越前(えちぜん)・加賀(かが)

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越前古窯〔注:中世に操業した窯跡群の総称〕が北陸最大級の中世窯として広く認知されるのは戦後で、以来二十数年の調査蓄積を背景に、在地研究者の水野九右衛門(みずの・くえもん)氏の尽力によって、断片的だった知見が実見調査と出土資料の集成でつながり、ようやく全体像が具体的に把握できる段階へ到達しました。

越前古窯は福井県南部の丹生郡越前町平等(びょうどう)と旧宮崎村熊谷(くまがい)を中心に、越前海岸へ急斜面を見せる城山(しろやま・標高513m)東麓から派生する支丘の南斜面に群をなし、南北約5km・東西約3kmの範囲に約160基の古窯跡が分布します〔注:古窯=操業を終え遺構化した窯〕。この地域は天王川(てんのうがわ)西側の丘陵帯で、川東側には古代の須恵器窯〔注:古墳~平安期の高火度無釉陶を焼いた窯〕が密集し、両者は分布上明確に区別されますが、近年は宮崎村小曾原(こそはら)で平安末に遡る古越前窯が多数確認され、越前窯の出発点が須恵器窯分布域の内部に位置することが分かってきました。主要群は西側丘陵で、南から曾原・増谷・熊谷・小熊谷・平等大釜屋・焼山・織田・山中の七支群に大別され、とりわけ熊谷支群の奥釜井谷17基・上ヶ平15基、平等大釜屋の上大師谷東十数基・同西15基に高密度の集積が見られます。

越前古窯の製品は壺・甕(かめ)・擂鉢(すりばち)の三種が中心で、付随的に陶錘などの漁具も焼かれました。壺は大中小と多様で、とくに高さ25cm前後の中形では広口・細頸・短頸・無頸など口頸の変化が著しく、口縁も丸口・面取り・外反・N字状立ち上がりなど一定せず、用途や時期差を反映します。大形壺は60cm超のものもあり、胴張りで頸部が絞る型と、やや広口で肩に2~4個の鍛(たん)状耳〔注:紐掛け用の小突起〕を付す型が主です。小形壺には口頸を面取りし一部を折り曲げて片口状にした高さ20cm前後の型と、肩に双耳を備える高さ10~12cmの「おはぐろ壺」〔注:口紅保存等に用いた小壺の通称〕が見られます。甕は30cm級と60cm超の大甕に大別され、いずれもN字状の口縁形をとり古常滑(とこなめ)製品に近似しますが、越前では時代が下っても常滑のような幅広い縁帯は作られず、これは陶土性状の差に由来すると考えられます。擂鉢は外形が常滑風ながら、室町期には内面に櫛描きおろし目〔注:櫛で刻む目立て〕を施す点で異なり、まれに水注も伴いますが、西日本諸窯に見られる室町後期の茶陶の出現は越前ではまだ確認されていません。

製作技術では、用土は花崗岩基盤の新第三紀層に由来する耐火度の高い砂質粘土で、東方の洪積層を用いた須恵器窯の土に比べ鉄分をやや多く含み、寒冷地向きの選土といえます。成形は壺の場合、轆轤(ろくろ)〔注:回転成形具〕で円形底板を作り、紐輪積成形〔注:粘土紐を積み上げる技法〕で胴を立ち上げて再び轆轤挽きで整え、器面を木べらや刷毛で調整します。底面に下駄印〔注:支持具痕や捺印の俗称〕を持つ例もあり、大甕は幅広の粘土紐を数段「はぎ足し」して乾燥を挟みながら積み上げる五~六段のはぎづくりで、基本は常滑と同様ながら、段継ぎ目に連続押印を施さない点が越前的です。越前の壺・甕・擂鉢には原則として肩に範描き窯印〔注:窯銘や記号を陰刻・陽刻する標識〕が一~二個入り、鎌倉後期には櫛描文が現れます。施釉は無釉が原則ですが、初期に灰釉〔注:木灰系の自然系釉〕、室町後期には刷毛塗りの鉄釉を点的に用い、同後期には田土〔注:水田周辺の鉄分豊かな粘土〕使用により黒褐色肌を示す作例が増えます。

焼成は窯体構造が示すとおり、在来の須恵器窯式を捨て、常滑系の瓷器(しき)系技術〔注:東海の灰釉陶器系統の製作・窯技術〕を導入しています。発掘で構造が明らかな窯として、上大師谷東窯第8号(長さ15.5m)と奥堂の奥窯(約18m)ほか上長佐・水上などがあり、いずれも燃焼室と焼成室の境に分焰柱〔注:炎流を分配し温度勾配を制御する支柱〕を立てる東海型の登窯系窯体です。当地に前代の瓷器生産伝統はなく須恵器のみであったため、中世陶器への転換に際し常滑の製作・焼成技術を受容したと解され、初期に灰釉を施し、鎌倉中期まではやや還元気味の中性焔、鎌倉後期以降は酸化焔での焼成へ移る点も常滑と歩調を合わせます。

成立地点と年代は、越前市安養寺・光明山経塚出土の経甕(きょうがめ)をめぐり不明瞭でしたが、丹生郡越前町小曾原上長佐古窯群の発掘と熱残留磁気方位測定〔注:窯壁の磁化から最終焼成時期を推定する方法〕の結果から、平安時代末の12世紀後半に須恵器窯の分布圏内部で中世越前窯へ転換したことが明確になりました。中世越前窯はI平安末~鎌倉初期、II鎌倉中期、III鎌倉後期~南北朝、IV室町前期、V室町中期、VI室町後期の六段階に編年可能で、詳細は『日本の考古学 歴史時代 上』(河出書房新社)に記録されており、流通圏は西は京都北部、南は岐阜県揖斐郡の山地、北は海路で北海道・函館周辺に及びます。

加賀古窯は近年になって一気に輪郭が浮上した窯業地で、呼称もまだ耳新しいかもしれません。石川県南部の中世陶器については、昭和十五年に故・松本佐太郎氏が『定本九谷』で護摩堂焼・串焼の存在を指摘しましたが、その後は研究停滞が続き、発掘で中世陶器窯としての位置づけが固まるのは昭和四十四年、小松市二ツ梨町奥谷1号窯・那谷町那谷1号窯の調査からで、ここで常滑・越前と同様に分焰柱を備える瓷器系窯体と、壺・甕・擂鉢主体の製品構成が確認されました(上野与一「加賀古陶—加賀中世の窯業について」『金沢大学日本海域研究所報告 第5号』(1973)に記録されている)。続いて昭和四十八年の那谷町大天王谷の二窯調査と一帯の分布調査により、加賀古窯の広がりが見えてきます。

分布は小松市粟津町から加賀市松山町にかけて、柴山潟に面した平地を見下ろす標高約50mの低丘陵帯で、同丘陵は古墳終末期以降の須恵器生産地でもあり、南端には近世の松山窯が営まれました。中世加賀古窯は丘陵南側の小谷に面した斜面に群在し、奥谷・那谷・大天王谷・小天王谷・カミヤの各支群あわせて約30基が知られ、平安末(那谷1号)から鎌倉(大天王谷)、室町(カミヤ)へと連続し、桃山期には西方の加賀市作見窯へ生産の重心が移ったと推測されます。のち当地の窯業は小規模生産を継続しつつ、江戸初期には大聖寺川対岸の吸坂窯から九谷窯へと磁器生産が展開します。

加賀の製品は、きめ細かな良質陶土を用い、壺・甕は常滑風、擂鉢は越前風に近い三者構成を基本に、水瓶なども焼かれ、口づくりはむしろ瀬戸(せと)系に近く、総じて越前より整った仕上がりを示します。現段階での具体例は小松市軽海の中世墓地や能美郡辰ノ口町長滝経塚の出土品などに限られ、その全体像は今後の発掘と理化学的分析の進展に委ねられます(上掲報告に記録されている)。

要約(300〜500字)
越前古窯は福井県南部の城山東麓に広く分布し、約160基に及ぶ大規模群で、壺・甕・擂鉢を主力とし、常滑系の瓷器技術を導入した分焰柱付き窯で焼成しました。用土は耐火度の高い砂質粘土で、成形は紐輪積と轆轤を併用し、窯印や櫛描文を特徴とします。成立は平安末の12世紀後半で、六期に編年可能、流通は京都北部から北海道まで及びました。一方、石川県南部の加賀古窯は昭和後半の発掘で輪郭が明らかになり、那谷・大天王谷など約30基が確認され、常滑・越前と同系の窯体で壺・甕・擂鉢を焼成し、瀬戸風の口づくりや良質の土により端正な出来を示します。桃山期に作見窯へ移行し、江戸初期には九谷磁器生産へ展開する基層となりました。

【関連用語】

  • 古窯:操業を終え遺構化した窯跡の総称。
  • 瓷器系:東海の灰釉陶器系技術に連なる製作・窯の系統。
  • 分焰柱:燃焼室と焼成室の境で炎を分配し温度を均す支柱。
  • 紐輪積成形:粘土紐を積み、後に轆轤で整える成形法。
  • 轆轤(ろくろ):器体を回転させて成形・整形する道具。
  • 窯印:窯や工人を示す刻印・描画。器肩部に付す例が多い。
  • 灰釉:木灰由来のアルカリ分で溶着する淡色系の釉。
  • 鉄釉:鉄分を呈色成分とする暗色系釉。刷毛塗り例もある。
  • 櫛描きおろし目:擂鉢内面の目立て用の櫛状刻み。
  • 田土:水田周辺の鉄分多い粘土。黒褐色肌の要因となる。
  • 還元焰/酸化焰:炉内の酸素量差による焼成雰囲気の別。
  • 九谷(くたに):江戸初期に展開した加賀の磁器生産の系譜。
  • 経塚:経典を埋納する塚。出土遺物が編年の拠り所となる。
  • 常滑:中世に大壺・擂鉢などを量産した東海の大窯業地。
  • 瀬戸:施釉陶器の一大産地。口縁造形などで加賀に影響。