古代とは、統一国家の成立を土台に、欧亜各地で固有の文明が一斉に花開いた時代を指します。やきものの分野では、弥生以来の伝統を継ぐ酸化炎〔注:窯内に酸素が多い燃焼状態で、胎土中の鉄分が酸化し赤色に焼き上がる炎〕による赤い素焼きの土器に加え、還元炎〔注:窯内で酸素が不足し、鉄分が還元されて灰色系に発色する炎〕で焼く灰色の硬質陶が成立し、さらに灰釉〔注:木灰を溶剤とする釉薬。飛鳥〜奈良期に登場〕を施す高火度焼成の施釉陶器〔注:釉薬を掛けて焼成した陶器〕が現れました。
同時に、鉛釉〔注:鉛を溶剤に用いる低火度の釉薬〕に種々の呈色剤を加えた彩釉陶器〔注:鉛釉を基礎に多彩な発色を狙う低火度施釉陶〕も生まれ、無釉の焼締陶〔注:釉を掛けず高温で締め焼いた陶〕と施釉陶の二極、酸化炎と還元炎の対照という、今日のやきものの基礎概念がこの時代にほぼ出揃いました。したがって、古代は単一様式から多様化へと大きく展開した時代だったといえます。
日本の古代は、一般に大和朝廷(やまとちょうてい)の成立を基盤とする古墳時代の開始から、平安末に藤原氏(ふじわらし)の貴族政権が衰え、源平(げんぺい)による武家政権が成立するまで、すなわち3世紀末から11世紀末までの約八百五十年を指します。この長期に登場したやきものには、土師器(はじき)、黒色土器、須恵器(すえき)、三彩〔注:唐代の鉛釉多色陶〕・緑釉陶器、灰釉陶器などが含まれます。
これらの陶器群は古代初頭に一斉出現したのではなく、古代国家の発展段階に即して次第に相起こったもので、その原型や技術の多くは中国・朝鮮など当時の先進地域に負う点が大きいと理解されます。以下では、出現順に、それぞれの器種がいつ・どのように現れ、どの名で呼ばれ、いかにして姿を消したのか、その性格を概観します。
現在、私たちが土師器と呼ぶ赤い素焼きの土器は、弥生式土器(やよいしきどき)の後継であり、古墳時代以降の製品を指します。『延喜式』主計上には「贄土師・坏作土師・玉手土師」などの語が記され、『倭名類聚抄』には「土黄而細密…埴(和名ハニ)」とあることから名称の由来が示唆されますが、「土師器」の語の最古の用例は『職員令集解』の「検校土師器」や『営繕令集解』の「瓦器、謂陶器也、土師器亦同耳」に見える記事に求められます。
それ以前は「土(はに)の器」すなわち「埴器(はにのうつわ)」が通称で、呼称は「ハニノウツワ」でした。土師器が弥生式土器と同じ酸化焼成の素焼きで、連続性を持つとすれば、転化はいつ・いかに起こったのかが問題となります。近年の考古学研究では、小型丸底土器が定型化する前段階として、複合口縁の壺・甕・鉢・高杯を主とする瀬戸内の「酒津式(さかづしき)」や山陰の「九重式(ここのえしき)」など、西日本における最古段階の土師器群の存在が指摘され、これが畿内(きない)へ影響して古墳時代初頭の土師器が成立したと見る考えが有力です。
これに対し、畿内における土師器の発生を弥生式土器からの自生と捉え、古墳の成立を画期として区別し、その最古型を「庄内式(しょうないしき)」とする見解もあります。いずれにせよ、地域色の濃い初期土師器をへて、小形丸底土器が畿内で定型化し、そこから全国へ波及することで、統一的な土師器体系が整ったと考えられます。
土師器の終末期をどこに置くかは、土師器を何の器として捉えるかで見解が分かれます。一般的には日常食器としての側面を重視し、東海地方で生まれた灰釉陶器の普及が進む10〜11世紀を一つの終点とみなしますが、この現象は主に東日本で顕著です。他方、西日本では土師器→黒色土器→瓦器(がき)〔注:素地の粗い日用土器の総称〕へと器種が段階的に転化し、土師器の減少は漸減的で、完全消滅はさらに後世となります。
11世紀を転機と設定することは可能ですが、各種陶器が併存する段階でも、土師器には他の器種で代替しにくい特性が残りました。その核心は煮沸形態への適性であり、ゆえに釜・鍋などの煮沸用土師器が鉄製品に置き換わる時点こそ、土師器の役割の実質的な終焉と見るべきでしょう。鉄製煮沸具の広範な普及は鎌倉時代以降の出来事です。
土師器と並行して、古代には黒色土器(こくしょくどき)と呼ばれる軟質土器が作られました。これは土師器の内面、あるいは内外面を磨いて炭素粒子を吸着させ、器面を漆黒に仕上げたもので、8世紀後半以降に西日本で流行します。一方、中部山岳以東では6世紀以降、須恵器の器形を写した杯などに同技法が用いられ、「内黒土師器(うちぐろはじき)」と称されました。
ついで、古代において土師器と並ぶ主要器種である須恵器について述べます。須恵器は轆轤(ろくろ)成形〔注:回転台で粘土を挽き上げる成形法〕と還元焼成〔注:窯内酸素を制限し高温で焼成する方法〕による灰色の硬質陶で、『延喜式』では「陶器」の字が当てられ、『和名類聚抄』には「瓦器、一云陶器。陶、訓須恵毛能」と記され、当時「スエモノ」と呼ばれたことがわかります。「須恵器」という語は、施釉された現代陶器と区別するため昭和期に定着した学術用語で、かつては祝部式土器・陶質土器とも称されました。
須恵器の源流は、南鮮の伽耶(かや)・百済(くだら)の陶質土器や新羅焼を介して、中国に古く殷代まで遡る灰陶系の広範な系統に位置づけられます。すなわち、中国南部で発達した窯法の系譜に属する技術が南鮮を経由して伝来し、東アジアに広がる灰陶系やきものの一支流として日本で展開したと考えられます。
生産開始時期については、『日本書紀』雄略七年(463)条に見える「新漢陶部高貴」の条—百済から貢上された今来才伎(イマキノテヒト)に比定—を根拠に、同時期の出現とみる説が古くから有力でした。他方で、大和朝廷の南鮮進出を契機として、4世紀後半に製法が伝播したとする見解(森浩一説)も示されています。
実際、南鮮の灰陶系である金海式土器は早くから対馬・壱岐のみならず大阪湾沿岸の後期弥生式土器と伴出し、北九州弥生土器における槌打法(敵打法)の採用や土師器の丸底化など、漢式土器の影響が看取されます。ただし、須恵器の製作には優れた轆轤技術、良質の陶土、還元焼成に耐える大量燃料の確保など、小規模共同体生産の限界を超える広域的生産体制が不可欠であり、この体制が成立し得た5世紀前半に開始時期を置く見解が現在は支配的です。
須恵器がいつまで用いられたかについては、古墳時代の全国的中枢であった大阪府の陶邑(すえむら)窯の動向が示唆的です。同遺跡群には5〜10世紀にかけて五百基以上の窯が確認され、築窯数の推移をみると、5〜6世紀には三百基超、7世紀には八十基へ減少し、8世紀以降の約二百数十年で新設はわずか百十基にとどまります。
そして10世紀代のうちに生産はほぼ終息したと考えられます。陶邑の衰退は、古墳期以来の過剰生産がもたらした山林資源の荒廃に起因し、『三代実録』貞観元年(859)には河内(かわち)・和泉(いずみ)両国での燃料争い(陶山争論)が記録され、その動向が具体的にうかがえます。加えて、律令制の衰退に伴う生産体制の変容も大きな要因でした。
こうした傾向は西日本の須恵器生産に共通しますが、東日本では古墳期末からむしろ生産が上昇し、平安期に隆盛を迎え、11世紀末頃に中世窯へ転換するまで生産が継続しました。地域差を前提に、須恵器は日本古代の基幹的実用陶として長期にわたり社会を支えたと評価できます。
要約
古代陶磁は酸化炎焼成の素焼きと還元炎焼成の硬質陶、無釉の焼締と施釉陶という基本軸が成立し、多様化が進みました。土師器は弥生式土器の後継として古墳初頭に各地で型式化し、東国では灰釉陶器の普及、 西国では黒色土器・瓦器への転化をへて、煮沸具が鉄製化する鎌倉期以降に実質的役割を終えます。須恵器は南鮮・中国の灰陶系技術を受け、5世紀前半に広域的生産体制のもと本格化し、陶邑窯群に象徴されるように10世紀に終息傾向を示しましたが、東国では平安期まで生産が維持・発展し、11世紀末に中世窯へ移行しました。史料上は『延喜式』『和名類聚抄』『日本書紀』『三代実録』に該当記事が見え、名称や産業構造の変化が裏づけられます。
【関連用語】
- 土師器:素焼きの赤褐色土器(古墳期以降の日常土器)。
- 須恵器:朝鮮由来の高火度焼成陶。硬質で灰色、轆轤成形と還元焼成が特徴。
- 三彩:唐代の鉛釉陶器。緑・黄・白の三色を用いる。
- 緑釉:鉛釉に銅を加えた緑色の釉薬。奈良時代に日本へ伝来。
- 灰釉:木灰を溶剤にした自然釉。飛鳥〜奈良時代に登場。