瀬戸(せと)が中世日本で施釉〔注:器面に釉薬を施す焼成法〕の中心地となり得た第一の理由は、耐火度の高い良質の陶土に恵まれていたためです。周辺に豊富に分布する木節粘土〔注:瀬戸周辺特有の耐火粘土〕は、猿投山(さなげやま)をなす花崗岩を母岩とする第三紀鮮新統の瀬戸陶土層〔注:古地層に由来する粘土層〕や矢田川累層〔注:矢田川流域の堆積層〕に由来し、砂礫の間に白色粘土層をなしてカオリン系鉱物〔注:耐火度が高い粘土鉱物。カオリナイトなど〕を主体としました。これらはふつう水簸を行わず単味で用いられ、大形器にはやや荒い土、小形器には細粒の土が選ばれ、茶入・茶壺には鉄分を含む祖母懐土〔注:やや粗質で鉄分が多い土〕が用いられました。
成形技法は器種・寸法で使い分けられ、水挽き轆轤成形〔注:ロクロを水で回し成形する方法〕、紐土巻き上げ成形〔注:紐状の土を積み上げ壁を立ち上げる方法〕、紐輪積成形〔注:輪を連ねる方式の紐作り〕、一部型物併用の紐輪積成形の四系統が併行します。高さ10cm前後までの小形器は主に水挽きで、それ以上は紐作り系が多く、四耳壺〔注:肩に四つの耳状把手を付す壺〕は初期に平安灰釉陶の水挽きの名残も見せますが、大半が紐輪積で、室町期に入ると再び水挽きへ復帰します。瓶子(へいし)〔注:細頸の供献用瓶〕は、内型で肩を先につくり、胴を紐輪積で継いだのち、別挽きの口頸部を取り付ける段取りが最盛期の標準でした。
装飾は中国陶磁の摂取に立脚しつつ、瀬戸独自の意匠展開を見せます。施文原体〔注:文様を刻んだ押型・スタンプ〕で押す印花文〔注:型押しの花文様〕、丸鑿で線を彫る画花文〔注:線刻・彫り描きによる文様〕、粘土紐や小円板を貼ってから印や刻みを加える貼花文〔注:貼付成形の文様付与〕、櫛で条線を引く櫛描文〔注:櫛目道具で引線する文様〕が四大手法で、瀬戸域では印花に始まり、続いて画花・貼花・櫛描が相次いで現れ、終盤は櫛目が主となります。鎌倉末〜南北朝の最盛期には複数手法を組み合わせ、丸角・菱・十字・格子・連珠・点列などの幾何文、牡丹・蓮・菊・梅・松・椿・柳・唐草・葵の植物文、魚・蝶の動物文、器物文様まで多彩に器面を埋めました。
釉薬は灰釉〔注:木灰を溶剤とする透明系自然釉〕と鉄釉の二本柱で、先行する灰釉は初期に木灰単味で釉層が薄く流れ縞も出やすかったのに対し、やがて長石質の“サバ”〔注:長石分を多く含む釉材〕を加え厚手で安定した発色へ転じます。鉄釉は主に鬼板〔注:粘土層上部の板状酸化鉄塊〕を原料とし、南北朝以降は黒浜・水打なども併用されたとみられ、製法の成熟により瀬戸独自の黒褐色で艶のある古瀬戸釉〔注:高鉄分で深い褐黒を呈する瀬戸の鉄釉〕が生まれました。焼成窯は、燃焼室と焼成室を分ける分焰柱〔注:炎を分流させる隔柱〕を備えた山茶碗窯〔注:無釉の山茶碗を主に焼く中世窯〕系の構造が踏襲され、斜床を強め上部を絞った高効率型へと変化します。
本稿では古瀬戸の展開を、成立を平安末にさかのぼらせ、大窯〔注:室町後期に普及する半地上式の大型窯〕時代(室町後期)を従来の後期から切り離し、さらに中後期を二分して七期に細分します。第一段階(草創)は東山(ひがしやま)窯から瀬戸への移行期で、指標たる灰釉四耳壺は矢田川(やだがわ・山口川)南の菱野新田大草洞口窯が最古級(平安末〜鎌倉初)とみられ、続く大草洞1号窯でも山茶碗と並行して焼成されます。東山でも瓦・花瓶・火舎香炉など仏器生産を担う窯があり、やがて美濃池高根山窯や中水野少年院中窯へ北進して、西〜西南部に母胎が形成されました。
第二段階(従来の前期、12世紀末〜13世紀末)は約80基の窯が稼働し、品野・赤津へ広がりつつ、市街地を囲む丘陵に50基余が集中し、生産の核は東部丘陵でした。器種は一挙に多様化し、四耳壺・瓶子に加え、水注・擂鉢・おろし目皿・小形仏花瓶・洗・水瓶・合子・入子・仏供などが揃い、とくに四耳壺と瓶子が量産されます。釉は灰釉のみで薄く不安定、肩に櫛描条線が入り、やや遅れて小菊中心の印花文が現れます。
第三段階(鎌倉後期〜南北朝、最盛期)は施釉陶窯が約60基にのぼり、分布は瀬戸全域へ拡大、中心は東南の赤津に移り、猿投山西北麓に36基が展開します。水滴・仏花瓶・香炉・狛犬・燭台が加わり、天目茶碗・平茶碗・茶入も少量ながら出現して、ほぼ全器種が出揃います。南宋の龍泉窯〔注:青磁の主窯〕や景徳鎮信仰〔注:景徳鎮窯の意匠・器形の摂取〕との結びつきが器形に濃く、壺瓶は小形以外は紐作り主体から、期末には水挽きへ転換します。文様は四法が出揃い豪奢化、釉は長石分を増した安定した淡緑の灰釉に、透明性を保つ飴色傾向の鉄釉が併行します。
第四段階(室町前〜中期、従来後期の前半)は65基が知られ、中心はなお赤津で、標高200mに近い猿投山麓の奥へも築窯が及び分布は最大化します。製品は四耳壺・瓶子など仏器性のものが減り、平碗・小皿・折縁深皿・片口擂鉢が増加して日常実用へ転じ、都市の喫茶普及に呼応して天目茶碗・茶入など和物茶陶の量産が進みます。轆轤技術の向上で成形はほぼ水挽き化し、文様は簡素化して肩の櫛目波状文が主となり、釉は長石分増で淡緑の安定灰釉、後半には酸化焔で黄緑が優勢、鉄釉は光沢ある黒褐の古瀬戸釉が完成し名品を生みました。
第五段階(室町後期・15世紀末葉〜16世紀中葉)は、三河・美濃への拡散で瀬戸の窯数が減少傾向の中、笠原町妙土窯など窖窯〔注:地中掘込みの小型窯〕が消え、瀬戸・赤津・品野・水野など集落近傍に半地上式の大窯が新設されます。製品は従来の食器も継承しつつ、天目茶碗・丸碗・丸皿・擂鉢が主力となり、15世紀末の中国海禁政策の緩みによる青磁・白磁・染付の大量流入に対抗する技術革新で商圏維持を図りました。瀬戸で確認される大窯は18基(期前半に集中)で、後半には窯が見られず、いわゆる瀬戸山離散〔注:窯場の衰退・分散現象〕が起こります。
美濃(みの)は中世後期のもう一つの施釉生産地で、桃山に志野・黄瀬戸・織部を生みますが、その出発は従来言われた瀬戸山離散の直接結果では一部修正を要します。東濃西部(多治見・土岐・瑞浪・笠原・可児)では須恵器以来の伝統があり、平安後期に灰釉陶が復活、灰釉陶窯40数基、室町初期までの山茶碗窯250基以上の大窯業地を形成しました。瀬戸系施釉の窯は妻木(つまぎ)〜日向に計8基が確認され、大荷場や日向のように室町中期よりやや遡る例もあり、土岐氏・妻木氏の本貫に沿う分布からも、領主経済下での成立とみられます。
この8基で窖窯期は終息し、瀬戸と前後して大窯期へ転換、窯体や器種は瀬戸と同様です。大窯期(15世紀末〜17世紀初、戦国期にほぼ相当)は前後半で製品が変わり、前半は瀬戸が主導し美濃は小名田・妙土などごく少数でしたが、後半に瀬戸からの流入者も加わって窯数は急増、50基超の大産地に発展します。輸入唐物の模倣と量産に加え、侘び茶〔注:簡素を尊ぶ茶の湯思想〕の深化に呼応して、灰釉・鉄釉に加え黄瀬戸・瀬戸黒・志野といった和物茶陶や食器が創出され、桃山に近世陶器への転換が明確となりました。
要約(300〜500字)
瀬戸は木節粘土に代表される良質の陶土を背景に、灰釉と鉄釉を両輪として中世施釉陶を主導しました。成形は水挽きと紐作りを使い分け、四耳壺や瓶子などで技術を展開、印花・画花・貼花・櫛描の四法で器面を装飾しました。平安末の草創から鎌倉後期〜南北朝の最盛、室町前〜中期の実用化と釉調の洗練、室町後期の大窯による量産化へ進み、中国陶磁流入に対抗する革新を遂げます。やがて瀬戸山離散を経つつ、美濃では領主経済のもと窖窯から大窯へ移行し、瀬戸と同構造の窯で量産体制を確立。後半には輸入品の模倣とともに志野・黄瀬戸・織部など和物茶陶を創出し、侘び茶の要請に応えて桃山の新美を形成、近世陶器への橋渡しを担いました。
【関連用語】
- 瀬戸(せと):尾張の主要陶磁産地。「せともの」の語源となった地域。
- 美濃(みの):岐阜県東濃の産地。志野・織部・黄瀬戸を生んだ。
- 常滑・渥美・猿投:中世の主要古窯群。大甕や施釉陶で知られる。
- 灰釉(はいゆう):木灰を溶剤に用いる自然釉。飛鳥〜奈良期に登場。
- 天目(てんもく):宋代建窯の黒釉碗で、日本で珍重。和製天目の展開も。
- 青磁(せいじ):越州・龍泉などで発達した青みの透明釉系。
- 白磁(はくじ):景徳鎮を中心に発展し、明代に世界流通。
- 黄瀬戸(きせと):黄褐色の釉を特徴とする美濃の茶陶。
- 志野(しの):白い長石釉に鉄絵文を施す美濃茶陶。
- 織部(おりべ):緑釉と大胆な造形を特徴とする美濃の様式。
- 龍泉窯(りゅうせんよう):南宋を代表する青磁の名窯。
- 景徳鎮(けいとくちん):中国白磁の中心地として発展。

