越前と珠洲は、北陸を代表する中世陶器〔注:中世に各地で量産された日用陶器の総称〕です。越前は福井県南部(越前市から丹生郡の山地)で生産された無釉の焼締陶〔注:釉薬をかけず高温で素地を緻密に焼き締めた陶器〕で、褐色の地肌に自然釉〔注:薪灰が溶けて自然にガラス化した釉〕が流れた壺・甕(かめ)を主に焼きます。器肌や形が常滑(とこなめ)に似るため、しばしば混同が生じます。珠洲焼は能登半島先端の珠洲市周辺の丘陵地で焼かれ、昭和二十年代以降に広く知られるようになりました。黒い焼肌で、壺・甕・擂鉢(すりばち)を主な製品とし、見た目は須恵器(すえき)〔注:古墳~平安期の高火度灰色陶〕に近似します。
これら二系統は、既述『瀬戸美濃』で示した中世陶器三分類のうち、瓷器(しき)系と須恵器系に属する代表例です。瓷器系は平安期に東海地方で興った灰釉陶器(白瓷〔はくじ〕)〔注:木灰系釉を施した淡色の施釉陶〕の系譜にあり、(1)瀬戸・美濃の灰釉・鉄釉の施釉陶〔注:釉を掛けて焼く陶器〕、(2)無釉の日常食器のみを焼いた各地の山茶碗窯〔注:中世の粗製碗を量産した窯の通称〕、(3)常滑・渥美など無釉の壺・甕・擂鉢を主とする窯、(4)灰釉の伝統を持たなかった地方が猿投(さなげ)・常滑系の技術を導入して壺・甕・擂鉢を焼いた窯、に四分されます。越前や加賀はこの「瓷器系第四類」に当たります。一方の須恵器系は、(1)備前のように須恵器の系譜が鎌倉期に酸化焰焼成〔注:酸化雰囲気で赤褐色に発色〕へ転じた群と、(2)須恵器の技術を継承し還元焰焼成〔注:還元雰囲気で灰黒色に発色〕を続けた群の二つに分かれ、珠洲や亀山は後者=第二類です。
瓷器系第四類は越前・加賀のほかに、新潟県笹神(ささがみ)・福島県飯坂(いいざか)大戸窯・宮城県下の諸窯など、北陸から東北に広がります。ここでは越前・加賀・飯坂を除き、近年判明した諸窯を概説します。新潟の笹神は阿賀野市狼沢(おいのざわ)一帯に三基の中世窯が知られ、周辺には須恵器窯が十六基確認されますが、灰釉陶器の痕跡はありません。昭和三十三年以降、立教大学の調査が継続され、とくに昭和四十七~四十八年度に狼沢の二基を発掘し内容が明確化しました(『狼沢窯群の調査』に記録)。二窯とも焼成室と燃焼室の境に分焰柱〔注:炎を分け流す支柱〕を設ける東海諸窯型の構造を示し、壺・甕・擂鉢に加え碗・皿も併焼しています。壺・甕は形態・成形法とも常滑に酷似し、とくに紐輪積成形〔注:土の紐を積み上げる成形法〕の継ぎ目に段状の叩文〔注:木べら等で叩いて段差をつくる痕跡〕を施す手法は常滑の直輸入といえるほどで、越前・加賀とは系統が異なります。碗・皿を焼く点でも常滑的性格が強いといえます。
東北では宮城県に三つの窯業地が知られます。第一は県南・白石市白川犬卒塔婆字東北の「東北窯」で、存在は昭和二十二年ごろから注目され、古窯は三群二十基が確認されていますが未発掘のため窯体は未詳です。第二は登米(とめ)地域の伊豆沼窯で、迫町新田の品ノ浦窯、築館町熊狩山塚沢東沢窯などを含み、昭和四十一年以降に知られるようになりました。ここでは五十二基が確認され、窯体は常滑・越前と同系の瓷器系構造です。第三は大崎市三本木窯で、昭和五十年に発見されました。これら三窯の内容は、昭和五十八年に東北歴史資料館の「東北の中世陶器」展で詳しく紹介され、製品はいずれも壺・甕・擂鉢に限定され、酸化焰焼成による褐色の器肌を呈します。
口縁形など細部差はあるものの、全体の形態は古常滑の製品に近く、系統的には瓷器系第四類と判断できます。加えて、近年注目される福島県会津若松市の大戸窯は、奈良時代の須恵器窯から室町初期の中世窯まで二百八基に及ぶ大規模群で、このうち中世窯は三十六基です。昭和六十三年度以降の発掘により、ここも瓷器系を中核とすることが明らかになりつつあります。
つぎに須恵器系第二類について述べます。東日本では珠洲焼、西日本では岡山県の亀山焼が代表で、現在では全国的に同系の窯業地の分布が広がっていたことが把握されています。詳細は各項に譲るとしても、この第二類で発掘により体系的内容が示されたのは珠洲窯のみで、概括段階にとどまります。製品は主として壺・甕・擂鉢に限られ、珠洲のように碗類を伴う場合も初期のみです。
ここで扱う中世陶器は、主として須恵器系に属し、仮に瓷器系であっても、それ以前に施釉技法の伝統を持たなかった地域の窯に限られます。いずれも農民的色彩の強い日常雑器を主製品としますが、発生・成長・衰退の歩みは一様ではありません。大きく二類型が認められ、第一は今日まで生産を連綿と継続した窯業地(越前・加賀)で、ただし加賀は近世に磁器生産へ転じ越前・備前・丹波などとは様相を異にします。第二は室町中期を境に衰退・消滅した窯業地で、珠洲・亀山・飯坂大戸・笹神・宮城県の諸窯がこれに当たります。
地域ごとに操業年代が分かれた理由として、まず珠洲の事例が挙げられます。富山県・大岩日石寺裏山経塚出土の経筒(仁安二年銘)の外容器に見るように、珠洲は平安末期にはすでに中世陶器としての生産を開始していました。さらにその流通は広域で、鎌倉後期~室町初期には日本海沿岸から北海道まで製品が運ばれ、越前と商圏を競合したことが判明しています。飯坂大戸が東北の遠隔地にある点を踏まえても、亀山は備前に近い備中で営まれており、単純に地域の後進性だけでは説明できません。
もう一つの要因は、陶土の性質に起因する燃料経済の差です。鎌倉後期から室町初期にかけ需要が増すなか、酸化焰焼成へ転じて燃料効率を高めた須恵器系第一類が優位になり、還元焼成を踏襲した第二類は経済競争で不利になったと考えられます。さらに東西差も重要で、西日本では信楽・丹波が瓷器系の制作技術を、備前は須恵器の技術を受け継いで中世窯業へ転換しました。これに対し東日本、とくに北陸・東北の多くは猿投・常滑など東海の瓷器系技術を導入して中世窯業へ移行し、珠洲のように須恵器系を保持した例は東北日本海側に限られます。なお、関東の亀井窯(埼玉)・金井窯(群馬)ほか茨城・千葉の諸窯は、須恵器系第二類とみられるものの調査不足のため本稿では割愛します。
要約(300〜500字)
越前は福井の山間で焼かれた無釉焼締陶で自然釉の壺・甕が主、珠洲は能登で黒色の壺・甕・擂鉢を焼き須恵器に近い外観を示します。系統上、越前・加賀は東海の灰釉系技術を取り込んだ「瓷器系第四類」、珠洲・亀山は須恵器技術を継承した「須恵器系第二類」に位置づけられます。新潟笹神や宮城の諸窯、会津の大戸窯も第四類に属し、多くは酸化焰焼成で褐色の器肌を呈します。中世雑器中心の窯業地は、越前・加賀のように存続したものと、室町中期までに消えたものに分かれ、その差は燃料経済(酸化転換の有無)と地域的技術選択(東海系技術の導入か、須恵器系の踏襲か)に求められます。
【関連用語】
- 越前:日本六古窯の一つ。焼締陶と自然釉が特徴。
- 珠洲:日本六古窯系の産地。黒色の焼締陶で知られる。
- 常滑:中世古窯。大甕や無釉陶・施釉陶の量産で著名。
- 渥美:東海の古窯。壺・甕など中世施釉陶の系譜に連なる。
- 猿投:平安期からの古窯。灰釉陶器と技術の源流。
- 瀬戸:中世以降の大産地。「せともの」の語源となる窯業地。
- 美濃:岐阜東濃の産地。中世以降、多様な様式を生んだ。
- 備前:須恵器技術を継承した焼締の大産地。
- 信楽:西日本の古窯。自然釉が流れる焼締で知られる。
- 丹波:西日本の古窯。焼締と素朴な日用雑器に特色。

