【原文】
美濃の中興
同慶長二年(1597年)久尻の加藤景延は、謹製せるところの白釉茶盤を正親町上皇に奉献して朝日焼の名稱を拝受し、そして同年七月五日筑後守に任せられた。(美濃焼中興の祖と稱せられし景延は寛永九年(1632年)二月二日卒し、大正四年十一月十日特に従五位に贈叙されたのである)
徳川氏江戸時代=大萱窯
同慶長六年(1601年)景久の次男なる、加藤源十郎景成美濃國久々利村(可兒郡)大萓に開窯し、志野及織部等を製作せしといはれてゐる。
水上窯
同慶長七年(1602年)景久の五男なる、加藤太郎右工門景俊は美濃國水上窯(恵那郡)を復興した。
義直陶家を召還す
同慶長十五年(1600年)三月五日尾張侯徳川義直は、瀬戸の陶家が天正十年(1582年)後他國に離散せしを遺憾さし庄屋に命じて本國へ歸業すべき令を下だした。此時飽津へ帰りしは、美濃國郷の木(恵那郡)に製陶しつゝありし加藤唐三郎景貞と、弟仁兵衛景鄉(共に藤右エ門景頼の男)であつた。
又同國水上村(恵那郡)品野へ歸業せしは、加藤新右工門景重と、舎弟三右工門重光(共に萬右工門基範の男)であつた。藩主は飽津へ歸来せし者に窯場八畝歩を興へ、品野へ歸來せし者に同七畝歩を興へ、なほ年金貳拾両を下附せしが、翌十六年正月十五日には用人格御窯司を命じて恩地二十石を給せらるゝに至つた。
清水焼
同慶長年間(1596-1615年)茶碗屋久兵衛なる者、京都清水五條坂に於て色彩を施せる陶器を製作した。是が清水焼の濫觴とせらる。
笠原焼
後水尾天皇の元和元年(1615年)、景久の六男加藤治右工門景繁及八男芳右工門景と共に、美濃國笠原(土岐郡)に開窯した。(或は天正十五年(1600年)源十郎景成の開窯とも稱せらる)
高田窯
同元和二年(1616年)景久の七男なる、加藤與工門景一は美濃國高田(土岐郡)に開窯した。
粟田焼
同元和年間瀬戸の加藤新兵衛景在(吉右エ門重の弟)は、京都粟田口三條蹴上なる華頂畑に開窯し三文字屋九左工門と改名した。そして其子工門、助冶工門及徒弟德右工門等と協力して粟田焼を創業したのである。
【現代語訳】
美濃の中興
慶長二年(1597年)、久尻の加藤景延は白釉の茶盤を謹作し、正親町上皇に献上して「朝日焼」の名称を賜り、同年七月五日には筑後守に任じられた。美濃焼中興の祖と称される景延は、寛永九年(1632年)二月二日に没し、大正四年(1915年)十一月十日に特に従五位を追贈された。
徳川氏時代の大萱窯
慶長六年(1601年)、景久の次男・加藤源十郎景成は美濃国久々利村(可児郡)大萱に窯を開き、志野や織部を製作したと伝えられている。
水上窯
慶長七年(1602年)、景久の五男・加藤太郎右工門景俊が美濃国恵那郡の水上窯を復興した。
徳川義直の陶工召還
慶長十五年(1600年)三月五日、尾張侯・徳川義直は、瀬戸の陶工が天正十年(1582年)の後に他国へ散ったことを惜しみ、庄屋に命じて本国に帰還させるよう指示した。このとき飽津へ戻ったのは、美濃国恵那郡郷ノ木で製陶をしていた加藤唐三郎景貞と弟の仁兵衛景郷(ともに藤右工門景頼の子)であった。
また同国恵那郡水上村の品野に戻ったのは、加藤新右工門景重と弟の三右工門重光(ともに萬右工門基範の子)であった。藩主は、飽津へ帰還した者には窯場八畝歩を与え、品野へ帰った者には七畝歩を与え、さらに年金二十両を下賜した。翌慶長十六年(1611年)正月十五日には「御窯司」に任じ、恩地二十石を与えた。
清水焼
慶長年間(1596-1615年)、京都清水五条坂で「茶碗屋久兵衛」と呼ばれた陶工が色彩を施した陶器を製作した。これが清水焼の始まりとされる。
笠原焼
元和元年(1615年)、後水尾天皇の御代に、景久の六男・加藤治右工門景繁と八男・芳右工門景が美濃国土岐郡笠原で開窯した(あるいは天正十五年〔1600年〕に源十郎景成が開窯したとも伝わる)。
高田窯
元和二年(1616年)、景久の七男・加藤与工門景一が美濃国土岐郡高田に窯を開いた。
粟田焼
元和年間、瀬戸の加藤新兵衛景在(吉右工門重の弟)は京都粟田口三条蹴上の華頂畑に窯を開き、「三文字屋九左工門」と改名した。その後、子の工門・助冶工門、弟子の徳右工門らと協力して粟田焼を創始した。
【英語訳】
The Revival of Mino Ware
In 1597 (Keichō 2), Katō Kagenobu of Kujiri presented a white-glazed tea tray to Emperor Ōgimachi and was granted the name “Asahi ware.” On July 5 of the same year, he was appointed Governor of Chikugo. Known as the restorer of Mino ware, Kagenobu passed away on February 2, 1632 (Kan’ei 9), and in 1915 (Taishō 4) was posthumously awarded the Junior Fifth Rank.
Ōgaya Kiln in the Tokugawa Era
In 1601 (Keichō 6), Katō Genjūrō Kagenari, the second son of Kagehisa, opened a kiln at Ōgaya in Kukuri Village, Mino Province (Kani District). There he produced Shino and Oribe ware.
Mizukami Kiln
In 1602 (Keichō 7), Katō Tarō Uemon Kagetoshi, the fifth son of Kagehisa, revived the Mizukami kiln in Ena District, Mino Province.
Lord Tokugawa Yoshinao Recalls the Potters
On March 5, 1600 (Keichō 15), Tokugawa Yoshinao, lord of Owari, regretted that Seto potters had dispersed to other provinces after 1582 (Tenshō 10). He ordered the village heads to summon them back. At this time, Katō Tōzaburō Kagesada and his younger brother Jinbē Kagezato (sons of Fujiemon Kagenori) returned to Akazu, where they had been working in Gōnoki, Ena District, Mino Province.
Also, Katō Shin Uemon Kageshige and his younger brother San Uemon Shigemitsu (sons of Man Uemon Motonori) returned to Shinano, Ena District. The lord granted the returnees in Akazu eight tan (approx. 0.8 hectares) of kiln land, those in Shinano seven tan, and further awarded them an annual stipend of 20 ryō. On January 15, 1611 (Keichō 16), they were appointed as official kiln supervisors (Onyōsuji), receiving stipends of 20 koku of land.
Kiyomizu Ware
During the Keichō era (1596-1615), a potter known as “Chawanya Kyūbē” produced colorful ceramics at Gojozaka, Kiyomizu, Kyoto. This is regarded as the origin of Kiyomizu ware.
Kasahara Ware
In 1615 (Genna 1), under Emperor Go-Mizunoo, Katō Jiemon Kageshige (sixth son of Kagehisa) and Katō Hō Uemon Kage (eighth son) opened a kiln at Kasahara, Toki District, Mino Province. Some traditions say the kiln was originally founded in 1600 (Tenshō 15) by Genjūrō Kagenari.
Takada Kiln
In 1616 (Genna 2), Katō Yo Uemon Kagekazu, the seventh son of Kagehisa, opened a kiln at Takada, Toki District, Mino Province.
Awata Ware
During the Genna era, Katō Shinbē Kageari (younger brother of Kichiuemon Shige) of Seto opened a kiln at Kachō-no-hata in Keage, Sanjō, Awataguchi, Kyoto. He changed his name to Sanmonjiyā Kyūzaemon and, with his sons Komon and Sukeyajiemon and apprentice Tokueimon, founded Awata ware.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】
美浓的中兴
1597年(庆长二年),久尻的加藤景延献上白釉茶盘于正亲町上皇,获赐“朝日烧”之名。同年七月五日被任为筑后守。作为美浓烧中兴之祖的景延,1632年(宽永九年)二月二日逝世,1915年(大正四年)十一月十日追赠从五位。
德川时代的大萱窑
1601年(庆长六年),景久次子加藤源十郎景成在美浓国久々利村(可儿郡)大萱开窑,制志野与织部烧。
水上窑
1602年(庆长七年),景久五子加藤太郎右工门景俊复兴美浓国惠那郡水上窑。
德川义直召回陶工
1600年(庆长十五年)三月五日,尾张藩主德川义直因惋惜瀬户陶工于1582年(天正十年)后流散外地,下令召回。此时返回飽津者为美浓国惠那郡乡之木制陶的加藤唐三郎景贞与弟仁兵卫景乡(二人皆藤右工门景赖之子)。
同时返回惠那郡品野者为加藤新右工门景重与弟三右工门重光(二人皆万右工门基范之子)。藩主赐飽津者窑地八畝步,赐品野者七畝步,并给年金二十两。翌年(庆长十六年)正月十五日,命为“御窑司”,赐地二十石。
清水烧
庆长年间(1596-1615年),京都清水五条坂的陶工“茶碗屋久兵卫”制作彩绘陶器,被视为清水烧的开端。
笠原烧
1615年(元和元年),后水尾天皇时代,景久六子加藤治右工门景繁与八子芳右工门景在美浓国土岐郡笠原开窑(或传为1600年〔天正十五年〕源十郎景成所建)。
高田窑
1616年(元和二年),景久七子加藤与工门景一于美浓国土岐郡高田开窑。
粟田烧
元和年间,瀬户陶工加藤新兵卫景在(吉右工门重之弟)于京都粟田口三条蹴上的华顶畑开窑,改名“三文字屋九左工门”,与子工门、助冶工门及徒弟德右工门合作创制粟田烧。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】
美濃的中興
1597年(慶長二年),久尻的加藤景延獻上白釉茶盤於正親町上皇,獲賜「朝日燒」之名。同年七月五日被任為筑後守。作為美濃燒中興之祖的景延,1632年(寬永九年)二月二日逝世,1915年(大正四年)十一月十日追贈從五位。
德川時代的大萱窯
1601年(慶長六年),景久次子加藤源十郎景成在美濃國久々利村(可兒郡)大萱開窯,製志野與織部燒。
水上窯
1602年(慶長七年),景久五子加藤太郎右工門景俊復興美濃國惠那郡水上窯。
德川義直召回陶工
1600年(慶長十五年)三月五日,尾張藩主德川義直因惋惜瀨戶陶工於1582年(天正十年)後流散外地,下令召回。此時返回飽津者為美濃國惠那郡鄉之木製陶的加藤唐三郎景貞與弟仁兵衛景鄉(二人皆藤右工門景賴之子)。
同時返回惠那郡品野者為加藤新右工門景重與弟三右工門重光(二人皆萬右工門基範之子)。藩主賜飽津者窯地八畝步,賜品野者七畝步,並給年金二十兩。翌年(慶長十六年)正月十五日,命為「御窯司」,賜地二十石。
清水燒
慶長年間(1596-1615年),京都清水五條坂的陶工「茶碗屋久兵衛」製作彩繪陶器,被視為清水燒的開端。
笠原燒
1615年(元和元年),後水尾天皇時代,景久六子加藤治右工門景繁與八子芳右工門景在美濃國土岐郡笠原開窯(或傳為1600年〔天正十五年〕源十郎景成所建)。
高田窯
1616年(元和二年),景久七子加藤與工門景一於美濃國土岐郡高田開窯。
粟田燒
元和年間,瀨戶陶工加藤新兵衛景在(吉右工門重之弟)於京都粟田口三條蹴上的華頂畑開窯,改名「三文字屋九左工門」,與子工門、助冶工門及徒弟德右工門合作創製粟田燒。
【中国語訳(英語から簡体字)】
美浓复兴
1597年,加藤景延向正亲町上皇献上白釉茶盘,获赐“朝日烧”之名,并任筑后守。景延被称
为美浓烧中兴之祖,1632年去世,1915年追赠从五位。
大萱窑
1601年,加藤源十郎景成在美浓大萱开窑,制志野与织部。
水上窑
1602年,加藤太郎右工门景俊复兴水上窑。
义直召回陶工
1600年,德川义直召回流散陶工。加藤唐三郎景贞与弟仁兵卫景乡归飽津,加藤新右工门景重与弟三右工门重光归品野。藩主赐窑地与年金,次年任其为御窑司。
清水烧
庆长年间,京都五条坂的茶碗屋久兵卫制彩陶,始称清水烧。
笠原烧
1615年,加藤景繁与景开笠原窑(或传1600年景成开窑)。
高田窑
1616年,加藤景一开高田窑。
粟田烧
元和年间,加藤新兵卫景在京都粟田口开窑,改名三文字屋九左工门,与家族弟子共创粟田烧。
【中国語訳(英語から繁體字)】
美濃復興
1597年,加藤景延向正親町上皇獻上白釉茶盤,獲賜「朝日燒」之名,並任筑後守。景延被稱為美濃燒中興之祖,1632年去世,1915年追贈從五位。
大萱窯
1601年,加藤源十郎景成在美濃大萱開窯,製志野與織部。
水上窯
1602年,加藤太郎右工門景俊復興水上窯。
義直召回陶工
1600年,德川義直召回流散陶工。加藤唐三郎景貞與弟仁兵衛景鄉歸飽津,加藤新右工門景重與弟三右工門重光歸品野。藩主賜窯地與年金,次年任其為御窯司。
清水燒
慶長年間,京都五條坂的茶碗屋久兵衛製彩陶,始稱清水燒。
笠原燒
1615年,加藤景繁與景開笠原窯(或傳1600年景成開窯)。
高田窯
1616年,加藤景一開高田窯。
粟田燒
元和年間,加藤新兵衛景在京都粟田口開窯,改名三文字屋九左工門,與家族弟子共創粟田燒。

