佐賀・肥前地域における陶業の起源と、豊臣秀吉による朝鮮出兵後の陶工渡来は、日本の陶磁器史上、非常に密接かつ劇的な変革をもたらした事象として関連しています。
結論として、肥前地域の陶業は朝鮮出兵以前にすでに朝鮮半島の技術の影響を受けて誕生していましたが、朝鮮出兵後の陶工の大量渡来がその産業を爆発的に拡大し、さらに磁器生産という歴史的な転換点をもたらす直接的な契機となりました。
1. 陶業の起源(朝鮮出兵以前)
肥前地域における近世陶業の源流は唐津焼であり、その始まりは豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役:1592年〜1598年)が始まる数年前、すなわち1580年代後半から1590年代初頭に求められます。
- 岸岳古窯の誕生: 唐津焼の誕生は、当時の東松浦半島を拠点としていた松浦党の領袖である波多三河守親の居城、岸岳城(鬼子嶽城)の山麓一帯(現在の佐賀県北波多村・相知町)に忽然と築かれた窯に集約されます。
- 倭寇と技術の導入: 波多氏は当時、倭寇貿易の実権を握っており、この国際的な交易活動(後期倭寇)を通じて、朝鮮半島からの人や技術の交流が早くから根付いていました。
この状況下で、文禄の役以前に朝鮮の陶工が肥前に渡来し、陶業を開始していたと考えられます。 - 初期の技術的特徴: 岸岳の窯跡(例:飯洞甕下窯、帆柱窯)は、朝鮮系の割竹式登窯(日本最古とされる)であり、北朝鮮の会寧(かいねい)付近の陶法を源流とする藁灰釉(斑唐津釉の特徴)などの技術が使われていました。
この初期の唐津焼は、主に壺・皿・碗などの一般民衆が使う雑器を生産していました。
2. 朝鮮出兵後の陶工渡来とその影響
文禄・慶長の役(やきもの戦争)は、既存の肥前陶業の発展にきわめて大きな契機となりました。
- 陶工の大量拉致・招聘: 豊臣秀吉の命令により出兵した各大名は、帰国に際して、朝鮮半島から陶工や大工、石工など多くの捕虜を連れ帰りました。
肥前地域を治めた鍋島直茂(佐賀藩の祖)や唐津の寺沢広高らも多くの陶工を連れ帰っており、これは藩の殖産振興策として、また当時の茶道の流行を背景に、特に陶工が重用されたためです。 - 技術の革新と生産の拡大: 渡来した朝鮮陶工は、蹴轆轤(けろくろ)や連房式登り窯(中国の影響も含む)といった高度な技術を日本にもたらし、わが国の窯業界に一大革命をもたらしました。
これにより、唐津焼は量産体制が整い、一気に国内有数の施釉陶器の産地へと躍り出ます。- 作風の多様化: 渡来陶工によって、象嵌技法を用いた三島唐津 や、黒飴釉と海鼠釉を掛け分けた朝鮮唐津 など、新しい装飾技法が発展しました。
- 茶陶への傾倒: 桃山時代の千利休や古田織部などの武人茶人の影響を受け、壺や皿といった雑器だけでなく、茶碗や水指などの茶陶の生産が盛んになりました。
古田織部は肥前名護屋に滞在した際、唐津陶に作風の指導を行った可能性も指摘されています。 - 窯業地の拡散: 渡来陶工たちは肥前一帯(唐津領、多久領、武雄領、平戸領、大村領)に広く分散し、多久古唐津、武雄古唐津、平戸古唐津など各地に窯を開きました。
3. 磁器生産への転換
朝鮮出兵後の渡来陶工は、肥前陶業の形態を根本的に変える、日本初の磁器生産の立役者となりました。
- 李参平による磁石発見: 鍋島軍に連れ帰られた陶工の一人である李参平(りさんぺい、日本名:金ヶ江三兵衛)は、多久安順の保護下で陶器を焼いていましたが、磁器の原料を探し求め、1616年(元和2年)、有田の泉山で磁器となる陶石(泉山陶石)を発見しました。
- 有田焼の創業: 李参平は天狗谷窯で磁器の製造を始め、これが日本初の磁器(初期伊万里)の始まりとなり、日本の陶業に大革命を起こしました。
- 陶器から磁器への移行: この磁器の誕生により、有田付近の多くの唐津窯が磁器窯へと転換し、肥前の生産の中心は伊万里市周辺から有田町周辺へと完全に移りました。
唐津焼の陶器は、次第に「やきもの」の表舞台から消えていくこととなります。
このように、佐賀・肥前地域における陶業の起源は、朝鮮出兵以前の松浦党による朝鮮陶技の導入(岸岳古唐津)に遡りますが、その後の朝鮮出兵(やきもの戦争)が、陶工の大量渡来という形で技術・生産体制を飛躍的に発展させ、究極的には磁器という新産業を有田にもたらし、肥前陶業の歴史的地位を確立したのです。

