各藩(鍋島・多久・蓮池)が陶磁器生産を保護・管理した体制と、それが技術・産地に与えた影響は何か?

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佐賀・肥前地域における陶磁器生産は、江戸時代に入ると、宗藩である鍋島藩(佐賀藩)とその支藩である多久藩、蓮池藩(嬉野焼の領域を支配)といった各藩による強力な保護・管理体制(藩政下の窯業経営)の下に置かれました。この体制は、単に産業を維持するだけでなく、技術の高度化、産地の専門化、そして後の輸出産業への発展に決定的な影響を与えました。

各藩による保護・管理体制とその影響を以下に詳述します。


1. 鍋島藩(宗藩):究極の技術と独占体制の確立

鍋島藩による窯業管理は、主に献上品製造を目的とした藩窯(御用窯)の運営と、有田の民間磁器生産(皿山)の統制という二つの側面がありました。

【保護・管理の体制】

  1. 藩窯の設立と秘匿:
    • 鍋島藩は、将軍家、朝廷、諸大名への献上・贈答品として、最高級の磁器を焼くための藩窯(御用窯)を組織しました。
    • 藩窯は、1628年(寛永5年)頃に有田の岩谷川内に設けられた後、技術漏洩を防ぐため、1675年(延宝3年)には伊万里市の大川内山という秘窯の里へと移されました。
    • 藩窯の技法は厳重に秘匿され(秘法流出防止)、長男以外への伝授を禁じる掟が設けられていた時期もありました。窯や職人の出入りには番所が設けられ、他国人の監視が行われていました。
    • 藩窯の職員や陶工は藩から扶持(俸禄)を支給され、生活が保障されました。
  2. 原料(磁石)の独占:
    • 日本で最初に磁器の原料が発見された有田の泉山磁石は、藩の厳重な管理下に置かれました。
    • 特に藩窯や禁裏御用(辻家)には「御用坑」と呼ばれる最上質の原料が厳選して割り当てられました。他領への持ち出しは厳禁され、摘発のために懸賞金付きの布告が出されるほどでした。
    • 民窯(外山)に対しては、原料の採取が許されても等級や数量が厳しく制限され、最も下等な「ナレ石」のみが割り当てられることもありました。
  3. 民窯の統制と専門化:
    • 佐賀藩は、有田皿山(内山)において、磁器生産を促進し、陶器(唐津焼)を排除するため、1637年(寛永14年)に窯場を13ヶ所に整理統合する政策を断行しました。
    • 窯元の数を制限し(155戸、後に220枚の名代札)、赤絵の技術者集団(赤絵屋16軒)にも名代札を与え、その技術を保護しました。
    • 1815年(文化12年)には、製品の種別制度を設け、各窯場(皿山)で生産する品目(例:南川原山は型打丼、大樽は丼と鉢)を厳格に限定しました。これは他山の追随を許さない熟達と、各山の旧来の特色を保持させる目的がありました。

【技術・産地への影響】

  1. 「鍋島様式」の完成と美術化:
    • 藩の厳格な管理と無制限の予算投入により、色鍋島、染付鍋島、鍋島青磁といった独自の「鍋島様式」が完成し、その技術的水準は康煕、雍正の清朝官窯にも匹敵すると評されるに至りました。
    • 献上品は皿類が中心で、特に木盃形と呼ばれる規格化された高台皿が主体となりました。
    • 純日本的な意匠(松唐子繪、植物や青海波の文様など)が採用され、中国趣味から脱却した独特の装飾美が追求されました。
    • 技術者(轆轤、捻り、画工)は生活を保障され、技術研鑽に専念でき、才能ある者は藩窯へ抜擢されることが最高の名誉とされました。
  2. 生産地の専門化と品質維持:
    • 有田皿山は、藩の統制下で磁器生産に特化し、日本最大の磁器生産地としての地位を確立しました。
    • 藩窯では不出来品や献上残りはすべて破砕して埋没することが厳命され、技術の流出を防ぐとともに、品質の維持を図りました。
  3. 近代産業への応用:
    • 鍋島藩は幕末、佐賀藩主鍋島直正(閑叟)の主導の下、軍事技術研究の一環として、大川内窯で大砲鋳造に必要な耐火レンガを製作するという画期的な取り組みを行いました。これは国産耐火レンガの先駆とみられます。

2. 多久藩:日本磁器創業の保護者

多久藩は、佐賀藩の有力な家老である多久氏の領地であり、日本磁器の創業期に重要な役割を果たしました。

【保護・管理の体制】

  1. 陶工李参平の保護:
    • 多久氏の参謀であった多久安順は、朝鮮出兵(慶長の役)からの帰還に際して、道案内などで功績のあった朝鮮陶工の李参平(金ヶ江三兵衛)を自領の多久に連れ帰り、保護しました。
    • 李参平は多久安順の保護の下、多久で陶器を焼いていましたが、磁器の原料を探す旅に出ることを許されました。
  2. 技術者集団への待遇:
    • 磁器創始後、李参平の協力者たちは「金ヶ江一統」として多久氏の被官(家来)となり、「金ヶ江」姓の使用を許され、少額ながら扶持米(俸禄)や運上(税)の免除を受けました。

【技術・産地への影響】

  1. 磁器生産の直接的な契機:
    • 李参平が1616年(元和2年)に有田の泉山で理想的な陶石(磁石)を発見し、天狗谷窯で磁器製造を始めたことが、日本磁器の始まりとなりました。
    • 多久藩による李参平の保護は、肥前地域が陶器から磁器へと転換する歴史的な大革命を引き起こす不可欠な前提でした。
    • 多久領内でも陶器窯(多久古唐津)が営まれ、李参平一派は織部風の絵唐津を焼いていました。
  2. 原料支配権の一部保持:
    • 李参平の功績により、多久領(武雄藩領ながら多久氏支配)の分窯地であった筒江山は、泉山磁石の一定量の採取特権を許可されていました。

3. 蓮池藩:日用品の量産と振興

蓮池藩は佐賀藩の支藩ですが、藩祖である鍋島直澄の主導の下、高級品ではなく領民のための産業振興に焦点を当てました。

【保護・管理の体制】

  1. 日用品生産の奨励:
    • 藩祖・鍋島直澄(勝茂の三男)は、自らの嗜好ではなく領民の福利と産業振興を主眼とし、日用品の製造を強く奨励しました。
    • 直澄は1652年(承応年間)頃、吉田の陶山を発展させるため、有田郷南川原から四人の指導者(副島氏、金ヶ江氏ら)を招き、窯の構造を大窯へ改築させました。
    • 直澄は吉田山の窯焼に対し、永代許可の特権を与え、窯焼が米屋や酒屋などの営業を兼業する権利を認め、手厚く保護しました。

【技術・産地への影響】

  1. 量産体制の確立と市場獲得:
    • 蓮池藩の保護と奨励により、吉田山は発展し、主に広東茶漬碗などの日用品を量産しました。
    • 吉田山で生産された製品(吉田山焼/嬉野焼)は、後に大阪との直取引を開始して空前の活況を呈し、国内市場に広く普及しました。
    • この方針は、宗藩の鍋島焼のような美術品志向ではなく、恒常的な生計を成り立たせるという産業の王道を選んだものであり、波佐見焼とともに庶民の需要を満たす生産地として発展しました。

まとめ:各藩の管理体制が技術と産地に与えた影響

肥前地域において、各藩による陶磁器生産への介入と管理は、日本の窯業史における近代化と専門化を決定づけました。

藩名管理/保護の主要な形態技術・産地に与えた影響
鍋島藩(宗藩)藩窯(大川内山)の直営、泉山原料の独占、有田民窯の品目制限(製品種別制度)、献上品を中心とした厳格な品質管理。鍋島様式(色鍋島)の完成、美術工芸の頂点への到達。有田の磁器専門産地化(唐津焼からの転換)。
多久藩朝鮮陶工(李参平)の保護、磁石発見の奨励、金ヶ江一統への扶持。日本最初の磁器(初期伊万里)の創業という歴史的転換点の創出。
蓮池藩藩祖による窯の改良、日用品生産の奨励、窯元への営業特権付与。吉田山・嬉野焼における日用品の量産体制の確立と国内市場での成功。

これらの藩による管理体制は、技術の秘匿と保護を徹底することで、肥前磁器(伊万里焼、鍋島焼)を国内だけでなく国際的にも通用する(オランダ東印度会社への輸出など)高品質な輸出品へと育て上げる基盤となったのです。