古唐津及び唐津焼並びに陶芸に関する用語集

古唐津及び唐津焼並びに陶芸に関する用語集 は行

灰被り(はいかぶり)

窖窯や登窯などの薪窯で、焼成中に薪の灰が製品に掛かり、それがガラス化して一つの見どころになった箇所をいう。

灰釉(はいぐすり・はいゆう)灰釉(かいゆう)灰陶(はいとう)

樹や藁の灰を原料とした最も基本的な高火度釉。土灰釉(どばいゆう)、藁灰釉(わらばいゆう)など。「かいゆう」とも読みます。
焼成中に薪などの灰が被る自然釉ではなく、意識的に灰釉を掛けたもの。

杯洗(盃洗)(はいせん)

宴会などの席で、杯をやり取りする際に、杯を洗うための水を容れておく器。

萩焼(はぎやき)

山口県萩市と長門市で焼かれる陶器。一楽二萩三唐津といわれ、深い味わいの茶陶として有名です。

その起源は文禄 の役に帰順して大阪に来ていた朝鮮の陶工李勺光(一名シャムカン)を、その後豊臣秀吉が毛利輝元(寛永二年四月歿行年七十三歳)に預けられ、芸州広島にいたが、慶長五 年輝元は豊臣方に味方し、徳川方に敗れ、長州萩に改易されたので、李勺光もこれに 従い萩に移り、城下の松本村字中ノ倉に開窯したのに始まります。
その後、弟李敬を 朝鮮から呼び寄せ協力させています。

李敬は帰化して初め坂倉の姓を名乗りましたが、後に坂の姓に改め、通称を助八と申しました。
寛永二年藩主から「高麗左衛門」 の日本名を賜わり、藩の御抱窯として代々この名前を世襲して現在に及んでいます。

一方李勺光は輝元の命により昔から長州地方にあった古窯の調査を行ない、その復興 を命じられましたが、長州深川の三の瀬で歿しました。
その後李勺光の歿した長門市 深川の地に、山村光俊を主家として李勺光の弟子、山崎平左衛門達が寛文年間に創窯しました。

白磁(はくじ)

白色の素地(きじ)に透明釉(とうめいゆう)をかけ、高火度で焼成した白い磁器。
日本では17世紀に伊万里焼(いまりやき)で始まる。
白磁は中国宋時代の定窯によって代表されます。
淡いクリーム色がかった白磁胎に流麗な彫文様が施され、古今東西の白磁のなかでも最もすぐれたものの一つです。
青白磁は白磁胎に施された釉薬の成分や還元焼成によって、うすい青味を帯ぴ、また彫りくぼんだ部分に釉が溜って青くみえることから、影青(いんちん)とも呼ばれました。

刷毛目(はけめ)刷毛目茶碗(はけめちゃわん)

色土の素地(きじ)を白磁(はくじ)に似せるため、刷毛で白化粧を行なったもの。無造作な刷毛の痕が景色(けしき)の一つ。
色の濃い胎土の土の肌を白くするために、白泥を刷毛で塗りつけて、白い刷毛目のたった茶碗を刷毛目茶碗と呼びます。
多くは李朝初期に朝鮮の鶏龍山や務安で作られた雑器に属します。
黒っぽい土に白く浮いた刷毛目の無造作な景色を喜んで当事の茶人がつけた名ですが、このあたりでは白尼の生産量が少なく、その量を調節するためにこういう化粧法が生まれたと考えられます。

古刷毛目・櫛刷毛目・無地刷毛目などに類別されます。
わが国でも唐津の木原や現川(ウツツガワ)などで行なっています。

白化粧した後、クシを用いて文様を描き出したものをくし刷毛目と呼んでいます。

文様を切りぬいた型紙の上から波形で白土をすり込んだものを型紙刷毛目と呼んでいます。

白土で白化粧した上に鉄釉と銅釉を使って褐色と緑色の二彩で松文・山文などを描いているものをニ彩唐津と呼んでいます。

刷毛目は、化粧土を水に溶かした溶液の中に漬け込む粉引の方法とは別に、その化粧土の溶液を刷毛や藁を束ねたものなどで、刷毛塗りする方法ですが、お茶の世界では右回転の「の」の字を書くようにとされている。

化粧土の成分

主に鉄や他の参加金属類の含有量がないカオリン系を主成分とした粘土を水に溶かした泥状のものを使用しますが、生地に直接施すものや、素焼きに施すもの、乾燥程度に合わせた調合など陶芸家によりいろいろな方法があります。

バーナード・リーチ

イギリスの陶芸家。
東洋陶磁の特質にイギリスの伝統的技法を融合し、独自の作風を展開。
明治20年(1887年)~昭和54年(1979年) 香港生まれ。

明治42年(1909年)に来日して、始め宮川香山、その後大正元年(1912年)6代尾形乾山に師事し楽焼を学び、のち7代乾山を免許されました。

富本憲吉、濱田庄司、柳宗悦らと親交を結び、古陶磁・民芸の影響を受け、大正4年に北京に居住していましたが、柳宗悦のすすめにより日本へ戻りました。

波佐見焼(はさみやき)

長崎県波佐見町で焼かれた磁器。くらわんか茶碗などの日常品が多くあります。
慶長年間(16世紀末)大村藩主が朝鮮出兵の際連れ帰った陶工によって開窯され、その後、大村藩の手厚い保護を受け栄えました。

良質の天草陶石にコバルト色の呉須下絵を染付けた磁器で、全国の多くの家庭で愛用されています。
生地の生産が多く、有田焼の生地も主に波佐見で制作されています。
また、鋳込みの技術も国内最高クラスの技術があり、博多人形の鋳込みなども行っています。

馬上杯(ばじょうはい)

長い足状の高台がついた杯。
馬上で酒を飲むのにこの足を持って飲めることからの呼称。
中国の青磁・白磁に多く、わが国では唐津をはじめとする肥前の窯にみられまする。

端反り(はたぞり)

口縁部の端が、外側に向かって反っていること。

八寸(はっすん)

懐石道具の一種で、主客献酒のときに、取肴の器として使われます。
元来は赤杉の木地でつくられていたが、漆や陶磁器も用いられるようになりました。

懐石の食事の段に続き、吸物・八寸のもてなしがあります。
客が吸物を頂き終わると、亭主は八寸四角の杉木地の盆(これを八寸とよぶ)に酒の肴(さかな)二種をのせ、客に酒をすすめ、主客の間に盃の応酬がおこなわれます。
肴の二種は、海のもの(なまぐさ)、山のもの(精進)などの名でよばれ、客の数に亭主の分を加えて八寸に盛られます。

土師器(はじき)

古墳時代から平安時代まで焼かれた素地土器。「かわらけ」ともいう。
弥生式土器の系譜に属する赤褐色の素焼土器は、古墳時代にも引き続いて生産された。
古墳時代から古代にかけて作られたこの種の土器を土師器と呼んでいる。
一般に、丸底が多く装飾に乏しいが、古い土師器は小さな平底で、器表を櫛目文などで飾ることも多く、弥生式土器との区別は容易ではない。
器形には実にさまざまな大きさ、種類があり、その用途も水や穀物の備蓄用のもの、煮炊きする料理用のもの、祭祀用のものなど多岐にわたっている。

離駒 (はなれこま) 繋駒(つぎごま)

奥高麗片口の茶碗、唐津の片口を茶碗と見立てたものの銘のこと。
「つれつれの友」の著者松山靑柯氏の舊蔵に、片口を取りて、其あとを繕ひたる唐津茶碗銘繋駒あり、蓋し茶碗を馬に喩へて、片口の儘なるを離駒といい、取りたるを繋駒といふ由。
此茶碗は即ち片口の儘なる故、本来離駒の名ありしが、天保七年毛利侯之を獲て愛玩措かず「難波江に放ちし駒をひきかへしつなく手綱は江戸のむらさき」と口吟みて、是より名を繋駒と改めたりと云ふ。

『大正名器鑑』古唐津奥高麗茶碗に離駒(はなれこま)という茶碗があります。
「大正名器鑑に、直した茶碗を馬に喩え、注ぎ口の孔を閉じて片口をそのまま残したものを離れ駒といい、片口を取ったものを繋ぎ駒という。」とあります。
意味がいまいち反対のようにおもえますが、孔を閉じて口の役割を無くしたので離駒というのでしょうか。
昔より有名な話で、片口を茶碗に見立てて使えるのは唐津の茶碗で、他の焼では茶碗として認められなかったといいます。
それくらい唐津の片口は有名でした。

ハリ支え跡(はりささえあと)ハリ目跡(はりめあと)

底が焼成時に落ちるのを防ぐために置かれた円錐状の素地をハリと呼ぶ。
ハリを焼成後にとりのぞいた跡のこと。

飯洞甕窯(はんどうかめがま)

佐賀県東松浦郡北波多村にある唐津焼最古の窯。割竹式登り窯(わりたけしきのぼりがま)跡で有名。
飯洞甕上窯(はんどうがめうわがま)と飯洞甕下窯(はんどうがめしたがま)があります。

飯洞甕上窯(はんどうがめうわがま)

飯洞甕上窯は、焼成室間の段差が無く、割竹形の登窯でも最も古い形態の一つであることが確認されています。

本窯で多用される緑透色の土灰釉と透明釉は、その後に肥前西部地域に展開する唐津焼諸窯の主流となる釉薬で、窯構造・製品とも肥前陶器窯に直接繋がる窯跡として、重要な位置を占めています。

洞甕上窯跡の周囲は北波多村で公有化が完了し、前面に流れる小川とともに、当時の景観が良好に保存されています。
昭和30年1月1日に佐賀県史跡に指定されています。

窯跡周辺は、山林や小川、池など自然環境に恵まれ、遊歩道を完備した「古窯の森公園」として整備されています。

飯洞甕下窯(はんどうがめしたがま)

飯洞甕下窯は、全長18.4mをはかる割竹形の登窯で、焚口から窯尻までが完全に残っています。

岸岳系古唐津窯の中では唯一、窯の上部構造である隔壁が残存しており、肥前系登窯の構造を研究する上で特に重要な遺跡です。
またその後の古唐津を特徴付ける、鉄絵装飾の初期製品が焼かれていることも有名です。

現在は、飯洞甕下窯の周囲は、金網のフェンスで囲われて、窯跡は上屋で覆い、残存する上部構造を保護しています。
昭和30年1月1日に佐賀県史跡に指定され、周辺は、「古窯の森公園」として整備されている。

藩窯(はんよう)

江戸時代につくられた御用窯のこと。
藩が献上品などの焼物を造らせるために開いた窯
江戸時代に各藩が経営し、鍋島藩のように献上品など最高の技術で作られたものや殖産目的なものなど様々。

万暦赤絵(ばんれきあかえ)

景徳鎮(けいとくちん)の官窯で、中国・明時代の万暦年間(1572~1620)に焼かれた赤絵(あかえ)の焼き物。
濃厚な色彩と過剰な文様が特徴です。

初期のものは良質で、日本では「万暦赤絵」として、水指や香合など茶道具として珍重されました。
日本には俗に万暦赤絵と呼ばれる万暦官窯の五彩の名品が多く収蔵されています。


緋色(ひいろ)

器胎(きたい)・素地(きじ)中に含まれる鉄分が発色し、釉(うわぐすり)のかかってない部分が赤や茶色となって器面に現れたもの。

火裏(ひうら)

窯中に置かれた器物に、炎が直面していない部分。

火表(ひおもて)

焼成の際、器物が炎に直面する側。焼締陶などの場合、火表には灰が降り掛かり自然釉(しぜんゆう)が厚い。

檜垣(ひがき)

唐津焼の絵唐津や志野茶碗などに見られる装飾文様の一種。
檜の網代組みにした垣根に由来し、 檜垣とは檜や竹などの木を薄くそいで板にし、網代のように斜めに編んだ垣根のことをいい線が斜めに交差し×印が連続するような文様になる。

引き出し黒(ひきだしぐろ)

鉄分の多い釉で焼いた時、窯中で冷まさずに鉤(かぎ)や鋏(はさみ)を使って外に引き出し、急冷し黒く発色させる方法。

毘沙門亀甲文(びしゃもんきっこうもん)

六角形(亀甲文)を下に二つ上に一つ、つなぎ合わせた文様をひとつの単位とした連続文様。

肥前(ひぜん)

現在の佐賀県と長崎県にあたる旧国名。唐津・有田・伊万里・武雄・平戸・波佐見など焼き物の産地。

備前(びぜん)古備前(こびぜん)

岡山県備前市で12世紀より焼かれている無釉の焼締陶。鉄分の多い土を使った、濃褐色の肌が特徴。
備前焼もしくは備前の窯場。

岡山県備前市を中心に焼かれる陶磁器をいいます。
平安時代末の12世紀頃から須恵器の流れを汲んだ壷・甕・すり鉢を中心につくり、中世の備前窯を形成しました。

室町時代後期より優れた茶陶で、その名を高め、南・西・北の三ヶ所の大窯に集約され、また金重・木村など窯元六姓を確立しました。
江戸時代初期には薄手の伊部手が主流となり、中期には白備前が焼かれた。
無釉の焼締であることは、今日まで一貫した特色です。

緋襷き(火襷き)(ひだすき)

備前焼など焼締陶の表面に現れる、襷状の赤褐色の筋紋。
焼成時に藁をのせ、無釉の陶器の表面に現れた褐色のたすき状の筋。
もともとは重ね焼きをする際に、熔着を防ぐために藁を間に挟んだのが始まり。

一重口(ひとえぐち)

器物の口造りの形状の一種。
切り立てのままの口造りをいいます。
主に茶道具の水指に見られます。

火計り(ひばかり)

文禄・慶長の役後来日した朝鮮陶工が、朝鮮の陶土と釉薬を用いて焼いた陶器をいいます。
火ばかり、すなわち燃料だけが日本のものという意です。
薩摩古帖佐の火計り茶碗が有名です。

火間(ひま)

釉の掛け残しや切れによって、その部分の素地が見えること。

紐づくり(ひもづくり)

紐状の粘土を底部の上に巻き上げた後、紐をつぶしながら形を整え、成形する方法。
古くは縄文土器から備前・唐津の叩きに残っています。

百間窯(ひゃっけんかま)

佐賀県杵島郡山内町宮野板ノ川内にある江戸時代前期の連房式登窯の窯跡。
初期伊万里として最も古い窯の中に位置し、青磁染付の皿や鉢が多く焼かれたが、陶器も焼かれています。

氷裂文(ひょうれつもん)

氷が破れた時に生じる不規則な亀裂をあらわした文様。

平戸焼(ひらどやき)

長崎県佐世保市三川内町産の磁器で、平戸藩主松浦家の御用窯(ごようがま)。
染付(そめつけ)・錦手(にしきで)・型物など美しい焼物が有名です。

ビロード釉(びろーどゆう)

緑色のガラス質の自然釉のこと。
伊賀焼(いがやき)や信楽焼(しがらきやき)に多くみられます。
窯焚きの際、薪が燃焼し灰となって器胎に被り、その灰が、熔け流れることによって釉となります。
先端は、玉状の溜まりができます。

枇杷釉(びわゆう)

井戸茶碗(いどぢゃわん)にかけられた、枇杷色の長石釉(ちょうせきゆう)をいいます。
透明釉を酸化焼成したもので、素地の土色が淡く発色した色になります。


深川製磁(ふかがわせいじ)

深川製磁(ふかがわせいじ)は、日本の佐賀県にある陶磁器メーカーで、1894年世界の名窯を目指し、佐賀県有田町に工場を設立しました。
宮内庁御用達品をはじめ、日本独特の陶器づくりを追求し、現在に至っています。
パリ万博に出品した壺は有名です。

西有田に工場があり隣接したチャイナオンザパークはレストランもあり、「瓷器倉」は、深川製磁唯一の工場直営の「アウトレット」として2級品の販売も行っています。
「忠次舘」は、初代深川忠次の作品とその様式(スタイル)を継承している作品を同時に展示し深川様式のすべてが見られます。

吹墨(ふきずみ)

絵付技法の一つ。
水に溶いた絵具や呉須(ごす)を、霧吹きや細かい目のふるいに硬毛の筆を手早くこすって霧状にし、素地面に模様を付着させる絵付け技法。

袋物(ふくろもの)

壺や徳利、水指のように、口があり内部を包み込むような袋の形状をした器の俗称。

布志名焼(ふじなやき)

島根県玉造町布志名で焼かれる陶器。京風の仁清(にんせい)や乾山(けんざん)の写しなどがあり、現在は民芸陶品も焼成。

藤野川内(ふじのかわち)

「ふじのこうち」とも読む。
佐賀県伊万里市にあった、唐津焼の窯。
16世紀末から17世紀初めに操業し、朝鮮唐津、青唐津、絵唐津などを焼いていました。

芙蓉手(ふようで)

見込みに主文様を窓絵にして置き、周囲に蓮弁を配し、その中に宝尽しや花文を入れた意匠の磁器。
日本が長崎・出島のオランダ東インド会社(V.O.C.)を通じて西欧へ有田諸窯の陶磁器を輸出していた時期の大皿などが有名です。
中央部に同社の蘭名 Vereenigde Oostindishe Compagnie の頭文字を組み合わせたマークを描き入れ、まわりに石榴(ざくろ)、椿と太湖石にとまる鳳凰が描かれた文様です。
周縁部は放射状に分割され、中に牡丹文、石竹文で埋められています。

同種の皿類は、有田の大樽(おおだる)、猿川(さるかわ)、稗古場(ひえこば)の諸窯跡で数多く出土しており、かなりの量が焼成されたと推定されています。
最近の発掘調査で、この種の器の焼造は1690年代から18世紀初頭にかけてであることが明らかになりました。

フラックス

上絵具(うわえのぐ)を低温で溶かし、器体に着けるための珪酸鉛質の基材。

フリット

釉(うわぐすり)を低温でとけやすくするために、塩基成分から成る釉。

古田織部(ふるたおりべ)

美濃国山口(現在の岐早県本巣町)に生まれ、織田信艮、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠に仕えた武将であり、千利休(せんのりきゆう)の後を継いだ天下一の茶の湯の名人でした。
それまで佗(わび)を旨とし、数奇(すき)を重んずる駝佗(わび)の茶」から、後に“織部好み”といわれる歪んだもの、へうげもの(瓢軽(ひょうげ)たもの)を茶道具に取り入れるなど、ほのかに明るく華やかでおおらかな「武家の茶」を創り出しました。

古田高麗(ふるたごうらい)

古田高麗(ふるたごうらい)という茶碗があります。
古田織部の注文を受けて、朝鮮半島南部で焼かれたものらしのですが、織部が家康に死を命ぜられた時、この一碗を救い出すために一時の猶予を乞うたと伝えられています。

やがて小堀遠州の手に渡り、さらに古筆家に移るります。
古筆了佐の代に、吉原の楼主が了佐を遊興に眈(ふけ)らかせ、借金の質流れとしてこの茶碗を取りあげます。

天明年間に大坂で名碗のコンクールがあり、前評判で戦わずして敗れた鴻池櫨雪が、ライバル広岡の紅葉呉器(もみじごき)に勝る茶碗はないかと道具商加賀作に尋ねたところ、それは江戸吉原にある古田高麗のほかにはないと答え、加賀作はただちに命を受けて、上方の物持主人のように見せかけて吉原へ乗り込み、花扇という傾城を一か月間揚げづめにして楼主の歓心を買い、ついに古田高麗を千二百両、ノンコウ初雪を八百両、合わせて二千両で譲り受け、早かごで大阪に向います。

これを知った江戸の金持十人衆は、江戸にある数少ない宝物を奪われたとして切歯拍腕し、しばらくは、これが東西茶人の噂話を独占したといいます。

粉彩(ふんさい)

ぼかしを出したい部分に白いホウロウ質の釉薬(ゆうやく)を塗り、その上に釉薬(ゆうやく)で薄めた顔料で描き、ぼがしを出す方法。

粉青鉄絵(ふんせいてつえ)

白化粧のうえに鉄絵具で自由に文様が描かれた粉青鉄絵(ふんせいてつえ)は、韓国の霊山のひとつ、鶏龍山(けいりゅうざん)のふもとで焼かれました。
粉青鉄絵は15~16世紀を中心に焼かれ、のびやかな筆墨、笑みをさそうようなユニークな文様を特徴とし、朝鮮陶磁の粋ともされています。

粉青沙器(ふんせいさき)

粉青沙器とは灰色の胎土の上に白土を用いてさまざまな装飾を加えた陶器の総称で、わが国でいう三島、刷毛目に当たります。
刷毛を用いて白土を全面に塗り、そこに自由闊達な筆づかいで鉄絵文様を描いた一群は、韓国の忠清南道にある産地の名をとって俗に鶏龍山と呼ばれています。
日用の器として量産されたものであり、民衆の飾り気のない心情が投影されています。

分銅(ぶんどう)

円形の二つの部分が内側に入っていて、分銅秤の重りの形をした向付(むこうづけ)の器形。
織部焼によく見られます。
または、備前焼の金重家が用いた陶印をいいます。


紅志野(べにしの)

美濃志野の一種で、素地に鬼板などの鉄分を化粧掛けしたあとに、長石釉を掛けて焼成すると、全体がほんのり色づいて見える志野焼をいいます。

ベロ藍(べろあい)

大量生産の印判染付に使われた、青味の強い鮮やかな藍。

ベンガラ(べんがら)

弁柄、紅殻とも書く。
酸化第二鉄を主成分として、上絵付け(うわえつけ)の赤色の顔料や、鉄絵(てつえ)として用いられています。


法花(ほうか)

中国元・明時代の三彩(さんざい)。器面に盛り上げた界線をつくり、その中に色釉を流し込む技法です。
法花とは、さまざまな色の釉薬を素地に直接掛け分けて彩る三彩の技法の一種である。
細い界線を盛り上げて文様を区切ることにより、釉が流れて入り混じることを防ぎ、三彩独特の濃く鮮やかな色彩と、明時代に流行した絵画風の文様表現とを両立させています。

匣鉢(ぼし)=さや

窯詰道具のひとつで、窯の焼成時に焼物を保護し、効率よく窯に積み上げて積むための容器。
「さや」ともいい、「ぼし」は肥前地区の呼び名。

帆柱(ほばしら)帆柱窯(ほばしらがま)

唐津焼を代表する古窯の名称。
佐賀県松浦郡北波多村にあり、桃山時代から江戸時代初期にかけて、斑唐津や黒唐津、朝鮮唐津を焼いた。

窯体の勾配角は約21度で、全長は水平距離で約30mあります。
焼成室1室の規模はほぼ2×2mであることから、その数は14室程度になると考えらています。
出土した陶器は、皿・碗・小杯・瓶・杯台などで、藁灰釉製品がその殆どですが、一部透明釉の物も存在します。
窯道具はトチンのほかにハマも出土しており、同じ藁灰釉製品を多く焼成する皿屋窯との相違を示しています。
確認調査後は山砂により埋め戻し保存し、周囲一帯は文化財敷として佐賀森林管理署より借地しています。
窯跡周辺は、国有林で良好な自然環境が残っています。
昭和30年1月1日に佐賀県史跡に指定されています。

彫唐津(ほりがらつ)

長石釉(ちょうせきゆう)を掛けて焼いた胴に彫りをつけた唐津焼。
成形後、胎土がまだ硬くならないうちに竹べらや櫛などで簡単な文様を陰刻したものをいう。文様としては幾何学的で単純なものが多く、釉薬は長石釉が多く使われ、茶碗、水指、壺、花入、徳利、ぐい呑、が作られています。
又、彫った文様の上から鉄砂を塗ったものを彫絵唐津といっている。

胎土を削った部分に縮れが出やすい性質を持つ梅花皮釉をかけることにより、彫っただけよりも違った景色(模様)ができる。
釉薬梅花皮の釉薬とは、釉薬の縮れが轆轤成形時に土の泥状がついた所にはあまり出来ず、それを削り取った所に出やすいという性質の釉薬のことで、長石の割合が多い長石釉を使います。
萩焼きでも同じような釉が使われているようです。
彫唐津茶碗の陶片が飯洞甕下窯より出土しています。

掘出し唐津(ホリダシカラツ)

唐津焼の一種です。
陶質は堅く、釉色は青黒を帯び、高台は土を見せるものと見せないものとがあり、高台内に縮緬皺紋があるのを良品とします。
堀出しの名前は、欠損したものを、陶工が不用として土中に埋めたのを、後世になって堀出したことによります。

同じ意味合いかは解りませんが、別の言い方を掘り出した物を発掘品、完成品で伝わってきた物を伝世品、昔掘り出されそのまま伝わってきた物を発掘伝世品と古美術界では言っているようです。

本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)

永禄元年(1558)、京都に生まれる。
安土桃山・江戸時代初期に活躍した芸術家。近衛信尹、松花堂昭乗と共に寛永の三筆の一人。

本業は刀の鑑定(めきき)磨砺(とぎ)浄拭(ぬぐし)。家康から賜った京都の地に芸術村をつくり、ここで多くの楽茶碗を作成しました。
光悦は、この芸術村を中心として、書を初めとし、絵画、陶芸、漆芸と、多くの分野で、文化を高めるために、独創的な芸術品を創成していきました。

光悦は茶については千利休を批判して古田織部に学びました。