日本の古代から中世にかけての陶磁器の生産と消費は、主に須恵器の時代から中世陶器への移行、そして茶の湯文化の隆盛に伴う茶陶の発展という大きな変遷をたどりました。
古代(須恵器の時代)
日本の古代には、須恵器が主要な陶器でした。須恵器の使用陶土は、平野周辺の低い丘に露出する洪積層の粘土でした。この頃の茶を喫する習慣は中国の唐風の茶が廃れ、平安中期ごろには薬用や朝廷の特殊な儀式に限られるようになりました。そのため、茶碗として使用される陶器はほとんどなく、中国の禅院で日常的に使われていた陶碗に比べて、日本の山茶碗は非常に粗雑でした。
中世陶器の興隆
中世に入ると、窯の立地が転換され、より高い丘陵地の新三紀層の粘土が求められるようになりました。これは、大物づくりにふさわしい強度が要求されたためと考えられます。
中世陶器は、主に須恵器系に属するもので、農民向けの日常雑器が主製品でした。しかし、その展開は地域によって様々でした。
- 東海地方の窯(常滑・渥美)
- 常滑窯:平安末期の猿投窯から進出し、半島中央部で生産されるようになりました。常滑周辺は耐火度の低い黒土が豊富で、大形の壺・甕の焼成に適していました。舟運を利用した輸送に極めて便利だったため、常滑の大甕は青森県から鹿児島県まで日本全域に運ばれました。製品は農民用の雑器だけでなく、経塚から出土する経筒外容器や蔵骨器のような高級品(三筋文系の文様を持つ中形経甕、三筋壺など)も生産されました。これらの高級品は猿投窯や美濃須衛窯において中国宋代の白磁四耳壺を模倣したものが起源とされています。
- 渥美窯:昭和30年代後半から東海地方における中世の大古窯跡群として認識されるようになりました。渥美半島南西部から渥美町にかけて74群400基近い古窯跡が確認されています。常滑と同様に耐火度の低い黒土と舟運の利便性を活かし、雑器の他に刻文壺や秋草文壺のような中国陶磁の影響を受けた高級品も生産しました。
- 信楽窯:中世に優れた壺を残した窯の一つであり、甕や擂鉢が主な産物であった他の窯と異なり、鉄分の少ない白い土で焼成され、赤く焼き締まることで明るく穏和な景色を生み出しました。大形の壺や甕類は「はぎづくり」と呼ばれる粘土紐を巻き上げる成形法がとられました。室町後期には茶人が信楽の壺や擂鉢を茶の湯の器として見立てるようになり、「紹鴎信楽」や「利休信楽」といった茶陶が焼かれるようになりました。
- 越前窯:花崗岩を基盤とする新第三紀層の砂質粘土を使用し、耐火度が高くやや鉄分が多いのが特徴です。轆轤で底板を作り、粘土紐を巻き上げて成形する技法が常滑と同様に用いられましたが、常滑のような連続した押印はありません。初期には灰釉、室町後期には鉄釉が施されました。
- 備前窯:伊部周辺の花崗岩由来の耐火度の高い粘土が用いられ、室町後期には田土が混ぜられました。壺の成形は底板を作り、粘土紐を巻き上げる紐輪積み成形で行われ、器面は篦削りや木調整で整えられました。口縁部の変化は乏しく、玉縁に変わっていくのが特徴です。塗土の技術も室町後期から始まり、「伊部手」として発展しました。備前焼は永禄年間には茶会記に水指や建水が登場し、侘茶の建水として圧倒的な人気を得ました。
- 珠洲窯:平安末期に中世陶器として始まり、鎌倉後期から室町初期には日本海沿岸から北海道まで広く流通し、越前と商圏を競い合いました。製品の種類は主に壺、甕、擂鉢に限られていました。
茶の湯文化と陶磁器の変化(桃山時代~江戸初期)
室町時代後期から桃山時代にかけて、茶道が「侘び茶」へと指向するようになると、華やかな中国の茶碗は敬遠され、朝鮮産や和物の茶碗が主流となります。
- 中国陶磁の影響と日本独自の発展
- 古瀬戸:中国陶磁の模倣に始まりましたが、独自の印花文、画花文、貼花文、櫛描文などの器面装飾や、灰釉と鉄釉(古瀬戸釉)を基本とした釉薬を発達させました。
- 瀬戸・美濃窯:特に桃山時代に大きな飛躍を遂げ、中国・朝鮮の模倣から独創的・芸術的な純日本風の様式を完成させました。青磁風灰釉や古瀬戸天目釉に加え、瀬戸黒、志野、織部焼といった新種を開発。鉄砂による絵文様や、型づくりの成形法、焼成中に鉄鉤で引き出す「引出し黒」の技法も考案されました。
- 志野焼:室町後期から美濃で焼かれ始めた長石釉の焼き物で、特に桃山時代には鉄絵具で下絵を描き、その上に白釉をかけた「絵志野」などが完成しました。
- 黄瀬戸:桃山時代には高級食器類が主体となり、「油揚手」や「菖蒲手」と呼ばれるしっとりとした質感のものが半地上式大窯で焼成されました。
- 瀬戸黒:桃山前期に最も早く焼かれた瀬戸茶碗の一つとされ、天正後期から焼かれ始めたと考えられます。
- 織部焼:慶長から元和にかけて美濃の窯で大量生産され、織部黒、黒織部、青織部、赤織部など多種多様な器形や文様が生まれました。古田織部の好みを象徴する「歪み」や自由奔放な作風が特徴です。
- 朝鮮茶碗(高麗茶碗)の受容
- 室町後期には、朝鮮半島でつくられた日用雑器が、茶人によって茶碗として見立てられるようになり、大井戸、小井戸、粉引、刷毛目、熊川、三島、斗々屋、伊羅保、割高台などが愛好されました。これらの茶碗は、素朴な美しさや土の質感、釉調の変化が評価されました。
- 文禄・慶長の役後には、日本からの注文によって朝鮮で作られた「御本茶碗」も登場し、御所丸、金海、御本立鶴など多様な茶碗が生産されました。
- 京焼の発展
- 楽焼:長次郎が千利休の指導のもと、手捏ねによる「宗易形」(利休好み)の茶碗を創始しました。長次郎の茶碗は、個性を表に出さない没個性的な作風が特徴でした。
- 本阿弥光悦:長次郎の後継者から作陶法を学びつつ、古田織部好みに近い、自由奔放で作為豊かな茶碗を作りました。彼の茶碗は手捏ねによる彫塑的な造形が特徴で、釉景色に作為を求めるなど、長次郎とは異なる個性を確立しました。
- 野々村仁清:江戸時代初期に仁和寺門前で開窯し、「御室焼」として知られるようになりました。白釉素地に赤を多用した艶麗な色絵陶器を完成させ、京風と称される繊細優美な作風が特徴です。
- 尾形乾山:仁清から陶法を学びつつも、鳴滝や二条丁子屋町で独自の陶風を確立しました。絵付を主題とし、型抜きや仕入れの素地を活用し、書画と融合した自由なデザインが特徴です。
このように、日本の陶磁器の生産と消費は、古代の機能的な須恵器から、中世の日常雑器の広範囲な流通、そして桃山時代以降の茶の湯の流行による茶陶の多様化と技術革新へと大きく変遷していきました。この過程で、中国や朝鮮半島の陶磁器の影響を受けつつも、それぞれの地域で独自の様式と美意識が育まれ、日本の陶磁器文化が確立されていったと言えるでしょう。