陶器(唐津系)から磁器(有田・鍋島系)への移行期に、原料供給と商業展開はどのように変化したか?

古唐津の魅力・陶芸の魅力 陶芸の歴史
Charm of Old Karatsu and Ceramic Art
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この移行期は、概ね桃山時代後期から江戸時代初期(17世紀初頭)にあたります。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592-1598年)により渡来した朝鮮陶工たちが、九州の窯業に革命的な変化をもたらしたことが基盤となっています。


1. 原料供給の変化

唐津系陶器から有田・鍋島系磁器への移行は、使用される胎土(原料)の根本的な転換を伴いました。

陶器(唐津系)の原料供給

  • 原料の特性: 古唐津の土は、鉄分を含んだ冴えない暗い色調のものが多く、素地は粒子がやや粗い「砂目の土」でした。
  • 採掘と精製: 陶土は一か所に大量にあることが少なく、窯場ごとに異なっていました。17世紀ごろまでは、山から採取した土を水簸(すいひ)せずにそのままこねて使うことがほとんどでした。
  • 釉薬: 主に身近な材料である木灰釉(土灰釉)や、イネ科植物の灰を主成分とする藁灰釉(斑釉)、そして鉄分の多い鉄釉(飴釉・黒釉)が使われていました。

磁器(有田・鍋島系)の原料供給

  • 陶石の発見: 移行の決定打は、17世紀初頭の元和2年(1616年)に、朝鮮陶工の李参平(りさんぺい)によって有田の泉山白磁鉱(陶石)が発見されたことでした。
  • 新原料の特性: 陶石は砕き、練り合わせ、焼くことで磁器となりますが、その製品は高い強度を持ち硬く、仕上がりの色は濁りがなくて美しいという特徴がありました。磁器は「焼き物のうちで最も高貴で、陶芸では到達しうる最高級品」と見なされていました。
  • 原料供給地の拡大: 熊本県の天草陶石もまた、単独で磁器を造れる良質な原料として知られ、現在も全国に搬出されています。
  • 釉薬の転換: 磁器釉の媒溶剤として、イスノキの灰を用いた柞灰(いすばい)が古くから有田焼などで使用されました。

この原料の転換は、唐津の土の性格から「上手もの(高級品)は焼けない」と見切られていた状況 を打破し、中国磁器に対抗しうる「白さ」への憧れを実現可能にしました。


2. 商業展開の変化

唐津系陶器の隆盛と衰退は、朝鮮陶工の導入による量産技術の獲得、中央の茶陶文化の需要、そして最終的には佐賀藩による窯業政策によって引き起こされました。

陶器(唐津系)の商業展開

  • 初期の生産目的: 古唐津は当初、壺・皿・碗といった一般民衆が使う日用雑器を生産する民窯でした。
  • 国内市場の獲得: 唐津焼は誕生後20年足らずで、技術の高さと朝鮮半島の先進技術(蹴轆轤、登り窯)の導入により、美濃・瀬戸を抑え、東日本の太平洋側を除く国内の施釉陶器の販売市場を一気に手中に収めました。
  • 量産体制の確立: 大量の製品を供給するため、登り窯(連房式登窯や割竹式登窯)の規模拡大や、皿などの見込みに目(胎土目や砂目など)を設けて多量を積み重ねて焼く目積みという窯詰め方法が多用されました。
  • 茶陶文化との関わり: 桃山時代、豊臣秀吉や茶人(千利休、古田織部)の影響を受け、雑器の延長として茶陶(茶碗、水指など)も作られるようになり、中央でも高く評価されました。
  • 流通: 肥前国内で焼かれた陶器は、唐津港から船で全国に出荷されたため、「唐津焼」または西日本では「唐津物」と呼ばれました。
  • 衰退:
    1. 生産の中心地が岸岳周辺から伊万里市周辺に移り、さらに有田町周辺へと移転しました。
    2. 有田で磁器が開発されたことで、陶工たちの創造力と注目が付加価値の高い磁器(伊万里焼)に注がれるようになりました。
    3. 寛永14年(1637年)、佐賀藩は有田・伊万里地区の窯場を整理統合し、磁器のみを焼成する政策を断行しました。これにより唐津焼は表舞台から姿を消しました。
    4. その後も一部の窯(民窯)で雑器生産は続きましたが、有田磁器に押されて19世紀末までにほとんどが廃窯となりました。

磁器(有田・鍋島系)の商業展開

  • 市場の位置付け: 伊万里焼(有田焼)は、陶器である唐津焼の代替品としてではなく、中国磁器との競合を目指して市場を拡大しました。当時の窯跡から、伊万里焼(磁器)が「唐津焼の最高級品」として位置づけられていたことが推察されます。
  • 生産基盤の継承: 伊万里焼は、中国製品の模倣のための技法は付加されたものの、唐津焼と共通の生産基盤と技術の上で完成しました。
  • 藩による管理・統制(鍋島藩窯):
    • 佐賀藩は窯業を藩の政策として掌握し、寛永5年(1628年)に有田の岩谷川内に鍋島藩窯を設け、1675年には伊万里市大川内山(おおかわちやま)に移動させました。
    • 藩窯では、主に藩の用品、大名への贈答品、幕府への献上品といった高級磁器(献上伊万里、鍋島焼)が焼かれました。
    • その技法(特に赤絵付け)が他藩に漏れないよう厳しく管理されました。鍋島藩窯は領主経済と密着した「専業」体制でした。
  • 国際的な商業展開: 17世紀後半に入ると、肥前磁器は急速に発展し、中国の政情不安を利用して、オランダ東インド会社を通じてヨーロッパやアジア各地へ大量に輸出されるようになりました。これは輸出産業として飛躍的な発展を遂げたことを意味します。
  • 国内流通の発展: 17世紀後半以降、染付・色絵の肥前磁器は、海路交通の発達と廻船問屋(かいせんどいや)の活躍により、国内市場でも幅広く取引されるようになり、享保年間前後から隆盛を極めました。伊万里港から積み出しされたため、「伊万里焼」として流通しました。