古唐津を含む日本の陶芸技術は、朝鮮半島からの影響をどのように受け、その歴史的背景と地理的要因は何か?

古唐津の魅力・陶芸の魅力 古唐津
Charm of Old Karatsu and Ceramic Art
この記事は約8分で読めます。

日本の陶磁器技術、特に古唐津(こがらつ)における朝鮮半島からの影響は、日本の窯業史における一大転機であり、その歴史的背景と地理的要因は深く関連しています。

古唐津をはじめとする九州の主要な陶器(萩焼、高取焼など)は、主に朝鮮半島から渡来した陶工(沙器匠)によって築かれたものであり、その技術は古代と近世の二度にわたる大きな波として日本にもたらされました。

1. 歴史的背景:二度にわたる技術導入と「やきもの戦争」

第一波:須恵器の伝来(古代)

朝鮮半島からの窯業技術の最初の大きな影響は、古墳時代中期(5世紀頃)に須恵器(すえき)が日本にもたらされた時です。

  • 技術源流: 須恵器は、朝鮮半島から伝わった焼成技術を用いて焼かれた、青く硬く焼き締まった土器です。それまでの日本の土器(縄文土器、弥生土器、土師器)は野焼きによる赤っぽい素焼きでしたが、須恵器は轆轤(ろくろ)成形(高温を安定して保つことが可能)を使用する高度な技術でした。
  • 技術経路: 須恵器の源流は南鮮の伽耶・百済の陶質土器や新羅焼、さらには中国の灰陶に遡ります。その製法は朝鮮半島を経由して渡来人により日本に伝わりました。

第二波:古唐津の開窯と慶長の役(近世)

唐津焼の技術が本格的に確立したのは、これより約1000年後の、室町時代末期から桃山時代にかけてです。

  1. 開窯初期(文禄・慶長の役以前)
    • 古唐津の窯業は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役:1592-1598)が始まる数年前、1580年代後半から90年代初頭にかけて、松浦党の領袖であった波多氏の居城、岸岳城(きしだけじょう)の周辺で誕生したとされています。
    • この時期、東松浦半島一帯は倭寇(後期倭寇)の活動と貿易の基地であり、波多氏がその盟主として実権を握っていました。この背景から、すでに文禄・慶長の役以前に朝鮮の陶工が渡来し、岸岳の窯を開いていたと考えられています。
    • 岸岳の窯跡(飯洞甕下窯など)は、窯の形式や作風から朝鮮系のものであり、唐津陶の源流をなしています。特に藁灰釉(わらばいゆう)を特徴とする斑唐津(まだらからつ)を焼いた帆柱窯の技術は、北朝鮮の会寧(かいねい)付近の技法の影響を受けていると考えられています。
  2. 技術の飛躍的発展:「やきもの戦争」
    • 日本の窯業技術を劇的に進歩させた最大の契機は、豊臣秀吉が起こした文禄・慶長の役(「やきもの戦争」)です。
    • この戦争により、出兵した諸大名(鍋島直茂、黒田長政、毛利輝元、細川忠興など)は帰国時に多数の朝鮮人陶工(沙器匠)を連れ帰り、自領の殖産振興と、当時隆盛していた茶の湯の需要に応えるため、競って彼らに作陶を始めさせました。
    • 肥前地方(佐賀・長崎)は特に渡来した陶工が多く、唐津焼(松浦系、多久系、武雄系、平戸系)が広範囲に発展しました。有田焼の創始者李参平も慶長の役で連れ帰られた陶工の一人です。
    • 陶工たちは異国での生活を強いられましたが、日本では厚遇されることもあり、李朝文化の高度な技術が日本に定着し、日本の陶芸界に一大革命をもたらしました。

2. 地理的要因:九州の立地と西日本における優位性

大陸文化の玄関口としての九州

  • 地理的近接性: 九州の西側、特に肥前(佐賀・長崎)地域は、対馬・壱岐を飛び石づたいにして朝鮮半島に連なる大陸文化の接点であり、古くから朝鮮や中国との文物の交流の中継地としての役割を果たしてきました。
  • 国際貿易港: 唐津(唐の津=中国に渡る港)は古くから中国・朝鮮との通商港として、筑前博多と並ぶ北部九州の要衝でした。このため、文禄・慶長の役以前から朝鮮人陶工が渡来する機会に恵まれていました。
  • 「からつ」という総称: 唐津焼は唐津の港から全国に出荷されたことからその名が付いただけでなく、近世には西日本で陶磁器の主産地であったため、関西では焼き物全般を「唐津物」または「からつ」と呼ぶほどに普及しました。

中世九州の窯業停滞からの脱却

  • 中世の九州は、中国や朝鮮から陶磁器が容易に輸入されていたため、自国で窯業が成熟せず、日本の窯業史の中では後進地域でした。
  • 豊臣秀吉の朝鮮出兵と陶工の大量渡来は、この停滞期を終わらせ、九州が日本の窯業の面で先進性を完全に回復する画期的な文化現象となりました。

3. 朝鮮半島から導入された具体的な技術要素

古唐津系の陶技は、主に高麗末期から李朝中期の朝鮮陶技が源流となっており、多岐にわたる技術が導入されました。

窯と成形技術

日本の陶芸技術、特に古唐津の発展は、朝鮮半島からの技術流入と深く結びついており、その歴史的・地理的背景の中で、登窯や轆轤(ろくろ)といった成形技術から、釉薬や装飾技法に至るまで多大な影響を受けました。

1. 朝鮮半島由来の成形・焼成技術

日本の窯業、特に古唐津を特徴づける技術基盤には、朝鮮半島由来の要素が強く見られます。

窯の形式については、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)以前から唐津の源流をなしていたとされる岸岳古窯の飯洞甕下窯(はんどうがめしたがま)からは、日本最古の割竹式登窯の窯跡が残存しています。割竹式登窯は朝鮮系の窯の形式とされています。一方で、唐津焼の窯の大半は中国の影響が考えられる連房式登窯であり、必ずしも技術のすべてが朝鮮由来とは言えません。しかし、岸岳の皿屋上窯跡は、焼成室を分ける隔壁を持たない無段・単室の窯で、製品・窯構造ともに李朝の甕器窯(かめきがま)と酷似しており、朝鮮半島の直接的な影響のもとに築かれた重要な窯として高く評価されています。

轆轤(ろくろ)技術においては、朝鮮系の陶技を継承した蹴轆轤(けろくろ)が用いられました。蹴轆轤は量産に適しており、粘土と接する手の滑りを良くするために水を使う「水挽き(みずひき)」によって成形されます。古唐津の轆轤の回転方向は、成形時(水挽き)は時計回りの右廻りですが、削り出しの細工は逆の左廻りで行う点が特徴的であり、これは瀬戸や上方で使用される手轆轤(成形・削りともに右廻り)とは根本的に異なります。この回転方向を知ることは、古唐津の判別にも利用できます。

叩き(タタキ)技法も朝鮮の伝承陶技の中でも最も特徴的な成形技術であり、甕や壺、水指など、比較的大きな形状の「袋物」の成形に用いられました。この技法は、内側に当て木を当て、外側から叩き板で叩き締めることで土が薄く締まり、内側には当て木の年輪が重なって青海波文(せいがいはもん)が残ります。この青海波文は唐津陶の系統が朝鮮陶の手法であることをはっきり示しています。

削りにおいては、鈍重な丸かんなや竹箆(たけべら)など、刃のつかない道具で削り出すことによって、土の持つ「ざんぐり」とした土味や「ちりめん皺」といった野性的な肌合いを引き出す造形性が生み出されました。これは美濃陶には見られない、李朝陶技の純粋な造形美が反映された力強い意匠であるとされます。

2. 釉薬と装飾技法の多様な展開

朝鮮半島から導入された技術は、唐津焼に鉄絵、藁灰釉、白土を用いた多様で複雑な装飾性をもたらしました。

藁灰釉と斑唐津の革新性

藁灰釉(わらばいゆう)は、米や麦などのイネ科植物の灰を主成分とし、珪酸を多く含むため白濁色となる失透性の白釉です。これは日本の陶器に初めて「白」を装飾として利用する手法を見つけ出し、日本の陶器の表情を豊かにする画期的な功績となりました。

この藁灰釉を単独でかけた作風が斑唐津(まだらからつ)です。斑唐津では、胎土や釉薬に含まれる微細な鉄分が焼成中に青く、黒く、まばらに現れることから、「まだら調」と呼ばれて茶人の間で珍重されました。斑唐津の釉調が最も美しいとされる帆柱窯(ほばしらがま)は、この藁灰釉の技法が北朝鮮の会寧(かいねい)窯の影響を受けているとされています。帆柱窯の製品の中には、北朝鮮の会寧焼と全く変わらないものがあり、斑唐津のなかで古格を示しています。

朝鮮唐津と釉薬の掛け分け

朝鮮唐津は、黒飴色の鉄釉(くろあめゆう)と、白濁色の海鼠釉(なまこゆう)(藁灰釉)を掛け分ける装飾法です。この技法は、黒の部分と白の部分が別々に掛け分けられ、重なり合った部分が高温でガラス化することで溶け合い、藍色の海鼠色状の幻想的な色彩と流れ具合の変化(釉流し)を生むのが特徴です。特に胴部の黒褐色と頚部から滝のように流下する白釉のコントラストが魅力とされます。

朝鮮唐津は、その名称から朝鮮産に似ている、あるいは異国の所産という意味合いから名付けられたとされますが、朝鮮半島にはそのルーツとなる品が少なく、日本に渡ってから発展した技法であると解釈されています。桃山期における織部釉(緑釉)など釉流し装飾のブームに便乗する形で、従来の斑唐津の釉法から発展的に創造された可能性が高いと考えられています。朝鮮唐津の作品には水指、花入、徳利、茶碗、皿などがあり、藤ノ川内窯で焼かれたものが有名です。

鉄絵と三島唐津

  1. 絵唐津(えがらつ):李朝の鉄砂の技法が日本の焼き物へと生まれ変わった装飾技法です。鉄を多く含む岩石(鬼板/黒錆)を砕いて水で溶いたものを絵具として用い、透明釉や長石釉をかけて焼いたものです。草花や抽象紋を一筆書きのように描くのが特徴です。意匠は李朝風の簡素なものから、美濃の織部焼に似た変化に富んだものまで多様ですが、簡略化されたモチーフ(樹木、花、網目、鳥など)は古窯のほとんどで共通して見られます。
  2. 三島唐津(みしまからつ):慶長の役後、韓国南部地方の陶工によって伝えられた技法で、李朝の粉青沙器(ふんせいさき)(日本では三島手)の技法を倣ったものです。これは象嵌(ぞうがん)技法の一種で、「三島」の名は、文様が三島大社(静岡県)の暦に類似していたことに由来するのが通説です。胎土の柔らかい段階で刻印を押したり、線彫りをして凹文様を彫り出し、その上に白土(化粧土)を刷毛で塗布し、拭き取ることによって白土を凹文に残す手法(象嵌・刷毛目)が共通しています。韓国では三島を粉青(ふんせい)と呼んでいます。

奥高麗

奥高麗は、古唐津の茶碗の中でも古作の無地茶碗を指す名称であり、高麗茶碗に近似していることから名付けられました。桃山時代に点茶が盛んになった際、舶載の高麗茶碗が少なかったため、唐津の諸窯で高麗茶碗(井戸、熊川、柿の蔕など)を手本として製作されました。釉は長石釉が用いられ、白、枇杷色、薄い柿色、淡い青磁色などに発色します。