平安時代に灰釉陶器〔注:木灰を溶剤に用いた釉薬で、飛鳥時代に登場した自然釉〕の一大生産地であった猿投窯は、12世紀初頭に分化し、北方の瀬戸、南方の常滑を生み出しました。瀬戸は灰釉・鉄釉を施した高級陶器の産地として、常滑は大型壺や甕といった日用品の産地として発展しました。こうした地域分業の背景には、平安期以来の碗・皿など食器類の需要が広く存在し、猿投窯も主に碗・皿類を中心とする日常食器の生産地として存続しました。灰釉を失った粗雑な碗は「山茶碗(やまぢゃわん)」と呼ばれ、鎌倉時代には高台を持たない小皿状の形へと変化しました。
中世の猿投窯では、こうした山茶碗を中心に多数の窯が築かれ、確認されるだけで560基、推定では800基を超えたとされます。製品は碗・皿類が主体でしたが、初期には広口瓶や大形短頸壺も作られました。さらに擂鉢〔注:すり鉢。調理用器具〕は、厚底の深鉢型から高台付きの大平鉢へと変化し、各窯で碗・皿と併せて生産されました。例外的に常滑風の壺・甕を焼く窯や、東山地区で仏器・瓦・四耳壺を焼く窯も見られ、この地域が特殊な役割を果たしていたことがうかがえます。
猿投窯の中心地であった黒笹地区は、9〜10世紀に灰釉陶器や「竪所」銘の大碗を生産し、官窯的性格を持っていました。しかし中世に入ると単純な碗・皿・鉢の生産に移行しました。一方、かつて傍系的な位置にあった東山地区は、多様な器物を焼き、官窯的性格が移ったと考えられます。瑞穂区五中山古墳出土の「工政所」銘碗がその証拠とされます。宋磁〔注:中国・宋代の磁器〕を模した四耳壺や、中国陶磁に倣った装飾技法もこの地区に見られ、中央や寺社勢力との結びつきを示しています。しかしやがて上層向け陶器の中心は瀬戸へ移り、東山窯は古瀬戸の確立以後に衰退、鎌倉末には猿投窯全体が廃絶しました。
続いて尾張・三河以外の東海地方を見ると、美濃では各務原〜岐阜に広がる須衛窯群がありました。ここでは10世紀に猿投の影響で復活しましたが、12世紀以降は山茶碗窯への転化は限定的でした。中世の中心は東濃(多治見・土岐)で、多数の山茶碗窯や施釉窯が発掘されています。兼山窯跡群(可児郡)は常滑風の壺・甕を主体とし、木曽川の水運に応じた需要に結びついていました。中津川古窯跡群(中津川市)は25基以上の窯を持ち、山茶碗と常滑風の壺・甕を並行生産しました。特に東国需要に対応し、大型壺・甕の生産が盛んでしたが、室町初期に廃絶しました。この動きは渥美窯など東海各地と共通します。
要約
猿投窯は平安時代に灰釉陶器の中心地として栄えたが、12世紀以降は瀬戸や常滑に分化し、自らは山茶碗を中心に存続しました。中世には数百基に及ぶ窯で碗・皿・鉢が焼かれ、東山地区では仏器や宋磁模倣の器も生産されましたが、鎌倉末には衰退・廃絶しました。美濃では須衛窯群が一時復活するも広がらず、中世の中心は東濃に移り、兼山窯や中津川窯が壺・甕の需要に応えました。これらも室町初期に衰退し、東海の中世窯業は次第に整理されていきました。
【関連用語】
- 猿投窯(さなげよう):平安〜鎌倉期に栄えた灰釉陶器の一大産地。
- 瀬戸(せと):尾張の窯業地。鎌倉期以降高級陶器の中心に。
- 常滑(とこなめ):知多半島の窯業地。大型壺・甕で有名。
- 山茶碗(やまぢゃわん):中世東海地方の粗製碗。小皿と対で使用。
- 擂鉢(すりばち):調理用のすり鉢。猿投窯では深鉢型から平鉢型に変化。
- 東山窯(ひがしやまよう):猿投窯の一部。仏器や宋磁模倣の器を生産。
- 須衛窯(すえよう):美濃国各務原周辺の窯群。平安〜中世に活動。
- 兼山窯(かねやまよう):美濃・可児郡の中世窯跡群。壺・甕を生産。
- 中津川古窯(なかつがわこよう):美濃東端の窯群。東国需要に応え壺・甕を焼成。

