地域ごとの陶磁器生産は、それぞれの文化や社会とどのように関連していたのか?

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古代から中世にかけての日本の陶磁器生産は、それぞれの地域が持つ地理的条件、陶土の性質、技術の伝播、そして当時の社会や文化、特に茶の湯の発展と深く関連しながら多様な変遷を遂げました。

主要な中世窯業地の発展と社会・文化との関連

  1. 常滑(とこなめ)・渥美(あつみ)窯
    • 陶土と生産品: 平安時代末期に猿投窯から進出し、常滑周辺の耐火度の低い黒土が大形の壺や甕の焼成に適していたことが、大量生産の理由の一つです。また、半島の立地が海岸に近く、舟運を利用した輸送に極めて便利であったことも発展を促しました。
    • 流通と文化: 常滑の大甕類は青森県から鹿児島県まで日本全域に運ばれて使用されました。製品は農民用の雑器が主でしたが、各地の経塚から発見される経筒外容器や蔵骨器には、三筋文系の文様をもった高級品も含まれており、宗教的な用途にも用いられました。猿投窯や美濃須衛窯において中国宋代の白磁四耳壺を模倣した複線三筋文が、常滑の三筋壺の原型になったように、中国陶磁の影響を受けつつも、瀬戸のように忠実な模倣に終始せず、独自なものに変化させていった点に、中央貴族社会と結びついた独自の窯業世界が見られます。
  2. 信楽(しがらき)窯
    • 陶土と作風: 桃山時代までは鉄分の多い胎土を用いた黒い膚のものが焼かれ、その後は鉄分が少ない白い土が使われるようになり、焼成中に赤く焼き締まることで明るく穏和な雅陶を生み出しました。
    • 茶の湯との関連: 室町時代後期には、茶人が壺や擂鉢を茶の湯の器として見立てて使用するようになり、天文年間(1532-1555年)の茶会記には信楽の水指が使われている様子が見られます。これは、それまでの雑器が茶陶へと価値転換したことを示唆します。古来「紹鴎信楽」と呼ばれたものがその始まりで、その後利休好みの素朴な「利休信楽」が生まれ、慶長年間には「新兵衛信楽」や織部好み風のものも作られました。江戸時代には、幕府や大名に献上する「信楽腰白茶壷」が著名になりました。信楽は、大甕や擂鉢が主製品であった他の窯と異なり、優れた壺を多く残しました。
  3. 備前(びぜん)窯
    • 陶土と成形: 前代の須恵器が平野周辺の洪積層粘土を使っていたのに対し、備前焼では伊部周辺の花崗岩由来の耐火度の高い粘土が用いられました。室町後期には田土を混ぜるようになりました。壺類は底板を作り、粘土紐を巻き上げて基本形を作り、器面を削りや木調整で整える成形法が採られました。
    • 茶の湯との関連: 永禄年間(1558-1570年)には備前焼の水指、建水が茶会記に登場し、特に「棒の先」「甕のふた」と称される建水は侘び茶の建水として圧倒的な人気がありました。天正年間(1573-1592年)には花生も加わり、桃山風の作為的な茶陶が焼かれるようになりました。千利休や古田織部、小堀遠州といった茶人の時代好みを受けて、力強い歪みや箆使いの激しい作風へと変化しました。室町後期から始まった鉄分の多い共土を泥漿にして塗布する「塗土(ぬりつち)」の技法は、後に「伊部手(いんべで)」へと発展しました。備前は茶陶において、美濃よりも積極的に侘びの茶陶の注文を受けていたと考えられ、矢筈口形式の水指や花生は備前で最初に作られ、それが美濃や伊賀、信楽、唐津に影響を与えたとされています。
  4. 越前(えちぜん)窯
    • 陶土と技術: 花崗岩を基盤とした新第三紀層の地帯に位置し、東方の須恵器窯の陶土に比べて耐火度の高い、やや鉄分の多い砂質粘土が使用されました。壺類は底板に粘土紐を巻き上げ、二次的に轆轤で引いた後、器面を調整する成形法が採られました。大甕は常滑と同様の五~六段のはぎづくりでした。
    • 製品: 壺、甕、擂鉢が主な製品で、特に壺・甕・擂鉢の肩に一、二個の箆描きによる窯印を施すのが特徴です。鎌倉後期には櫛描文のあるものが見られます。室町後期には田土が使用されるようになり、黒褐色の器肌を呈するものが多くなりました。
  5. 瀬戸(せと)窯
    • 技術と様式: 古瀬戸の器面装飾は元々中国陶磁を模倣したものでしたが、印花文、画花文、貼花文、櫛描文といった古瀬戸独特の文様装飾を発達させました。釉薬は灰釉と鉄釉を基本とし、特に優れた黒褐色釉「古瀬戸釉」を生み出しました。
    • 茶の湯との関連: 室町時代後期までは中国陶磁が主流でしたが、信長の時代になると、茶湯者の嗜好が国産陶器へと移行し、瀬戸焼が最大の飛躍を遂げました。瀬戸黒や織部焼(志野焼、織部焼の汎称)などの新種が加わり、鉄砂による絵付けや型づくり、焼成中に鉄鉤で引き出す「引出し黒」の手法が開発されました。半地上式の窖窯で黄瀬戸や志野焼、瀬戸黒が焼かれ、後に連房式登窯の導入により織部焼が生産されるなど、技術と意匠が多様化し、純日本風の様式を完成させました。瀬戸焼は当時、織田信長の領内にあったため、その政治的勢力や茶湯者との関係が、茶陶発展の大きな要因となりました。
  6. 伊賀(いが)窯
    • 作風と茶の湯: 桃山初期以前の伊賀焼は信楽と判別が困難でしたが、純然たる茶陶を焼造するようになってからは、信楽とは作風に大きな違いが出ました。伊賀焼は徹底して焼き固められ、分厚く灰釉のかかった、個性の強い器形が特徴で、織部好みを基調としました。花入が最も多く現存し、水指とともに伊賀焼を代表する器とされ、豪快な作風が魅力とされました。
    • 社会との関連: 慶長年間(1596-1615年)頃が茶陶伊賀の盛期で、古田織部の最盛期と重なります。江戸時代初期には、藤堂高次の命で京都の陶工を招いて水指が焼かれ、遠州好み風の作風も現れました。藩の御用品も「御家窯」として生産されるなど、藩の庇護を受けた生産体制がありました。
  7. 唐津(からつ)窯
    • 技術と朝鮮の影響: 文禄・慶長の役を境に朝鮮から多くの陶工が渡来し、各地に窯を築きました。岸岳諸窯の作風は北朝鮮系の陶法を源流としていると考えられています。唐津は美濃と同じ施釉陶であり、鉄絵具による下絵付を装飾技法としていました。成形には朝鮮系の蹴轆轤(けろくろ)が用いられました。
    • 社会・文化との関連: 桃山後期から江戸前期にかけての唐津焼の発展は、侘び茶の盛行と国産陶芸への需要の高まりに刺激されました。古田織部の名護屋城滞陣が茶陶焼造に大きな影響を与え、唐津藩主寺沢広高が美濃出身で利休門下であったことも、織部好みの茶陶量産に貢献しました。唐津焼は、朝鮮的な素朴さに都会的な好みが加味されて発展し、藩の保護と都会の需要がなければこれほどの繁栄はなかったとされています。
  8. 京焼
    • 楽焼(長次郎、光悦、道入)
      • 長次郎: 千利休の好みである「宗易形」(利休形)を基本とした手捏ねの茶碗を創始し、作者の個性を表に出さない没個性的な作風を展開しました。茶席では「今焼茶碗」「黒焼茶碗」などと呼ばれ、赤楽茶碗が黒楽に先行して生まれたと推定されています。楽家は千家と密接な関係を築き、「楽焼ちやわん師」としてその地位を確立しました。
      • 光悦(こうえつ): 長次郎の後継者から作陶法を学びながらも、利休好みとは異なる作為豊かな茶碗を楽しみつつ作りました。その作風は古田織部の好みに近く、自由奔放で彫塑的な手捏ねの表現を特徴としました。「不二山」のような名碗は、偶然の窯変効果と卓越した作行きが評価されています。光悦は本阿弥家という豊かな資産家でありながら、作陶を家業とせず、手すさびとして行い、その自由な精神が作品に反映されました。
      • 道入(どうにゅう): 初期楽焼の「侘びの影」が薄れ、華やかさを外表に示す作風へと変化しました。光悦からも指導を受け、その茶碗には釉色に艶があることや、幕釉、朱釉、玉虫光沢といった多様な釉彩技法が導入されました。また、白釉を絵模様に用いるという新機軸も示しました。道入の異名「ノンコウ」は、宗旦の恩顧を受けたことに由来するともいわれます。
    • 仁清(にんせい)窯
      • 社会背景と製品: 仁和寺再建という社会状況の中で、正保4年(1647年)頃に御室に開窯したと推定されます。高級な茶器(壺、水指、茶碗、茶入れ、香合)を多数生産しました。壺は呂宋壺の形を模したものなどがありました。
      • 作風と芸術性: 釉彩は白色の半透明または不透明調で、壺や水指の大作には轆轤の精巧な技術が表れています。金銀を加えた絢爛な色絵磁器を多く作り、染織品や能衣装、蒔絵の影響がうかがわれる華やかな図様が特徴です。狩野探幽や永真といった画家に絵付けを命じたという記録もあり、当時の最高峰の芸術家との連携がうかがえます。仁清は「仁清」の銘印をどの器にも記し、京焼に個人作家を輩出する遠因となりました。
    • 乾山(けんざん)窯
      • 技術と作風: 仁清から伝えられた本焼きの上絵付けものに加え、押小路焼の軟質陶器の技法を継承し、自家の工夫を加えたとされています。絵付けを主題とした釉彩に強い関心を示し、成形は型によるか、仕入れた素地を用いることが多かったようです。
      • 文化との融合: 兄の光琳が絵付けを行い、乾山が賛や銘を記した作品も多く、琳派特有の線描や文人画の影響が見られます。書画の風趣を陶器に表現するため、白土の探求に注力しました。呉服商の家に育った影響から、染織品に近似した模様意匠を用いることも特徴でした。

朝鮮陶磁と日本の茶道文化

室町時代後期から、中国の華美な茶碗に代わり、朝鮮産の渋い味わいの茶碗が日本の茶道界で重視されるようになりました。特に桃山から江戸時代にかけて、朝鮮茶碗と楽焼、織部などの和物茶碗が茶席の主役を占めました。

  1. 高麗茶碗の分類と鑑賞
    • 多様な種類: 当初は漠然と「高麗茶碗」と呼ばれていましたが、江戸時代には井戸、三島、粉引、刷毛目、熊川、伊羅保、割高台、御所丸、御本手など、様々な名称で細かく分類されるようになりました。
    • 茶人の鑑賞: 高麗茶碗は、土の色合い、微妙な釉調のニュアンス、作行きの変化など、微細な点まで鑑賞されました。一見無味単調に見える器のなかに、人工の意匠にも勝る複雑な変化を見出し、深い魅力を探り当てました。高麗茶碗特有の「寂び」は、日本人の好みを基調とした茶人の感覚が創造したもので、高次の意匠が凝らされていると評価されました。
    • 二つの系統: 高麗茶碗には、朝鮮の雑器の中から茶碗に見立てられた「第一類」(井戸、三島、刷毛目など)と、日本の茶人からの注文によって作られた「第二類」(伊羅保、割高台、御所丸、御本など)の二つの流れがありました。
  2. 井戸茶碗
    • 茶碗の王: 高麗茶碗の王と称され、「一井戸、二楽、三唐津」とまで言われるほど最高位に位置づけられました。堂々とした姿、優れた作行き、枇杷色の釉、竹の節高台、かいらぎなどが見どころです。
    • 産地と愛好: 慶尚南道の晋州付近の窯で生産されたと推定されており。堺の茶人たちによって天文年間(1532-1555年)頃から使われ始め、その釉色が黄ばんだ下手青磁の梅茶碗に似ていることから、特に興味を持たれました。
  3. 御本(ごほん)茶碗
    • 日本からの注文: 御本茶碗は、日本から手本(切形)を朝鮮に送り、釜山の倭館窯やその付近の窯で焼かせたものです。慶長年間(1596-1615年)から享保年間(1716-1736年)にかけて生産されました。
    • 茶人の好み: 文禄・慶長の役後、断絶していた日朝国交が回復すると、対馬の宗家が交易の衝に当たり、幕命による茶碗の注文がなされました。織部好みや遠州好みの意匠が大胆に採り入れられ、金海、彫三島、雲鶴、伊羅保などが御本茶碗に属すると考えられています。特に「御所丸」は織部好みの沓形で、高台が多角形に削られているなど、作為的な造形が特徴でした。

これらの陶磁器は、その生産地の風土や技術、そしてそれを求め、愛好した当時の貴族、武家、茶人、町衆といった多様な社会階層の文化や嗜好を色濃く反映しており、日本の美意識の形成に大きな役割を果たしました。