丹波焼(たんばやき)は畿内西部の山間で興り、焼締陶〔注:釉薬をかけず高火度で素地を緻密化させた陶器〕の中では最も明るく洗練された姿を示します。鉄分の少ない灰白の素地に高火度焼成で淡い緑の自然釉〔注:薪灰が溶けて自然に付く釉景〕が流れ、耐火度の高い陶土が端正な成形を支えるためで、小野原焼(おのはらやき)とも呼ばれたこの産地は、兵庫県丹波篠山市(たんばささやまし)周辺の山々に広がりました。
丹波の発生について、かつては鎌倉中期以前へは遡らず、備前などと同様に須恵器系〔注:古代の高火度硬質土器の系譜〕の中から生まれたと考えられてきましたが、昭和五十二年(1977)発掘の三本峠北窯(さんぼんとうげきたがま)出土で状況は一変します。灰白の素地に鮮緑の自然釉がかかる壺・瓶・甕に加え、碗・鉢まで多器種を含み、三筋文(みすじもん)や秋草文〔注:萩・薄など草花を描く渥美窯系文様〕が広く施され、丹波窯は常滑・渥美と同様に「瓷器系〔しきけい〕」に属することが明確になりました。
しかも秋草文の一例は、神戸市淡河(おうご)・石峯寺(せきみねじ)裏山経塚の出土壺(永久五年〔1117〕銘の経巻を併出)と素地・文様が極めて近似し、丹波窯の発生を十二世紀前半にまで遡らせうる根拠となりました(同経塚の出土記録に記されている)。ただし東海諸窯のような白瓷(はくじ)段階は踏まず、周辺の須恵器生産は丹波成立後も存続し、明石市の魚住(うおずみ)窯などは室町初期まで続いたことが近年の調査で知られています。
さらに昭和五十五年(1980)に西脇市(にしわきし)緑風台(りょくふうだい)窯跡群で、燃焼室と焼成室の境に分焔柱(ぶんえんばしら)〔注:火の流れを分け温度調整する隔壁柱〕を備える東海系の瓷器窯と同様の構造が確認され、出土品も十二世紀前半の猿投(さなげ)窯に類似しました。広汎な須恵器窯が展開していた畿内西部の内部で、東海の瓷器系技術が波及して丹波が出現したと見るのが妥当です。
丹波窯の分布
中近世の「狭義の丹波窯」は、丹波篠山市立杭(たちくい)付近から三田市(さんだし)四辻(よつつじ)まで東西・南北ともに約五キロの範囲に分布します。中世窯の確実例は今田町(こんだちょう)側に限られ、四斗谷川(しとだにがわ)流域の狭長な平地の東、虚空蔵山(こくうぞうざん・標高596m)南半の山腹~山麓に、三本峠窯(四基)、床谷(とこたに)窯(金兵衛山)、源兵衛山、太郎三郎、稲荷山の五群が知られています。総数は十数基にとどまりますが、伝世・出土資料の量から見れば未確認窯は多いはずで、最古は平安末の三本峠窯、最も新しい稲荷山窯も物原(窯跡散布地)資料は室町前半までで、その後の窯は未確認です。近年、盆地西南の釜屋(かまや)地域から室町期の擂鉢窯が見つかり、稲荷山→釜屋への移動は従来想定より早かった可能性があります。
丹波の製品
中世丹波は、他の無釉焼締諸窯(瀬戸・美濃を除く)と同様に壺・甕・擂鉢の三種が中核で、他の器種は点数が少なく時期差があります。三器種のうち最も多いのは壺、次いで甕、擂鉢は稀少です。壺は丸胴・長胴・扁平胴・短頸・広口・肩衝・片口など七類以上に分かれ、各期を通じて大型の丸胴・長胴が主力を占めます。丸胴は桐文壺のように肩が張り胴径が大きく、初期は肩から強く外反する「反り口」。長胴は「布引(ぬのびき)」銘壺に見られる細長い胴と反り口が指標です。
扁平胴は数は少ないものの南北朝~室町を通して続き、広口壺は菊花文壺や三本峠出土陶片に見られるラッパ状の頸を持つタイプ(初期の広口瓶からの転化)で、上半を立ち上げた「受け口」〔注:外反口の上半を筒状に立てる口造り〕もあります。小形では口縁の一部を折って注ぎ口にする片口壺があり、肩衝壺は長胴の中小型の肩を直角に折って作る様式で、室町末~桃山に出現します。
甕は三類型で、高さに比して胴が太い常滑型に似たもの(縁帯付や丸口)、やや遅れて現れる胴径の細い二重口〔注:口縁直下に二層帯や凹みを設けた口作り〕の丹波独特型、そして室町中期に出現する幅広い緑帯の内湾口タイプが知られます。擂鉢は登窯期(江戸)まで数が少なく、内面は間隔の広い一本引きのおろし目で、桃山まで同手法を踏襲しました。
初期段階にのみ、碗・小皿・浅鉢の食器群があり、碗は口径約13cm・高約3.5cmの轆轤成形で糸切痕、小皿は口径約7.6cm・高約2.6cmの素朴な造りで、いわゆる東海の山茶碗セットに対応します。瓶類は室町後期に徳利形が多く、同後期から緒桶(おけ)〔注:円筒形の桶状器〕が現れ、桃山以降には一重口水指として用いられました。窖窯末期(桃山)には大形の浅鉢/大皿が焼かれ、釜屋古窯からは内底周囲に陶片を置いて重ね焼きした痕が見られます。
丹波の製作技術
丹波の基盤地質は花崗岩・石英粗面岩が広く分布し、新第三紀層の良質陶土は乏しいものの、四辻で採掘される沖積粘土(鉄分多め)が用いられ、文禄~元和年間の「土取場絵図」に初期は三本・大南方面の山土が採取されたことが記録されています。中世は古窯近傍の土を用いたと見られます。
成形は小物(碗・皿)が水挽き轆轤、大・中型(壺・甕・擂鉢)は紐作りで、台に灰を撒いて底打ち→太い紐を巻き上げて腰まで→乾燥→継ぎ足し、という常滑・信楽と同系の「はぎづくり」。器面は箆(へら)削りで凹凸を整え、木を横に当てて調整しますが、室町中期以降は「猫描手(ねこがきて)」〔注:粗い櫛を縦に走らせ面を整える丹波独特の仕上げ〕が導入されます。文様は前半期(平安末~室町初)に秋草文・蓮弁文など渥美系が流行し、樹文系や桐壺文も稀に見られます。焼成は古窯発掘が未実施ながら、製品と緑風台窯の例から、常滑・渥美系に連なる瓷器系窯体(分焔柱を持つ構造)を用いたと推定されます。
丹波窯の変遷
丹波の中世窯は確実には十基に満たず(室町中~後期は伝世中心)ながら、石峯寺経塚の秋草文壺により十二世紀前半創始が明らかです。変遷は六期:I平安後期~鎌倉前期、II鎌倉中~後期、III鎌倉末~南北朝、IV室町前~中期、V室町中期末~後期、VI桃山。
I期は三本峠北窯のみが知られ、壺・甕・擂鉢が主体で甕の生産が著しく、口縁や胴は常滑・渥美に似ます。碗・小皿のセットは前代須恵器を踏襲し、壺ではラッパ口(広口瓶系譜)の反り口と、肩に秋草文を施す作が少数確認され、渥美の秋草文壺や菊花文三耳壺と呼応する精妙な文様も見られます。
II期(鎌倉中~後)は碗・小皿が消え、三器種体制が確立。広口瓶の頸は直立化し、肩文様は失われ、壺・甕は機能別に丸胴/長胴、胴太/胴細へ分化、大小各寸を揃え、二重口が時代指標となります(桐文壺が代表)。III期(南北朝)は稲荷山窯が知られ、形態・口作りとも常滑的要素を脱し丹波的性格が確立、扁平丸胴壺や片口小壺の出現など器形の多様化が進みます。
IV~V期(室町前~後)に窯跡は未詳ながら伝世は豊富で、壺は口頸部の造作が顕著となり玉縁風が増え、甕は口縁を水平に折る丹波独特型が主流化、新たに内湾口も生まれます。面調整の猫描手と窯印の出現は量産化への対応と考えられます。VI期(桃山)は窖窯最終段階で、慶長二年(1597)銘壺に見るように口頸が内傾し、肩衝壺・大皿・緒桶が加わり、茶陶は水指がわずかに見える程度で、本格展開は江戸に持ち越されます。
要約(300–500字)
丹波焼は、灰白の素地に淡緑の自然釉が流れる明快な景色と確かな成形で知られる焼締陶で、三本峠北窯の出土により常滑・渥美と同じ「瓷器系」に属することが判明、石峯寺経塚の秋草文壺との近似から十二世紀前半創始が示唆されました。中世窯は今田町域の五群(三本峠・床谷・源兵衛山・太郎三郎・稲荷山)を中心に知られ、のち釜屋方面へ移行。製品は壺・甕・擂鉢が主で、壺は丸胴・長胴を核に広口・肩衝・片口などが派生、甕は二重口など独自の口作りを発展させ、擂鉢は少量生産。技法は紐作りの「はぎづくり」、室町中期以降の猫描手、渥美系文様の流行を経て、窯体は分焔柱を備える瓷器型が推定されます。変遷は平安末~桃山の六期に整理され、室町後期には量産化の手がかり(窯印・面調整)が顕著となり、桃山で窖窯最終形に達しました。
【関連用語】
- 丹波焼:兵庫・丹波篠山周辺の古窯群が産する焼締陶。灰白素地に自然釉が特色。
- 瓷器系:中世区分で、施釉・高火度の東海系技術系譜。丹波はこの系列。
- 三本峠北窯:平安末創始を示す最古級窯。秋草文・三筋文など多様な装飾。
- 秋草文:萩・薄などを描く渥美窯系文様。丹波初期出土で創始期を示す。
- 三筋文:肩部に三条の平行線をめぐらす装飾。初期の指標文様。
- 分焔柱:窯内で火流を分ける柱状隔壁。東海の瓷器窯に典型。
- 猿投窯:愛知の大窯。12世紀前半様式が丹波初期と類似。
- 片口壺:口縁の一部を折り注ぎ口とした小壺。南北朝以降に増加。
- 肩衝壺:肩を直角に折る壺形。室町末~桃山に出現。
- 猫描手:粗い櫛を縦に走らせ面を整える丹波独特の仕上げ法。
- 受け口:外反口の上半を立てる頸造り。広口壺の一類。
- 二重口:口縁直下に帯・凹みを重ねた二層口。中世中期の指標。
- 立杭:丹波焼の中心集落の一つ。のちの登窯期にも繁栄。
- 釜屋:盆地西南の窯場。室町期の擂鉢窯が確認される。
- 窖窯(あながま):斜面を掘り込む単室窯。丹波の中世焼成の基本。

