古代から中世にかけての日本の陶磁器は、技術、生産地、製品の種類、そして様式において大きな変遷を遂げました。
古代陶磁器(須恵器、猿投窯など)
日本の古代における主要な陶器は須恵器(すえき)でした。
- 陶土と成形: 須恵器は、平野周辺の低い丘に露出する洪積層の粘土を主要な陶土として使用していました。壺類は轆轤(ろくろ)成形で作られていました。
- 築窯と焼成: 丘陵の斜面に細長い溝を掘り、スサ入りの粘土で側壁と天井を築くのが通例の築窯法でした。焼成は初期には還元焔(げんえん)で行われ、鎌倉時代中後期からは還元焔から酸化焔(さんかえん)に近い焼成に移行しました。
- 製品: 須恵器系の陶器は主に壺、甕(かめ)、擂鉢(すりばち)の3種類に限られていました。
平安時代末期には、猿投窯(さなげよう)が重要な窯として存在しました。
- 製品: 猿投窯では、中国宋代の白磁四耳壺(しじよみみつぼ)を模倣した複線三筋文(ふくせんさんすじもん)のある器物や、中国の広口瓶(ひろくちびん)を模倣した大形瓶(おおがたびん)が作られていました。大形の壺や甕も生産されていました。
中世陶磁器への変遷
古代から中世へ移行するにあたり、日本の陶磁器生産は以下のような大きな変化を遂げました。
- 窯の立地と陶土の変化
- 中世に入ると、窯の立地は須恵器窯が立地していた平野周辺の低い丘から、より耐火度の高い新三紀層の粘土を求めて高い丘陵地帯へと転換しました。これは、大物づくりに適した強度を持つ陶器の需要が増したためと考えられます。
- 初期の中世窯では山土(やまつち)単味が使われましたが、室町時代後期に入ると例外なく田土(たど)を混ぜるようになりました。この田土の使用は、備前 や越前 などでも見られます。
- 成形技法の進化
- 壺類は、須恵器の轆轤成形から、粘土紐を巻き上げて基本形を作り、その後、木を用いて器面を調整する「はぎづくり」と呼ばれる成形法が主流となりました。特に大形の壺や甕は、木の台の上に砂をまき、円形の底板を作った後、紐土(ひもつち)を巻き上げ、一定の高さで一旦乾燥させ、さらに紐土を継ぎ足していく方法が採られました。信楽(しがらき)や越前(えちぜん)、常滑(とこなめ)などでこの技法が用いられました。
- 備前では、底板を作り、粘土紐を巻き上げて数段の胴継ぎ(どうつぎ)で基本形を作り、器面を削りや木調整で整えました。
- 室町後期には、小型の壺類で水挽き轆轤成形が行われるようになりました(備前)。
- 焼成技法と窯の構造
- 築窯法においては、西日本の諸窯の多くは須恵器窯の築窯法を踏襲しました。信楽窯も東海地方の窯と外見は似ていますが、広幅の溝を掘り、中壁と天井を築く構造でした。
- 焼成法は、西日本の諸窯では初期に還元焔焼成を行い、鎌倉時代中後期からは還元焔から酸化焔に近い焼成を行いました。常滑・渥美(あつみ)の窯では、燃料経済を考慮して酸化焔焼成が行われるようになり、これにより褐色の器肌を持つ陶器が作られました。
- 桃山時代以前の志野(しの)は、半地上式の単室の穴窯で焼かれていました。荒川豊蔵氏は、この不便で不経済な穴窯が長石釉の志野を焼くのに最も適していると述べています。
- 製品の多様化と窯業地の発展
- 中世の陶器は、当初は農民的な色彩の強い日常雑器(にちじょうざっき)を主製品としました。しかし、各地の窯業地は一様な発展を遂げたわけではありません。
- 常滑・渥美: 平安末期に猿投窯から進出し、半島中央部の耐火度の低い黒土(くろつち)が大型の壺や甕の焼成に適していました。舟運を利用した輸送に便利な立地も発展を促しました。常滑の大甕(おおがめ)は日本全国に運ばれました。経塚(きょうづか)から発見される経筒(きょうづつ)外容器や蔵骨器(ぞうこつき)など、高級品も生産されました。中国陶磁の影響を受けつつも、独自の様式に変化させていきました。
- 信楽: 桃山時代までは鉄分の多い胎土を用いた黒い膚のものが焼かれ、その後信楽独特の白い膚のものが焼かれました。白い土に鉄分が少ないため、焼成中に赤く焼き締まり、明るく穏和な雅陶(がとう)を生み出しました。室町時代後期には茶人が壺や擂鉢を茶の湯の器として見立てて使用し、茶陶(ちゃとう)の生産も始まりました。慶長年間には「新兵衛信楽(しんべえしがらき)」、江戸時代には「信楽腰白茶壷(しがらきこしじろちゃつぼ)」などが著名になりました。
- 備前(びぜん): 中世陶器としては壺、甕、擂鉢が主な産物でした。室町後期には、鉄分の多い共土(ともつち)を泥漿(でいしょう)にして塗布する「塗土(ぬりつち)」の技法が始まり、これが後に「伊部手(いんべで)」へと発展しました。桃山時代には、水指(みずさし)や建水(けんすい)、花生(はないけ)といった茶陶が作られるようになり、力強く歪みのある作風が特徴でした。
- 越前(えちぜん): 壺、甕、擂鉢が主な製品で、肩に窯印を施すのが特徴です。鎌倉後期には櫛描文(くしえもん)が見られます。
- 瀬戸(せと): 本来は中国陶磁の模倣でしたが、印花文(いんかもん)、画花文(がかもん)、貼花文(はりつけもん)、櫛描文などの独自の文様装飾を発達させました。灰釉と鉄釉を基本とし、特に優れた黒褐色釉「古瀬戸釉」を生み出しました。室町時代には天目や黄瀬戸(きぜと)が焼かれ、桃山時代に入ると織田信長や豊臣秀吉の庇護のもと、瀬戸黒(せとぐろ)、志野、黄瀬戸、織部(おりべ)といった茶陶が花開きました。
- 伊賀(いが): 室町後期から江戸初期にかけて、信楽と判別が困難な作品も焼かれていましたが、茶陶を焼くようになってからは信楽と作風に大きな違いが出ました。伊賀は徹底して焼き固められ、分厚く灰釉のかかった、個性の強い器形が特徴です。花入(はないれ)や水指が多く現存し、豪快な作風が魅力とされました。桃山時代以降の茶陶伊賀は、槇山窯(まきやまがま)や丸柱窯(まるばしらがま)で焼かれたと推定されます。
- 唐津(からつ): 文禄・慶長の役を境に朝鮮陶工が多数渡来し、各地に窯を築きました。美濃と同じ施釉陶(せゆうとう)であり、鉄絵具による下絵付を装飾技法としていました。蹴轆轤(けろくろ)を用いるのが特徴です。桃山後期から江戸前期にかけて、侘び茶の流行と都市の需要に応える形で量産されました。古田織部(ふるたおりべ)の影響を受け、織部好みの茶陶も作られました。
- 地域差と技術の導入
- 中世陶器は、須恵器系と瓷器系(じきけい)に大きく分類されます。
- 西日本(信楽、丹波)では瓷器系の製作技術を、備前では須恵器の製作技術を継承して中世窯業へと転換しました。
- 東日本、特に北陸・東北の諸窯(笹神、飯坂大戸、宮城県の諸窯など)は、猿投・常滑など東海地方の瓷器系の製作技術を導入することで中世窯業への転換を遂げました。笹神窯の窯体構造や成形技法は常滑に極めて類似していました。
このように、古代から中世にかけての日本の陶磁器は、須恵器の技術を基盤としつつも、新たな陶土の選択、成形・焼成技術の革新、製品の多様化、そして中国や朝鮮からの影響を取り入れつつ独自の様式を確立していくという、ダイナミックな変遷を辿りました。特に桃山時代には、茶の湯の流行と有力な茶人の好みが相まって、各地の窯で個性豊かな茶陶が数多く生み出され、日本陶磁器史において重要な時代となりました。