唐津焼の概要と歴史的背景
唐津焼は、桃山時代後期から江戸時代前期にかけて発展した、施釉陶を焼いた窯場です。他の信楽・伊賀・備前などの焼締陶とは異なり、美濃焼と同じく施釉陶であり、鉄絵具による下絵付を装飾技法としていました。これは、侘び茶の盛行に伴う国産陶芸への需要の高まりと、文禄・慶長の役を機に朝鮮から多くの陶工が渡来した結果、量産が進んだためと考えられます。唐津焼の最盛期は慶長から元和、寛永頃とされています。
製作技術(成形技法)
唐津焼の基本的な成形法には、美濃で用いられた手轆轤と異なり、アシで蹴る蹴轆轤(けろくろ)が用いられました。また、タタラ作り(叩作り)による成形も行われています。特に、飯洞甕窯に多い壺の内面には、朝鮮陶の手法である叩き作り(叩造り)の跡(青海波状の紋様)がしばしば現れており、これが唐津陶の系統をはっきり示しています。
使用陶土
唐津の土は、一般に「砂目」と呼ばれるように荒いですが、粒子が比較的揃っているため、水漉し(水簸)は行わないのが通例です。また、鉄分が多く含まれているため、焼成後の土膚の色は焦げ茶色、または黒茶色を呈するのが一般的です。ただし、松浦系の道園窯や阿房谷、藤の川内窯の製品には灰白色の土膚のものもあり、岸岳系の山瀬窯では淡い黄朽葉色を呈するものもあります。
釉薬と装飾技法
唐津焼の加飾は、施釉と鉄絵具による下絵付という共通点を持っていました。釉薬は大きく分けて3種類があります。
- 木灰釉(もくばいゆう)
- 透明性が高く、酸化炎焼成では黄色を呈する黄唐津に、還元炎焼成では青緑色の青唐津になります。
- 黒唐津は、木灰釉と鉄分の多い黒釉をかけたもので、黒・飴色・柿色に焼き上がったものがあります。
- 灰と長石の混合釉(まだら唐津釉)
- 不透明な白色を呈するのが一般的で、「まだら唐津」と呼ばれています。帆柱窯の製品に多く使われています。
- この釉調は北朝鮮の会寧窯の製品によく似ており、唐津陶が会寧窯の流れを汲むとされています。
- 斑唐津(まだらからつ)は、器表にかけられた藁灰釉が白濁色の斑に焼き上がり、淡い青色の斑文が見られるための呼称です。釉の厚薄によって趣が異なります。帆柱・岸岳皿屋などの作品には北朝鮮の会寧焼と全く変わらないものがあり、斑唐津の中でも古格を示しています。
- 彫唐津(ほりからつ)は、胴に彫文様を施し、その上から長石釉をかけて焼いたものです。斑釉や黒釉をかけたものに彫文を施す場合もありますが、通常は斑唐津、黒唐津と区別されます。志野と類似した形式が特徴です。
- 鉄質の黒色釉(天目釉)
- 唐津焼の窯場で広く使用されており、釉中に含まれる鉄分の量や炎の性質によって、黒色になったり、鉄鋳色に変化したりします。
その他の装飾・技法
- 鉄絵具による下絵付(絵唐津)
- 鉄絵具で絵を描いた唐津焼を指します。文様は李朝風の簡素なものから、美濃風の変化に富んだものまで多様です。
- 大半は鉄絵の上に土灰の混じった長石釉をかけていますが、一部の窯では鉄絵の上に藁灰釉をかけたものも焼いています。
- 絵唐津の文様は、文禄年間以後に明らかに志野や織部の影響が濃厚に見られ、器形も同様の傾向を示しています。
- 鉄絵具による下絵付の技法は、朝鮮の焼き物で盛んに使われていたことから唐津の方が早かったと見ることができますが、天正年間以前に焼かれたと断定できる資料は現在のところありません。一方、美濃では天正年間後期には鉄絵付が始まっていたと推測されます。
- 三島唐津(みしまからつ)
- 朝鮮の三島の作風を倣ったものです。刷毛目(はけめ)・彫三島風の線刻文・印花のほか、型紙による文様や白象嵌(しろぞうがん)を施すなど、多種多様な技法が用いられています。
- 長石釉(ちょうせきゆう)
- 美濃では遅くとも天文年間には長石釉の使用が始まっていました。唐津では唐津焼の発生年代が不確かですが、岸岳古窯でも天正年間にはすでにその使用が始まっていたと考えられ、あるいは唐津焼の発生当初から行われていた可能性もあります。朝鮮から伝えられた技法と考えられます。
唐津と美濃の関係性
唐津焼と美濃焼は、施釉と鉄絵具による下絵付という共通点を持っており、文禄から慶長、元和にかけて作風の交流が見られました。唐津焼が美濃の志野や織部と似た作風のものを焼く条件下にあったのは、美濃と同じく施釉陶であり、鉄絵具による下絵付を装飾技法としていたためです。特に、織部好みの茶陶は唐津でも多く焼造されました。しかし、唐津焼は朝鮮から帰化した陶工が従事していたため、織部好みを採り入れつつも、独自の持ち味を失うことはありませんでした。