【原文】[Original text]
秀吉の朝鮮役
宗室の阻諌
秀吉が出兵を企圖する其以前に於いて、彼の内命を受けし鳥井宗室(博多の豪商に徳工門重勝と稱す。元和元年卒七十七才)が普く韓土を視察せし結果は、此企圖が甚だ不利なるを認めて頻りに阻諌せしも、秀吉毫も之を容れす、刧つて彼が親近するを禁じたのである。
朝鮮出兵
時は文祿元年(1593年)三月十三日を以て、秀吉は三拾余万の大軍を召集し、此中二拾万五千五百七拾人を韓土に出兵せしめ、同三月二十六日自ら京師を發し四月二十五日肥前國上松浦なる名護屋城に着せしが、拾万二千四百拾五人の軍をして城外二里四方の周圍を厳重に警備ぜしめたのである。
第一軍の先鋒は、加藤清正(肥後國熊本城主)と小西行長(同國宇土の城主)を主將とし、清正は八千人(或は一万人との)を率ゐ、そして肥前國佐嘉の城主鍋島直茂之が副將として一万二千人を率る、又肥前上松浦鬼子嶽の城主波多親二千人を率ゐて直茂に属した。
小西行長は別隊となりて七千人を率ゐ、之に属せし肥前の諸將には、平戸の城主松浦鎮信三千人、島原の城主有馬晴信二千人、大村の城主大村喜前一千人、五島福江の城主五島純玄(淡路守始宇久大和守盛時) 七百人を率ゐ、清正と二道に岐れて進軍することゝなった。
鍋島軍の重なる部将
此時鍋島直茂に從へる重なる部將を擧ぐれば、山代孫七郎貞、田尻丹後守鑑種、成富兵庫助茂安、多久長門守安順、鍋島平五郎茂里、同三郎兵衛茂正、同新左工門種卷、同生珊入道道泉、同助右工門茂良、龍造寺七郎左工門家晴、同彥右工門家俊、同又八郎久茂、同太郎次郎茂成、同新介家光、同太郎五郎重統、同太郎九郎信成、同四郎兵衛信時、松浦太郎信昭、後藤十左工門家信、深堀中務太輔純賢小田四郎次郞信光、神代喜平次家良、姉川中務太輔信安、小川市左工門家俊、同半内家尚、千布宗右工門賢利、千葉右馬允胤信、犬塚三郎右工門茂虎、同興三右工門茂績、八戸助兵衛宗春、横岳下野守賴績、中山備前守信增、出雲兵部少輔信忠、大木兵部少輔純光、鹿江伯耆守信明、三浦四郎右工門賢純、木下四郎兵衛昌直、馬場太郎次郎信員、高木甚兵衛盛清、同與左工門胤清、同兵内泰幸、馬渡相右工門茂光、鴨打孫右工門胤純、同孫六家胤、中野神右工門清明、太田巳左工門茂連、内田助三郎家勝、土肥孫六郎茂實、納富又三郎家和、西牟田新介家親、平吉刑部丞茂慶、水町平右工門茂成、倉町半三郎家秀、嬉野休藏通直、同孫作通清等であつた。
解纜と歸國
斯くて直茂の軍は肥前國伊萬里港を解纜し、文祿元年(1593年)四月十二日両先鋒とも名護屋浦より出帆した。之より咸鏡、開城、安邊に轉戦し、直茂は清正と共に王城に入りしが、六月二十九日別れて吉州に向ひ十月永興郡に大戰した。同二年正月五日別軍の將小早川隆景(筑前名島城主)は、碧蹄館に於いて明の李如松が大軍を破りしも同七日行長平壌に大敗した。
文祿三年(1595年)明使來朝して和議成り。同五年十一月改まり慶長元年(1596年)正月に至り我軍悉く歸陣し、直茂又伊萬里へ皈港したのである。(此時直茂出兵記念として韓土の松を携へ帰り、此地木須の戸渡島神社「其後伊萬里相生橋畔に遷座し今又土井町へ轉座さる」へ移植せしものが、今の金比羅社下の松樹であるといはれてゐる)
再度の出兵
慶長元年(1596年)九月、和議破れて再び朝鮮の役を起し、同年十月二十日直茂は第一軍の軍奉行として伊萬里港より再戦の途につくや、長子伊太勝茂切に乞うて初陣し同二年七月十五日巨濟島の海戦に加はり、同年十二月陸戦に於いては明將楊鎬が大軍を夜襲して、清正が蔚山の重圍を解きし等苦戦交々なる折柄。同三年八月十八日秀吉伏見城に於いて卒去するに及び、同月二十五日徳川家康、前田利家協議して派遣軍を召還するに至り、直茂又諸將と共に筑前博多港へ歸陣せしは十二月上旬であつた。
戦後の考察
熟々此戰役の跡を考察するに、道路險悪且不案内なる異郷に於いて糧秣の微集困難なりし而己ならず韓軍中にも李舜臣や權慄等の如き謀略勇敢の將又乏しからざりしものとす可く。
加ふるに我先鋒の両主将不和にして行動一途に出てず、行長は途に平壌に敗走し餘軍又京城を捨て、南方に退却するの止むを得ざるの時一旦和議が講せられたのである。
次に再度の我が出兵軍は、多く全羅、慶尚、忠清の三道に楯籠りて遂に京城までは進み得なかつた。就中水軍の如きは甚しき敗北なりしが如く、今兵家の論するところに依れば、其際我が水軍の根據地が順西灣以西に及ばざりし爲といはれてゐる。
戦役の失敗
要するに秀吉の出兵は、明に打撃を加へ、朝鮮に大惨害を與へしのみにて、徒らに多大の人命と國帑を費し出兵軍の無双なる勇武を示したるの外實質的には何等得る所なき大失敗といばねばならぬ。せめて此出兵の一土産とも稱す可きは、彼地より多数の陶工を輸入して我邦陶技の進歩を促かし、然も當時不可能とされし白磁の製作を創業せしむるに至りしことにて、我が工藝史上且産業上特筆すべき事柄であつた。
出兵諸將の歸陣するや、秀吉より彼地の陶工を帯同せよとは命ざりしならんも、當時茶道の隆盛は名護屋城の本管に於いてさへ茶會を催し、或は其附近にて茶器を焼かしめしにしても、此際出兵の諸將中には韓土の陶工を需めたる者少からざりしことを察するに難くない。
朝鮮の建國
元來朝鮮の陶技は、地理的に支那より齎せしことは建国史上の経歴を有し、今より四千年前堯帝の時増君此地に來つて平壌に建國せし稱せられ、尋で三千六百年前殷の王族箕子逃れ來り、周の武王に封ぜられて樂浪(平壌を中心とせる王制地)に都を定めて四百年に及びして博へらる。
其後三韓に分封せしも、漢の元封三年武帝の爲に攻略されて四郡に分れしは、實に我開化天皇の五十年であつた。而して南部半島に建國せし任那は、崇神天皇の三十七年辰韓の地に建國せし新羅の爲に常に壓迫さるに至りしより、同朝の六十五年朝貢して我邦に援助を求めたのである。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
秀吉の朝鮮出兵に先立ち、内々の命を受けた鳥井宗室(博多の豪商・徳工門重勝。元和元年没、七十七歳)が朝鮮各地を広く視察した結果、出兵はきわめて不利だと判断して何度も強く諫めた。しかし秀吉は少しも聞き入れず、逆に宗室の拝謁・接近を禁じた。
文禄元年(1593年)三月十三日、秀吉は三十数万の大軍を召集し、そのうち二十万五千五百七十人を朝鮮に派遣した。三月二十六日に自ら京を発ち、四月二十五日に肥前国上松浦の名護屋城に到着。十万二千四百十五人の軍に命じ、城外二里四方の区域を厳重に警備させた。
第一軍の先鋒は加藤清正(肥後国熊本城主)と小西行長(同国宇土城主)が主将で、清正は八千人(あるいは一万人とも)を率い、肥前国佐嘉の城主・鍋島直茂が副将として一万二千人を率いた。さらに肥前上松浦・鬼子嶽の城主・波多親が二千人を率いて直茂の麾下に入った。小西行長は別働隊として七千人を率い、これに属した肥前の諸将は、平戸城主・松浦鎮信三千、島原城主・有馬晴信二千、大村城主・大村喜前一千、五島福江城主・五島純玄(淡路守、はじめ宇久大和守盛時)七百で、清正と二手に分かれて進軍した。
当時、鍋島直茂に従った主だった部将は次のとおりである。山代孫七郎貞、田尻丹後守鑑種、成富兵庫助茂安、多久長門守安順、鍋島平五郎茂里、同三郎兵衛茂正、同新左工門種巻、同生珊入道道泉、同助右工門茂良、龍造寺七郎左工門家晴、同彦右工門家俊、同又八郎久茂、同太郎次郎茂成、同新介家光、同太郎五郎重統、同太郎九郎信成、同四郎兵衛信時、松浦太郎信昭、後藤十左工門家信、深堀中務太輔純賢、小田四郎次郎信光、神代喜平次家良、姉川中務太輔信安、小川市左工門家俊、同半内家尚、千布宗右工門賢利、千葉右馬允胤信、犬塚三郎右工門茂虎、同興三右工門茂績、八戸助兵衛宗春、横岳下野守頼績、中山備前守信増、出雲兵部少輔信忠、大木兵部少輔純光、鹿江伯耆守信明、三浦四郎右工門賢純、木下四郎兵衛昌直、馬場太郎次郎信員、高木甚兵衛盛清、同与左工門胤清、同兵内泰幸、馬渡相右工門茂光、鴨打孫右工門胤純、同孫六家胤、中野神右工門清明、太田巳左工門茂連、内田助三郎家勝、土肥孫六郎茂実、納富又三郎家和、西牟田新介家親、平吉刑部丞茂慶、水町平右工門茂成、倉町半三郎家秀、嬉野休蔵通直、同孫作通清、以上である。
こうして直茂の軍は肥前国伊万里港で錨を上げ、文禄元年(1593年)四月十二日、両先鋒とも名護屋浦から出帆した。その後、咸鏡・開城・安辺を転戦し、直茂は清正とともに王城(京城)に入ったが、六月二十九日に別れて吉州へ向かい、十月には永興郡で大会戦を行った。翌二年正月五日、別働軍の将・小早川隆景(筑前名島城主)は碧蹄館で明の李如松の大軍を破ったものの、同七日には行長が平壌で大敗した。
文禄三年(1595年)、明の使節が来日して和議が成立。さらに同五年十一月に改元があり、慶長元年(1596年)正月までに我が軍はことごとく帰陣し、直茂も伊万里に帰港した。このとき直茂は出兵の記念に朝鮮の松を持ち帰り、木須の戸渡島神社(のち伊万里相生橋畔に遷座、さらに現在は土井町へ転座)に移植したものが、今の金比羅社下の松だと伝えられる。
しかし慶長元年(1596年)九月、和議が破綻して再び朝鮮の役が起こり、同年十月二十日、直茂は第一軍の軍奉行として伊万里港から再出陣した。長子・伊太勝茂は強く願い出て初陣し、翌二年七月十五日には巨済島の海戦に参加。同年十二月の陸戦では、明将・楊鎬が大軍で夜襲をかけ、清正が蔚山の包囲を解くなど苦戦が続く折から、慶長三年八月十八日に秀吉が伏見城で死去。八月二十五日、徳川家康と前田利家が協議して派遣軍の召還を決め、直茂も諸将とともに筑前・博多港へ帰陣したのは十二月上旬であった。
戦後の状況をよく考えると、道は険しく土地勘もない異国で糧秣の集積が難しかったうえ、朝鮮軍には李舜臣や権慄のように謀略に長け勇敢な将も少なくなかった。加えて、先鋒二将の不和で統一的な行動が取れず、行長は途中で平壌へ敗走、残余の軍もやむなく京城を捨てて南方へ退いたところで、いったん和議が講じられた。再度の出兵においても、我が軍は主として全羅・慶尚・忠清の三道に籠り、ついに京城まで進むことはできなかった。とりわけ水軍は大敗を喫したようで、後世の兵学者の説では、その際わが水軍の根拠地が順西湾以西へ及ばなかったためだという。
要するに秀吉の出兵は、明に一撃を与え朝鮮に甚大な惨害をもたらしただけで、多大の人命と国費を空費し、将兵の比類なき勇武を示したほか実質的な成果は何も得られなかったというべき大失敗である。せめて一つの「土産」と言えるのは、現地から多数の陶工を招来して日本の陶技の進歩を促し、当時は不可能とされた白磁の製作を創業させるに至ったことで、わが工芸史・産業史上、特筆すべき出来事であった。出兵諸将が帰国した際、秀吉が朝鮮の陶工の帯同を命じたわけではなかったろうが、当時は茶の湯が隆盛で、名護屋城の本陣でさえ茶会を催し、またその近辺で茶器を焼かせたほどであるから、この機会に朝鮮陶工を求めた将は少なくなかったと察せられる。
もともと朝鮮の陶技は地理的に中国から伝来した経緯を持つ。伝承では、今から四千年前、堯帝の時代に増君が来て平壌に建国したとされ、ついで三千六百年前には殷の王族・箕子が亡命して周の武王に封ぜられ、楽浪(平壌を中心とする王制地)に都を定め、四百年にわたり栄えた。その後、三韓に分封されたが、漢の元封三年、武帝に攻略されて四郡に分割されたのは、わが開化天皇五十年のことである。さらに半島南部に建国した任那は、崇神天皇三十七年に辰韓の地に建国した新羅に常に圧迫されるようになり、同朝六十五年には朝貢して日本に援助を求めたのである。
【英語訳】[English translation]
Before Hideyoshi launched his Korean campaign, Torii Sōshitsu—also known as the wealthy Hakata merchant Tokukōmon Shigekatsu (d. 1615, age 77)—was privately instructed to survey the peninsula. After widely inspecting Korea, he concluded the expedition would be highly disadvantageous and repeatedly remonstrated. Hideyoshi, however, refused to listen and even forbade Sōshitsu from approaching him.
On March 13, Bunroku 1 (1593), Hideyoshi mustered more than 300,000 troops and sent 205,570 of them to Korea. He departed the capital on March 26 and reached Nagoya Castle in Kamimatsuura, Hizen, on April 25. He ordered 102,415 soldiers to secure a two-ri perimeter outside the castle.
The vanguard of the First Army was commanded by Katō Kiyomasa (lord of Kumamoto in Higo) and Konishi Yukinaga (lord of Uto in the same province). Kiyomasa led 8,000 men (some say 10,000), with Nabeshima Naoshige, lord of Saga in Hizen, serving as deputy commander with 12,000. Hata Chika (lord of Onkodake in Upper Matsuura, Hizen) brought 2,000 under Naoshige. Konishi, as a separate column, led 7,000. The Hizen lords attached to him were: Matsuura Shigenobu of Hirado (3,000), Arima Harunobu of Shimabara (2,000), Ōmura Yoshizumi (1,000), and Goto Sumiharu of Fukue (700; originally Uku Yamato-no-kami Moritoki). The army advanced in two prongs with Kiyomasa and Konishi.
The principal retainers under Nabeshima Naoshige included: Yamashiro Magoshichirō-sada; Tajiri Tango-no-kami Akatane; Naritomi Hyōgo-no-suke Shigeyasu; Taku Nagato-no-kami Yasuyuki; Nabeshima Heigorō Shigekiyo; Saburōbei Shigemasa; Shinzaemon Tanemaki; Shōsan Nyūdō Dōsen; Sukerōmon Shigeyoshi; Ryūzōji Shichirōzaemon Ieharu; Hikorōmon Ietoshi; Matahachirō Hisashige; Tarōjirō Shigenari; Shinsuke Iemitsu; Tarōgorō Shigetada; Tarōkurō Nobunari; Shirōbei Nobutoki; Matsuura Tarō Nobuaki; Gotō Jūzaemon Ienobu; Fukabori Nakatsukasa-no-taifu Sumikata; Oda Shirōjirō Nobumitsu; Kōji Kihēji Ieyoshi; Anegawa Nakatsukasa-no-taifu Nobuyasu; Ogawa Ichizaemon Ietoshi; Han’nai Ienao; Chifu Sōuemon Katori; Chiba Uma-no-jō Tane’nobu; Inuzuka Saburōuemon Shigetora; Okōzōuemon Shigenori; Hachinohe Sukebei Muneharu; Yokotake Shimotsuke-no-kami Yorinari; Nakayama Bizen-no-kami Nobumasu; Izumo Hyōbu-shōyū Nobutada; Ōki Hyōbu-shōyū Sumimitsu; Kakae Hōki-no-kami Nobuaki; Miura Shirōuemon Masasumi; Kinoshita Shirōbei Masanao; Baba Tarōjirō Nobukazu; Takagi Jinbei Morikiyo; Yozāemon Tane’kiyo; Hyonai Yasuyuki; Mawatari Aiue’mon Shigemitsu; Kamōchi Magouemon Tanesumi; Magoroku Ieitane; Nakano Jin’uemon Kiyoshi; Ōta Misaoemon Shigemura; Uchida Sukesaburō Iekatsu; Dohi Magorokurō Shigezane; Nōmi Matazaburō Ieyasu; Nishimuta Shinsuke Iechika; Hirayoshi Gyōbu-no-jō Shigeyoshi; Mizumachi Heirōmon Shigenari; Kuramachi Hansaburō Iehide; Ureshino Kyūzō Michinao; and his kinsman Magosaku Michikiyo.
Naoshige’s force weighed anchor at Imari in Hizen, and on April 12 of Bunroku 1 (1593) both vanguards sailed from Nagoya Bay. They fought through Hamgyŏng, Kaesŏng, and Anbyŏn; Naoshige entered the royal capital with Kiyomasa, then separated on June 29 toward Kilsŏng and fought a major battle at Yŏnghŭng in October. On January 5 of the following year, Kobayakawa Takakage (lord of Najima in Chikuzen) defeated the Ming general Li Rusong at Byeokjegwan, but on the 7th Konishi was heavily defeated at Pyongyang.
In Bunroku 3 (1595) a Ming mission came and peace was concluded. After a change of era in the 11th month of the 5th year, by Keichō 1 (1596) New Year the Japanese forces had all returned, and Naoshige also put into Imari. It is said that, as a memento of the campaign, he brought back a Korean pine and transplanted it to Towatari-jima Shrine in Kisu (later moved near Aioi Bridge in Imari, and now relocated to Doi-machi), the tree now beneath the Konpira Shrine.
In Keichō 1 (1596) September, the peace collapsed and the war resumed. On October 20 Naoshige departed Imari as chief magistrate of the First Army. His eldest son Itakatsushige begged to make his first campaign, joined the naval battle off Geoje Island on July 15 of the next year, and in December during land operations the Ming general Yang Hao launched a night attack; Kiyomasa broke the siege of Ulsan amid repeated hard fighting. After Hideyoshi died at Fushimi Castle on August 18 of Keichō 3, Tokugawa Ieyasu and Maeda Toshiie agreed on August 25 to recall the expeditionary army. Naoshige and the other commanders returned to Hakata in Chikuzen in early December.
In retrospect, the campaign struggled with rough roads, unfamiliar terrain, and the difficulty of provisioning in a foreign land, while the Korean side had able and daring commanders such as Yi Sun-sin and Kwon Yul. Moreover, the two Japanese vanguard leaders were at odds and failed to act in concert; Konishi retreated toward Pyongyang, and the remaining forces abandoned the capital and withdrew south, whereupon a temporary peace was arranged. In the second campaign, the Japanese remained largely entrenched in Jeolla, Gyeongsang, and Chungcheong and never reached the capital. The navy in particular suffered severe defeats; later strategists argue this was because the Japanese naval bases did not extend west of Shunsei Bay.
In short, Hideyoshi’s invasions dealt blows to Ming and inflicted great disaster on Korea, but squandered vast lives and treasure and, aside from displaying unmatched valor, achieved no substantive gains—a major failure. If anything worthwhile resulted, it was the importation of many Korean potters, which advanced Japanese ceramic techniques and even inaugurated the production of white porcelain, then deemed impossible—an event of signal importance in Japan’s arts and industry. Although Hideyoshi likely issued no order to bring back potters, the tea ceremony was flourishing—even the Nagoya field headquarters hosted gatherings and had utensils fired nearby—so it is easy to see that many commanders took the opportunity to recruit Korean potters.
As for Korea’s origins, traditional accounts say its ceramic culture came via China. Some claim that 4,000 years ago, under Emperor Yao, Zeng Jun came and founded a state at Pyongyang; later, 3,600 years ago, the Shang prince Jizi fled there and was enfeoffed by King Wu of Zhou, establishing his capital at Lelang (a royal domain centered on Pyongyang) which flourished for 400 years. Afterwards the land was divided among the Three Han, but in the third year of Yuanfeng under Emperor Wu of Han it was conquered and divided into four commanderies—coinciding, it is said, with the 50th year of Japan’s Emperor Kaika. In the peninsula’s south, Mimana (Imna) was founded; yet from the 37th year of Emperor Sujin, Silla—founded in the land of Jinhan—constantly pressed it, and in the 65th year it paid tribute to Japan to seek aid.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
在秀吉出兵朝鲜之前,受其内命的鸟井宗室(博多豪商,号“德工门重胜”,元和元年去世,享年七十七)广泛考察了朝鲜各地,断定出兵极为不利,多次强烈进谏。但秀吉丝毫不采纳,反而禁止他接近。
文禄元年(1593)三月十三日,秀吉动员三十余万大军,其中二十万五千五百七十人出征朝鲜。三月二十六日他亲自离京,四月二十五日抵达肥前国上松浦的名护屋城,并命十万二千四百十五人严密警备城外二里四方的区域。
第一军先锋由加藤清正(肥后国熊本城主)与小西行长(同国宇土城主)统率。清正率八千人(或云一万人),肥前国佐嘉城主锅岛直茂为副将,率一万二千人;肥前上松浦鬼子嶽城主波多亲率二千人隶属直茂。小西行长另成一路,率七千人。隶属其麾下的肥前诸将有:平户城主松浦鎮信三千、岛原城主有马晴信二千、大村城主大村喜前一千、五岛福江城主五岛纯玄(淡路守,初名宇久大和守盛时)七百,与清正分两路并进。
当时随锅岛直茂出征的主要部将如下:山代孫七郎贞、田尻丹后守鉴种、成富兵库助茂安、多久长门守安顺、锅岛平五郎茂里、同三郎兵卫茂正、同新左工门种卷、同生珊入道道泉、同助右工门茂良、龙造寺七郎左工门家晴、同彦右工门家俊、同又八郎久茂、同太郎次郎茂成、同新介家光、同太郎五郎重统、同太郎九郎信成、同四郎兵卫信时、松浦太郎信昭、后藤十左工门家信、深堀中务大辅纯贤、小田四郎次郎信光、神代喜平次家良、姉川中务大辅信安、小川市左工门家俊、同半内家尚、千布宗右工门贤利、千叶右马允胤信、犬塚三郎右工门茂虎、同兴三右工门茂绩、八户助兵卫宗春、横岳下野守赖绩、中山备前守信增、出云兵部少辅信忠、大木兵部少辅纯光、鹿江伯耆守信明、三浦四郎右工门贤纯、木下四郎兵卫昌直、马场太郎次郎信员、高木甚兵卫盛清、同与左工门胤清、同兵内泰幸、马渡相右工门茂光、鸭打孙右工门胤纯、同孙六家胤、中野神右工门清明、太田巳左工门茂连、内田助三郎家胜、土肥孙六郎茂实、纳富又三郎家和、西牟田新介家亲、平吉刑部丞茂庆、水町平右工门茂成、仓町半三郎家秀、嬉野休藏通直、同孙作通清。
此后直茂军自肥前国伊万里港起锚,文禄元年(1593)四月十二日,两路先锋同自名护屋浦出帆。继而转战咸镜、开城、安边,直茂与清正同入王城(京城),六月二十九日分道赴吉州,十月在永兴郡大战。翌年正月五日,别动军将小早川隆景(筑前名岛城主)于碧蹄馆击破明将李如松之大军,惟七日小西行长在平壤大败。
文禄三年(1595)明使来日议和。又于同五年十一月改元,至庆长元年(1596)正月,我军尽数回国,直茂亦返抵伊万里。据传他将朝鲜之松树携回,移植于木须的户渡岛神社(后迁至伊万里相生桥畔,今又迁至土井町),即今金比罗社下之松。
庆长元年(1596)九月,和议破裂,战事再起。十月二十日直茂作为第一军军奉行自伊万里再度出征。长子伊太胜茂恳请初阵,翌二年七月十五日参加巨济岛海战;十二月陆战中,明将杨镐以大军夜袭,清正解蔚山之围,战况屡屡艰苦。庆长三年八月十八日秀吉于伏见城卒,二十五日德川家康、前田利家协商召回远征军。直茂与诸将于十二月上旬归阵筑前博多港。
战后反思:异域道路险恶且不熟,军需集积困难;朝鲜军亦有李舜臣、权慄等足智勇敢之将。且日军先锋二将不和,难以协同行动;行长半途败走平壤,余军亦弃京城南退,遂一度议和。再度出兵时,日军多据全罗、庆尚、忠清三道,终于未能进至京城。尤其水军败甚,后世兵家以为其因当时我方水军根拠地未能推进至顺西湾以西。
总之,秀吉之出兵,仅给明与朝鲜造成打击与惨祸,徒耗大量人命与国帑,除展现无双之勇武外,并无实质收获,可谓大失败。所幸之“土产”,乃自彼地延揽众多陶工,促进日本陶技之进步,并创制当时被视为不可能之白瓷生产,此在日本工艺与产业史上尤为可书。出兵诸将归国时,虽非奉秀吉明令携带陶工,但当时茶道隆盛,名护屋城本阵亦屡设茶会,附近甚至烧制茶器,是以诸将中求聘朝鲜陶工者不在少数。
本来朝鲜陶技在地理上由中国传来,建国传说亦载:距今四千年前堯帝时增君来至平壤建国;又三千六百年前殷王族箕子流寓,被周武王封,定都乐浪(以平壤为中心之王制地),延续四百年。其后分封为三韩;汉元封三年为武帝所攻,分为四郡,此正当我开化天皇五十年。南半岛所建之任那,自崇神天皇三十七年立于辰韩之地之新罗兴起,常受其压,至同朝六十五年朝贡,请日本援助。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
在秀吉出兵朝鮮之前,受其內命的鳥井宗室(博多豪商,號「德工門重勝」,元和元年卒,享年七十七)廣泛考察了朝鮮各地,斷定出兵極為不利,屢次強烈進諫。然而秀吉絲毫不採納,反而禁止其接近。
文祿元年(1593)三月十三日,秀吉動員三十餘萬大軍,其中二十萬五千五百七十人出征朝鮮。三月二十六日親自離京,四月二十五日抵肥前國上松浦之名護屋城,並令十萬二千四百十五人嚴密警備城外二里四方。
第一軍先鋒由加藤清正(肥後國熊本城主)與小西行長(同國宇土城主)統率。清正率八千(或曰一萬),肥前國佐嘉城主鍋島直茂為副將,率一萬二千;肥前上松浦鬼子嶽城主波多親率二千隸屬直茂。小西行長另為一路,率七千。隸屬其麾下之肥前諸將有:平戶城主松浦鎮信三千、島原城主有馬晴信二千、大村城主大村喜前一千、五島福江城主五島純玄(淡路守,初名宇久大和守盛時)七百,與清正分道並進。
時隨鍋島直茂出征之主要部將如下:山代孫七郎貞、田尻丹後守鑑種、成富兵庫助茂安、多久長門守安順、鍋島平五郎茂里、同三郎兵衛茂正、同新左工門種卷、同生珊入道道泉、同助右工門茂良、龍造寺七郎左工門家晴、同彥右工門家俊、同又八郎久茂、同太郎次郎茂成、同新介家光、同太郎五郎重統、同太郎九郎信成、同四郎兵衛信時、松浦太郎信昭、後藤十左工門家信、深堀中務大輔純賢、小田四郎次郎信光、神代喜平次家良、姊川中務大輔信安、小川市左工門家俊、同半內家尚、千布宗右工門賢利、千葉右馬允胤信、犬塚三郎右工門茂虎、同興三右工門茂績、八戶助兵衛宗春、橫岳下野守賴績、中山備前守信增、出雲兵部少輔信忠、大木兵部少輔純光、鹿江伯耆守信明、三浦四郎右工門賢純、木下四郎兵衛昌直、馬場太郎次郎信員、高木甚兵衛盛清、同與左工門胤清、同兵內泰幸、馬渡相右工門茂光、鴨打孫右工門胤純、同孫六家胤、中野神右工門清明、太田巳左工門茂連、內田助三郎家勝、土肥孫六郎茂實、納富又三郎家和、西牟田新介家親、平吉刑部丞茂慶、水町平右工門茂成、倉町半三郎家秀、嬉野休藏通直、同孫作通清。
其後直茂軍自肥前國伊萬里港起錨,文祿元年(1593)四月十二日,兩路先鋒同自名護屋浦出帆。繼而轉戰咸鏡、開城、安邊,直茂與清正同入王城(京城),六月二十九日分道赴吉州,十月於永興郡大戰。翌年正月五日,別動軍將小早川隆景(筑前名島城主)於碧蹄館擊破明將李如松大軍,惟七日小西行長於平壤大敗。
文祿三年(1595)明使來日議和;又於同五年十一月改元,至慶長元年(1596)正月,我軍悉數還國,直茂亦返抵伊萬里。相傳其攜朝鮮松樹歸,移植於木須之戶渡島神社(後遷伊萬里相生橋畔,今又轉至土井町),即今金比羅社下之松。
慶長元年(1596)九月,和議破裂,戰事再起。十月二十日直茂以第一軍軍奉行自伊萬里再度出征。長子伊太勝茂懇請初陣,翌二年七月十五日參加巨濟島海戰;十二月陸戰中,明將楊鎬以大軍夜襲,清正解蔚山重圍,戰況屢艱。慶長三年八月十八日秀吉於伏見城卒,二十五日德川家康、前田利家議決召還遠征軍。直茂與諸將於十二月上旬歸陣筑前博多港。
戰後反思:異域道路險惡且不熟,軍需集積艱難;朝鮮軍亦有李舜臣、權慄等智勇之將。且先鋒二將不和,難以一致行動;行長半途敗走平壤,餘軍亦棄京城南退,遂暫議和。再度出兵時,日軍多據全羅、慶尚、忠清三道,終未能進至京城。尤以水軍敗甚,後世兵家謂其故在於當時我方水軍根據地未及順西灣以西。
總之,秀吉之出兵僅對明與朝鮮造成打擊與浩劫,徒耗人命與國帑,除展現無雙之勇外無實際收穫,可謂大失敗。僅可稱為「土產」者,乃自彼地延攬多數陶工,促進日本陶技之進步,並創製當時被視為不可能之白瓷;此乃日本工藝與產業史上之特筆。出兵諸將歸國時,雖未奉秀吉明令攜陶工,但茶道方興,名護屋城本陣亦設茶會、近郊燒造茶器,故求聘朝鮮陶工者為數不少。
本來朝鮮陶技地理上由中國傳來,建國傳說亦云:距今四千年前堯帝時增君至平壤建國;又三千六百年前殷王族箕子流寓,被周武王封,定都樂浪(以平壤為中心之王制地),延續四百年。其後分封三韓;漢元封三年為武帝所攻分為四郡,此適當我開化天皇五十年。南半島之任那,自崇神天皇三十七年新羅建於辰韓之地以來,恒受其壓,至同朝六十五年朝貢請援。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
在丰臣秀吉发起朝鲜战争之前,鸟井宗室(博多富商,号“德工门重胜”,1615年卒,享年77岁)奉密令巡视朝鲜,全境考察后认为出兵极不利,多次进谏未果,反被禁止接近。
文禄元年(1593)3月13日,秀吉集结三十余万大军,其中205,570人出征朝鲜。3月26日离京,4月25日抵达肥前上松浦名护屋城,命102,415人严守城外二里四方。
第一军先锋由加藤清正(肥后熊本)与小西行长(宇土)统帅。清正率8,000(或1万),锅岛直茂(肥前佐嘉)为副将率12,000,波多亲率2,000隶属直茂。小西另为一路率7,000;隶属其麾下之肥前诸将为松浦鎮信(3,000)、有马晴信(2,000)、大村喜前(1,000)、五岛纯玄(700,初名宇久大和守盛时)。两路分进并攻。
直茂麾下主要部将名单:山代孫七郎贞、田尻丹后守鉴种、成富兵库助茂安、多久长门守安顺、锅岛平五郎茂里、三郎兵卫茂正、新左工门种卷、生珊入道道泉、助右工门茂良、龙造寺七郎左工门家晴、彦右工门家俊、又八郎久茂、太郎次郎茂成、新介家光、太郎五郎重统、太郎九郎信成、四郎兵卫信时、松浦太郎信昭、后藤十左工门家信、深堀中务大辅纯贤、小田四郎次郎信光、神代喜平次家良、姉川中务大辅信安、小川市左工门家俊、半内家尚、千布宗右工门贤利、千叶右马允胤信、犬塚三郎右工门茂虎、兴三右工门茂绩、八户助兵卫宗春、横岳下野守赖绩、中山备前守信增、出云兵部少辅信忠、大木兵部少辅纯光、鹿江伯耆守信明、三浦四郎右工门贤纯、木下四郎兵卫昌直、马场太郎次郎信员、高木甚兵卫盛清、与左工门胤清、兵内泰幸、马渡相右工门茂光、鸭打孙右工门胤纯、孙六家胤、中野神右工门清明、太田巳左工门茂连、内田助三郎家胜、土肥孙六郎茂实、纳富又三郎家和、西牟田新介家亲、平吉刑部丞茂庆、水町平右工门茂成、仓町半三郎家秀、嬉野休藏通直、孙作通清。
日军自伊万里起锚,1593年4月12日两路先锋由名护屋浦出帆,转战咸镜、开城、安边;直茂与清正入王城,6月29日分赴吉州,10月战于永兴。翌年1月5日小早川隆景于碧蹄馆击破李如松,7日小西行长于平壤大败。文禄三年(1595)明使来日议和;同五年十一月改元,至庆长元年(1596)正月诸军尽归,直茂亦返伊万里。据称其携朝鲜松树植于户渡岛神社(后迁移),即今金比罗社下之松。
庆长元年九月和议再破,10月20日直茂以第一军军奉行再出征。长子伊太胜茂首战;翌年7月15日参与巨济岛海战;12月陆战,明将杨镐夜袭,清正解蔚山之围。庆长三年8月18日秀吉卒于伏见,8月25日德川家康与前田利家决定召还远征军,12月上旬直茂等归至博多。
回顾之,地形险恶、补给困难,朝鲜方面又有李舜臣、权慄等智勇之将。且两先锋不和,协同乏力;小西退向平壤,余军弃京城南下,遂议和。再战时多固守全罗、庆尚、忠清三道,未及王都;海军尤败。后世兵家谓其故在日本海军基地未拓至“顺西湾”以西。
总的来说,出兵仅致明与朝鲜受创而无实利,耗费巨大,可谓失败。唯有从朝鲜延揽众多陶工,推动日本陶瓷技术,开创白瓷生产,堪称工艺与产业史上的要事。虽非奉命携工,但茶道盛行,名护屋本阵亦设茶会并烧制茶器,是以诸将多延揽朝鲜陶工。
关于朝鲜的建国传说:相传四千年前堯帝时增君来平壤建国;后殷王族箕子至此,受周武王封,定都乐浪(以平壤为中心),四百年而盛。后分为三韩;汉元封三年为武帝所并,分为四郡,值日本开化天皇五十年。南部任那常受新罗(建于辰韩之地,自崇神三十七年)压迫,至同六十五年朝贡求援。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
在豐臣秀吉發動朝鮮之役前,鳥井宗室(博多富商,號「德工門重勝」,1615年卒,享年77)奉密令巡視朝鮮。遍察之後認為出兵極不利,屢諫不納,且被禁止接近。
文祿元年(1593)3月13日,秀吉集結三十餘萬,其中205,570人出征朝鮮;3月26日離京,4月25日抵肥前上松浦名護屋城,令102,415人嚴守城外二里四方。
第一軍先鋒由加藤清正(肥後熊本)與小西行長(宇土)統帥。清正率8,000(或1萬),鍋島直茂(肥前佐嘉)為副將率12,000,波多親以2,000隸屬直茂。小西另成一路率7,000;所屬肥前諸將為松浦鎮信(3,000)、有馬晴信(2,000)、大村喜前(1,000)、五島純玄(700,初名宇久大和守盛時)。兩路分進。
直茂麾下主要部將:山代孫七郎貞、田尻丹後守鑑種、成富兵庫助茂安、多久長門守安順、鍋島平五郎茂里、三郎兵衛茂正、新左工門種卷、生珊入道道泉、助右工門茂良、龍造寺七郎左工門家晴、彥右工門家俊、又八郎久茂、太郎次郎茂成、新介家光、太郎五郎重統、太郎九郎信成、四郎兵衛信時、松浦太郎信昭、後藤十左工門家信、深堀中務大輔純賢、小田四郎次郎信光、神代喜平次家良、姊川中務大輔信安、小川市左工門家俊、半內家尚、千布宗右工門賢利、千葉右馬允胤信、犬塚三郎右工門茂虎、興三右工門茂績、八戶助兵衛宗春、橫岳下野守賴績、中山備前守信增、出雲兵部少輔信忠、大木兵部少輔純光、鹿江伯耆守信明、三浦四郎右工門賢純、木下四郎兵衛昌直、馬場太郎次郎信員、高木甚兵衛盛清、與左工門胤清、兵內泰幸、馬渡相右工門茂光、鴨打孫右工門胤純、孫六家胤、中野神右工門清明、太田巳左工門茂連、內田助三郎家勝、土肥孫六郎茂實、納富又三郎家和、西牟田新介家親、平吉刑部丞茂慶、水町平右工門茂成、倉町半三郎家秀、嬉野休藏通直、孫作通清。
日軍自伊萬里啟航,1593年4月12日兩路先鋒由名護屋浦出帆,轉戰咸鏡、開城、安邊;直茂與清正入王城,6月29日分赴吉州,10月於永興作戰。翌年1月5日小早川隆景於碧蹄館破李如松,7日小西行長於平壤大敗。文祿三年(1595)明使來日議和;同五年十一月改元,至慶長元年(1596)正月諸軍盡歸,直茂亦返伊萬里。傳云攜朝鮮松樹,植於戶渡島神社(後遷),即今金比羅社下之松。
慶長元年九月和議再破;10月20日直茂以第一軍軍奉行再出征。長子伊太勝茂初陣;翌年7月15日參與巨濟島海戰;12月陸戰,明將楊鎬夜襲,清正解蔚山之圍。慶長三年8月18日秀吉卒於伏見,8月25日德川家康與前田利家議決召還遠征軍;12月上旬直茂等還至博多。
回顧所見:地形險惡、補給艱難,朝鮮方又有李舜臣、權慄等良將;且兩先鋒不和,協同失靈。小西退向平壤,餘軍棄京城南下,遂議和。再戰時多固守全羅、慶尚、忠清三道,未及王都;海軍尤敗。兵家以為當時日本海軍根據地未拓至「順西灣」以西所致。
總而言之,此役徒增明與朝鮮之創痛,乏實利而耗巨資,可謂失敗。唯自朝鮮延攬眾多陶工,促進日本陶瓷技術並開創白瓷生產,為工藝與產業史之要事。雖非奉命攜工,但茶道盛行,名護屋本陣亦設茶會且近郊燒製茶器,故諸將多延攬朝鮮陶工。
傳說中朝鮮之建國與陶技由中國而來:相傳四千年前堯帝時增君至平壤建國;後殷王族箕子至此,受周武王封,定都樂浪(以平壤為中心),四百年而盛。其後分為三韓;漢元封三年為武帝所併分四郡,當日本開化天皇五十年。南部任那常受新羅(建於辰韓之地,自崇神三十七年)壓迫,至同六十五年朝貢求援。

