古唐津の歴史 History of old Karatsu

古唐津の歴史について

唐津焼の起源

古唐津の起源

小十古窯と岸岳古窯

唐津焼は玄界灘沿岸の唐津から西へ伊万里、武雄、さらに南西へ有田、その南の藤津郡、県境を越えて三川内などは、古唐津の古窯跡が散在する一大窯業地でした。
しかし、文献や信びょう性のある旧記類や資料が乏しいく、その起源は未だに明確になっていません。

昭和三十年前後の古窯址の確認調査や最近の学術調査の進歩にともなって採集された数多くの出土陶片や古窯址の築窯規模や構造上の研究成果が定説ではないにしても、ある程度納得ゆく時代考証上の裏付けがなされたことは、古唐津研究の前進を意味しています。また、全国の消費地からの出土で考古学的な学術調査が進み、ほぼ16世紀末(1580年)以降に始まったというのが定説になりつつあります。

名場越後田遺跡(なばこしうしろだ)(唐津市)の第三期の地層(16世紀前半から中頃まで)から小十古窯の陶器が出土しています。

それは備前のすり鉢、瀬戸の菊皿、美濃の天目と一緒に出ているところからも、唐津焼の起源が定説より50年ほど遡ることになります。

唐津焼の始源窯は、いま岸岳八窯と言われていて、その次に小十古窯や山瀬窯とされています。
江戸期の書『松浦叢書』や『松浦拾風土記』などには岸岳古窯より小十古窯が始源窯とする記事が多く見られます。
「始めは佐志にて(小十古窯)にて焼き、夫より稗田山(岸岳古窯)に移り、また大川野組田代村に移り、夫より川原村へ移り、元和の頃椎峰山に移り」と記しているところから、名場越後田遺跡の小十古窯の陶器が唐津焼で最も古いということを完全に否定できません。

唐津焼の起源と松浦党

唐津焼の始源窯とされる岸岳八窯は、いずれも岸岳城周辺に築窯され、岸岳城主波多三河守親(ちかし)が秀吉によって、その城から追放されると、この陶工たちは離散し(岸岳くずれ)、八窯は廃窯したといわれています。

これほど岸岳の陶工は上松浦党首波多氏と深くかかわっていたと語られて来ています。
さらに、その陶工は登り窯をはじめ製作方法、作行(さくゆき)や道具名から朝鮮陶工とされています。

この陶工の故国朝鮮と松浦党は、当時強く関係していたようです。
鎌倉時代から倭寇(わこう)として貿易商あるいは漁夫となって朝鮮へ渡海していたのです。
つまり、松浦党が朝鮮と往来する中で、最初の陶工たちが松浦の地に渡来したと考えられています。

しかしながら、岸岳城主が朝鮮へ往来した記録は一回しかなく、浜田城主であったろうと思われる佐志氏の朝鮮への往来の記録は多くみられます。

岸岳八窯の朝鮮陶工と関係の深い波多氏が朝鮮との往来の記録が他の松浦党より非常に少ないのも古唐津の謎の一つです。

古唐津と献上唐津

唐津焼は時代的に大きく二つに分けて考えられます。

それは、【前期唐津】(古唐津)【後期唐津】(献上唐津)という分け方で、

【前期唐津】は唐津焼の始まった1550年(天文19年)以降から1630年(寛永 7年)ごろまでです。

岸岳山麓の古窯から岸岳系唐津といわれる小十、山瀬、そして文禄・慶長の役で連行されて来た朝鮮陶工たちの諸古窯などの松浦唐津、佐嘉唐津、多久唐津、武雄唐津、平戸唐津、諌早唐津とよばれている製品です。

このなかで、岸岳城主波多三河守が秀吉によって追放されたため、その山麓に築窯していた岸岳八窯は廃窯となり、陶工は離散していったという「岸岳崩れ」については正確な文献はいまだなく、ただ西有田の二ノ瀬の岩永家の前庭に建立されている「高来(麗)神」と刻した自然石などの由来に、岸岳の朝鮮陶工がこの地に移動して来たという、未だに口伝などによる想像の域を出ていません。

【後期唐津】は、磁器が焼かれるようになった1615年(元和元年)の前後ごろから有田を中心に磁器窯が陶器窯にかわって増加し、 1630年(寛永 7年)ごろには殆ど有田地域は磁器窯になり、さらに1637年(寛永14年)に佐賀鍋島藩が窯数を整理し管理強化してから、陶器窯は激減していった。

一方、磁器窯は赤絵付も1646年(正保 3年)に完成し、全国市場に売り出され、急速に磁器が広がるなかで唐津陶は胎土もきめ細い磁器に近い京焼風のものとなり、藩主の献上品として焼く御用窯と、庶民の雑器をつくる窯の二つに分かれ衰えていった。
これを後期唐津、別名献上唐津風の陶器と呼んでいます。

松浦文化連盟中里紀元 監修「唐津・東松浦の歴史」より抜粋引用

古唐津の系譜

古唐津の系譜と造形美古唐津の系譜は、数多い国焼とは趣を異にした歴史的背景の中で、時代を反映しながら発達しました。

古唐津の系譜と造形美古唐津の系譜(雑器と茶陶器)

雑器古唐津と茶陶古唐津

古唐津陶は、広義に解釈すれば九州陶器の源流といった性格づけがなされ、狭義に解釈すれば西肥前という地理的環境を特色づけながら、国焼茶陶と当時の民衆の生活用雑器と、それぞれに幅のある造形性が定着しているのが古唐津の系譜です。

窯場の点在する風土のにおいが、伝承の陶技の中に見事に融合したのが古唐津の特色ともいえますが、他の国焼窯がいささか固着した、様式化した傾向の中で、きわめて狭い範囲に継承されたのに対し、古唐津は西肥前一円の山野に帽ひろく伝播し、ある窯場は群窯的規模の中で密度の濃い様相を見せながらも、比較的自由な、伸びのある多様な表現を保ち続けました。

このことは同じ西肥前の国焼であっても、各窯別に伝世品や出土陶片を地域的に、時代的に、あるいは技法的に分類しながら研究を加え鑑賞を加えると、たとえ陶技は共通であっても胎土の選択や、相葉原料の選別に、絵模様表現に僅かながらも変化のある造形性が発見できることによっても立証されています。

古唐津起源を考える研究資料としては、「海東諸国紀」「李朝実録」などの古書の他に日本の「松浦記集成」「本朝陶器考証」「日本陶説」「工芸資料」などがあります。

鎌倉中期説は本格的な施粕陶が焼成された古瀬戸の起源説と結びつけたようであり、室町中期説は対朝鮮との歳造船貿易との結びつきを強調した説であり、慶長年間説は茶会記に古唐津が記載された時点での文献によるとりあつかいです。

伝世品、古窯址の分布、出土遺物の研究を集約すると室町後期の創業開窯説が最も具体的で真実性があります。

古唐津創業の始動は、「倭冠貿易」の時代であって、当時の朝鮮・李朝前期の文物交流の影響の中で、室町後期の時点で、若干の李朝系陶工が西肥前・唐津地方へ移住し、古唐津開窯へと結びついたのがきわめて自然な成行きと考えられています。

古唐津の歴史なり、その後の展開なり、技術の発達のあとを研究する場合に最も大切なことは、茶陶以前の古唐津と、僅かながら茶陶意識が加味された古唐津の、時代による分類があると考えられています。
これは、雑器古唐津と茶陶古唐津といった二つの分類方法が考えられます。

古唐津の魅力

古唐津の魅力の一つとして、他の国焼では忘却された「陶の本質的な美しさ」が力強く底流しているからに他ならないからです。

古唐津の壷は、雑器的な機能性が茶席の水指の「用」と結びつき、雑器的な「碗」の中に古唐津の原点ともいうべき李朝陶器の造形条件が失われることなく潜在し、抹茶碗としての機能性が先天的に宿されています。


岸岳古唐津について

古唐津の歴史(岸岳古唐津)について

岸岳古唐津とは

唐津市の南郊約11キロのところに佐賀県東松浦郡北波多村があります。

同村に十二世紀中期に波多持が築城し、十六世紀末まで四百余年間、波多氏の居城であった岸岳(鬼子嶽)城跡があります。

この岸岳城山麓に飯洞甕下、飯洞甕上、帆柱、岸岳皿屋、道納屋谷、平松、大谷の七窯が発見されています。

これらを「岸岳古唐津」と称します。

飯洞甕下窯には窯床と窯壁の一箇所だけが残存していて、現存するものとしては日本最古の割竹式登窯です。

飯洞甕窯の南西約千五百メートルにある帆柱窯は、唐津焼の中でも最古のものとされている窯です。

古唐津の作陶時の判定について

1.岸岳城山麓以外にも、室町時代に開かれたと思われる古窯があります。
帆柱窯系の山瀬上、山瀬下(絵唐津に藁灰釉をかけた斑絵唐津を焼いている)の両窯と飯洞甕系の小十(小次郎)窯です。
昭和六十年に唐津市枝去木大字後田にある名場越後田遺跡で松浦党の将校クラスの屋敷が発掘されました。
その中に、中国、朝鮮の古陶磁に混ざって付近にあった小十窯の皿、茶碗などが出土しました。
屋敷の年代は十六世紀初期から中期と推測されています。
このことから、小十窯は1550年代には稼動していたことになります。
小十窯よりさらに古いといわれる岸岳古唐津は1550年代以前に開窯していたと考えられます。

2.天正元年(1573)、織田信長に亡ぼされた福井市一乗谷の朝倉屋敷の焼土層下から古唐津陶片が出土しています。
その中に飯洞甕窯産と思われる叩き釉の上に飴釉をかけた叩き耳付花生けの陶片があります。

3.堺市の環濠都市遺跡から古唐津陶片が出土していますが、その中の天正十三年(1585)木簡と搬出した絵唐津小鉢は岸岳の道納屋谷窯のものと思われます。

4.天正十九年(1591)に自刃した千利休(1522~91)所持の三筒の一つに奥高麗茶碗の「子のこ餅」があります。
胎土、釉の調子から飯洞甕窯か帆柱窯で焼かれたものと思われます。

5.昭和四十六年に行った熱残留磁気測定によって、飯洞甕下窯の終わりは十六世紀末との判定がでています。

6.昭和四十八年、岸岳皿屋の堤から叩き専門の窯が発見されましました。
この窯では、主に壺、甕などをつくっていたようですが、叩きが上手で、非常に薄くつくられています。
この岸岳古唐津では、ほとんど日用雑器がつくられ、一部の例以外、茶陶はつくられていません。

以上のことから、唐津焼が秀吉の朝鮮出兵(1592)以前に始まったことは、推測できるようになりました。


岸岳古唐津以外について

地域上及び作調から区分した古唐津

松浦(寺沢)古唐津

岸岳落城後、陶工たちは各地に逃散しました。
岸岳陶工と渡米陶工たちによって、旧波多領内に開かれた諸窯とその分窯を松浦古唐津と称しています。
松浦古唐津の大多数の窯跡は現在の伊万里市にあります。
松浦古唐津が他系統と異なるところは、藁灰和の技法がほとんどの窯にあることで、岸岳の伝承を受け継いだ古唐津の本流ともいうべき諸窯です。

これ等の窯と別派のものが、伊万里市大川内山を中心として散在する市ノ瀬高麗神窯系の諸窯です。
織部唐津ともいえる、志野、織部風の絵唐津を焼いどうぞのた窯は、蜜屋の谷、市若屋敷、焼山、道園、阿房谷等の諸窯です。
李朝鉄砂そのままの絵唐津のけやき窯として、市ノ瀬高麗神、権現谷、牧の樽谷等の諸窯があります。
斑唐津、朝鮮唐津の有名な窯は山瀬、大川原、藤の川内、阿房谷、金石原、広谷等の諸窯です。
織部風の叩き水指や花生の優品を作った窯として、確瓦屋の谷、焼山、藤の川内等の窯があります。

椎の峯には唐津のすべての技法があります。
象嵌、型紙刷毛目、櫛刷毛目等の三島唐津、三彩唐津、辰砂唐津等があります。

多久古唐津

佐賀県多久市にあり、金ケ江参兵衛一派により開かれた諸窯を多久古唐津といいます。
鍋島直茂が朝鮮より帰国の時、功労のあった李やすのぶを多久安順軍にいれ、連れ帰りました。
李は姓を金ヶ江、名を参兵衛と称しました。

多久にあずけられた参兵衛は多久市西の原に唐人古場窯を開き、次に同市西多久町に移り、多久高麗谷窯を開き、ここで織部風の絵唐津を焼いた。

武雄古唐津

佐賀県武雄市、嬉野町周辺に散在し、慶長の役後渡来した陶工たちによって開かれた。
これらの諸窯を武雄古唐津といいます。

鍋島藩家老の後藤家信は慶長の役後、宗伝他多数の陶工を連れ帰り、家信の保護で武雄市武内町に良土を発見して、内田山に開窯しました。

内田山の小峠窯系、武内町平古場の祥古谷窯系、武内町黒牟田山の錆谷窯系などの窯跡が散在しています。
武雄市東川登町の内田皿屋窯は別系統と考えられています。
蛇喝唐津を焼いた窯には、祥古谷、李祥古場、古郡甲の辻、彬の元、猪ノ古場、正源寺、牛石窯があります。

織部風の絵唐津で有名な内田皿屋窯、三島唐津の優品を焼いた峠、川古窯の谷新、大草野、百聞窯等があります。
小峠、百間窯は染付磁器を焼いた百聞窯では三島唐津染付を作っています。

平戸古唐津

佐賀県西松浦郡有田町、西有田町、長崎県佐世保市、平戸市、同県東彼杵郡波佐見町、諌早市に散在する諸窯を平戸古唐津と称する。

松浦党で平戸藩、王の松浦鎮信は茶道に造詣が深く、連れ帰った男女二百余人のなかの陶工巨関、金久永らに平戸御茶盟窯を築かせ、李朝風の茶器を作らせた。
しかし良土がなく陶工たちは有田地方に土を求め歩き、三川内地方に多数の窯を開いた。

不動佐窯は大村藩主大村喜前が連れ帰った陶工が波佐見町に開いたものです。

平戸古唐津中有名な窯に平戸御茶怨窯、原明、小森谷、霞の元、柳の元窯等があります。


唐津焼の現在までの流れ

古唐津の歴史(現代まで)について

創始期から現在まで

唐津は古くから対外交易拠点であったため、安土桃山時代頃から陶器の技術が伝えられていたといわれ、現在も佐賀県の岸岳諸窯など至る所に窯場跡が点在します。

唐津焼が本格的に始まったのは、文禄・慶長の役の頃からといわれ、鍋島氏によって大量に連行された陶工たちによって、李朝磁器の技術と築窯技術が持ち込まれたのが契機です。

草創期は食器や甕など日用雑器が中心でしたが、この頃になると唐津焼の特徴であった質朴さと侘びの精神が相成って茶の湯道具、皿、鉢、向付(むこうづけ)などが好まれるようになりましました。

西日本では一般に「からつもの」と言えば、焼き物のことを指すまでになり、とりわけ桃山時代には茶の湯の名品として知られ、「一楽二萩三唐津」などと格付けされましました。

開窯の時期については諸説ありますが、室町末(16世紀後半)には岸岳周辺(佐賀県東松浦郡北波多村)諸窯(飯胴甕・帆柱・皿屋・山瀬など)を中心に、操業が開始されたと考えられています。
岸岳は中世倭寇として活躍した松浦党の領袖波多氏が代々居城とした地であり、山麓の諸窯も波多氏の管理下に操業されていたと見られます。
これらの窯の担い手について、窯構造や釉胎・器形・作調等の類似から、波多氏が連れ帰った朝鮮半島北部の陶工に比定する説があります。

岸岳系唐津は、文禄3年(1594)波多氏の改易にともなって一端廃絶しますが、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役:1592~98)の前後に渡来した李朝の陶工達により、新たな唐津陶器窯が続々と開かれました。
このころが唐津焼の最盛期と考えられ、日常雑器を中心に急速に流通圏を広げ、中世以来の伝統を誇る瀬戸美濃と国内陶器市場を二分するまでに成長しました。


江戸時代に入って窯場が林立したために、燃料の薪の濫伐による山野の荒廃が深刻な問題となりましました。
鍋島藩は各地の窯場が燃料の薪を切り出すために山が荒れているという理由で、藩内の窯場の整理、統合を強行しました。

朝鮮陶工を除く日本人陶工824 人を追放し、伊万里地域の窯場4カ所すべてと有田地域の窯場7カ所を取り潰し、有田地域東部の13カ所の窯場に統合しました。
それによって窯場は有田に集約されたため、唐津も甚大な影響を被り、多くの窯元が取り壊されましました。

やがて江戸時代前期に磁器が焼かれるようになり、さらに染付、赤絵等の技術が開発されるに及んで、焼き物の需要は陶器から磁器に移行します。
有田を中心とする磁器窯は盛行を極める一方、唐津陶器窯は岸岳系の一部を残して次第に衰退していきます。

しかし、唐津の茶器は全国でも評判が高かったため、茶陶を焼くための御用窯として存続しました。
唐津藩領内にはいくつかの窯がありましたが、椎ノ峯窯出身の4代中里太郎右衛門は坊主町御用窯を開きました。
後に、享保19年、藩命により町田唐人町に御茶碗窯として窯を移し唐津焼は茶陶を焼く御用窯として存続しました。
その間の焼き物は幕府にも多数献上品が作られたため、献上唐津と呼ばれています。

明治維新によって藩の庇護を失った唐津焼は急速に衰退、有田を中心とした磁器の台頭もあって、多くの窯元が廃窯となりましました。
後の人間国宝、中里無庵が「叩き作り」など伝統的な古唐津の技法を復活させ、再興に成功させました。

現在は伝統的な技法を継承する一方で、新たな作品を試みたりと、時代の移り変わりの中で、着実な歩みを遂げています。


唐津焼の創始期である16世紀後半から、慶長元和年間の最盛期を経て、衰退期に転ずる17世紀半ば頃まで、約70年間にわたって生産された唐津焼をとくに古唐津と称しています。