瀬戸焼(3)【藤四郎時代】

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ここでいう「藤四郎(とうしろう)時代」とは、瀬戸の陶祖と伝えられる初代・加藤藤四郎景正(かとう とうしろう かげまさ/鎌倉時代)から、四世・藤四郎政蓮(まされん/室町初期)までの期間を指します。史実としては曖昧な区間ですが、伝承は根強く、まずは通説を整理したうえで、その妥当性に関する諸疑問を検討します。

通説によれば、景正は天目釉(てんもくゆう)〔注:鉄分を主成分とする黒褐色~黒の高光沢釉〕の創出者で、瀬戸施釉の祖です。若年より各地で陶法を学ぶも輸入陶磁に及ばず、貞応二年(1223)僧・道元(どうげん)に随って入宋、安貞二年(1228)に帰国後、諸国で土を試し、尾張国山田郡瀬戸の飽津=赤津(あかづ)で祖母懐(そぼかい)と呼ぶ鉄分を含む良土〔注:やや粗粒で焼成に強い土〕を見出し、瓶子窯(へいしがま)〔注:瓶子を主に焼く窯〕を築いて宋風天目の器を焼いたとされます。晩年は剃髪して「春慶(しゅんけい)」と号し、建長元年(1249)没とも伝えます。

景正作の分類は複雑です。渡宋持参の土で焼いたものを「藤四郎唐物(からもの)」、和土・和薬で焼いたものを「古瀬戸(こせと)」、出家後の作を「春慶」と呼び分け、さらに渡宋以前の厚手を「口手(くちて)」、帰国後に祖母懐土で焼いた茶壺を「祖母懐」と称したと伝えます。茶入(ちゃいれ)の作例名も、文琳(ぶんりん)・茄子(なす)・肩付(かたつき)・尻膨(しりぶくら)・丸壺・虫喰藤四郎・大春慶など多岐で、器形・胎土・釉色の差で細かく語り継がれました。

二代・藤四郎基通(もとみち/藤次郎・藤九郎・藤五郎とも)は文永年間(1264~1275)に本家を継ぎ、飽津に住して黄瀬戸・伯庵手(はくあんで)〔注:黄瀬戸系で柔らかな黄褐色を呈する作風の通称〕などを多作、世に「真中古(しんちゅうこ)」〔注:「真中興」の転訛とされる分類名〕とも称され、古瀬戸と区別されました。作行は土味が鼠浅黄~白、薬は柿・黒・黄・青など変化に富み、糸切(いときり)〔注:紐・輪の継ぎ目を意図的に見せる意匠〕の扱いを二様に使い分けたと伝えます。

三代・藤四郎景国(かげくに/永仁年間〈1293~1299〉継承)は曾祖・景正の遺風を慕い、その作は「中古(ちゅうこ)」と総称、「金華山(きんかざん)」の号で知られます。土は浅黄~白、薬は柿・黒・黄で、藤浪手(ふじなみで)・玉柏手(たまかしわで)・滝浪手(たきなみで)など、流動感ある銘が多く伝わります。

四代・藤四郎政蓮(嘉暦~建武〈1326~1338〉継承)は、破風窯(はふがま)〔注:器口周辺に釉留まりを意図的に残す作域、後伝では窯名にも〕の名で知られ、胎土の一部を見せる破風状の釉際を特徴としました。皆の川手・翁手・市場手・破風手・黄薬手などの呼称が伝来し、糸切表現の多様さも語られます。

以上の伝承を前提にしても、研究者は早くから二群の疑問を指摘してきました。第一は藤四郎その人に関する根本的懸念です。すなわち(1)瀬戸の施釉技法自体は平安期の灰釉(はいゆう)に遡り、天目釉も鎌倉の飴釉(あめゆう)〔注:褐色透明の鉄釉系〕の発達を踏まえ室町初頭に漸成したとみる方が遺跡編年に整合的で、藤四郎渡宋に直結する急激な普及は考えにくい、(2)当時の喫茶は上層の薬用段階で茶入の大量需要は想定しにくい、(3)渡宋土・釉を長期携行して各地を遍歴するという物理的前提は実現性が乏しい、(4)入宋ならば青磁や彩磁など先端技法を併修するはずで、天目のみ伝習とするのは不自然、(5)赤津の瓶子窯の実年代は発掘の結果、室町末~桃山創建が妥当で鎌倉開窯説と合致しない、という点です。

第二は「茶入の窯分(かまわけ)」〔注:茶家が鑑賞上の便宜で茶入を系統・作域別に整理した後世の分類〕そのものへの疑義です。すなわち(1)初代~四代の時期設定が室町初頭を降らないとすれば、鎌倉~室町初に茶入がそれほど多く必要だったとは考え難い、(2)四代以降~「後窯(のちがま)」まで約二百年が空白になる不自然、(3)瀬戸における茶入制作が四名にほぼ限られたという想定は史実上困難、(4)五~十二代の事蹟が不明で系譜の連続性が崩れる、などです。

史料上の議論としては、文禄四年(1595)奥書を持つ『別所吉兵衛一子相伝書』、系譜を再検討する『新編瀬戸窯系統譜考』、評価基準を示す『大正名器鑑』等がしばしば引かれ、藤四郎の時代を鎌倉から引き下げ、室町末~戦国に位置づける見解や、「真中古」を“中興(ちゅうこう)後の真作域”と捉え直す説もあります。要するに藤四郎像は伝説と後世の茶の湯的評価が重なった仮構を含み、成立年代・技法伝播・窯場編年の三点で再検証が続く主題といえるでしょう。

要約(300〜500字)
藤四郎時代は、初代・加藤藤四郎景正から四世・政蓮までを指す通称で、瀬戸における天目釉創始と茶入制作の由緒を語る中核伝承です。通説では、景正が1223年入宋・1228年帰国後、赤津で祖母懐土を得て瓶子窯を築き、宋風天目を焼いたとし、以後二~四代が「真中古」「中古」「破風窯」などの作域で継承したとされます。しかし、(1)施釉は平安灰釉に遡り天目は室町初頭に漸成、(2)喫茶需要の少なさ、(3)渡宋土・釉携行の非現実性、(4)赤津瓶子窯の年代不一致などから、伝承の時代観・技法伝来・窯編年に大きな疑義が提起されています。『一子相伝書』『新編瀬戸窯系統譜考』『大正名器鑑』等は、藤四郎像を室町末~戦国に再配列し得る可能性を示し、藤四郎伝説は茶の湯的分類「窯分」と相互補強しつつ形成された後世的構築も含むとして、今後の再検討が求められています。

【関連用語】

  • 天目釉(てんもくゆう):高鉄釉による黒~黒褐色の釉。宋~元の天目碗を範とし、瀬戸でも茶器に応用。
  • 祖母懐(そぼかい):赤津周辺で称された鉄分を含むやや粗質の土。茶入・茶壺に多用。
  • 瓶子窯(へいしがま):瓶子を主に焼く窯、またはその工房系統の呼称。
  • 飴釉(あめゆう):褐色透明の鉄系釉。鎌倉中期に発達し仏器・雑器に広がる。
  • 破風窯(はふがま):室町~戦国の作域名・窯呼称。口縁に釉留まりが出る造作を特徴とする。
  • 真中古(しんちゅうこ):後世の茶の湯的分類名(真中興の意とされる)。初代古瀬戸と区別する系統名。
  • 茶入(ちゃいれ):抹茶収納の小壺。文琳・茄子・肩付など多様な器形名がある。
  • 窯分(かまわけ):茶家が鑑賞・目利き上の便宜で設けた後世の分類枠。史実そのものではない。
  • 加藤藤四郎景正(かとう とうしろう かげまさ):瀬戸の陶祖とされる人物。入宋・天目創始は伝承要素が強い。
  • 赤津(あかづ):瀬戸市南東部の古窯集積地。施釉中世陶の中心域として知られる。