高取焼~大川内子爵の陶系大別

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【原文】[Original text]
高取焼
 黒田長政に從ひりし朝鮮慶尚南道韋登の人八山と、同時に加藤清正に從ひ來りし八山の舅新九郎は、共に長政の命に依り領内に製土を探見して、筑前國鞍手郡高取村に開窯し之を高取焼した。そして八山は井土八臓と改めて七十人扶持を給與されたのである。
 寛永五年(1628年)黒田忠之(長政の長子右工門佐)は、唐津寺澤氏の浪士五十嵐次左工門を召抱へ(三十人扶持を給す)、八藏と協力して斯業を改良せしめた。小堀政一又此地に来り次左工門及八藏其子八郎右工門とに託して、光澤ある褐色、淺碧或は白や黒釉等種々の名器を製作した。之より高取焼遠州好み七窯の一に敷へらるゝに至つた。
 慶長十九年(1604年)高取焼は、同郡磯村へ移り寛永七年(1630年)又穂波郡合屋村白旗山の麓に移り、次に寛文七年(1667年)上座郡鼓村へ轉じ、又同郡鹿原村へ轉じ、寳永年間(1704-1711年)再び鼓村へ歸りしとき福岡城の南方田島村の東松山へ分窯し、享保元年(1716年)同市西新町の東山へ移りて藩窯となったのである。

小代焼
 加藤清正韓土の陶工若干名を連帰りし中に、肥後國玉名郡小代山の麓に於いて、小代焼(又龍ヶ原焼)と称する垂下釉の砂器(炻器)を創始した。寛永九年(1632年)細川忠利(忠興の長子越中守)豊前より此地に封せらるるや、牝小路又左工門葛城安左エ門來りて製陶せしを忠利大いに保護奨励した。後年野田又七の先人窯を南關町の堀池園に移し一に松風焼と称するに至つた。
 島津義弘韓土の陶工芳珍(金海)朴平意(又朴興用)朴正記、沈當吉、及伸、李、姜、陣、鄭、車、林、白、朱、崔、膚、金、阿、丁等の拾七姓二十二人(或は四十四人とも)を引連れて歸國、そして芳珍を鹿児島(今の高麗町)に居らしめ、朴平意を日置郡串木野鄉下名に居らしめた。

帖佐焼
 後義弘姶良郡帖佐城へ移るに及び、芳珍をして開窯せしめしもの帖佐焼である。芳仲は歸化名を星山仲次と改め祿十五名を給せられた。作るところの陶質緻密にて鼈甲、虎斑、及白色凝釉の斑々たる蛇蝎の如き世に古帖佐と稱せらるゝものである。此中最適意のものにて義弘自ら捺印せしものを御判手と呼ばれてゐる。
 慶長十二年(1607年)義弘同郡加治木城へ再轉するや、仲次又此地に来り加治木郷龍の口に開窯した。仲次の男喜兵衛、藤兵衛共に河原を姓とせしが、喜兵衛の男小右工門に至りて山元と改姓するに至り、寛文四年河原、山元二家共に同郡龍門司に移窯したのである。

苗代川焼
 是より先慶長八年(1603年)義弘及子忠恒(大隅守)は、朴平意、朴正記、沈當吉(沈壽官の祖)等をして薩摩國日置郡伊集院鄉なる苗代川村に移さしめしが、平意勤苦力を尽し同十九年に至りて白砂及白粘土等を発見して苗代川焼を完成した。其白磁に類する純白なる白薩摩を始め玉子手、刷毛目、三島手、寸古祿等を製作するや義弘又其優なる物に捺印して之を勤奨し以て御判手を遺すに至つた。弘化元年(1845年)朴正官は此處にて金欄手に成功し、安政四年(1858年)沈當壽の十一世沈壽官藩設の工場を督して盛にせものである。

竪野焼
 元和五年(1619年)島津家久(義弘の長子薩摩守)居を鹿児島に移すに及び、仲次の男星山彌右工門金和、舍弟休左工門金林之に從ひ、城下の下竪野に移窯せしもの即ち竪野焼である。一説に前記河原藤兵衛の第二子十左工門小山田村に分窯す、其子十左工門芳工叉製陶に巧みなりしが、明和五年(1768年)出でて竪野の藩窯に來り、寛政五年(1793年)藩主に乞うて肥筑の陶窯を、次に長門備前の諸山を経て京の焼を研究し、歸國して鮫焼の如き良器を製作せしといはれてゐる。

上野焼
 慶長三年(1598年)加藤清正に附きりし朝鮮泗川郡十時郷の人尊階なる者、一時唐津に止まりしが、慶長五年(1600年)細川忠興に召されて豊前國田川郡上野村に於て上野焼を創始し、上野喜藏高國(名は甫快字は如公)と改名して、五人扶持十五石及雜石二石を給せられた。
 忠利熊本へ移封せらるゝや、高國の子十時孫左工門甫久及四男渡久左工門高利止まりて小笠原忠政に仕へ、そして上野燒を継承した。其製造は藩費を以てし製品は悉く藩庫に納めしが、寶暦七年(1757年)甫好に至り專賣を請うて許され、文化元年(1804年)甫紹藩命にて京工京兵衛に就きて樂焼の法を習得し、功につて騎馬従者を許されたのである。

高田焼
 忠利に從ひて肥後に移りし高國及長子上野忠兵衛(寶盞と號す) 三男藤四郎は、八代郡高田鄉奈良木村に開窯して高田焼創製せしが、萬治元年(1658年)下豊原村へ移窯した。高田燒一に八代燒さ稱し、赤褐にして紫色を帯び又は、黄黒の垂下釉を施せがあり、或は坏質薄うして灰青色を施釉せる茶器がある。四代藤四郎に至つて黒白嵌土の法を案出し、釉法も紫驂色に改めたのである。

古萩焼
 甞て對馬に在りしを唐津の寺澤廣高に召されし韓土の陶工李敬は、歸化して坂本助八道忠と改めしが、慶長三年(1598年)毛利輝元に聘せられて長門國阿武郡椿郷東分村松本に来り、古萩焼を創始して韋登及割高臺等を製作した。其器質密ならず釉色は多く白黄淡薄である。そして彼は五十余石の高祿を給せられたのである。
 寛永二年(1625年)十月秀就(輝元の長子長門守)は、助八へ高麗左工門の名を興へしより爾來坂高麗左工門と稱するに至り、同二十年二月十一日七十五才を以て卒去した。(寛文年間同地萩の松本に於大和國三輪村の人休雪來り、質密にして釉溜りあるものを製作せしを、別に松本焼と稱するに至つた)
 以上列記せるは其重なるものにて、此九州諸藩に於ける開窯が、我邦の製陶界に大いなる啓發をせことは申すまでもない。而して此製陶の結果も亦従来の製陶史と同じく、陶器より炻器に止まりて未だ白磁を製するに到らなかつた。たゞ苗代川の朴平意が手に依って、白磁類似の白薩摩を製作せしも、それは質に於て堅緻ならざる陶器であつた。

我國製陶の経路
 元來本邦の製陶史は、土器より陶器に移る間は頗る牛歩的の觀ありしも、一度び瓷器及炻器を製作するに及んでは、一般の文化共に長足的の進歩を示したのである。然るに永年此間に安んじて何等胎質上の改良を試みざりし所以があらねばならぬ。而して又共頃には已に支那渡の磁器に接しながら、なほ此方面に研究の手を進めざりしは何故であらう。

志野風施釉
 勿論當時に於いて、天然の磁石を得ずして此種の製作は容易ならずにするも、瀬戸又は唐津の諸窯にて彼の志野風なる乳白手の施釉物を製しながら、一歩を進めて胎質の工夫に及ばざ所以を考察するに、是我邦人が茶趣味上雅陶を愛して、磁器への進展を深く促さぐりし結果見るの外ない。

邦人の雅陶趣味
 我邦人の雅陶翫賞は實に徹底的にて、青瓷に謂支那の紫口鐵足等の如く、窯變釉色の調和には脂質の色相にまで吟味からす故に志野の白釉も陶質の胎土に施され、且其釉際に胎色味を呈してこそ愛好されしものであらう。
其他多くの陶器は褐色或は鉛色の上に化粧(九州では天草石などを用ひ、備前では三つ石の蠟石を用ひ、瀬戸にては蛙目を用ふ、エンゴーベとは英獨佛語の由である)を施し、或は諸種の刷毛目を文し、又は施釉の上に粗笨なる模様を現はして深玄なる雅致を需めたのである。
 若し我邦の製陶研鑽が、瓷器當時の趨勢を持續したらんには、唐宋以来彼と雁行せし日本の陶技は、或は支那より先に磁器の製作を試み得しやも計られなかった。況んや歐洲の陶技の如きは、凡ての文化と共に遙か我邦の後へにありしことは申すまでもない。

陶器と磁器
 而して日本人にのみ理解さるゝ茶趣味の翫賞からは、窯變の妙、胎土の味、箆の作行、手捻りの技法等、土器や陶器にのみ持てる特殊の妙味は到底磁器に見出す能はすとするも、我邦人の潔癖性より考ふるも洗滌に便利にして、且衛生的なる白磁の必要なることは當然であらう。
畏こくも大内の御食器が、有田磁器の創製後幾許もなく此地の辻喜右工門へ調進の敕を下された。
況んや日用品として堅緻の点に於いても陶器より數等の上にある磁器である。
 近年流行せる硬質陶器の如きも、若し燒成の不完全なるに於いては、素地の吸水性の爲に生する熱膨張の結果は釉面に嵌入を生じ、汚物や微菌の浸入する恐なしさせぬ。又寒暑に對する素地と釉薬が収縮の差より釉皮が剥脱して、美親は勿論食器としての資格が全く失はるゝことがある。

進歩的製陶
 磁器に至つては、胎土釉薬共に高火度を以て燒貫かれてあるからに何等の變質もない。又之を科學的に考ふるも、従來鐵分多き胎土や釉薬を以て暗色の陶器を而已焼きし時代より、鐡分少なき胎土と釉薬を擇みて透明の白磁を製作せことは、大なる進歩たることを疑はぬ。而して此製作が我邦の神代より結縁淺からず(新羅の建國は神武天皇の皇兄稻氷命と稱せらるゝが如き)そして今や同國の件に入りし韓人に依つて創製さしことも一因縁といはねばならぬ。

大川内子爵の陶系大別
 我邦の陶系と作風は、大川内子爵の大別せし如く四つの系統に分つべく一は古雅式の瀬戸風にて、一は純日本式の京都風であり、一は朝鮮式の唐津風にて一は支那式の有田風である。勿論有田は唐津と同じく朝鮮をさすべきも、支那の青花や赤繪に倣うて早くも支那式に轉換せしものである。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]
高取焼
 黒田長政に従って来た朝鮮・慶尚南道韋登出身の八山と、同じ頃に加藤清正に従って渡来した八山の舅・新九郎は、いずれも長政の命で領内の陶土を探し、筑前國鞍手郡高取村に窯を開いて高取焼を始めた。八山は名を井土八臓と改め、七十人扶持(家臣への給与)を与えられた。
 寛永五年(1628年)、黒田忠之(長政の長子・右工門佐)は、唐津の寺澤氏に属していた浪人・五十嵐次左工門を召し抱え(三十人扶持)、八藏と協力させてこの事業を改良した。小堀政一も来訪し、次左工門と八藏、その子の八郎右工門に託して、つやのある褐色・浅い青緑・白・黒釉など多様な名品を作らせた。これによって高取焼は「遠州好み七窯」の一つに数えられるようになった。
 高取焼は慶長十九年(1604年)に同郡磯村へ移り、寛永七年(1630年)には穂波郡合屋村の白旗山麓に移転、さらに寛文七年(1667年)に上座郡鼓村、続いて同郡鹿原村へ移った。宝永年間(1704–1711年)に再び鼓村へ戻った際、福岡城南方の田島村・東松山に分窯を設け、享保元年(1716年)には同市西新町の東山へ移して藩窯となった。

小代焼
 加藤清正が朝鮮(韓土)から連れ帰った陶工たちのうち、肥後國玉名郡小代山の麓で、小代焼(または龍ヶ原焼)と呼ばれる、釉が垂れ下がる表情の炻器を創始した。寛永九年(1632年)、細川忠利(忠興の長子・越中守)が豊前からここに入封すると、牝小路又左工門・葛城安左エ門らが来て製陶し、忠利はこれを大いに保護・奨励した。のちに野田又七の先人の窯を南關町堀池園に移し、「松風焼」とも称されるようになった。
 島津義弘は、朝鮮の陶工・芳珍(金海)、朴平意(朴興用とも)、朴正記、沈當吉のほか、及・伸・李・姜・陣・鄭・車・林・白・朱・崔・膚・金・阿・丁など十七姓二十二人(または四十四人とも)を伴って帰国し、芳珍を鹿児島(現在の高麗町)に、朴平意を日置郡串木野郷下名に住まわせた。

帖佐焼
 のちに義弘が姶良郡帖佐城へ移った際、芳珍に窯を開かせたのが帖佐焼である。芳仲は帰化して星山仲次と名乗り、十五人分の禄を与えられた。作風は陶質が緻密で、鼈甲や虎斑、白色の凝釉が斑に現れる、蛇蝎のような迫力を持ち、世に「古帖佐」と称された。その中でもとりわけ優れたものには、義弘自らが印を捺し「御判手」と呼ばれた。
 慶長十二年(1607年)、義弘が同郡の加治木城へ再び移ると、仲次も赴いて加治木郷・龍の口に開窯した。仲次の子・喜兵衛と藤兵衛はいずれも河原姓を名乗ったが、喜兵衛の子・小右工門の代に山元と改姓し、寛文四年、河原・山元の両家ともに同郡の龍門司へ窯を移した。

苗代川焼
 これに先立つ慶長八年(1603年)、義弘とその子・忠恒(大隅守)は、朴平意・朴正記・沈當吉(沈壽官の祖)らを薩摩國日置郡伊集院郷の苗代川村へ移住させた。平意は努力を重ね、慶長十九年に白砂や白粘土を発見して苗代川焼を完成させた。白磁に似た純白の「白薩摩」をはじめ、玉子手・刷毛目・三島手・寸古祿などを作り、義弘は優品に印を捺して奨励し、御判手として遺した。弘化元年(1845年)、朴正官はここで金欄手に成功し、安政四年(1858年)には沈當壽の十一世・沈壽官が藩営工場を統括して大いに興隆させた。

竪野焼
 元和五年(1619年)、島津家久(義弘の長子・薩摩守)が鹿児島へ居を移すと、仲次の子・星山彌右工門金和と、弟の休左工門金林がこれに従い、城下の下竪野へ窯を移したのが竪野焼である。一説には、先の河原藤兵衛の次男・十左工門が小山田村に分窯し、その子・十左工門芳工も製陶に巧みで、明和五年(1768年)に出て竪野の藩窯に入り、寛政五年(1793年)には藩主に願い出て肥前・筑前の窯や、さらに長門・備前の諸山を巡り、京焼を研究して帰国し、鮫肌のような優れた器を作ったとも伝わる。

上野焼
 慶長三年(1598年)、加藤清正に従っていた朝鮮・泗川郡十時郷の人・尊階は、一時唐津に滞在したが、慶長五年(1600年)に細川忠興に召され、豊前國田川郡上野村で上野焼を創始した。上野喜藏高國(名は甫快、字は如公)と改名し、五人扶持・十五石と雑石二石を与えられた。
 忠利が熊本へ移封されると、高國の子・十時孫左工門甫久と、四男・渡久左工門高利がこの地に留まり小笠原忠政に仕え、上野焼を継承した。製造は藩費で行われ、製品はすべて藩庫に納められたが、宝暦七年(1757年)に甫好が専売を願い出て許可され、文化元年(1804年)には甫紹が藩命で京の職人・京兵衛に就いて楽焼の法を習得し、その功により騎馬従者を許された。

高田焼
 忠利に従って肥後へ移った高國と、長子・上野忠兵衛(号・寶盞)、三男・藤四郎は、八代郡高田郷奈良木村に窯を開いて高田焼を創始し、万治元年(1658年)に下豊原村へ移窯した。高田焼は「八代焼」とも呼ばれ、赤褐色で紫を帯びるもの、黄黒の垂れ釉を施したもの、あるいは薄手の素地に灰青色の釉をかけた茶器などがある。四代・藤四郎の代に黒白の嵌土技法を案出し、釉も紫驂色へ改めた。

古萩焼
 かつて対馬にいたのを、唐津の寺澤廣高に召された朝鮮の陶工・李敬は、帰化して坂本助八道忠と改名し、慶長三年(1598年)に毛利輝元の招聘で長門國阿武郡椿郷東分村松本に来て古萩焼を創始し、韋登や割高臺などを作った。器質は緻密ではなく、釉色は多く白や黄の淡い色合いで、五十余石の高禄を与えられた。
 寛永二年(1625年)十月、秀就(輝元の長子・長門守)が助八に「高麗左工門」の名を与え、以後「坂高麗左工門」と称し、同二十年二月十一日に七十五歳で没した。(寛文年間には萩・松本の地に大和國三輪村の人・休雪が来て、質が緻密で釉溜まりのある作を作り、別に松本焼と呼ばれるようになった。)
 以上は主な事例であり、九州諸藩の開窯が日本の製陶界に大きな啓発をもたらしたことは言うまでもない。しかし、その成果は従来の製陶史と同様に陶器から炻器にとどまり、白磁の製作には至っていない。苗代川の朴平意が白磁に類する白薩摩を作ったものの、質の面では緻密さに欠ける陶器であった。

我國製陶の経路
 日本の製陶史は、土器から陶器への移行には牛歩の感があったが、いったん瓷器や炻器の製作に及ぶと、一般文化とともに大きな進歩を示した。にもかかわらず、長くその段階に安住して胎土の改良をほとんど試みなかった理由があるはずである。しかも当時すでに中国渡来の磁器に触れていながら、なおこの方面の研究を深めなかったのはなぜだろうか。

志野風施釉
 当時、天然の磁石(磁器胎に必要な石英・長石類)を得られず、この種の製作が容易でなかった事情はあるにせよ、瀬戸や唐津の窯で志野風の乳白手の施釉物を作りながら、一歩進めて胎土の工夫に及ばなかったのは、日本人が茶の美意識から雅陶を愛し、磁器への展開を強く促さなかった結果と見るほかない。

邦人の雅陶趣味
 日本人の雅陶の鑑賞は徹底しており、青瓷における中国の「紫口」「鐵足」のように、窯変や釉色の調和を、脂のような質感の色相にまで吟味した。志野の白釉も陶質の胎土に施され、釉際に胎の色味が現れてこそ愛好されたのであろう。
 そのほか多くの陶器は褐色や鉛色の素地に化粧(九州では天草石、備前では三ツ石の蝋石、瀬戸では蛙目石を用いる。「エンゴーベ」は英・独・仏語に由来)を掛け、各種の刷毛目を施し、あるいは施釉の上に素朴な文様を表して、幽玄な雅趣を求めた。
 もし日本の製陶の研鑽が、当時の瓷器志向を継続していれば、唐宋以来並走してきた日本の陶技は、あるいは中国に先んじて磁器製作を試み得たかもしれない。まして欧州の陶技は、あらゆる文化とともに日本の後塵を拝していたことは言うまでもない。

陶器と磁器
 日本人にのみ理解される茶趣味の鑑賞からすれば、窯変の妙味、胎土の味わい、箆づくりの作行、手捻りの技法など、土器や陶器にだけ宿る特有の魅力は、磁器には見いだし難い。とはいえ、日本人の潔癖性から考えても、洗いやすく衛生的な白磁の必要は当然である。
 やがて大内への御食器が、有田磁器の創始後ほどなく、この地の辻喜右工門に調進を命じられた。日用品としても、堅牢さの点で磁器は陶器よりはるかに優れている。
 近年流行した硬質陶器でも、焼成が不完全だと素地の吸水に伴う熱膨張で釉面に貫入が生じ、汚れや微生物が入り込むおそれがある。さらに素地と釉薬の収縮差で釉が剥落すれば、美観はもちろん、食器としての資格を失うこともある。

進歩的製陶
 磁器は胎土・釉薬ともに高火度で焼き締めるため変質がない。科学的に見ても、鉄分の多い胎土や釉薬で暗色の陶器ばかりを焼いていた時代から、鉄分の少ない胎土と釉薬を選び、透明感ある白磁を作るに至ったのは、大きな進歩である。この創製が日本神話時代からの縁(新羅の建国を神武天皇の皇兄・稻氷命に擬する伝えなど)に連なるとし、同国の縁者たる韓人によって成し遂げられたことも一因縁と言わねばならない。

大川内子爵の陶系大別
 日本の陶系と作風は、大川内子爵の分類に従えば四系統に大別される。すなわち古雅式の瀬戸風、純日本式の京都風、朝鮮式の唐津風、そして支那式の有田風である。無論、有田は唐津と同じく朝鮮由来であるが、支那の青花や赤絵に倣って早くから支那式へと転換した。


【英語訳】[English translation]
Takatori ware
Yasama from Uidon in Gyeongsangnam-do (Korea), who came with 黒田長政, and his father-in-law 新九郎, who came with 加藤清正 at the same time, were both ordered by 長政 to search for clay within his domain. They opened a kiln in Takatori-mura, Kurate-gun, Chikuzen, thereby founding Takatori ware. Yasama changed his name to 井土八臓 and was granted a stipend equivalent to “seventy persons’ fuchi” (a samurai allowance).
In Kan’ei 5 (1628), 黒田忠之 (長政’s eldest son, 右工門佐) hired the rōnin 五十嵐次左工門 from the Terazawa clan of Karatsu (granting him thirty-person fuchi) and had him collaborate with 八藏 to improve the craft. 小堀政一 also visited, entrusting 次左工門, 八藏, and his son 八郎右工門 with producing lustrous brown, light bluish-green, white, black-glazed, and other notable wares. From then on, Takatori ware was counted among the seven kilns favored by 遠州.
Takatori ware moved to Iso-mura in Keichō 19 (1604), to the foot of Mt. Shirahata in Gōya-mura, Honami-gun in Kan’ei 7 (1630), then to Tsuzumi-mura, Jōza-gun in Kanbun 7 (1667), then to Kahara-mura in the same gun; during Hōei (1704–1711) it returned to Tsuzumi-mura, set up a branch kiln at Higashi-Matsuyama in Tashima-mura south of Fukuoka Castle, and in Kyōhō 1 (1716) moved to Higashiyama in Nishijin-machi to become the domain kiln.

Shōdai ware
Among the Korean (韓土) potters brought back by 加藤清正, a kiln was founded at the foot of Mt. Shōdai in Tamana-gun, Higo, producing stoneware with dripped glaze known as Shōdai (also Ryūgahara) ware. In Kan’ei 9 (1632), when 細川忠利 (忠興’s eldest son, 越中守) took possession of the area from Buzen, 牝小路又左工門 and 葛城安左エ門 came to make pottery, which 忠利 vigorously protected and encouraged. Later, 野田又七 moved an ancestral kiln to Horiike-en in Nankan-machi, and it came to be called Shōfū ware as well.
島津義弘 returned with Korean potters 芳珍 (金海), 朴平意 (also 朴興用), 朴正記, 沈當吉, and others—seventeen surnames totaling twenty-two persons (some say forty-four)—including 及, 伸, 李, 姜, 陣, 鄭, 車, 林, 白, 朱, 崔, 膚, 金, 阿, 丁. 芳珍 was settled in Kagoshima (present-day Kōrai-machi), and 朴平意 in Shimo-na of Kushikino-gō, Hioki-gun.

Chōsa ware
When 義弘 later moved to Chōsa Castle in Aira-gun, he had 芳珍 open a kiln—this became Chōsa ware. 芳仲 took the naturalized name 星山仲次 and received a stipend for fifteen persons. The body is dense; tortoiseshell, tiger-stripe, and white coagulated glazes appear in mottled patterns, fearsome like serpents and scorpions—these are called “old Chōsa.” Among them, pieces personally stamped by 義弘 are known as 御判手.
In Keichō 12 (1607), when 義弘 again moved to Kajiki Castle in the same gun, 仲次 came and opened a kiln at Ryū-no-kuchi in Kajiki-gō. 仲次’s sons 喜兵衛 and 藤兵衛 bore the surname 河原, but 喜兵衛’s son 小右工門 later changed it to 山元. In Kanbun 4, both 河原 and 山元 moved their kilns to Ryūmonji in the same gun.

Naeshirogawa ware
Earlier, in Keichō 8 (1603), 義弘 and his son 忠恒 (大隅守) relocated 朴平意, 朴正記, and 沈當吉 (ancestor of 沈壽官) to Naeshirogawa-mura in Ijūin-gō, Hioki-gun, Satsuma. Through tireless effort, 平意 discovered white sand and white clay in Keichō 19 and completed Naeshirogawa ware. Beginning with pure-white “白薩摩,” akin to porcelain, he produced Tamagote, Hakeme, Mishimate, and Sunkoroku styles; 義弘 stamped outstanding pieces to encourage the craft, leaving 御判手. In Kōka 1 (1845), 朴正官 achieved 錦手 here, and in Ansei 4 (1858) the 11th 沈壽官 directed the domain factory, greatly flourishing the industry.

Tateno ware
In Genna 5 (1619), when 島津家久 (義弘’s eldest son, 薩摩守) moved his residence to Kagoshima, 星山彌右工門金和, son of 仲次, and his younger brother 休左工門金林 followed and moved the kiln to Shimo-Tateno below the castle—this is Tateno ware. Another account says 河原藤兵衛’s second son 十左工門 opened a branch kiln in Koyamada-mura; his son 十左工門芳工 excelled in pottery, entered the domain kiln at Tateno in Meiwa 5 (1768), and in Kansei 5 (1793) obtained leave to study kilns in Hizen and Chikuzen, then in Nagato and Bizen, and Kyoto ware; upon returning he produced fine wares like Shark-skin ware.

Agano (Ueno) ware
In Keichō 3 (1598), 尊階 from Jujigo in Sicheon-gun, Korea, who had served 加藤清正, stayed for a time in Karatsu. In Keichō 5 (1600) he was summoned by 細川忠興 and founded Ueno (Agano) ware in Ueno-mura, Tagawa-gun, Buzen. He changed his name to 上野喜藏高國 (personal name 甫快, style 如公) and received five-person fuchi, fifteen koku of rice and two koku of mixed grain.
When 忠利 transferred to Kumamoto, 高國’s son 十時孫左工門甫久 and fourth son 渡久左工門高利 remained, served 小笠原忠政, and continued Ueno ware. Production used domain funds and all wares were stored in the domain granary; in Hōreki 7 (1757) 甫好 petitioned for monopoly sales and was permitted. In Bunka 1 (1804) 甫紹, by domain order, studied Raku techniques under 京兵衛 in Kyoto and, for his merit, was allowed a mounted retainer.

Takada ware
Following 忠利 to Higo, 高國, his eldest 上野忠兵衛 (art name 寶盞), and his third son 藤四郎 opened a kiln in Naranoki-mura, Takada-gō, Yatsushiro-gun, creating Takada ware; in Manji 1 (1658) they moved it to Shimo-Toyohara-mura. Takada ware, also called Yatsushiro ware, includes reddish-brown wares tinged with purple, pieces with yellow-black runny glazes, and thin-bodied tea wares with gray-blue glaze. By the fourth 藤四郎, black-and-white inlay was devised and the glaze tone changed to 紫驂色.

Old Hagi ware
The Korean potter 李敬, once on Tsushima and later called by 唐津’s 寺澤廣高, naturalized as 坂本助八道忠. In Keichō 3 (1598) he was invited by 毛利輝元 to Matsumoto in Tsubaki-gō Higashibun-mura, Abu-gun, Nagato, founding Old Hagi ware and producing Witon and Waritakadai types. The body is not dense; glazes are mostly pale white-yellow. He received over fifty koku in stipend.
In Kan’ei 2 (1625) tenth month, 秀就 (輝元’s eldest, 長門守) granted him the name 高麗左工門; thereafter he was known as 坂高麗左工門, and on the 2nd day of the 11th month of Kan’ei 20 he died at 75. (In the Kanbun era, 休雪 from Miwa-mura in Yamato came to Matsumoto, producing dense wares with glaze pooling, later called Matsumoto ware.)
The above are major cases; kiln foundations in Kyūshū domains clearly stimulated Japan’s ceramic world. Yet, as in earlier history, results stopped at earthenware and stoneware; true white porcelain was not yet made. Only 朴平意 at Naeshirogawa produced 白薩摩 resembling porcelain, but it remained an earthenware lacking tight density.

The course of Japanese ceramics
Originally, Japan’s ceramic history moved sluggishly from earthenware to pottery, but once porcelain-type and stoneware were made, progress leapt with general culture. Nevertheless, for many years contentment at that stage meant little attempt to improve the clay body. And although Chinese porcelain was already known, why did research not proceed further?

Shino-style glazing
Granted, without natural “magnet stone” (feldspathic stone) at the time, such production was not easy; yet even while producing Shino-like milky glazes at Seto and Karatsu, they did not take the next step to innovate the body. This was because, guided by tea aesthetics, the Japanese loved “elegant pottery,” and did not strongly press toward porcelain.

A Japanese taste for elegant pottery
Japanese connoisseurship was thorough: as with China’s “purple lip” and “iron foot” on celadon, harmony of kiln variations and glazes was examined to the very hue and texture. Thus Shino white glaze was favored precisely because it was applied to an earthen body and showed body color at the glaze edge.
Many other wares used slip decoration (in Kyūshū Amakusa stone; in Bizen Mitsuishi’s steatite; in Seto kaerame/feldspathic sand; “engobe” is from English/German/French), various hakeme (brush) patterns, or rough motifs over glaze, seeking profound elegance.
Had Japanese study maintained the then trend toward porcelain, the craft that had marched alongside China since Tang–Song might even have attempted porcelain earlier than China; Europe’s ceramic arts, needless to say, lagged far behind Japan.

Pottery and porcelain
From tea aesthetics—unique to Japan—come delights of kiln change, body flavor, spatula work, and hand-forming: special charms of earthenware and pottery scarcely found in porcelain. Even so, considering Japanese fastidiousness, white porcelain—easy to wash and sanitary—was naturally needed.
Soon after 有田磁器 began, imperial tableware for 大内 was ordered from 辻喜右工門 here. As daily goods too, porcelain far surpasses pottery in hardness and tightness.
Even fashionable hard-paste pottery, if under-fired, absorbs water; thermal expansion then causes crazing, inviting filth and microbes. Differences in contraction of body and glaze through heat and cold may peel the glaze, ruining beauty and even usability as tableware.

Progressive manufacture
Porcelain, fired at high temperatures for both body and glaze, does not deteriorate. Scientifically, shifting from iron-rich bodies and glazes yielding dark pottery to iron-poor bodies and glazes that yield translucent white porcelain is a great advance. That this creation ties to ancient bonds (e.g., myths linking 新羅’s founding to 稻氷命, elder brother of 神武天皇) and was effected through Koreans related to that land is also a karmic connection.

Ōkawachi Viscount’s four lineages
According to Viscount 大川内’s classification, Japan’s ceramic lineages and styles divide into four: the archaic Seto style; the purely Japanese Kyōto style; the Korean-derived Karatsu style; and the Chinese-style Arita. Although 有田, like 唐津, is Korean-derived, it early converted to a Chinese mode by imitating blue-and-white (青花) and aka-e.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
高取烧
 随黑田长政来日的朝鲜庆尚南道韦登出身的八山,以及与之同时期随加藤清正渡来的岳父新九郎,奉长政之命在领内勘探陶土,于筑前国鞍手郡高取村开窑,创制高取烧。八山改名为井土八臓,获赐七十人扶持(家臣薪给)。
 寛永五年(1628),黑田忠之(长政长子、右工门佐)延揽唐津寺泽氏浪人五十岚次左工门(给三十人扶持),令其与八藏协力改良此业。小堀政一亦至,托付次左工门、八藏及其子八郎右工门烧造光泽褐色、浅碧、白、黑釉等名品,于是高取烧被列为“远州所好七窑”之一。
 高取烧于庆长十九年(1604)迁同郡磯村,寛永七年(1630)又迁穗波郡合屋村白旗山麓,寛文七年(1667)转上座郡鼓村,继而至同郡鹿原村;宝永年间(1704–1711)复归鼓村,分窑于福冈城南田岛村东松山,享保元年(1716)移至同市西新町东山为藩窑。

小代烧
 加藤清正自朝鲜(韩土)携回陶工,在肥后国玉名郡小代山麓创烧小代烧(又称龙ヶ原烧),为垂釉表情的炻器。寛永九年(1632),细川忠利(忠兴长子、越中守)自丰前入封,牝小路又左工门、葛城安左エ门来此制陶,忠利大力保护奨励。后来野田又七将先人之窑迁至南关町堀池园,亦称“松风烧”。
 岛津义弘携朝鲜陶工芳珍(金海)、朴平意(亦作朴兴用)、朴正记、沈当吉及及、伸、李、姜、阵、郑、车、林、白、朱、崔、膚、金、阿、丁等十七姓二十二人(或称四十四人)归国,安置芳珍于鹿儿岛(今高丽町),朴平意于日置郡串木野郷下名。

帖佐烧
 后义弘移驻姶良郡帖佐城,命芳珍开窑,成帖佐烧。芳仲归化改名星山仲次,受十五人禄。其器胎致密,釉呈玳瑁、虎斑及白色凝釉斑驳如蛇蝎,号称“古帖佐”。其中尤佳者,义弘亲押印,称“御判手”。
 庆长十二年(1607),义弘再迁加治木城,仲次复至,于加治木郷龙之口开窑。仲次之子喜兵卫、藤兵卫俱姓河原,至喜兵卫之子小右工门改姓山元。寛文四年,河原、山元两家同迁同郡龙门司。

苗代川烧
 更早在庆长八年(1603),义弘及子忠恒(大隅守)使朴平意、朴正记、沈当吉(沈寿官之祖)移居薩摩国日置郡伊集院郷苗代川村。平意勤勉不辍,至庆长十九年发现白砂和白黏土,完成苗代川烧。其制有似白瓷之纯白“白萨摩”,并作玉子手、刷毛目、三岛手、寸古禄等;义弘以押印嘉奖其优品,留“御判手”。弘化元年(1845)朴正官于此成功烧成锦手,安政四年(1858)第十一世沈寿官督理藩设工场,使之兴盛。

竖野烧
 元和五年(1619)岛津家久(义弘长子、薩摩守)迁居鹿儿岛,仲次之子星山弥右工门金和及弟休左工门金林随之迁窑至城下下竖野,即竖野烧。一说前述河原藤兵卫次子十左工门分窑于小山田村,其子十左工门芳工亦善制陶,明和五年(1768)入竖野藩窑,寛政五年(1793)请命周历肥筑、继游长门备前诸山并研京烧,归国后制出如鲛肌者之良器。

上野烧
 庆长三年(1598),随加藤清正之朝鲜泗川郡十时郷人尊阶,一度留唐津;庆长五年(1600)被细川忠兴召至丰前国田川郡上野村创烧上野烧,改名上野喜藏高国(名甫快、字如公),赐五人扶持十五石及杂石二石。
 忠利移封熊本时,高国之子十时孙左工门甫久与四男渡久左工门高利留事小笠原忠政,承继上野烧。其制以藩费为之,成品尽纳藩库;宝历七年(1757)甫好请得专卖,文化元年(1804)甫绍奉藩命从京工京兵卫习乐烧之法,以功许骑马从者。

高田烧
 随忠利入肥后之高国及长子上野忠兵卫(号宝盏)、三男藤四郎,于八代郡高田郷奈良木村开窑创高田烧,万治元年(1658)迁下丰原村。高田烧亦称八代烧,有赤褐带紫者、施黄黑垂釉者,亦有胎薄而施灰青釉之茶器。至四代藤四郎创黑白嵌土法,釉色改为“紫驂色”。

古萩烧
 曾在对马者,被唐津寺泽广高所召之朝鲜陶工李敬,归化改名坂本助八道忠;庆长三年(1598)受毛利辉元聘至长门国阿武郡椿郷东分村松本,创古萩烧,作韦登、割高台等。其胎不甚致密,釉色多白黄淡薄,并受赐五十余石高禄。
 寛永二年(1625)十月,秀就(辉元长子、长门守)赐其名“高丽左工门”,自此称“坂高丽左工门”,同二十年二月十一日以七十五岁卒。(寛文年间,大和国三轮村人休雪来萩之松本,作质致密且有釉溜者,另称“松本烧”。)
 以上为其要者。九州诸藩开窑对我国制陶界之启发自不待言。然而其结果亦如既往,止于陶器与炻器,未及白瓷。唯苗代川之朴平意所作近似白瓷之白萨摩,亦仍为质地不甚坚致之陶器。

我国制陶之路径
 日本制陶史,自土器转向陶器颇为迟缓,但一及瓷器与炻器,则与文化并进而突飞猛进。然久安其间,鲜少尝试改良胎土;当时既接触中国瓷器,却仍未深入研究,其故何在?

志野风施釉
 固然当时无天然“磁石”(长石类)则此类制作不易,然瀬户、唐津诸窑既能制志野风乳白釉物,却未更进一步于胎土上下功夫,其因在于日本人基于茶之审美而爱雅陶,未强力推动向瓷器发展。

日本人的雅陶趣味
 日本之鉴赏极为彻底,如中国青瓷之“紫口”“铁足”,对窑变与釉色之调和细审至肌理之色相。志野之白釉亦施于陶胎,釉缘呈胎色,因而为人所好。
 此外多以褐、铅色胎施化妆土(九州用天草石,备前用三石蜡石,瀬户用蛙目石;“engobe”源自英德法语),或作诸种刷毛目,或于施釉之上写朴拙纹样,以求幽玄雅致。
 若当时制陶研钻持续瓷器倾向,则与唐宋以来并行之日本陶技,或可先于中国而试制瓷器;况欧洲陶技随诸文化远在日本之后,亦不待言。

陶器与瓷器
 茶之审美仅为日本所深解,窑变之妙、胎土之味、刮刀作行、手捻技法等,皆土器陶器所独有之妙味,瓷器难以尽得。然以日本人之洁癖观之,易洗且卫生之白瓷为必需。
 有田瓷器创制不久,便奉敕命由辻喜右工门进献大内御食器。作为日用品,就坚致而言,瓷器亦远胜陶器。
 近年流行之硬质陶器,若烧成不全,因素地吸水致热胀而生贯入,污物与微菌得以侵入;又素地与釉之收缩差使釉皮剥落,则不但失美,更失为食器之资格。

进步之制陶
 瓷器之胎、釉皆以高火度烧成,故无变质。从科学上看,由以多铁胎釉烧暗色陶器之时代,转而择少铁之胎釉以制透明白瓷,实为大进步。其创制与神代渊源(如以新罗建国拟神武天皇皇兄稻氷命之传)相连,且由与其国有缘之韩人所成,亦是一段因缘。

大川内子爵之陶系大别
 依大川内子爵所分,我国陶系与作风可分四类:古雅的瀬户风、纯日本的京都风、朝鲜式的唐津风、以及支那式的有田风。固然有田与唐津同属朝鲜渊源,但早已仿效支那青花、赤绘而转为支那式。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
高取燒
 隨黑田長政來日的朝鮮慶尚南道韋登出身之八山,及同時隨加藤清正渡來之岳父新九郎,奉長政之命於領內勘探陶土,於筑前國鞍手郡高取村開窯,創制高取燒。八山改名井土八臟,授七十人扶持(家臣薪給)。
 寬永五年(1628),黑田忠之(長政長子、右工門佐)延攬唐津寺澤氏浪人五十嵐次左工門(給三十人扶持),令與八藏協力改良此業。小堀政一亦至,託付次左工門、八藏及其子八郎右工門燒造具光澤之褐色、淺碧、白、黑釉等名品,於是高取燒列為「遠州所好七窯」之一。
 高取燒於慶長十九年(1604)遷同郡磯村,寬永七年(1630)再遷穗波郡合屋村白旗山麓,寬文七年(1667)轉上座郡鼓村,繼至同郡鹿原村;寶永年間(1704–1711)復歸鼓村,分窯於福岡城南田島村東松山,享保元年(1716)移同市西新町東山為藩窯。

小代燒
 加藤清正自朝鮮(韓土)攜回陶工,於肥後國玉名郡小代山麓創燒小代燒(又稱龍ヶ原燒),為垂釉表情之炻器。寬永九年(1632),細川忠利(忠興長子、越中守)自豐前入封,牝小路又左工門、葛城安左エ門來此製陶,忠利大力保護獎勵。後野田又七遷先人之窯於南關町堀池園,亦稱「松風燒」。
 島津義弘率朝鮮陶工芳珍(金花)、朴平意(亦作朴興用)、朴正記、沈當吉及及、伸、李、姜、陣、鄭、車、林、白、朱、崔、膚、金、阿、丁等十七姓二十二人(或稱四十四人)歸國,安置芳珍於鹿兒島(今高麗町),朴平意於日置郡串木野郷下名。

帖佐燒
 後義弘移駐姶良郡帖佐城,命芳珍開窯,為帖佐燒。芳仲歸化改名星山仲次,授十五人祿。其器胎緻密,釉呈玳瑁、虎斑及白色凝釉斑駁如蛇蝎,號稱「古帖佐」。其中尤佳者,義弘親押印,稱「御判手」。
 慶長十二年(1607),義弘再遷加治木城,仲次復至於加治木郷龍之口開窯。仲次之子喜兵衛、藤兵衛皆姓河原,至喜兵衛之子小右工門改姓山元。寬文四年,河原、山元兩家同遷同郡龍門司。

苗代川燒
 更早於慶長八年(1603),義弘及子忠恒(大隅守)使朴平意、朴正記、沈當吉(沈壽官之祖)移居薩摩國日置郡伊集院郷苗代川村。平意勤勉不懈,至慶長十九年發現白砂與白黏土,完成苗代川燒。其製有近白瓷之純白「白薩摩」,並作玉子手、刷毛目、三島手、寸古祿等;義弘以押印獎勵其優品,留「御判手」。弘化元年(1845)朴正官於此成功錦手,安政四年(1858)第十一世沈壽官督理藩設工場,令其興盛。

竪野燒
 元和五年(1619)島津家久(義弘長子、薩摩守)遷居鹿兒島,仲次之子星山彌右工門金和及弟休左工門金林隨之移窯於城下下竪野,即竪野燒。一說先述河原藤兵衛次子十左工門分窯於小山田村,其子十左工門芳工亦善製陶,明和五年(1768)入竪野藩窯,寬政五年(1793)請命周歷肥筑、繼遊長門備前諸山並研京燒,歸國後製出如鯊肌者之良器。

上野燒
 慶長三年(1598),隨加藤清正之朝鮮泗川郡十時郷人尊階,一度留唐津;慶長五年(1600)為細川忠興所召,至豐前國田川郡上野村創燒上野燒,改名上野喜藏高國(名甫快、字如公),賜五人扶持十五石及雜石二石。
 忠利移封熊本時,高國之子十時孫左工門甫久與四男渡久左工門高利留仕小笠原忠政,承繼上野燒。其製以藩費為之,成品悉納藩庫;寶曆七年(1757)甫好請得專賣,文化元年(1804)甫紹奉藩命從京工京兵衛習樂燒之法,以功許騎馬從者。

高田燒
 隨忠利入肥後之高國及長子上野忠兵衛(號寶盞)、三男藤四郎,於八代郡高田郷奈良木村開窯創高田燒,萬治元年(1658)遷下豐原村。高田燒亦稱八代燒,有赤褐帶紫者、施黃黑垂釉者,亦有胎薄而施灰青釉之茶器。至四代藤四郎創黑白嵌土法,釉色改為「紫驂色」。

古萩燒
 嘗在對馬者,被唐津寺澤廣高所召之朝鮮陶工李敬,歸化改名坂本助八道忠;慶長三年(1598)受毛利輝元聘至長門國阿武郡椿郷東分村松本,創古萩燒,作韋登、割高台等。其胎不甚緻密,釉色多白黃淡薄,受賜五十餘石高祿。
 寬永二年(1625)十月,秀就(輝元長子、長門守)賜其名「高麗左工門」,自此稱「坂高麗左工門」,同二十年二月十一日以七十五歲卒。(寬文年間,大和國三輪村人休雪來萩之松本,作質緻密且有釉溜者,另稱「松本燒」。)
 以上為其要者。九州諸藩開窯對我國製陶界之啟發自不待言。然而其結果亦如既往,止於陶器與炻器,未及白瓷。惟苗代川之朴平意所作近白瓷之白薩摩,亦仍為質地不甚堅緻之陶器。

我國製陶之路徑
 日本製陶史自土器轉向陶器頗為遲緩,然一及瓷器與炻器,則與文化並進而長足進步。然長安其間,罕試改良胎土;當時既接觸中國瓷器,仍未深入研究,原因何在?

志野風施釉
 固然當時無天然「磁石」(長石類)則此類製作不易,然瀨戶、唐津諸窯既能製志野風乳白釉物,卻未更進於胎土上下功夫,其因在於日本人基於茶之審美而愛雅陶,未強力推動向瓷器發展。

日本人的雅陶趣味
 日本之鑑賞極為徹底,如中國青瓷之「紫口」「鐵足」,對窯變與釉色之調和細審至肌理色相。志野之白釉亦施於陶胎,釉際呈胎色,因而為人所好。
 此外多以褐、鉛色胎施化妝土(九州用天草石,備前用三石蠟石,瀨戶用蛙目石;「engobe」源自英德法語),或作諸種刷毛目,或於施釉之上現樸拙紋樣,以求幽玄雅致。
 若當時製陶研鑽持續瓷器傾向,則與唐宋以來並行之日本陶技,或可先於中國而試製瓷器;況歐洲陶技隨諸文化遠在日本之後,亦不待言。

陶器與瓷器
 茶之審美僅為日本所深解,窯變之妙、胎土之味、刮刀作行、手捻技法等,皆土器陶器所獨有之妙味,瓷器難以盡得。然以日本人之潔癖觀之,易洗且衛生之白瓷為必需。
 有田瓷器創製不久,便奉敕命由辻喜右工門進獻大內御食器。作為日用品,就堅緻而言,瓷器亦遠勝陶器。
 近年流行之硬質陶器,若燒成不全,因素地吸水致熱脹而生貫入,污物與微菌得以侵入;又素地與釉之收縮差使釉皮剝落,則不但失美,亦失為食器之資格。

進步之製陶
 瓷器之胎、釉皆以高火度燒成,故無變質。科學觀之,由以多鐵胎釉燒暗色陶器之時代,轉而擇少鐵之胎釉以製透明白瓷,實為大進步。其創製與神代淵源(如以新羅建國擬神武天皇皇兄稻氷命之傳)相連,且由與其國有緣之韓人所成,亦是一段因緣。

大川內子爵之陶系大別
 依大川內子爵所分,我國陶系與作風可分四類:古雅的瀨戶風、純日本的京都風、朝鮮式的唐津風、以及支那式的有田風。固然有田與唐津同屬朝鮮淵源,但早已仿效支那青花、赤繪而轉為支那式。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
高取烧
 来自朝鲜庆尚南道韦登、随黑田长政而来的八山,与同时间随加藤清正而来的岳父新九郎,奉长政之命在领内勘土,于筑前国鞍手郡高取村开窑,创立高取烧。八山改名井土八臓,获“七十人扶持”。此后寛永五年(1628),黑田忠之延揽五十岚次左工门,与八藏共改良技艺;小堀政一亦来,托次左工门、八藏及其子八郎右工门制褐、浅青、白、黑等釉名品,高取烧遂列“远州好七窑”。其后数迁,至享保元年(1716)移于东山为藩窑。

小代烧与诸窑
 小代烧(龙ヶ原烧)为肥后小代山麓所创的垂釉炻器。细川忠利入封后予以保护奨励。岛津义弘自朝鲜携来芳珍、朴平意、朴正记、沈当吉等多人,安置于鹿儿岛与串木野。义弘移帖佐城时命芳珍开窑成帖佐烧,优品加御判手。又于苗代川移住朴平意等,庆长十九年发现白砂、白黏土,成“白萨摩”等,并由沈寿官一系在近世振兴。竖野烧因星山家移窑于下竖野而起,另据说河原家亦有分窑并研历诸国,制出似鲛肌之佳器。

上野烧与高田烧
 尊阶受细川忠兴召于上野村创上野烧,改名上野喜藏高国。后其子孙留仕小笠原忠政而承续,上野烧自藩费制造,后准许专卖,并习得乐烧法。高国随细川忠利入肥后,与上野忠兵卫、藤四郎于高田郷创高田烧,后迁下丰原;其器有紫褐、黄黑垂釉与灰青釉茶器,至四代创黑白嵌土与新釉色。

古萩烧
 李敬(后名坂本助八道忠)受毛利辉元聘至阿武郡松本创古萩烧,胎不甚致密,釉多白黄淡色,受高禄。后赐名高丽左工门,称“坂高丽左工门”,终年七十五。寛文间休雪来制致密且釉溜之器称松本烧。

论述
 九州诸藩开窑启发日本制陶,但总体止于陶器与炻器,白瓷未成;苗代川白萨摩虽近白瓷,仍属陶器。日本由土器至陶器进展迟缓,及至瓷器与炻器则大进,而未深究胎土,原因在茶之审美重雅陶。志野风乳白釉之所以受好,在于施于陶胎并显胎色。常以化妆土、刷毛目与朴拙纹样求幽玄。若延续瓷器趋势,或可先于中国试瓷;欧州更在其后。
 茶趣之赏赐予陶器特有妙味,然就卫生与坚致而言,白瓷之需自明。有田瓷创后不久即奉敕进御器;磁器为日用亦远胜陶器。硬质陶器若烧成不全,则贯入与釉剥之患。瓷器高火度烧成不致变质,以少铁胎釉制透明白瓷,乃大进步;其成因亦系与韩人之因缘。大川内子爵以瀬户风、京都风、唐津风、有田风为四系。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
高取燒
 來自朝鮮慶尚南道韋登、隨黑田長政而來之八山,與同時隨加藤清正而來之岳父新九郎,奉長政之命於領內勘土,於筑前國鞍手郡高取村開窯,創立高取燒。八山改名井土八臟,受「七十人扶持」。其後寬永五年(1628),黑田忠之延攬五十嵐次左工門,與八藏共改良技藝;小堀政一亦至,託次左工門、八藏及其子八郎右工門燒製褐、淺青、白、黑等釉名品,高取燒遂列「遠州好七窯」。其後多次遷移,至享保元年(1716)移於東山為藩窯。

小代燒與諸窯
 小代燒(龍ヶ原燒)為肥後小代山麓所創之垂釉炻器。細川忠利入封後大力保護獎勵。島津義弘自朝鮮攜芳珍、朴平意、朴正記、沈當吉等多人,安置於鹿兒島與串木野。義弘遷帖佐城時命芳珍開窯成帖佐燒,優品加御判手。又於苗代川移住朴平意等,慶長十九年發現白砂、白黏土,成「白薩摩」等,並由沈壽官一系於近世振興。竪野燒因星山家移窯於下竪野而興,另據稱河原家亦有分窯並研歷諸國,製出似鯊肌之佳器。

上野燒與高田燒
 尊階受細川忠興召於上野村創上野燒,改名上野喜藏高國。後其子孫留仕小笠原忠政而承續,上野燒以藩費製造,後准許專賣,並習得樂燒之法。高國隨細川忠利入肥後,與上野忠兵衛、藤四郎於高田郷創高田燒,後遷下豐原;其器有紫褐、黃黑垂釉與灰青釉茶器,至四代創黑白嵌土與新釉色。

古萩燒
 李敬(後名坂本助八道忠)受毛利輝元聘至阿武郡松本創古萩燒,胎不甚緻密,釉多白黃淡色,受高祿。後賜名高麗左工門,稱「坂高麗左工門」,終年七十五。寬文間休雪來製緻密且釉溜之器稱松本燒。

論述
 九州諸藩開窯啟發日本製陶,然總體止於陶器與炻器,白瓷未成;苗代川白薩摩雖近白瓷,仍屬陶器。日本由土器至陶器進展遲緩,及至瓷器與炻器則大進,而未深究胎土,原因在茶之審美重雅陶。志野風乳白釉之所以受好,在於施於陶胎並顯胎色。常以化妝土、刷毛目與樸拙紋樣求幽玄。若延續瓷器趨勢,或可先於中國試瓷;歐洲更在其後。
 茶趣之賞賦予陶器特有妙味,然就衛生與堅致而言,白瓷之需自明。有田瓷創後不久即奉敕進御器;瓷器為日用亦遠勝陶器。硬質陶器若燒成不全,則貫入與釉剝之患。瓷器高火度燒成不致變質,以少鐵胎釉製透明白瓷,乃大進步;其成因亦係與韓人之因緣。大川內子爵以瀨戶風、京都風、唐津風、有田風為四系。