尾張(おわり)国で陶磁が営まれた起源は明確ではありませんが、『日本後紀』弘仁六年(815)正月五日の条には「造瓷器生、尾張国山田郡の人、三家人部乙麿等三人、伝え習い業を成す」と記され、また『延喜式』には尾張国の瓷器〔注:古称で陶磁器の意〕の品目が列挙されており、年料雑器として正税で賄うことが明記されています。さらに『江家次第』には正月の供御薬(くごやく)〔注:年初の薬を供する儀礼〕で青瓷(せいじ)〔注:中国風の青緑色釉陶〕が用いられたと記録され、同儀礼は弘仁年間(810〜824)に始まるとされるため、御歯固(おはがため)〔注:長寿を祈る新年の食事儀礼〕の器として尾張国山田郡に青瓷器製作が命じられたと推測されます。
ここにいう山田郡は、『延喜式』の神事記載や以明帳の記述に照らすと、今日の瀬戸(せと)とその周辺、ならびに愛知郡東部にあたり、猿投山(さなげやま)西南麓の古窯址群の発掘成果によって裏づけられました。『日本後紀』に見える三家人部乙麿(みやけのいえべ の おとまろ)ら三名の工人の出身地もこの圏内とみるのが自然で、これらは官窯(かんよう)〔注:公的管理の窯〕として栄えたのち、平安末の朝廷衰微とともに衰退し、技術も途絶えたと考えられます。
鎌倉時代に入ると民窯(みんよう)として再出発し、現在の瀬戸市域の猿投山西麓、赤津(あかづ)周辺に窯が集中的に成立しました。焼成された器種は瓶子(へいし)・壺(つぼ)・皿(さら)・おろし目皿・水瓶(みずがめ)・仏花器(ぶっかき)・香炉(こうろ)・水滴壺などで、このうち仏花器や香炉には飴釉(あめゆう)〔注:鉄分を多く含む褐色透明釉〕が施され、鎌倉中期の飴釉の確立と歩調を合わせて生産が始まったとみられます。
当初の品はおおむね轆轤(ろくろ)成形ですが、瓶・壺類は紐土巻き上げで胴を立ち上げ、轆轤で仕上げる手順をとり、高台は一段持ち上がる付高台(つけこうだい)で、のちのような高台の削り出しは未発達でした。初期瀬戸の注目点は、梅花・蓮花・菊花・九曜星・九紋つなぎ唐草など多様な印花文(いんかもん)〔注:押型で文様を施す技法〕が、瓶子や仏器の胴や、剣先・連弁が首や腰に押される華やかな装飾で、中国唐・宋および高麗(こうらい)青瓷の強い影響が器形・文様に認められることです。
室町初期、すなわち南北朝期に至ると瀬戸の窯業は大きく転換し、宗教具中心から日用雑器志向へ移行します。天目釉(てんもくゆう)〔注:鉄釉系の黒褐色〜黒の高光沢釉〕の小皿・香炉・祖母懐壺(そぼかいつぼ)〔注:のち同名を刻む壺に基づく通称〕のほか、灰質釉の大振りの坏(はい)・小皿・大形仏花器・濁台(だくたい)〔注:供物台の一種〕・おろし目皿、折縁または波縁の大小深皿・片口・摺鉢(すりばち)・水盤など、鎌倉から室町へ継続する実用品が幅広く作られました。
祖母懐壺の名は、安土桃山〜江戸初期の同形同質の壺に「祖母懐」の銘が彫られる例から遡って付された名称で、当該形は中世に大量に製作されたようです。古窯出土には天目釉の茶入(ちゃいれ)も見られますが数量は少なく、ただし安土桃山以降に開かれたと推定される瓶子窯(へいしがま)〔注:瓶子を主に焼く窯〕からは、茶入などの茶器が雑器とともに多く出土し、形態は平凡または技巧的傾向が目立ちます。
瀬戸の古窯は概して丘陵の山頂部や急斜面に築かれ、初期の灰釉(はいゆう)〔注:木灰を溶剤とする透明釉〕は暗青色が濃淡まだらに流下しやすい性質を示しましたが、のちに御影石(みかげいし)の分解物に由来する珪酸分が加わり、釉の融けが整って暗黄緑色を基調に、青色や黄褐色も現れる安定した釉調へ移行します。天目釉の初期は暗紫褐で厚みのある部分は黒く、光沢は鈍いながら釉質と造形の均衡に優れ、時代が下るにつれて次第に劣化し、江戸時代には鑑賞性の低い作が多くなります。
なお、ほぼ同形同質の器が美濃国土岐郡(ときぐん)中部の山間でも作られ、窯跡は四〜五基に限られるものの、釉質はやや劣り、時期はおそらく鎌倉末〜室町末に及ぶと判断されます。1933年(昭和8)には岐阜県郡上郡(ぐじょうぐん)長滝(ながたき)白山神社(はくさんじんじゃ)境内の鉄道工事で瀬戸製の瓶子一対が出土し、黒青色の頼れ(たより)釉を持つことから鎌倉末と推定され、胴中央に次の銘が釘彫りされています。
白山権現奉施入奉入御酒器尾州愛智郡清原広重正和元年十二月日
白山権現御宝前中嶋郡奥田安楽寺住阿闍利栄秀正和元年十二月日
要約(300〜500字)
瀬戸の発祥は、『日本後紀』や『延喜式』『江家次第』の記録から、弘仁年間に尾張国山田郡で青瓷器が公的需要に応じて作られた事実に遡ります。猿投山西南麓の古窯址はこれを裏づけ、官窯としての隆盛と平安末の衰退を経て、鎌倉期に赤津周辺で民窯として再興しました。初期は印花文豊かな瓶子・仏器類に飴釉が施され、中国・高麗の影響が顕著でしたが、南北朝〜室町初期には日常雑器中心へ転換し、天目釉小皿や祖母懐壺、灰質釉の坏・深皿・摺鉢などが広く生産されます。灰釉は不安定な暗青から珪酸分の増加で安定化し暗黄緑を基調とし、天目釉は初期に優品を生みつつ時代とともに質が下がりました。美濃でも類似品が少数焼かれ、1933年には白山神社から銘文入りの瀬戸製瓶子が出土しています。
【関連用語】
- 『日本後紀』(にほんこうき):平安前期の六国史の一つ。弘仁六年(815)の尾張国山田郡の陶工記事がある。
- 『延喜式』(えんぎしき):律令格式。国ごとの貢進品を記す書で、尾張国の瓷器が列挙される。
- 『江家次第』(ごうけしだい):院政期以降の有職故実書。正月儀礼に青瓷が用いられた旨が記される。
- 青瓷(せいじ):青緑色の釉を施した陶磁。唐宋・高麗の影響が強く、初期瀬戸の参照対象。
- 御歯固(おはがため):新年に長寿を祈る飲食儀礼。儀器に青瓷が用いられた。
- 猿投山(さなげやま):愛知の山地。西南麓に古窯址群が分布し、瀬戸発祥の考古学的根拠。
- 官窯/民窯(かんよう/みんよう):公的管理下の窯と民間経営の窯の別。瀬戸は官から民へ移行。
- 飴釉(あめゆう):鉄分を多く含む褐色透明釉。鎌倉中期以降の仏器などに多用。
- 印花文(いんかもん):押型で花や幾何を施す装飾技法。初期瀬戸の代表表現。
- 天目釉(てんもくゆう):黒褐〜黒の鉄釉。小皿や茶器に用いられ、初期は上質。
- 祖母懐壺(そぼかいつぼ):中世に量産された壺の通称。のちの同銘作に基づく命名。
- 付高台(つけこうだい):器底の高台を別成形で付けた形式。初期瀬戸に多い。
- 瓶子窯(へいしがま):瓶子を主に焼いた窯。桃山以降の茶器生産で知られる。
- 灰釉(はいゆう):木灰由来のガラス質釉。初期は流れやすいが次第に安定化。
- 白山神社瓶子(はくさんじんじゃ へいし):1933年出土の銘文入り瀬戸製瓶子。鎌倉末の資料。

