永仁の壺事件

古唐津の魅力・陶芸の魅力 技法
Charm of Old Karatsu and Ceramic Art
この記事は約3分で読めます。

「永仁の壺事件」は、1960年(昭和35年)に明るみに出た、日本の古陶磁器における最も象徴的な贋作事件の一つです。この事件は、従来の伝統的鑑定システムの構造的脆弱性を露呈させ、鑑定学の歴史における決定的な転換点となりました。

事件の概要と経過

作品の制作と偽装
「永仁の壺」として知られるこの作品は、正確には神社の御神酒徳利に似た細口の容器である瓶子(へいし)と称されるべきものです。この瓶子には「永仁二年」(1294年)という鎌倉時代の年号が刻まれていました。

この作品は陶芸家の加藤唐九郎の現代の作であり、1937年(昭和12年)頃に制作されたとされていますが、作者については長男や弟などとする異説も存在します。

「永仁の壺」は、1943年(昭和18年)に愛知県志段味村からの出土品として初めて公表されました。加藤唐九郎自身も、1954年(昭和29年)に発刊した『陶器辞典』に写真を掲載し、これを鎌倉時代の作品として解説しています。

重要文化財への指定と鑑定の失敗
1959年(昭和34年)6月27日、「永仁の壺」は鎌倉時代の古瀬戸の傑作であり、年代を特定できる基準作品であるとして、国の重要文化財に指定されました。

この指定は、国際的な陶磁研究の第一人者であった文部技官で文化財専門審議会委員の小山富士夫の強力な推薦によるものでした。小山氏は、対となる瓶子が行方不明になっていたため、残る作品の海外流出を懸念して指定を急いだ経緯があるとも言われています。

鑑定家がこれを真作と判断した根拠の一つは、この作品が作られたとされる瀬戸の「松留窯」から、同様の陶片が出土していたことでした。しかし、後にこの「松留窯」の存在自体が、加藤唐九郎による捏造であったことが判明します。鑑定の基準となる陶片が贋作であったため、これを根拠とした「永仁の壺」も贋作と見なされることになりました。

当時の最高レベルの様式論的鑑定(目利き)は、贋作師によって巧妙に再現された技術的要素と、捏造された来歴の前で無力であったことを示唆しています。

疑惑の発覚と科学的検証
重要文化財指定の直後から、現代の作品ではないかという疑惑の声が上がり、1960年(昭和35年)2月に読売新聞で取り上げられて大きな騒ぎとなりました。

同年9月、渡航先のパリで加藤唐九郎本人が「永仁の壺」が1937年頃に製作した自身の作品であると表明しました。

文化財保護委員会は、科学的な検証を実施し、以下の事実を特定しました。

  1. 蛍光X線分析法(XRF法):釉薬に含まれる元素の比率が鎌倉時代のものとは異なることが結論づけられました。XRF分析は、陶磁器の構成元素を分析し、生産地を知ることで贋作を見破る手法として注目されていました。
  2. 位相差顕微鏡による調査:数百年前の作品であれば見られるはずの、長期的な経年変化(カセなど)が表面に認められませんでした。

こうして科学的な証拠が揃った結果、「永仁の壺」を含む3件の重要文化財陶器は、1961年(昭和36年)4月10日付けで指定を解除されました。指定を推薦した小山富士夫氏は責任を取って辞任しました。

事件の教訓と影響

永仁の壺事件の解決は、「疑惑と告白」という外部的要因に大きく依存して確定しました。この事実は、当時の鑑定システムが、客観的な技術的証拠が欠けており、権威主義的判断(Authority Bias)に過度に依存していたことを浮き彫りにしました。

贋作師は、単なる個別の作品を偽造するだけでなく、偽の窯業史や作品群(この事例では「1号」と「2号」の瓶子や偽の「松留窯」陶片など)を系統的に作り上げ、鑑定家に対する心理的な信憑性を高める戦略を採用していたと考えられます。

この大規模な鑑定の失敗は、伝統的な鑑定システムに対する科学的検証の優位性を確立する決定的な契機となりました。この事件がなければ、日本における陶磁器分野での年代測定や材料科学の導入は遅延した可能性が指摘されています。

事件後、加藤唐九郎の名声は「重要文化財級の作品を作れる男」として、かえって高くなったとする見方もあります。また、事件発覚後、瀬戸市の陶工である加藤宇助は「永仁の壺」の模造品を制作し、それが評判となって全国に広まりました。