飯坂(いいざか)・亀山(かめやま)

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東北各地の経塚や遺跡から出土する黒ずんだ陶器は、かつて一括して須恵器(すえき)〔注:古墳~平安期の高火度・無釉の実用陶〕と見なされましたが、昭和後期に珠洲焼(すずやき)の実態解明が進むと、日本海側沿岸から北海道にかけて出土する多くが珠洲焼である一方、内陸から太平洋岸には素地と焼成が異なる群があるとして、珠洲系陶器〔注:珠洲焼と技法・様式が近いが産地・焼成が異なる中世陶〕と区別する見方が生まれ、近年は多賀城跡などの発掘で黒色陶片が注目され、その産地探索から宮城県白石市の犬卒塔婆(いぬそとば)窯と福島市の飯坂窯が確認されました。

白石・犬卒塔婆窯は集落西南の丘陵斜面で複数基が並列し、淡褐色の大甕(おおがめ)を主とする酸化焰焼成〔注:酸素の多い雰囲気で赤~褐色に発色させる焼成〕の製品が出土して常滑系に近い性格を示し、飯坂窯は二群の古窯跡のうち一群が白石同様の酸化焰系、他の一群が珠洲に近い燻焼還元焰焼成〔注:酸素不足で黒灰色に発色させる焼成〕の製品を出しており、両群はすでに昭和三十八・四十二年に福島市教育委員会により須恵器窯として発掘されていたことが再評価されています。

飯坂窯の具体像は、秋山政一(あきやま・まさいち)氏の整理によれば赤川窯と毘沙門平(びしゃもんだいら)窯の二群が知られ、赤川窯は飯坂温泉西方三キロの天王寺(臨済宗妙心寺派)背後の南斜面に二基があり、そのうち一基は昭和三十八年に発掘され、全長約六メートル・幅一・八メートル・床勾配二五度前後の須恵器窯同様の窖窯(あながま)〔注:斜面に穿つ横穴式単室窯〕が遺存し、黒ずんだものと淡褐色の壺・甕が混在する鎌倉後期の陶片が報告されています。

毘沙門平窯は標高三百メートル前後の高所に四基が並び、東側二基を昭和四十二年に発掘して鎌倉前半の壺・甕・擂鉢(すりばち)が多数出土し、焼成室勾配は赤川より緩やかで、灰黒~黒褐色の燻焼還元焰焼成が支配的であり、天王寺所蔵の承安(じょうあん)銘の筒・壺類はこの窯群の作と考えられ、飯坂では平安末に須恵器窯から中世窯へ転化し、のち鎌倉後期に酸化焰へ振れる系統も併存したと推測されます。

このため、終始還元焰で黒色を保った珠洲焼と異なり、途中で酸化焰に転じた飯坂窯を珠洲系陶器と呼ぶことはできず、日本海側と太平洋側の技術選択の差、すなわち燃料事情や土質に由来する焼成雰囲気の分化が、同時代の雑器生産に複線的な系譜を生んだと理解され、なお宮城県内で多賀城跡などから見つかる黒光りの壺・甕は白石・飯坂と異なる群で、当該古窯は未発見の段階にあります。

西日本で須恵器の伝統を強く保った代表が岡山県の亀山焼で、その初見は水原岩太郎(みずはら・いわたろう)氏が昭和五年『吉備考古』に玉島市八島の神前神社境内出土品へ「亀山式土器」と命名したことに始まり、昭和十五年には宗沢節雄(そうざわ・せつお)氏が平安~室町にわたり壺・甕・擂鉢・堝(るつぼ)などを焼いたと整理、戦後は西川宏(にしかわ・ひろし)・間壁忠彦(まかべ・ただひこ)氏らが分布研究を進め、昭和五十九・六十年度の山陽自動車道関連調査で六基の古窯を含む発掘が行われ、その成果の一端は『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告69』(1988年)に記録されています。

亀山焼の古窯は玉島市八島字亀山と浅口市金光町須恵に集中し、須恵器の生産基盤から鎌倉初期ごろ独自に中世窯へ移行したと見られ、製品は壺・甕・擂鉢が主で、堝・浅鉢・火鉢・瓦も焼成し、壺は短い口頸と球胴を基本に初期は外反口縁の広口型で大きな平底、紐巻き上げ成形と粗い格子叩文〔注:成形具で格子状に叩き締める文様〕が用いられ、初期ほど口径・底径が大きく焼成温度は低く、鎌倉末以降は口径が小さく胴・底が丸みに寄り、叩文は綾杉(あやすぎ)状〔注:斜めの連続斜線が交差する文〕、面取り〔注:稜線を削って面を作る仕上げ〕が出現します。

大甕は高さ・胴径とも約六五センチを最大に太い紐巻き上げで格子叩き締めと内面刷毛目調整が基本となり、初期は「く」の字状に外反する短頸の先を狭い外傾面で切り、のちに直立頸へ移行して口縁帯〔注:口縁まわりの帯状部〕が肥厚し外傾する広い縁帯となり、やがて大きく垂れ下がるほどの幅広縁へ変化し、擂鉢は中世窯共通の浅い大平鉢に片口状〔注:注ぎ口が付く形〕を付す平底・無高台で、初期は狭い平縁、次第に幅広かつ内傾化し、ほかに皿類も少量伴います。

用土は耐火度の低い洪積層粘土で焼成温度が低く、灰色を呈する瓦器(がき)質〔注:素地が緻密で硬く、瓦にも用いられる焼締め系素地〕が多く、灰黒・褐・赤褐の色相差は低温焼成による焼きむらに起因するとみられ、発生は鎌倉以前には遡らず、中期に最盛・末期に急減し、分布は岡山から広島・山口の一部に広がり、平野~海岸寄りで密度が高く、広島県福山市の草戸千軒(くさどせんげん)遺跡では備前焼などとの伴出が顕著で、珠洲と越前の関係になぞらえ、亀山焼も備前焼と商圏を競合したと考えられます。

さらに昭和四十年代末以降は兵庫県の神出(かんで)・魚住(うおずみ)窯を核とする東播(とうばん)系中世窯の発見で様相が一変し、加古川流域に南北へ広大な須恵器系の生産帯が展開、北に三木古窯跡群、南に魚住古窯跡群を擁し、西日本の同系では最大規模、とくに明石市の魚住窯は四十基超の大群で、昭和五十四年の兵庫県教育委員会の発掘で須恵器窯同様の窖窯を用い、壺・甕・擂鉢に加え碗・瓦も焼き、なかには碗を分業で焼く煙管窯(えんかんがま)〔注:筒状で特定器種を集中的に焼く窯〕の存在も『魚住古窯跡群』(1983年)に記録されています。

中国山地では岡山県勝田郡勝央町に三十数基からなる勝間田(かつまた)古窯跡群が知られ、昭和五十三年の発掘で古代須恵器窯と規模・構造がほぼ同じ窖窯で碗・壺・甕・擂鉢が焼かれたことが判明し、畿内でも平城宮跡の新出土に須恵器風叩文の陶片が見え、大阪府高槻市の宮田・津之江両遺跡では土師器や瓦器とともに瓦器質・陶質の甕・擂鉢・鍔釜(つばがま)が大量出土し、甕は須恵器風格子叩文や常滑同様のN字状口縁〔注:断面がN字に見える外反+内反の二重縁形〕を示し、擂鉢は平底で内面に幅広の櫛描きおろし目〔注:摩砕用の刻線〕が発達します。

三重県伊賀市三田町・仏土寺の遺物には器面を炭化させ黒光りする甕片があり、これら雑器群は遠隔地搬入では説明し難いことから、在地の須恵器工人の後継が近傍で継続生産したとみるのが妥当で、山陰では島根県で常滑・備前・丹波の移入品に加え、安来市広瀬町祖父谷の暗褐色壺や出雲市大社町鷺浦の赤褐色の銭壺・鉢など、在地焼成の可能性が指摘され、京都府綾部市発山の元永元年(一一一八)銘経筒外容器に叩文甕が用いられるなど、未詳産地の中世陶器は枚挙にいとまがありません。

以上を総覧すると、古代に須恵器生産があった地域では、中世に入っても壺・甕・擂鉢を中心とする日常雑器の生産が窯業技術の更新・転用によって室町期まで持続するのがむしろ一般的であり、各地は土質・燃料・流通圏の違いに応じて酸化・還元の選択や器形の細部に地域差を刻みながら、在地的な実用品供給の役割を担い続けました。

要約(300〜500字)
東北・内陸部の黒色陶は一括須恵器とされたが、珠洲焼の再評価により内陸~太平洋岸に珠洲系と異なる群が意識され、踏査の結果、宮城の犬卒塔婆窯と福島の飯坂窯が確認された。飯坂は赤川(酸化)と毘沙門平(還元)の二群が併存し、平安末に須恵器窯から中世窯へ転化、鎌倉後期に酸化焰へ振れる系統も示す。一方、西日本では岡山の亀山焼が須恵器系を継ぎ鎌倉中期に最盛、低温・瓦器質の実用品を広域に供給し、備前と商圏を競合した。さらに兵庫の東播系(神出・魚住)や岡山・勝間田など、須恵器窯系の中世窯が広帯域に展開し、畿内・山陰にも在地生産の痕跡が点在する。古代の須恵器生産地は、中世でも壺・甕・擂鉢を中心に需要に応じた雑器供給を室町期まで継続したと捉えられる。

【関連用語】

  • 珠洲系陶器:珠洲焼に近い黒色焼締だが産地・焼成が異なる中世陶。
  • 犬卒塔婆窯:宮城県白石市の中世窯。淡褐色大甕が主で酸化焰系。
  • 飯坂窯:福島市の中世窯群。赤川(酸化)と毘沙門平(還元)の二群を含む。
  • 窖窯(あながま):斜面に穿つ単室の登り窯。須恵器~中世雑器に広く用いられた。
  • 叩文:成形具で器面を叩き締めて残る文様。格子・綾杉などの型がある。
  • 瓦器質:低火度で緻密硬質な素地。灰色~褐色の雑器や瓦に多い。
  • N字状口縁:断面がN字に見える複合的口縁形。常滑系で典型。
  • 片口(かたくち):注ぎ口を持つ器形。擂鉢などで用いられる。
  • 亀山焼:岡山県の須恵器系中世窯。鎌倉中期に最盛、備前と競合。
  • 東播系中世窯:兵庫県神出・魚住など加古川流域の大窯群。四十基超の群もある。
  • 草戸千軒遺跡:広島県福山市の中世都市遺跡。亀山焼・備前焼の伴出で著名。
  • 燻焼還元焰焼成:酸素不足で黒灰色を呈させる焼成法。珠洲・毘沙門平などで主流。
  • 酸化焰焼成:酸素豊富な雰囲気で赤褐~淡褐に発色。犬卒塔婆・赤川などで採用。