【原文】
景延と唐津窯
同天正十三年(1585年)八月十一日、筑後守景光卒(七十三才)せしが、長子四郎右工門景延又父に劣らぬ名陶家であつた。或時肥前唐津の浪士森善右工門なる者久尻へ来りし折、此地窯式の拙なるを難せしかば、彼は大いに覺る所あり、乞ひて善右衛門に伴はれて肥前に下り、親しく唐津窯の構造と其焚方及釉薬法等を學んで久尻に歸り、之より景延の陶技大いに進み、當時空前の巧者と稱せらるゝに至つた。瀬戸、飽津の陶家等此唐津窯の良好なるを聴き傅へ、往きて一見を乞へども景延秘して赦さなかつたのである。
飽津の陶家と唐津窯
或る歲飽津の陶家打連れて景延方へ年始に來り、宴酣なる頃其中の一人松原仁兵衛(太郎臓の男)は、便所へ行く躰にて窃に高塀を乗越えて此秘窯を視察した。景延恚つて之を追ふや餘客者逃げ去った。之より瀬戸、赤津皆唐津窯に則りて尾濃窯式の革命を來たすに至つた。彼の瓶子窯の名物茶入の如きは此頃よりの作品といはれてゐる。
志戸呂復興
同天正年間(1573-1593年)に於て、加藤景延の妹聟内藤五郎左工門景忠(五郎右工門景豊の子にて始加藤庄右工門)は、遠州の志戸呂焼を復興した。蓋し後年小堀遠江守政一「宗甫と號す、正保四年二月六日卒す六十九才」此地の工人を指揮して茶器を焼かしめしより志戸呂の名聲を揚ぐるに至った。序でに小堀好みの遠州七窯は、此志戸呂の外近江の膳所焼、豊前の上野焼、山城の朝日焼、大和の赤膚焼、攝津の古曾部焼、筑前の高取焼等をするのである)
小松谷焼
同天正年間(1573-1593年)信樂の陶工元吉なる者、山城國澁谷に來り、深草製陶の古法に則りて釉罩のことを改良發明した。之が小松谷焼又澁谷焼とせらるゝものである。
丹波焼
同天正年間(1573-1593年)丹波國今田村(多紀郡)立杭村に於いて、丹波焼が創製された。(寛永の頃に至りて茶器を造り、其器の外面に數十の絲あるものを稀品なし、後世之を古丹波と稱してゐる)
常滑復興
同天正年間(1573-1593年)常滑焼が再興された。(元鐵砲窯にて眞焼といへる硬度の陶器を製せしが、元祿年間(1688-1704年)に於いて赤き甕類を製造し、享保(1716年)以後元功齋村田彌平藩命にて茶器 酒器、花器等を作り、養子元光齋長七又名手であつた。寛政二年(1790年)伊那長三郎火色燒朱泥、白泥等を發明し。同四年赤井豊入南寫しを製作し。又名工白上村八兵「天和三年卒七十九才」は拉車を用ひず指頭と竹箆とを以て雅品を製して一生面を拓き。享和年間鯉江方救は一の新窯を工夫し、其子方壽遺志をいで石器を完成した。文政年間伊那長三一種の白泥を考案し。明治年間(1868-1912年)陶然軒赤井新六火の如き雅品を製せが。後年には土管及火鉢或は低級の輸出品等盛んに製造され、今や全國中屈指の製陶地と成ったのである)
港焼復興
同天正年間(1573-1593年)和泉國堺浦なる港焼が復興され、焙烙を以て専門に製作した。此地もと貞觀年中僧行基製陶の法を土人に教へて創業せしさの口碑あるも、事蹟詳でない。(文化年間(1804-1818年)酒井廣正交趾風の赤樂釉を製作した)
宗四郎焼
同天正年間(1573-1593年)京都に宗四郎なる名手あて、焙烙土風爐を造る宗四郎焼なるものがあつた。そして秀吉より天下一のを授かりしていはれてゐる。
今戸焼
同天正年間(1573-1593年)武藏國豊島郡に、今戸焼が創製された。元下總國千葉氏の族黨此地に移住し土器を造りしものが始であつた。(貞享年間(1684-1688年)白井七始めて抹茶用の風墟及火盆を製し。享保年間(1716-1736年)其子七に及んで施釉物を作り、又伏見人形に似たる塑像を造った、それが所謂今戸人形である。嘉永年間(1848-1855年)土風爐師の妙手として作根次郎があり。明治八年(1875年)瀬戸の東玉園井上良齋「良助」來つて橋場町にして、磁器を焼いたのである)
【現代語訳】
景延と唐津窯
天正十三年(1585年)八月十一日、筑後守景光が七十三歳で亡くなった。長子の四郎右工門景延もまた父に劣らぬ名陶工であった。あるとき、肥前唐津の浪人・森善右工門が久尻を訪れ、この地の窯の仕組みが未熟であると批判した。景延は大いに悟るところがあり、願い出て善右工門に伴われ肥前に下り、唐津窯の構造、焚き方、釉薬法などを直接学んで久尻に戻った。これにより景延の陶技は大いに進歩し、当時比類なき名工と称されるようになった。瀬戸や飽津の陶工たちも唐津窯の優秀さを聞き伝え、見学を望んだが、景延は秘して許さなかった。
飽津の陶工と唐津窯
ある年、飽津の陶工たちが連れ立って景延のもとへ年始の挨拶に訪れた。宴が盛り上がっていたとき、その中の一人、松原仁兵衛(太郎蔵の子)が、便所に行くふりをして密かに高い塀を乗り越え、秘窯を覗き見た。景延が怒って追いかけると、他の客たちも逃げ去った。これ以降、瀬戸や赤津の陶工たちは唐津窯を模倣し、尾濃窯の様式に大きな変革をもたらした。名物の茶入れ「瓶子窯」もこの頃の作品と伝わる。
志戸呂の復興
天正年間(1573-1593年)、加藤景延の妹の婿である内藤五郎左工門景忠(五郎右工門景豊の子、のち加藤庄右工門)は、遠州の志戸呂焼を復興した。その後、小堀遠江守政一(号は宗甫、正保四年〔1647年〕二月六日没、六十九歳)がこの地の陶工を指揮して茶器を焼かせたことにより、志戸呂は名声を高めた。ちなみに小堀好みの「遠州七窯」とは、この志戸呂のほか、近江の膳所焼、豊前の上野焼、山城の朝日焼、大和の赤膚焼、摂津の古曾部焼、筑前の高取焼を指す。
小松谷焼
同じ天正年間、信楽の陶工・元吉が山城国渋谷に来て、深草焼の古法に従い釉掛けを改良発明した。これが小松谷焼、または渋谷焼と呼ばれるものである。
丹波焼
天正年間、丹波国多紀郡今田村立杭において丹波焼が創始された。寛永の頃には茶器が作られ、その外面に数十本の細い線を刻んだ器は珍品とされ、後世「古丹波」と称された。
常滑焼の再興
天正年間、常滑焼が再び興った。もと鉄砲窯で硬質の陶器を焼いていたが、元禄年間(1688-1704年)には赤い甕を製造した。享保年間(1716年以降)、元功斎村田彌平は藩命を受けて茶器・酒器・花器などを製作し、養子の元光斎長七も名工であった。寛政二年(1790年)、伊那長三郎は火色焼や朱泥・白泥を発明し、寛政四年には赤井豊入が南写しを製作した。名工・白上村八兵(天和三年没、七十九歳)は轆轤を使わず、指や竹べらで優美な器を作り、新境地を開いた。享和年間、鯉江方救は新窯を工夫し、その子方寿が遺志を継いで石器を完成した。文政年間には伊那長三が白泥を考案。明治期(1868-1912年)、陶然軒赤井新六は優美な器を作ったが、後年には土管や火鉢、さらには低級な輸出品も盛んに製造され、今日では全国有数の陶業地となった。
港焼の復興
天正年間、和泉国堺浦の港焼が復興し、焙烙を専門に製作した。この地には貞観年間、僧行基が製陶法を教えて創業したという伝承があるが、詳しいことは不明である。文化年間(1804-1818年)には酒井廣正が交趾風の赤楽釉を作った。
宗四郎焼
天正年間、京都の名工・宗四郎が焙烙や土風炉を作り、その焼物は「宗四郎焼」と呼ばれた。豊臣秀吉から天下一と称賛を受けたと伝えられる。
今戸焼
天正年間、武蔵国豊島郡で今戸焼が始まった。もとは下総国の千葉氏一族がこの地に移住し、土器を作ったのが起源である。貞享年間(1684-1688年)、白井七が初めて抹茶用の風炉や火鉢を作り、享保年間にはその子が施釉の器を作り、さらに伏見人形に似た塑像を造った。これが今戸人形の始まりである。嘉永年間(1848-1855年)には名工・作根次郎が土風炉を作り、明治八年(1875年)には瀬戸の井上良斎(良助)が橋場町に来て磁器を焼いた。
【英語訳】
Kage-nobu and the Karatsu Kiln
On August 11, 1585 (Tenshō 13), Chikugo-no-kami Kagemitsu died at the age of 73. His eldest son, Shirō Uemon Kagenobu, was also an outstanding potter, no less skilled than his father. At one time, Mori Zen-emon, a rōnin from Hizen Karatsu, visited Kujiri and criticized the local kiln techniques as clumsy. Realizing his shortcomings, Kagenobu asked to accompany him to Hizen, where he directly studied the structure, firing methods, and glazing techniques of the Karatsu kilns. Returning to Kujiri, his skills advanced greatly, and he came to be regarded as an unparalleled master of his time. Potters from Seto and Akazu, hearing of the excellence of the Karatsu kilns, wished to see them, but Kagenobu kept his knowledge secret and refused.
The Potters of Akazu and the Karatsu Kiln
One New Year, a group of Akazu potters visited Kagenobu. During the feast, one of them, Matsubara Jinbē (son of Tarōzō), pretended to go to the restroom but secretly climbed over a high wall to spy on the hidden kiln. Kagenobu, enraged, chased him, and the other guests fled. From then on, Seto and Akazu potters imitated the Karatsu kiln, sparking a revolution in the Onō-style kilns. The famous tea caddy from the “Heishi Kiln” is said to date from this period.
The Revival of Shidoro Ware
During the Tenshō era (1573-1593), Naitō Gorōzaemon Kagetada, son-in-law of Kagenobu’s sister (son of Gorō Uemon Kageyutaka, later known as Katō Shōuemon), revived Enshū’s Shidoro ware. Later, Kobori Masakazu (Enshū no Kami, also called Sōho, died in 1647 at age 69) directed local potters to produce tea utensils, bringing fame to Shidoro. The “Seven Kilns of Enshū” preferred by Kobori included Shidoro, Zeze ware of Ōmi, Agano ware of Buzen, Asahi ware of Yamashiro, Akahada ware of Yamato, Kosobe ware of Settsu, and Takatori ware of Chikuzen.
Komatsudani Ware
Also in the Tenshō era, Motoyoshi, a potter from Shigaraki, came to Shibuya in Yamashiro Province. Following the ancient Fukakusa pottery methods, he improved and invented glazing techniques. This ware came to be called Komatsudani ware, or Shibuya ware.
Tanba Ware
In the Tenshō era, pottery began in Tachikui, Imada Village, Tamba Province (Taki District). By the Kan’ei period, tea utensils were produced, and vessels with dozens of fine exterior lines became prized rarities, later called “Old Tamba.”
The Revival of Tokoname Ware
During the Tenshō era, Tokoname ware was revived. Originally, firearms kilns produced hard pottery called “true ware,” but in the Genroku era (1688-1704) red jars were made. From the Kyōhō era (1716 onward), Murata Yahei (Gokōsai) produced tea utensils, sake vessels, and flower vases under domain orders, and his adopted son Nagashichi (Gokōsai) was also a master. In 1790, Ina Chōsaburō invented fire-colored ware, red clay, and white clay; in 1792, Akai Toyonyū created Nanban-style imitations. Another master, Shirakami Mura Hachibē (d. 1683, aged 79), worked without a potter’s wheel, shaping refined pieces with fingers and bamboo spatulas, opening a new frontier. During the Kyōwa era, Kōie Hōkyū devised a new kiln, and his son Hōju carried out his will, completing stoneware. In the Bunsei era, Ina Chōsan developed a white clay. In the Meiji era (1868-1912), Akai Shinroku (Tōzenken) made elegant works, but later, Tokoname became known for producing clay pipes, braziers, and cheap export goods. Today, it stands as one of Japan’s leading pottery centers.
The Revival of Minato Ware
During the Tenshō era, Minato ware of Sakaiura in Izumi Province was revived
, specializing in making braziers. Local tradition holds that in the Jōgan era, the monk Gyōki taught pottery techniques here, but details are uncertain. In the Bunka era (1804-1818), Sakai Hiromasa produced a red raku glaze in the style of Kōchi ware.
Sōshirō Ware
In the Tenshō era, a Kyoto master named Sōshirō made braziers and clay stoves, known as Sōshirō ware. It is said that Toyotomi Hideyoshi awarded him the title of “the greatest in the land.”
Imado Ware
In the Tenshō era, Imado ware began in Toyoshima District, Musashi Province. Its origin lay in the Chiba clan from Shimōsa Province, who had migrated and begun pottery there. In the Jōkyō era (1684-1688), Shirai Shichi first made tea ceremony braziers and hibachi. In the Kyōhō era (1716-1736), his son produced glazed ware and clay figurines resembling Fushimi dolls, which became known as Imado dolls. In the Kaei era (1848-1855), Sakonejirō became renowned for clay stoves. In 1875 (Meiji 8), Inoue Ryōsai (Ryōsuke) of Seto came to Hashiba Town and produced porcelain.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】
景延与唐津烧
天正十三年(1585年)八月十一日,筑后守景光七十三岁去世。他的长子四郎右工门景延同样是位不逊于父亲的名陶工。某次,肥前唐津的浪人森善右工门来到久尻,批评当地的窑制拙劣。景延深感不足,便请求随他前往肥前,亲自学习唐津窑的结构、烧成方法及釉药技术。回到久尻后,他的陶艺大大进步,被誉为当时无与伦比的名匠。瀬户与飽津的陶工听闻唐津窑的优越,想要参观,但景延秘而不传。
飽津陶工与唐津窑
某年新年,飽津的陶工们结伴拜访景延。在宴席正酣之时,其中一人松原仁兵卫(太郎藏之子)假借如厕,暗中翻越高墙窥探秘窑。景延大怒追赶,余客亦逃散。此后,瀬户、赤津的陶工纷纷效仿唐津窑,掀起尾濃窑式的革新。据说名物茶入“瓶子窑”便是此时期的作品。
志户呂复兴
天正年间(1573-1593年),加藤景延之妹婿内藤五郎左工门景忠(五郎右工门景丰之子,后号加藤庄右工门)复兴了远州的志户呂烧。后来,小堀远江守政一(号宗甫,正保四年〔1647年〕卒,享年六十九岁)指挥当地工匠烧制茶器,使志户呂声名大振。顺带一提,小堀喜好的“远州七窑”除志户呂外,还有近江的膳所烧、丰前的上野烧、山城的朝日烧、大和的赤肤烧、摄津的古曾部烧、筑前的高取烧。
小松谷烧
天正年间,信乐陶工元吉来到山城国涩谷,依循深草制陶古法,改良并发明了施釉技术。这便是小松谷烧,又称涩谷烧。
丹波烧
天正年间,丹波国多纪郡今田村立杭创制了丹波烧。至宽永年间,开始烧制茶器,其中外壁刻有数十细纹的器物尤为珍稀,后世称为“古丹波”。
常滑烧复兴
天正年间,常滑烧再兴。最初以铁炮窑烧制硬质陶器,元禄年间(1688-1704年)起制红甕。享保年间(1716年起),元功斋村田弥平奉藩命烧制茶器、酒器、花器,养子元光斋长七亦为名手。寛政二年(1790年),伊那长三郎发明火色烧、朱泥、白泥;寛政四年赤井丰入制南写;名工白上村八兵(天和三年卒,享年七十九)不用轱轳,仅凭手指与竹片制器,开一新境。享和年间,鲤江方救创新窑,其子方寿继志成石器。文政年间,伊那长三创白泥。明治年间(1868-1912年),陶然轩赤井新六制雅器。其后常滑盛产土管、火盆及低级出口品,今已为全国屈指陶业地。
港烧复兴
天正年间,和泉国堺浦港烧复兴,专制焙烙。据传早在贞观年间,僧行基已传陶法于当地,但事迹不详。文化年间(1804-1818年),酒井广正制交趾风赤乐釉。
宗四郎烧
天正年间,京都名工宗四郎烧制焙烙与土风炉,称“宗四郎烧”。传说丰臣秀吉赐其“天下第一”之誉。
今户烧
天正年间,武藏国丰岛郡创制今户烧。起源于下总国千叶氏族迁居此地制陶。贞享年间(1684-1688年),白井七首制抹茶风炉与火盆;享保年间,其子制施釉器与仿伏见人形塑像,是谓今户人形。嘉永年间(1848-1855年),名匠作根次郎精制土风炉。明治八年(1875年),瀬户井上良斋(良助)至桥场町,始烧磁器。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】
景延與唐津燒
天正十三年(1585年)八月十一日,筑後守景光七十三歲去世。他的長子四郎右工門景延同樣是位不遜於父親的名陶工。某次,肥前唐津的浪人森善右工門來到久尻,批評當地的窯制拙劣。景延深感不足,便請求隨他前往肥前,親自學習唐津窯的結構、燒成方法及釉藥技術。回到久尻後,他的陶藝大大進步,被譽為當時無與倫比的名匠。瀨戶與飽津的陶工聽聞唐津窯的優越,想要參觀,但景延秘而不傳。
飽津陶工與唐津燒
某年新年,飽津的陶工們結伴拜訪景延。在宴席正酣之時,其中一人松原仁兵衛(太郎藏之子)假借如廁,暗中翻越高牆窺探秘窯。景延大怒追趕,餘客亦逃散。此後,瀨戶、赤津的陶工紛紛效仿唐津窯,掀起尾濃窯式的革新。據說名物茶入「瓶子窯」便是此時期的作品。
志戶呂復興
天正年間(1573-1593年),加藤景延之妹婿內藤五郎左工門景忠(五郎右工門景豐之子,後號加藤庄右工門)復興了遠州的志戶呂燒。後來,小堀遠江守政一(號宗甫,正保四年〔1647年〕卒,享年六十九歲)指揮當地工匠燒製茶器,使志戶呂聲名大振。順帶一提,小堀喜好的「遠州七窯」除志戶呂外,還有近江的膳所燒、豐前的上野燒、山城的朝日燒、大和的赤膚燒、攝津的古曾部燒、筑前的高取燒。
小松谷燒
天正年間,信樂陶工元吉來到山城國澀谷,依循深草製陶古法,改良並發明了施釉技術。這便是小松谷燒,又稱澀谷燒。
丹波燒
天正年間,丹波國多紀郡今田村立杭創制了丹波燒。至寬永年間,開始燒製茶器,其中外壁刻有數十細紋的器物尤為珍稀,後世稱為「古丹波」。
常滑燒復興
天正年間,常滑燒再興。最初以鐵炮窯燒製硬質陶器,元祿年間(1688-1704年)起制紅甕。享保年間(1716年起),元功齋村田彌平奉藩命燒製茶器、酒器、花器,養子元光齋長七亦為名手。寬政二年(1790年),伊那長三郎發明火色燒、朱泥、白泥;寬政四年赤井豐入制南寫;名工白上村八兵(天和三年卒,享年七十九)不用轆轤,僅憑手指與竹片製器,開一新境。享和年間,鯉江方救創新窯,其子方壽繼志成石器。文政年間,伊那長三創白泥。明治年間(1868-1912年),陶然軒赤井新六製雅器。其後常滑盛產土管、火盆及低級出口品,今已為全國屈指陶業地。
港燒復興
天正年間,和泉國堺浦港燒復興,專制焙烙。據傳早在貞觀年間,僧行基已傳陶法於當地,但事蹟不詳。文化年間(1804-1818年),酒井廣正制交趾風赤樂釉。
宗四郎燒
天正年間,京都名工宗四郎燒製焙烙與土風爐,稱「宗四郎燒」。傳說豐臣秀吉賜其「天下第一」之譽。
今戶燒
天正年間,武藏國豐島郡創制今戶燒。起源於下總國千葉氏族遷居此地製陶。貞享年間(1684-1688年),白井七首制抹茶風爐與火盆;享保年間,其子製施釉器與仿伏見人形塑像,是謂今戶人形。嘉永年間(1848-1855年),名匠作根次郎精製土風爐。明治八年(1875年),瀨戶井上良齋(良助)至橋場町,始燒磁器。
【中国語訳(英語から簡体字)】
景延与唐津窑
1585年(天正十三年)八月十一日,筑后守景光七十三岁去世。他的长子四郎右卫门景延同样是位名陶工。某次,肥前唐津浪人森善右卫门到访久尻,批评当地窑法笨拙。景延自觉不足,请随之赴肥前,学习唐津窑的结构、烧法与釉药。归来后技艺大进,被誉为当代无双。瀬户、飽津陶工求观唐津窑,景延秘而不许。
飽津陶工与唐津窑
新年时,飽津陶工集体拜景延。一人松原仁兵卫(太郎藏子)假借如厕,翻墙窥窑。景延怒逐之,余客逃散。此后瀬户、赤津皆效唐津窑,改革尾濃窑式。名茶入“瓶子窑”出于此时。
志户吕复兴
天正年间,景延妹婿内藤五郎左卫门景忠复兴远州志户吕烧。后小堀政一(号宗甫)指挥工人制茶器,使其名声大振。小堀所好“远州七窑”包括志户吕、膳所、上野、朝日、赤肤、古曾部、高取。
小松谷烧
天正年间,信乐陶工元吉至山城涩谷,依深草古法改良施釉,创小松谷烧(或涩谷烧)。
丹波烧
天正年间,丹波立杭创制。宽永年间制茶器,饰细纹,后称“古丹波”。
常滑烧复兴
天正年间常滑再兴。元禄制红甕,享保村田弥平奉命制茶器等,养子长七亦名。1790伊那长三郎发明火色烧、朱泥、白泥;1792赤井丰入仿南烧;白上村八兵不用轱轤手制名器。后鲤江方救创新窑,其子成石器。文政发白泥。明治赤井新六制雅器,后产土管火盆与出口品,今为大陶业地。
港烧复兴
天正年间堺浦复兴港烧,专制焙烙。传僧行基授陶法。文化年间酒井广正制交趾风赤乐釉。
宗四郎烧
天正年间京都宗四郎制焙烙与土炉,获丰臣秀吉称“天下一”。
今户烧
天正年间武藏丰岛创今户烧,源自千叶氏族迁此。1684白井七制茶炉与火盆;1716子制施釉与今户人形。1848作根次郎制炉;1875井上良斋制瓷。
【中国語訳(英語から繁體字)】
景延與唐津窯
1585年(天正十三年)八月十一日,筑後守景光七十三歲去世。他的長子四郎右衛門景延同樣是位名陶工。某次,肥前唐津浪人森善右衛門到訪久尻,批評當地窯法笨拙。景延自覺不足,請隨之赴肥前,學習唐津窯的結構、燒法與釉藥。歸來後技藝大進,被譽為當代無雙。瀨戶、飽津陶工求觀唐津窯,景延秘而不許。
飽津陶工與唐津窯
新年時,飽津陶工集體拜景延。一人松原仁兵衛(太郎藏子)假借如廁,翻牆窺窯。景延怒逐之,餘客逃散。此後瀨戶、赤津皆效唐津窯,改革尾濃窯式。名茶入「瓶子窯」出於此時。
志戶呂復興
天正年間,景延妹婿內藤五郎左衛門景忠復興遠州志戶呂燒。後小堀政一(號宗甫)指揮工人製茶器,使其名聲大振。小堀所好「遠州七窯」包括志戶呂、膳所、上野、朝日、赤膚、古曾部、高取。
小松谷燒
天正年間,信樂陶工元吉至山城澀谷,依深草古法改良施釉,創小松谷燒(或澀谷燒)。
丹波燒
天正年間,丹波立杭創制。寬永年間製茶器,飾細紋,後稱「古丹波」。
常滑燒復興
天正年間常滑再興。元祿製紅甕,享保村田彌平奉命製茶器等,養子長七亦名。1790伊那長三郎發明火色燒、朱泥、白泥;1792赤井豐入仿南燒;白上村八兵不用轆轤手製名器。後鯉江方救創新窯,其子成石器。文政發白泥。明
治赤井新六製雅器,後產土管火盆與出口品,今為大陶業地。
港燒復興
天正年間堺浦復興港燒,專制焙烙。傳僧行基授陶法。文化年間酒井廣正製交趾風赤樂釉。
宗四郎燒
天正年間京都宗四郎製焙烙與土爐,獲豐臣秀吉稱「天下一」。
今戶燒
天正年間武藏豐島創今戶燒,源自千葉氏族遷此。1684白井七製茶爐與火盆;1716子製施釉與今戶人形。1848作根次郎製爐;1875井上良齋製瓷。

