中古”。
1289年起,近江制“信乐烧”,坚实壶罐,称“古信乐”。
1293年,其孙制“中古烧”,并创“金华山烧”。
建武年间,伊贺“丸柱烧”出,古伊贺珍贵。藤堂、高虎与远州加以改良。
又制“破风手”茶壶。
南北朝乱世,陶史寂然。
1394年后,备前“古备前”兴起。
1403年,七官青瓷入日,称“古渡”。
足利义政时,相阿弥、能阿弥、村田珠光兴茶道,促工艺革新。
【中国語訳(英語から繁體字)】
1223年,加藤景正隨道元赴宋,在天童山附近學習釉陶,1229年歸國。
後尋土試燒十四年,1242年在尾張瀨戶建窯,製堅硬釉陶:鹽壺、花瓶、碗、甕、茶入等,始稱「古瀨戶」。
他創用「天目釉」,黑釉鐵質,茶僧自天目山攜回,珍為茶人所好。
瀨戶陶由貴族專用普及民間,關東以「瀨戶物」泛稱。景正祀於深川神社。
加藤稱藤四郎,號春慶。1284年卒,82歲,1906年追贈正五位。
1252年,北條下令限酒壺一戶一口,毀餘三萬餘壺,陶業受創。
1264-1275年,其子製「黃瀨戶」,雅品名「真中古」。
1289年起,近江製「信樂燒」,堅實壺罐,稱「古信樂」。
1293年,其孫製「中古燒」,並創「金華山燒」。
建武年間,伊賀「丸柱燒」出,古伊賀珍貴。藤堂高虎與遠州加以改良。
又製「破風手」茶壺。
南北朝亂世,陶史寂然。
1394年後,備前「古備前」興起。
1403年,七官青瓷入日,稱「古渡」。
足利義政時,相阿彌、能阿彌、村田珠光興茶道,促工藝革新。

