加藤唐九郎は、1960年(昭和35年)に発覚した「永仁の壺事件」の中心人物として知られる陶芸家です。この事件は、日本の古陶磁器鑑定における最も象徴的な贋作事件の一つであり、当時の鑑定システムの脆弱性を露呈させました。(敬称を省略)
「永仁の壺事件」における加藤唐九郎
加藤唐九郎は、国の重要文化財に指定されながら後に贋作と判明した「永仁の壺」の実際の製作者であるとされています。
- 作品の制作と偽装
- 問題となったのは、「永仁二年」(1294年)の銘を持つ瓶子(へいし)と呼ばれる細口の容器です。
- この瓶子は、加藤唐九郎の現代の作であり、1937年(昭和12年)頃に制作されたとされています。ただし、作者については、長男の加藤嶺男、次男の加藤重高、弟の加藤武一などとする異説も存在します。
- 彼は、この作品を鎌倉時代の古瀬戸の傑作として世に送り出しました。1943年(昭和18年)に愛知県志段味村からの出土品として初めて公表され、さらに1954年(昭和29年)に自身が発刊した『陶器辞典』にも写真を掲載し、鎌倉時代の作品として解説しています。
- 鑑定家を欺くために、彼は贋作の基準となる証拠まで捏造しました。鑑定の根拠の一つとされた瀬戸の「松留窯」の存在自体が、加藤唐九郎による捏造であったことが後に判明しています。
- 「永仁二甲子(年)」という銘を瓶子に刻んだのも、加藤唐九郎自身であったことが確実視されています。
- 疑惑の浮上と告白
- 重要文化財指定(1959年)の直後から贋作疑惑が持ち上がり、1960年(昭和35年)2月に読売新聞で問題として取り上げられました。
- 同年8月には長男の加藤嶺男が週刊誌で「あの壺は自分が作ったものだ」と告白しました。
- ヨーロッパに渡航中だった加藤唐九郎は、同年9月23日、「永仁の壺」は1937年頃に製作した自分の作品であると表明し、事件は決着に向かいました。
- 文化財保護委員会が実施した科学的検証の結果、蛍光X線分析法(XRF法)により、釉薬に含まれる元素の比率が鎌倉時代のものとは異なると結論づけられました。また、数百年前の作品なら見られるはずの経年変化(カセなど)が表面に認められないことも判明しました。
事件の教訓と加藤唐九郎の名声
永仁の壺事件は、伝統的な鑑定システムが、贋作師によって巧妙に再現された技術的要素と、偽の窯業史や作品群という捏造された来歴の前で無力であったことを示しています。
加藤唐九郎の行為は、単なる個別の作品の偽造にとどまらず、贋作作品の信憑性を高めるための作品群や来歴を系統的に作り上げる戦略であったと分析されています。
しかし、このスキャンダルは、加藤唐九郎自身の名声に予期せぬ影響を与えました。評論家の山田風太郎は、この事件の後、加藤唐九郎の名声はかえって高くなったと記しており、「重要文化財級の作品を作れる男として」評価された側面があったとされています。
この事件の結果、加藤唐九郎が関与した「永仁の壺」を含む3件の重要文化財陶器は、1961年(昭和36年)4月10日付けで指定を解除されました。

