【原文】
秀吉伊部の六姓を召す
同天正十年(1582年)三月、羽柴秀吉中國の探題として備前にあるや、或日伊部の土師家六姓の内大饗五郎左工門の家に宿り、其他の五姓森、木村、頓宮、金重、寺尾等を召して茶盌及花瓶等を作らしめた。之より秀吉は六姓の陶家を保護し、以後何人たりとも此地に陣所を設くる事を禁する制札を下附したのである。
備前焼には伊部の外青備前(青忌部ともいふ、舊式の窖窯にて焼きし青灰色の還元焼)、色備前(寶永中藩主綱政より三代池田宗政が、岡山の後樂園にて焼かしめし素焼胡粉塗の床置細工物)等があり、元龜年間には三日月六兵衛と稱する名工があつた。(正徳には雲貞、延享には木村甚七、寶曆には服部平四郎、明和には木村作十郎、安永には大平十郎、天明には木村庄八、享和には森良明、文化には茂市、嘉永には木村平八郎等があつた)
加藤景光
同天正十一年(1583年)景久の女婿なる、加藤奥三兵衛景光美濃の郡尻に来りて白釉器を製し、嘗て茶壺を信長に献せしより、賞せられて朱印を授けられた。又瀬戸黒の天目を創製し之を正親町天皇に奉献するや、當時の名工として特に筑後守に任せられたのである。
陶器の銃丸
同天正十二年(1584年)秀吉は、瀬戸の陶工に命じて陶器を以て銃弾を作らしめ、同年四月九日尾張長久手の合戦に使用せしといはれてゐる。
茶の湯の全盛
斯くて豊臣秀吉天下を統一するや、千利休を重用して茶の湯の全盛を来たし、三齋細川忠興(越中守始與一郎)如庵織田長盆(有樂齋始源五郎)印齋古田重勝(織部正始左助)泰玄金森長近(出雲守始五郎八)等を始め斯道の名家多く輩出するに至った。
織部風
中にも古田重勝(又宗寶居士と號す、元和元年(1615年)六月十一日京都放火にて死を命ぜらる行年七十二才)は、尾張國鳴海(愛知郡)の陶家に命じて自己趣向の茶壺を製作した。それは黒褐色及緑釉を施したるものにて多く草花が描かれてゐる、之が後世織部焼と稱せらるゝものである。
(此鳴海織部の外多くは瀬戸に於て製作されたものに黒織部、青織部、赤織部、檜織部、織部志野等があり。後年伊奈備前守忠次命じて焼かしめしものを伊奈織部と稱せらるゝのである)
織部の名陶家
同天正十三年(1585年)古田重勝折々瀨戸に遊びて茶器の製作を獎勵し、雅致ある織部風を作らしめた。當時の名陶家”カ”印八郎治(加藤八郎治景包後八郎右工門と稱す、十右工門基村の孫宗右エ門景盈の次男)”山”印吉右工門(加藤吉冶工門重機にて、基村の四代新右衛門景重の次男也)”田”印金九郎(加藤金九郎は藤四郎基治の弟五郎右工門政常四代惣右工門の長男)”セ”印治兵衛(加藤治兵衛は五郎右工門政常五代の分家惣兵衛の男)”七”印半七、”サ”印六兵衛、”?”印佐介、”一”印元藏、”㊀”印友十、”イ”印丈八、以上拾人を織部好みの十作と稱することも、前記の六作と同じくこれ又後人の作意であらう。
【現代語訳】
天正十年(1582年)三月、羽柴秀吉が中国探題として備前にいたとき、伊部の土師家六姓の一つ、大饗五郎左工門の家に宿泊した。そして森、木村、頓宮、金重、寺尾の五姓を呼び寄せ、茶碗や花瓶を作らせた。これ以後、秀吉は六姓の陶家を保護し、誰であろうともこの地に陣を構えることを禁じる制札を与えた。
備前焼には伊部焼のほかに、青灰色の還元焼である「青備前」や、素焼に胡粉を塗った「色備前」などがあり、元亀年間には三日月六兵衛という名工がいた。その後も時代ごとに木村や服部、大平、森などの名工が現れた。
天正十一年(1583年)、景久の婿である加藤奥三兵衛景光が美濃国郡尻に来て白釉器を作った。かつて茶壺を信長に献じて賞を受け、朱印を賜った。さらに瀬戸黒の天目茶碗を創作し、正親町天皇に献上したことで名工と認められ、筑後守に任ぜられた。
天正十二年(1584年)、秀吉は瀬戸の陶工に命じて陶器製の銃弾を作らせ、長久手の戦いで実際に使用したと伝えられる。
その後、豊臣秀吉が天下を統一すると、千利休を重用して茶の湯は全盛期を迎えた。細川忠興、織田有楽、古田重勝、金森長近など、茶道の大家が次々と輩出した。
中でも古田重勝(宗寶居士)は、尾張国鳴海の陶家に自らの趣向を反映した茶壺を作らせた。それは黒褐色や緑釉を施し、草花が描かれたもので、後に「織部焼」と呼ばれるようになった。瀬戸では黒織部、青織部、赤織部、檜織部、織部志野なども作られ、後に伊奈備前守忠次の命で作られたものは「伊奈織部」と呼ばれた。
天正十三年(1585年)、古田重勝はしばしば瀬戸を訪れ、茶器の制作を奨励し、風雅な織部風を作らせた。当時の名陶家には「カ」印八郎治、「山」印吉右工門、「田」印金九郎、「セ」印治兵衛、「七」印半七、「サ」印六兵衛、「?」印佐介、「一」印元蔵、「㊀」印友十、「イ」印丈八らがおり、これを「織部好みの十作」と称したが、これも後世の呼び名にすぎない。
【英語訳】
In March 1582 (Tenshō 10), while serving as military commissioner in Bizen, Hashiba Hideyoshi stayed at the house of Daikae Gorōzaemon, one of the six Haji families of Imbe. He also summoned the other five families—Mori, Kimura, Tongū, Kaneshige, and Terao—and had them produce tea bowls and flower vases. From then on, Hideyoshi protected these six families and issued a decree forbidding anyone from setting up camps in their area.
Apart from Imbe ware, Bizen ware included “Ao-Bizen” (reduction-fired grayish-blue ware made in old-style anagama kilns) and “Iro-Bizen” (decorative wares with white pigment applied, produced for the daimyo Ikeda family in Okayama). During the Genki era, a famous potter known as Mikazuki Rokubee was active, and later generations saw other masters such as Kimura, Hattori, Ōdaira, and Mori.
In 1583 (Tenshō 11), Kato Okusanbee Kagemitsu, son-in-law of Kagehisa, came to Gunjiri in Mino and produced white-glazed wares. Having once presented a tea jar to Nobunaga and been rewarded with a red-sealed charter, he later created Seto Black tenmoku bowls, which he dedicated to Emperor Ōgimachi. He was recognized as a master craftsman and appointed Chikugo-no-kami.
In 1584 (Tenshō 12), Hideyoshi ordered Seto potters to produce ceramic bullets, which were reportedly used in the Battle of Nagakute on April 9 of that year.
After unifying the realm, Toyotomi Hideyoshi relied heavily on Sen no Rikyū, ushering in the golden age of the tea ceremony. Many great masters emerged, including Hosokawa Tadaoki (Sansai), Oda Nagamasu (Urakusai), Furuta Shigekatsu (Oribe), and Kanamori Nagachika.
Among them, Furuta Shigekatsu (also called Shōhō Koji) commissioned potters in Narumi, Owari, to produce tea jars according to his tastes. These were decorated with dark brown and green glazes and floral designs, later becoming known as “Oribe ware.” In addition to Narumi Oribe, Seto also produced Black Oribe, Blue Oribe, Red Oribe, Hinoki Oribe, and Oribe Shino. Works ordered by Ina Bizen-no-kami Tadayuki later became known as “Ina Oribe.”
In 1585 (Tenshō 13), Furuta often visited Seto to encourage the production of tea utensils in his refined Oribe style. At that time, notable potters included Hachirōji (mark “Ka”), Kichi’emon (mark “Yama”), Kinkurō (mark “Ta”), Jihee (mark “Se”), Han-shichi (mark “7”), Rokubee (mark “Sa”), Sasuké (mark “?”), Motozō (mark “1”), Tomojū (mark “㊀”), and Jōhachi (mark “I”). These ten were later collectively called the “Ten Oribe Masters,” but this too was a label created by later generations.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】
1582年(天正十年)三月,羽柴秀吉担任中国探题时,在备前伊部的土师家六姓之一大饗五郎左工门家中住宿,并召来森、木村、顿宫、金重、寺尾五姓制作茶碗和花瓶。此后,秀吉保护六姓陶家,并颁布禁令,不许任何人在此地驻军。
备前烧除伊部烧外,还有“青备前”(古式窑烧制的青灰色还原烧)和“色备前”(江户池田家在冈山后乐园烧制的素烧胡粉工艺品)。元龟年间有名工三日月六兵卫,此后历代亦有木村、服部、大平、森等名工。
1583年(天正十一年),景久之婿加藤奥三兵卫景光来到美浓郡尻,制作白釉器。曾献茶壶于信长并获朱印赏赐。又创制瀬户黑天目碗,献给正亲町天皇,被任为筑后守。
1584年(天正十二年),秀吉命瀨户陶工制作陶制子弹,据说在长久手之战中使用。
丰臣秀吉统一天下后,重用千利休,茶道进入全盛期。细川忠兴、织田有乐、古田重胜、金森长近等名家纷纷出现。
其中古田重胜(号宗宝居士)命尾张鸣海陶工依其喜好制茶壶,以黑褐色、绿色釉饰花草纹样,后称“织部烧”。此外瀬户还有黑织部、青织部、赤织部、桧织部、织部志野等。后由伊奈忠次命制者称“伊奈织部”。
1585年(天正十三年),古田重胜常到瀬户,鼓励制茶器,形成典雅的织部风。当时名陶工有“カ”印八郎治、“山”印吉右工门、“田”印金九郎、“セ”印治兵卫、“七”印半七、“サ”印六兵卫、“?”印佐介、“一”印元藏、“㊀”印友十、“イ”印丈八,后人称之为“织部十作”,实为后世附会。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】
1582年(天正十年)三月,羽柴秀吉擔任中國探題時,在備前伊部的土師家六姓之一大饗五郎左工門家中住宿,並召來森、木村、頓宮、金重、寺尾五姓製作茶碗和花瓶。此後,秀吉保護六姓陶家,並頒布禁令,不許任何人在此地駐軍。
備前燒除伊部燒外,還有「青備前」(古式窯燒製的青灰色還原燒)和「色備前」(江戶池田家在岡山後樂園燒製的素燒胡粉工藝品)。元龜年間有名工三日月六兵衛,此後歷代亦有木村、服部、大平、森等名工。
1583年(天正十一年),景久之婿加藤奧三兵衛景光來到美濃郡尻,製作白釉器。曾獻茶壺於信長並獲朱印賞賜。又創製瀨戶黑天目碗,獻給正親町天皇,被任為筑後守。
1584年(天正十二年),秀吉命瀨戶陶工製作陶製子彈,據說在長久手之戰中使用。
豐臣秀吉統一天下後,重用千利休,茶道進入全盛期。細川忠興、織田有樂、古田重勝、金森長近等名家紛紛出現。
其中古田重勝(號宗寶居士)命尾張鳴海陶工依其喜好製茶壺,以黑褐色、綠色釉飾花草紋樣,後稱「織部燒」。此外瀨戶還有黑織部、青織部、赤織部、檜織部、織部志野等。後由伊奈忠次命製者稱「伊奈織部」。
1585年(天正十三年),古田重勝常到瀨戶,鼓勵製茶器,形成典雅的織部風。當時名陶工有「カ」印八郎治、「山」印吉右工門、「田」印金九郎、「セ」印治兵衛、「七」印半七、「サ」印六兵衛、「?」印佐介、「一」印元藏、「㊀」印友十、「イ」印丈八,後人稱之為「織部十作」,實為後世附會。
【中国語訳(英語から簡体字)】
1582年,羽柴秀吉在备前任职时,召集伊部“六姓”陶工制作茶碗和花瓶,并颁布禁令保护他们。由此,六姓陶家成为备前烧的重要传承者。
1583年,加藤景光在美浓制作白釉器,并创造“濑户黑天目”,被赐朱印。
1584年,秀吉命陶工制作陶制子弹,在长久手之战使用。
秀吉统一后,茶道繁荣,千利休及诸名家兴起。古田重胜的“织部烧”尤为有名,其风格流行于濑户与鸣海。
【中国語訳(英語から繁體字)】
1582年,羽柴秀吉在備前任職時,召集伊部「六姓」陶工製作茶碗和花瓶,並頒布禁令保護他們。由此,六姓陶家成為備前燒的重要傳承者。
1583年,加藤景光在美濃製作白釉器,並創造「瀨戶黑天目」,被賜朱印。
1584年,秀吉命陶工製作陶製子彈,在長久手之戰使用。
秀吉統一後,茶道繁榮,千利休及諸名家興起。古田重勝的「織部燒」尤為有名,其風格流行於瀨戶與鳴海。

