「信長の瀬戸巡視」から「猿爪窯」

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【原文】
信長の瀬戸巡視
 同永祿六年(1563年)十二月尾張の織田信長は、放鷹の途次領内瀬戸の陶業を巡視して、此地の新儀諸役(新しき課税)及鄉質又は所質(債務者が支拂の義務を果さゞる時に、其所有財産を差押へらるゝを鄉質と云ひ、又同じく何れの處を問はず見付次第其所有物を没収さるゝを所質といふ)を取る事を禁じ、又商馬の交通を自由にすると共に、當郷の市日にはそれに関はりなき荷物一切の通行を禁制した。
 そして景正十二代の裔加藤萬右工門基範(藤兵基長の男)に並に制札を奥へたのである。
信長又大いに茶湯を好み、殊に天下の名器を蒐集して之を諸士の功勞ある者に賞興した。之より茶趣味の普及と共に、茶器製作が獎勵されたのである。

長崎開港
 同朝の元亀元年(1570年)、先に互市場として開かれし肥前國平戸及福田の港は閉鎖されて、同國深江浦に移さることとなつた、之が即ち長崎港である。之より又外國の物は頻々として此港口より輸入され、そして此地に於いて後年輸出向陶器を大成したのである。

織豊氏安土桃山時代=大平焼
 同朝の天正元年(1573年)瀬戸鮑津の陶工景春の次男加藤五郎左工門景豊(後興三右工門景久と改む)は、舎弟茂右工門景貞(後伊右工門と改む)と共に、美濃國久々利村(可見郡)大平に来りて開窯した。

瀬戸陶家の保護
 同朝の天正二年(1574年)正月十一日織田信長は、瀬戸窯元の系圖を調査して之を保護する爲めに窯數を制限し、他所より猥りに開窯することを赦さざる布告を爲し、又重なる陶家に一町八反宛の地所を附興して運上を免じ、そして加藤市左工門景茂(景正十一世)に此朱印状を授けたのである。

瀬戸の名陶家の窯符
 當時瀬戸に於ける重なる陶家は□印宗右工門(加藤宗右工門景春又四郎右工門と稱し春永と號した、永祿九年正月二十八日卒)口印市左工門(加藤市左工門景茂春厚と號す、後興三兵衛景光と改む景春の三男也)十印茂右工門(加藤茂右工門景貞後伊右工門と稱し景山と號す「一説に徳庵とあり」景春の四男)□印長十(高島長十郎長元又正玄と號し、景春の舎弟加藤十右工門基村の男高島藤兵衛基長の次子十左工門信長の男なり。瀬戸引出し黒の創始者)〇印太平(加藤源十郎景成又太平と稱し伯庵或は俊白と號す、與三右工門景久の男也)丁印新兵衛(不明なるも必ず加藤族であらねばならぬ)等である。
 前記の陶家は、皆茶器製作の窯元として特に巧者なりしが如く、何れも窯符を製品に彫刻した。蓋し自己の作品に對する責任的記銘は之が嚆矢といはれてゐる。而して此六人の窯元を以つて瀬戸の六作などと稱するは、何れ後人の作意であるらしい。

明様の瓦を焼く
 同天正四年(1576年)信長近江國安土城を築くに當り、明の福州より來りて肥前平戸に住へる瓦師一観を高島郡に召寄せ、明様の瓦を焼かしめて天守閣の屋根を葺くに至つた。これ本邦に於て明様瓦を用ひし最初にて、従来の布目瓦に代りて燻使用の濫觴である。(後年一観の男大久保石見守長安は佐渡奉行となつた)

長祐の樂焼
 同天正五年(1577年)信長は、佐々木宗慶の子田中長祜(通稱長次郎千利休の姓を授かり田中氏に改む、文祿元年(1595年)九月七日卒七十四才)に命じ、父の爐瓮に傚ひ白と黒の釉を施したる二種の茶盌を製作せしめた。

郡尻焼
 同天正五年(1577年)景久の長子加藤新右工門景高は、舎弟源十郎景成と共に、美濃國郡尻 (土岐郡)に開窯した。

利休に高禄を與ふ
 同天正六年(1578年)信長は、茶道の巨匠千利休(武野紹鴎の門人にて名は宗易俗稱輿四郎又抛筌齋と號す、正親町天皇より居士の號を賜はる、天正十九年(1591年)二月二十八日秀吉に死を命らる行年七十一才)に、食祿三千石を給興したのである。

猿爪窯
 同天正六年(1578年)春、加藤伊右工門景貞(寛永十一年九月二十日大平に於て卒す)は、美濃國陶村(惠那郡)猿爪に開窯した。


【現代語訳】
永禄六年(1563年)十二月、織田信長は鷹狩の途中で領内の瀬戸を訪れ、陶業の様子を巡視した。その際、新たな課税や、借金の返済ができない者から財産を差し押さえる「郷質」、あるいは場所を問わず見つけ次第没収する「所質」を禁じた。また、商いに使う馬の往来を自由にする一方で、瀬戸の市日に関係のない荷物の通行は禁止した。さらに、加藤万右工門基範に制札を与えてこの規定を明示させた。
信長は茶の湯を非常に好み、天下の名器を収集して功績のある武将たちに与えた。これによって茶の湯の趣味が広まり、茶器の製作が大いに奨励されるようになった。

元亀元年(1570年)、それまで互市の場として開かれていた肥前国平戸や福田の港は閉鎖され、代わって深江浦に港が移され、これが長崎港の始まりとなった。以後、外国の品が頻繁に長崎から輸入され、この地は後に輸出用陶器の一大産地となった。

天正元年(1573年)、瀬戸鮑津の陶工・景春の次男である加藤五郎左工門景豊(のち興三右工門景久と改名)は、弟の茂右工門景貞(のち伊右工門)とともに美濃国久々利村大平に窯を開いた。

天正二年(1574年)正月十一日、信長は瀬戸の窯元の系譜を調べて保護を与えるため、窯の数を制限し、他所からの勝手な開窯を禁じる布告を出した。また主要な陶家には一町八反ずつの土地を与えて年貢を免除し、加藤市左工門景茂に朱印状を授けた。

当時の瀬戸の有力な陶家には、宗右工門、市左工門、茂右工門、長十、太平、新兵衛らがあり、いずれも茶器製作に優れていた。彼らは窯印を作品に刻み、これが日本における責任銘の始まりとされる。後に「瀬戸六作」と称されるが、それは後世の呼び名に過ぎない。

天正四年(1576年)、信長が安土城を築く際、明の福州から渡来して平戸に住んでいた瓦師・一観を高島郡に呼び寄せ、明様式の瓦を焼かせて天守閣の屋根を葺いた。これが日本で初めて明様式の瓦が使われた例である。従来の布目瓦に代わり、以後の瓦使用の先駆けとなった。(一観の子・大久保石見守長安はのちに佐渡奉行となった。)

天正五年(1577年)、信長は佐々木宗慶の子・田中長祐(通称長次郎、のち千利休の姓を授かり田中氏を名乗る)に命じ、父の釜を手本に白釉と黒釉を施した二種の茶碗を作らせた。

同年、景久の長子・加藤新右工門景高は弟の源十郎景成とともに美濃国郡尻(土岐郡)に窯を開いた。

天正六年(1578年)、信長は茶道の大成者・千利休(名は宗易、俗称輿四郎、号は抛筌斎)に三千石の禄を与えた。

同年春、加藤伊右工門景貞は美濃国陶村・猿爪に窯を築いた。


【英語訳】
In December 1563 (Eiroku 6), Oda Nobunaga, during a falconry outing, inspected the pottery industry in Seto within his domain. He banned the imposition of new taxes and the practices of “gōshichi” (seizing debtors’ property within their village) and “shoshichi” (confiscating property wherever found). He also allowed free movement of packhorses for trade but prohibited unrelated goods from passing through Seto on market days. Kato Man’emon Motonori, a descendant of Kagemasa’s line, was entrusted with a proclamation board to enforce these orders.
Nobunaga had a deep passion for the tea ceremony, collecting famous tea utensils from across the land and awarding them to meritorious retainers. This encouraged the spread of tea culture and the promotion of tea utensil production.

In 1570 (Genki 1), the ports of Hirado and Fukuda in Hizen, previously open for trade, were closed, and the port was moved to Fukaeura, later becoming Nagasaki. From then on, foreign goods flowed in frequently through Nagasaki, and the region later developed into a major production center for export ceramics.

In 1573 (Tenshō 1), Kato Gorōzaemon Kageyasu (later Kozaemon Kagehisa), the second son of potter Kageshige of Seto Aozu, along with his younger brother Kagezane (later Ie’emon), established a kiln in Ōhira, Kukuri Village, Mino Province.

On January 11, 1574 (Tenshō 2), Nobunaga investigated the genealogy of the Seto potters to protect them. He limited the number of kilns, forbade unauthorized openings, granted major potter families land exempt from tax, and gave Kato Ichizaemon Kageshige a red-sealed decree.

The prominent Seto potter families of the time included Sō’emon, Ichizaemon, Mo’emon, Chōjū, Taihei, and Shinbei. They all excelled in producing tea utensils and marked their works with kiln symbols, considered the beginning of responsibility marks in Japan. Later generations referred to them as the “Six Masters of Seto,” though this was likely a retrospective invention.

In 1576 (Tenshō 4), during the construction of Azuchi Castle, Nobunaga summoned a roof tile craftsman named Ikkan from Fuzhou, who had settled in Hirado, and had him produce Ming-style tiles for the castle keep. This was the first use of Ming-style tiles in Japan, replacing the traditional cloth-patterned tiles, and marked the start of a new roofing style. (Ikkan’s son, Okubo Iwami-no-kami Nagayasu, later became the magistrate of Sado.)

In 1577 (Tenshō 5), Nobunaga ordered Tanaka Nagahiro (commonly known as Chōjirō, later adopting the surname Tanaka given by Sen no Rikyū) to create two types of tea bowls—one with white glaze and one with black glaze—based on his father’s kiln works.

That same year, Kato Shin’uemon Kagetaka, eldest son of Kagehisa, and his younger brother Genjurō Kagenari, established a kiln at Gunjiri in Mino Province.

In 1578 (Tenshō 6), Nobunaga granted Sen no Rikyū, the great tea master (name Sōeki, also called Yoshiro, and styled Hōsensai), a stipend of 3,000 koku.

That spring, Kato Ie’emon Kagezane established a kiln in Sarutsume, Tōson Village, Mino Province.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】
1563年(永禄六年)十二月,织田信长在猎鹰途中巡视了领内的濑户陶业。他禁止征收新的税赋,以及“乡质”(在村内查封债务人财产)和“所质”(无论何处发现均没收财产)的做法。同时,他允许商用马自由通行,但在濑户集市日禁止与市无关的货物通过。并命加藤万右工门基范竖立制札以示禁止。
信长酷爱茶道,广泛收集天下名器,并将其赏赐给有功之士。这推动了茶道文化的传播,也极大地促进了茶器的制作。

1570年(元龟元年),此前作为交易市场的肥前国平户与福田港被关闭,改迁至深江浦,这就是长崎港的起源。自此外国物品频繁经长崎进口,当地后来发展为出口陶器的重要产地。

1573年(天正元年),濑户鲍津陶工景春的次子加藤五郎左工门景丰(后改名兴三右工门景久),与弟弟茂右工门景贞(后改名伊右工门)一起在美浓国久々利村大平建立窑场。

1574年(天正二年)正月十一日,信长调查濑户窑元的系谱,为保护其利益,限制窑炉数量,禁止擅自开窑。同时向主要陶家授予土地并免除赋税,并颁发朱印状予加藤市左工门景茂。

当时濑户的重要陶家包括宗右工门、市左工门、茂右工门、长十、太平和新兵卫。他们都擅长茶器制作,并在作品上刻下窑印,这被视为日本责任铭记的开端。后人称之为“濑户六作”,但应是后世附会之说。

1576年(天正四年),信长建造安土城时,召来居于平户的福州瓦师一观,在高岛郡烧制明式瓦,用于天守阁屋顶。这是日本首次使用明式瓦,取代了旧有的布目瓦,成为新式屋瓦的开端。(一观之子大久保石见守长安后来任佐渡奉行。)

1577年(天正五年),信长命佐佐木宗庆之子田中长祐(通称长次郎,后受赐姓田中,千利休家族)制作两种茶碗:一种施白釉,一种施黑釉。

年,景久之长子加藤新右工门景高与弟源十郎景成在美浓国郡尻(土岐郡)建窑。

1578年(天正六年),信长赐予茶道巨匠千利休(三千石俸禄)。

同年春,加藤伊右工门景贞在美浓国陶村猿爪建窑。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】
1563年(永祿六年)十二月,織田信長在獵鷹途中巡視了領內的瀨戶陶業。他禁止徵收新的稅賦,以及「鄉質」(在村內查封債務人財產)和「所質」(無論何處發現均沒收財產)的做法。同時,他允許商用馬自由通行,但在瀨戶集市日禁止與市無關的貨物通過。並命加藤萬右工門基範豎立制札以示禁止。
信長酷愛茶道,廣泛收集天下名器,並將其賞賜給有功之士。這推動了茶道文化的傳播,也極大地促進了茶器的製作。

1570年(元龜元年),此前作為交易市場的肥前國平戶與福田港被關閉,改遷至深江浦,這就是長崎港的起源。自此外國物品頻繁經長崎進口,當地後來發展為出口陶器的重要產地。

1573年(天正元年),瀨戶鮑津陶工景春的次子加藤五郎左工門景豐(後改名興三右工門景久),與弟弟茂右工門景貞(後改名伊右工門)一起在美濃國久々利村大平建立窯場。

1574年(天正二年)正月十一日,信長調查瀨戶窯元的系譜,為保護其利益,限制窯爐數量,禁止擅自開窯。同時向主要陶家授予土地並免除賦稅,並頒發朱印狀予加藤市左工門景茂。

當時瀨戶的重要陶家包括宗右工門、市左工門、茂右工門、長十、太平和新兵衛。他們都擅長茶器製作,並在作品上刻下窯印,這被視為日本責任銘記的開端。後人稱之為「瀨戶六作」,但應是後世附會之說。

1576年(天正四年),信長建造安土城時,召來居於平戶的福州瓦師一觀,在高島郡燒制明式瓦,用於天守閣屋頂。這是日本首次使用明式瓦,取代了舊有的布目瓦,成為新式屋瓦的開端。(一觀之子大久保石見守長安後來任佐渡奉行。)

1577年(天正五年),信長命佐佐木宗慶之子田中長祐(通稱長次郎,後受賜姓田中,千利休家族)製作兩種茶碗:一種施白釉,一種施黑釉。

同年,景久之長子加藤新右工門景高與弟源十郎景成在美濃國郡尻(土岐郡)建窯。

1578年(天正六年),信長賜予茶道巨匠千利休(三千石俸祿)。

同年春,加藤伊右工門景貞在美濃國陶村猿爪建窯。


【中国語訳(英語から簡体字)】
1563年12月,织田信长在猎鹰途中巡视濑户陶业。他禁止新税和没收债务人财产的行为,允许商马自由通行,但禁止集市日不相关货物通过。他命加藤万右工门基范执行此令。信长酷爱茶道,收集名器,赏赐有功之臣,推动了茶器制作与茶道传播。

1570年,平户与福田港关闭,港口迁至深江浦,即长崎港。此后,外国物品经长崎频繁输入,当地成为出口陶器中心。

1573年,加藤五郎左工门景丰与弟景贞在美浓国大平建窑。

1574年,信长调查窑元系谱,限制窑数,免除赋税,授朱印状予加藤市左工门景茂。

当时的瀨户陶家刻窑印于作品,被视为责任铭记的开端。

1576年,信长建安土城,召福州瓦师一观烧制明式瓦,为日本首次使用。

1577年,他命田中长祐(长次郎)制白釉与黑釉茶碗。

1578年,他赐千利休三千石俸禄。同年,加藤景贞在猿爪建窑。


【中国語訳(英語から繁體字)】
1563年12月,織田信長在獵鷹途中巡視瀨戶陶業。他禁止新稅和沒收債務人財產的行為,允許商馬自由通行,但禁止集市日不相關貨物通過。他命加藤萬右工門基範執行此令。信長酷愛茶道,收集名器,賞賜有功之臣,推動了茶器製作與茶道傳播。

1570年,平戶與福田港關閉,港口遷至深江浦,即長崎港。此後,外國物品經長崎頻繁輸入,當地成為出口陶器中心。

1573年,加藤五郎左工門景豐與弟景貞在美濃國大平建窯。

1574年,信長調查窯元系譜,限制窯數,免除賦稅,授朱印狀予加藤市左工門景茂。

當時的瀨戶陶家刻窯印於作品,被視為責任銘記的開端。

1576年,信長建安土城,召福州瓦師一觀燒制明式瓦,為日本首次使用。

1577年,他命田中長祐(長次郎)製白釉與黑釉茶碗。

1578年,他賜千利休三千石俸祿。同年,加藤景貞在猿爪建窯。