昭和五十二年(1977)、香川県小豆島(しょうどしま)東方沖合約六キロの「水ノ子岩」北斜面の海底から大量の古備前(こびぜん)〔注:中世期の備前焼の総称〕が発見され、わが国初の本格的な水中考古学調査で引き揚げられたことは大きな反響を呼びました。これらは壺(つぼ)・甕(かめ)・擂鉢(すりばち)ほか十器種・二百十個体に及び、同時期の積荷一括とみられることから、消費地へ航行中に水ノ子岩に衝突して沈没した船荷と推定され、海底出土品は古来「海揚(うみあ)がり」〔注:海から引き揚げられた遺品の通称〕と呼ばれて流通史の貴重な証拠とされています。
中世陶器の両極を施釉の古瀬戸に、無釉の焼締陶(やきしめとう)〔注:釉薬を掛けず高火度で緻密化させた陶器〕たる古備前に見るなら、備前は須恵器〔注:古墳~中世の高火度硬質土器〕の技術を受け継ぎ、近世以降まで無釉を貫いた唯一の系統であり、赤い火色(ひいろ)〔注:酸化焼成で生じる朱~赤褐の発色〕に暗緑の自然釉〔注:薪灰が溶けて自然に付着した釉〕が掛かる玉縁(たまぶち)口の壺・甕や擂鉢が中世備前の典型です。南北朝期の今川貞世(いまがわ さだよ)『道ゆきぶり』には「かがつという里は、家ごとに玉だれの小甕を作る所」と記され、当時の産地性をよく物語っています(同書に記録されている)。
備前窯の母体は、瀬戸内市邑久町(おくちょう)・長船町(おさふねちょう)から備前市にかけて内陸丘陵に展開した邑久(おく)古窯跡群で、中国地方最大級の須恵器窯として古墳~平安初に隆盛しましたが、中期以降急速に衰退し、末には長船周辺や東方丘陵で辛うじて継続する程度となりました。近年、平安末の須恵器窯が長船町西岡~山田、さらに南の油杉東方の斜面に点在して見つかり、彼ら生産者が福田越え・伊坂峠越え・長谷越え等の山越えルートで次々と伊部(いんべ)に移り、備前焼の核を成したと考えられます。
備前窯の分布
備前焼は、かつて「かがつ(香々登)」と呼ばれ香登庄(かがとしょう)に属した現・岡山県備前市伊部(いんべ)を中心に、熊山(くまやま)山麓の山々で焼かれました。古窯跡は市街を囲む丘陵から南北の谷奥にまで東西約三キロ・南北約五キロの範囲に群在し、現在八十基超が確認され、精査すれば倍増も見込まれるほどの密度です。
分布は概ね三帯に区分されます。第一は市街西北から北へ延び熊山東麓へ達する谷沿い両側丘陵、第二は市街北方の不老山(ふろうざん)東側—市街東北~烏帽子岩南麓の谷両側、第三は市街南部丘陵から浦伊部(うらいんべ)に至る一帯で、平安末から連続して築窯され、桃山の西大窯・北大窯・南大窯へ継承されます。
西北群の推移は、平安末に大ヶ池北斜面の池灘(いけなだ)窯に始まり、不老山西麓の大明神(だいみょうじん)窯へ移動、鎌倉期には坊が池窯から医王山(いおうざん)北麓の合ヶ渕(あいがぶち)窯を築き、末には熊山東麓のグイビーヶ谷窯へ北進しました。室町に入ると一転南下し、中期~後期に医王山東麓の坊が池北窯、桃山期には西大窯に定着します。北大窯群は大明神系の分岐とみられるものの詳細は未詳で、南大窯群は大ヶ池南窯を起点に東進して姑耶山麓(こやさんろく)を点々と移動し南大窯に至ったらしく、浦伊部系は大窯形成を欠き南大窯との関係も未解明です。
備前窯の製品
中世備前も(瀬戸を除く他窯と同じく)壺・甕・擂鉢が主力ですが、初期には碗・皿・大盤・水瓶などを焼き、須恵器からの連続を明瞭に示します。室町後期には他窯に先がけ花入(はないれ)・水指(みずさし)〔注:茶の湯で用いる器〕が現れ、茶陶(ちゃとう)化が進みます。
壺の基本は、須恵器由来の外反口で高さ二〇センチ前後の小~中型ですが、時代が下ると大形化し、口縁を外へ丸く折り返した玉縁へと変化します。南北朝頃には長胴の大壺が出現し、肩に四耳(よつみみ)を付す例が多く、茶壺(ちゃつぼ)用とみられます。これと前後して、一部の口縁を折り曲げ片口状にした小壺が作られ、大中小さまざまに展開、箆(へら)描き文を施したものが目立ちます。
甕は大小二類で、いずれも須恵器甕の転化形です。大甕は高さ六〇センチ以上、直立気味の口頸先端を大きな玉縁とし、強く膨らむ胴を木調整で面出しした平底で、荒々しい量感が出ます。小甕はしばしば壺類に分類されますが、『道ゆきぶり』の「玉だれの小甕」に当る広口短頸の玉縁で、肩に沈線文や櫛目文(くしめもん)〔注:櫛で引いた並行刻線〕をめぐらすのが通例です。擂鉢は大平鉢の一部を折って片口にした形で、鎌倉期以降は内面に櫛描きのおろし目が施され、室町中期から口縁帯が肥大、桃山には数条の凹線をもつ幅広口縁が主流となります。
さらに室町後期には、銅器を思わせる喇叭(らっぱ)状の大口頸をもつ花瓶(仏器)が試みられ、瀬戸・美濃の大窯では中国磁器写しの瓶類が徳利の原型として動き出します。桃山期にはわび茶の隆盛とともに茶碗・茶入・花入・水指などの茶陶が本格化し、備前の新たな顔を形づくります。
備前焼の製作技術
陶土は、前代須恵器が平野周縁丘陵の洪積層粘土を用いたのに対し、備前では伊部周辺の花崗岩風化由来の高耐火粘土(木節粘土〔きぶしねんど〕)を用い、室町後期には可塑性を補う田土(たど)〔注:水田の堆積粘土〕を混用します。成形は底板を作って紐土を巻き上げる胴継ぎ(はぎ)づくりで基本形を立ち上げ、箆削りと木調整で面を締めます。口作りは他窯に比べ変化が少なく、初期の外反口が次第に玉縁へと整理される一系で、甕も概ね同様です。擂鉢は紐作りで、室町中期以降の大形化に伴い口縁帯が肥大化し、小壺類は室町後期に手轆轤(水挽き)も用いられます。桃山以降は器面に塗土(ぬりつち)を施す例が増え、のちの伊部手(いんべで)〔注:黒褐色の緻密肌を特徴とする備前の近世様式〕へ継承されます。
焼成は須恵器窯と同様、細長い単純な窖窯(あながま)〔注:斜面掘込の単室窯〕で、長さ一〇メートル前後・床勾配十五~二〇度(中には三〇度)を標準とし、室町中期以降は不老山東窯に長さ四〇メートル・幅二・五~三メートル・勾配十五度の長大窯が現れ、桃山には南大窯で五二メートル級に到達します。鎌倉中頃までは須恵器に倣う還元焰(かんげんえん)〔注:酸素を絞る焔〕で灰墨色を呈しますが、鎌倉期には酸化焰(さんかえん)に転じ、古備前特有の赤い火色が現出します。窯詰は鎌倉期から効率を重んじ、重ね焼きや密詰による「牡丹餅(ぼたもち)」状の斑痕〔注:器が接した部分の無釉斑〕が多く残ります。
備前焼の変遷
中世備前は六期に大別されます。Ⅰ平安末~鎌倉初・Ⅱ鎌倉前~中は還元焼成で灰黒調、碗・皿・大盤・水瓶も焼かれて須恵器の余風が濃厚、形態も識別困難な作が多い段階です。Ⅲ鎌倉後~南北朝で赤い火色が本格化し、壺肩の二重沈線が増えて櫛目へ展開、同時に盆地西から北・東・東南の谷奥へ築窯が拡散し、生産が急拡大します。
この拡大期に、備前は摂津・魚住窯や備中・亀山窯、美作・勝間田窯と競合しながら優勢となり、西日本を覆った常滑の供給圏を代替する大窯業地へと成長しました。室町期には畿内をはじめ西日本一帯の壺・甕・擂鉢が「備前一色」と化し、北は関東太平洋岸、南は沖縄まで広域に供給され、寺院の年紀銘をもつ常住器も多数生産されます。十五世紀末~十六世紀には散在していた窯が西・北・南の三大窯へ集約され、集中生産が進展します。
この「大窯(おおがま)」化は瀬戸・美濃・常滑・信楽・丹波など六古窯に共通する中世末~近世初頭の現象で、壺・甕・擂鉢の大小に、瓶類・鉢類など供膳・貯蔵器、さらにわび茶流行に伴う茶碗・茶入・花入・水指まで多彩な器種を包含し、なかでも備前(および信楽)では水指・花入が特産として際立ちます。平安京左京三条四坊十三町遺跡の豪商屋敷跡からの一括出土は、桃山期の地域特産のあり方を具体的に示し、その後、備前は桃山~江戸にかけて塗土の深化から黒褐の伊部手へと移行していきました。
要約(300–500字)
1977年の水ノ子岩海底からの古備前一括引揚は、備前焼が中世に広域流通した実像を示し、無釉焼締陶として須恵器技術を継承した独自性を改めて裏づけました。母胎は邑久古窯群で、山越え移住により伊部へ集結し、熊山山麓の三帯に古窯が群在、鎌倉後期以降は築窯が拡散して生産が急伸します。製品は壺・甕・擂鉢が主で、玉縁や四耳、沈線・櫛目文を特色とし、室町後期から花入・水指など茶陶が進展。窖窯の長大化・効率的窯詰・酸化焰への転換で赤い火色と自然釉景が定着し、十五~十六世紀には西・北・南の三大窯に集約して「大窯」体制が確立、広域供給と多品種化を経て、桃山~江戸には塗土による伊部手へと展開しました。
【関連用語】
- 古備前:中世期の備前焼の総称。無釉焼締で火色と自然釉が特徴。
- 焼締陶:釉薬を掛けず高火度で緻密化させた陶器。
- 須恵器:古墳~中世の高火度硬質土器。備前はその技術を継承。
- 海揚がり:海底出土の陶磁を引き揚げた遺品の通称。
- 玉縁:口縁を外丸に厚く返した口作り。
- 四耳壺:肩に四つの耳(把手状突起)を付した壺。
- 二重沈線/櫛目文:肩や胴に沈線を重ね、のち櫛で刻む装飾。
- 牡丹餅:重ね焼きや密詰で生じた無釉の斑痕景。
- 窖窯(あながま):斜面に掘り込む単室窯。備前の基本窯。
- 還元焰/酸化焰:窯内酸素量による焼成雰囲気。色調と景に影響。
- 伊部(いんべ)/伊部手:備前の中心地名と、黒褐色の近世様式。
- 大窯:中世末~近世初頭に各地で成立した長大窯。大量生産の拠点。
- 木節粘土/田土:花崗岩風化由来の耐火粘土と、可塑性を補う田の粘土。
- 片口小壺:口縁を一部折り片口状にした小壺。南北朝~室町に多い。
- 茶壺・水指・花入:茶の湯で用いる器種。備前の特産品目として著名。

