伊賀とは

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桃山初期以前の伊賀焼(いがやき)〔注:伊賀国(現・三重県西部)で焼かれた中世~近世の陶器。茶陶〔注:茶の湯で用いる器の総称〕として名高い〕は、信楽(しがらき)と区別しにくい作ぶりでしたが、桃山期以降に本格化した茶陶の伊賀は、同時代の信楽とは意図や表情がかなり異なります。主な窯は、三重県阿山郡(あやまぐん)阿山町大字槇山(まきやま)小字門出(かどで)の槇山窯(まきやまがま)、同町の丸柱窯(まるばしらがま)、さらに伊賀上野城(いがうえのじょう)城内の古窯と推定され、藤堂元甫(とうどう げんぽ)による『三国地誌』(宝暦十三年〔1763〕刊)には「丸柱村製を伊賀焼と称し、古くは本邑および槇山より出る。茶壺・水指(みずさし)〔注:茶席で水をたたえる器〕・茶碗・花瓶(花入〔はないれ〕)・酒瓶等を産し、茶を嗜む者に愛玩された」などの趣旨が記録されています(同書に記録されている)。

この記述を踏まえると、伊賀焼の主座は丸柱で、筒井定次(つつい さだつぐ)の時代には槇山でも焼かれ、またアシタ焼と呼ばれる古格の作も含めて「古伊賀」と総称されたことがわかります。筒井氏が関与したと推測される上野城内の古窯は『三国地誌』に明記がなく、宝暦年間には遺構が地中に没して記録が途絶していたため、元甫の時代には詳況が判然としなかったのでしょう。

花入(はないれ)や水指など純然たる茶陶としての伊賀は、天正十三年(1585)に筒井順慶(じゅんけい)の子・定次が伊賀領主になって以後に本格化したとみられ、室町末には「アシタ焼」と呼ばれた信楽風の壺が先行していたと考えられます。初期の主力は槇山窯、その後は定次の居城・伊賀上野城内にも御用の窯(ごようがま)〔注:大名権力のもとで茶器等を焼成した管理窯〕が築かれ、定次改易の慶長十三年(1608)までの約二十四年間、とくに天正末~文禄・慶長期にかけて、槇山・城内・丸柱で茶陶伊賀が集中的に焼かれたと推測されます。

この間、千利休(せん の りきゅう)や古田織部(ふるた おりべ)が深く関わり、とりわけ織部との緊密な連携は、大野主馬(おおの しゅめ)宛の書状(藤堂家伝来の伊賀水指「破袋〔やぶれぶくろ〕」添状で、約束の伊賀水指を献上するが罅〔ひび〕は容赦してほしい旨)によって具体的に示されます。織部の茶会記では慶長六~八年(1601–1603)に伊賀の水指・花入を七度用いたことが記され、年代的にもいずれも筒井期の伊賀に属します。上野城内の古窯は昭和十年代前半の水道工事で陶片・窯道具が出土して実在が裏づけられ、矢筈口(やはずぐち)水指〔注:切り欠いた注ぎ口をもつ意匠〕・重餅形(かさねもちがた)水指・花入などが確認され、藩主の御庭焼(おにわやき)〔注:大名邸内や城域に設けた御用窯での作〕として茶器焼成を目的化していたことが推定されます。槇山窯跡も地元の菊山当年胡氏の探索で見出され、山路文様(やまじもんよう)〔注:山道に見立てた流線状文様〕の箆目(へらめ)をもつ矢筈口水指や耳付花入の陶片が出土し、いずれも作風から天正後期以降の所産とみられます。

定次改易後、伊賀・伊勢を領した藤堂高虎(とうどう たかとら)は本城を津に置き、上野城も改修したと伝えられます。城内古窯を高虎期とする説もありますが、藤堂家側の一次記録が乏しい一方、作風からは筒井期に比定するのが妥当と見えます。もっとも、元和九年(1623)銘の沓(くつ)茶碗が現存するため、高虎在世中も丸柱で茶陶が続いたことは確実で、しかもそれは灰釉(かいゆう)〔注:木灰を融剤とする釉薬〕を施した沓形であるため、筒井改易後も古伊賀系と併走しつつ、作風が変容していったとみるのが自然でしょう。なお高虎は元和元年(1615)に織部が咎を受けた際、命を受けて織部邸の茶器一切を没収し、その邸を自ら拝領ののち女婿・小堀遠州(こぼり えんしゅう)に与えており、織部・遠州に近しい位置にあったことも作風変化の背景として示唆的です。

記録の薄い高虎期に対し、二代藩主・藤堂高次(たかつぐ)期の伊賀焼は古文書に比較的明瞭で、喜田村道蔵(きたむら どうぞう)の記録(川崎克『伊賀及信楽』に引用)によれば、寛永十二年(1635)春、丸柱で藩の好みによる水指を焼かせるため、京三条の陶工・孫兵衛(まごべえ)・伝蔵(でんぞう)を招聘し、当地の職人に火加減を習得させ、計一三三点を江戸(柳営〔りゅうえい〕〔注:江戸幕府の政庁〕)へ送ったとあります。翌寛永十三年(1636)正月には高次が伊賀に下向して丸柱の焼物の仕様を臨覧したと記され、遠州好み〔注:小堀遠州の端正・瀟洒な意匠傾向〕に通じる京焼風の作為が加わった可能性が高いものの、その全体像はなお捉えがたいのが実情です。同時代、藩は御家窯(ごけがま)〔注:藩の御用品を分ける公的窯〕と一般品を区別し、ときに「千人徳利(せんにんどっくり)」〔注:大量の徳利を指す語。御用配布を示唆〕の語で呼称されました。

藤堂期の継続時期は判然としませんが、寛文九年(1669)には丸柱白土山(しらつちやま)が留山(とめやま)〔注:採土を禁制・管理する藩の保護林・禁伐地〕とされた記録があり、さらに延宝六年(1678)に土佐・尾戸焼(おどやき)の森田久右衛門が信楽を訪ねた際、地元庄屋の証言として「丸柱では四十年前まで焼いたが近頃はやめた」と聞き書きしており、丸柱の窯は寛永十五年(1638)頃までに終息した可能性が示唆されます。

現存遺品を俯瞰すると、桃山を中心とする伊賀は、作振りや焼き締まりから大きく三類型に分けられ、信楽と共通する三郷山(さんごうやま)系の木節粘土(きぶしねんど)〔注:不純物を多く含む可塑性の高い粘土〕を用いたとみられる作品もあり、必ずしも白土山系だけで作られてはいません。作風差が時期によるのか、槇山窯と丸柱窯の違いなのかは断じがたく、しかし力強い桃山様式の花入・水指の多くは、天正十三年(1585)から慶長十三年(1608)までの筒井期後半に集中すると考えられます。

天正後期~江戸初頭の伊賀焼の主役は花入で、桃山茶陶の中でも最重要群に数えられ、草庵の座敷に据えると他に代え難い荘重さを醸すため、今日も数寄者の評価はきわめて高いのです。基本設計には共通項がある一方で一作ごとに造形は異なり、同形反復がほぼ無いことから、量産ではなく特別注文の茶陶として、窯中で徹底して焼き締める御用窯的な志向を物語ります。

茶会記に伊賀花入が初出するのは慶長七年(1602)正月九日、古田織部の自会記に見える「伊賀三角筒花入」です。『南方録(なんぽうろく)』巻七「滅後之巻」には、利休が武野紹鴎(たけの じょうおう)を招いた席で伊賀の置花入に初咲の水仙を入れた逸話が記されますが、同書は第一級史料としては採れず、他の茶会記に符合する記事も乏しいため、情景としては魅力的でも史実としては慎重であるべきでしょう。これに対し、利休没年(1591)以前の所持花入が伝来し、その端正な筒形は、後年の織部好み〔注:歪みや大胆な意匠を尊ぶ様式〕ほど作為を強調せず、利休趣向を思わせるもので、「生爪(なまづめ)」「羅生門(らしょうもん)」と通称される器形群に近いと指摘されてきました。

総じて現存作の多くは慶長期に入ってからの焼成とみえ、織部の最盛期と重なる慶長六・七年頃が伊賀花入・水指の量質ともに盛期だった公算が高いでしょう。美濃(みの)では同じ頃、強い歪みの沓茶碗(くつちゃわん)が登場し、備前(びぜん)の花入・水指にも相似の風格が横断的に見いだされます。

伊賀の水指も花入と並ぶ代表格で、天正後期から文禄・慶長~元和・寛永にかけて焼かれ、袋形(ふくろがた)・瓢形(ひさごがた)・重餅形(かさねもちがた)を基調に多様な変化が試みられます。藤堂領となってから、特に江戸前期には遠州好み風の端正な作為が加わり、筒井期の織部好みと比して相貌を異にしますが、慶長年間には織部風の継続もみられ、「筒井伊賀」「藤堂伊賀」の呼称はあっても、現物の判別は今日なお困難です。

天正以前の伊賀の壺(つぼ)は信楽とほぼ見分けがたいが、天正後期からは厚手で独特の量塊感をもつ壺が増え、信楽と異なる作行きが顕著になります。これらは茶壺(ちゃつぼ)〔注:茶葉貯蔵の大壺〕としての注文にも応じたと想定されます。対して、茶入・香合(こうごう)・茶碗・鉢は遺品が少なく、作振りも前者ほどの魅力を示さない場合が多いものの、沓形茶碗には元和九年(1623)銘品があり、江戸初期の流行相を物語ります。

なお伊賀と同系の作振りは美濃の元屋敷(もとやしき)などでも焼かれ、いわゆる「美濃伊賀」と称されます。両者はいずれも織部好みの茶陶を代表する窯ですが、美濃伊賀は登窯(のぼりがま)〔注:連房式で大量焼成に適した窯〕焼成ゆえ、穴窯(あながま)〔注:単室・斜面掘込型の原初的窯〕中心の伊賀のような豪放な灰釉景は出にくく、焼締め肌に長石釉(ちょうせきゆう)や鉄釉(てつゆう)を流し掛けする趣向が特色といえるでしょう。


要約(300–500字)
伊賀焼は初期には信楽と類似しますが、天正十三年(1585)に筒井定次が領主となって以後、槇山・上野城内・丸柱の各窯で純然たる茶陶が活発化し、花入・水指を中心に独自性を確立しました。古田織部・千利休との強い関与が文書と茶会記により裏づけられ、慶長六・七年頃が盛期とみられます。定次改易後は藤堂高虎・高次期に継承され、京焼系陶工の招聘や遠州好みの影響で相貌が変化、丸柱白土山は寛文九年に留山指定となりました。現存作は土や焼成の違いから複数タイプに分かれ、桃山様式の力強い花入・水指の多くは1585~1608年頃の筒井期に集中し、御用窯的な性格と一品制作の精神が色濃く表出します。

【関連用語】  
- 伊賀焼:伊賀地域の中世~近世陶器。茶陶として花入・水指で名高い。  
- 槇山窯:伊賀の主要古窯の一つ。筒井期に茶陶を主導したと推測される。  
- 丸柱窯:藤堂期に盛ん。京焼系陶工の招聘記録が残る御家窯的窯場。  
- 上野城内古窯:伊賀上野城域に築かれた御庭焼の窯。茶器専焼の性格が強い。  
- 古田織部:安土桃山~江戸初の茶人・武将。織部好みを主導し伊賀を重用。  
- 千利休:わび茶を大成した茶人。伊賀花入との伝来関係が伝承・記録に残る。  
- 筒井定次:筒井家当主。伊賀領主として茶陶伊賀の展開を支えた。  
- 藤堂高虎:伊賀・伊勢の大名。上野城を掌握し、伊賀焼継続の環境を整備。  
- 藤堂高次:藤堂家二代。京焼陶工を招き遠州趣向の制作を主導。  
- 御庭焼:大名邸・城内の御用窯で焼く器。茶器など献上用を含む。  
- 御家窯:藩の御用品を造る公的窯。一般製品と区分管理された。  
- 遠州好み:小堀遠州の端正・瀟洒な意匠傾向。伊賀にも影響。  
- 織部好み:古田織部由来の大胆で歪みを活かす様式。伊賀・美濃で展開。  
- 矢筈口:注ぎ口を矢の筈状に切る意匠。伊賀水指の代表的口造り。  
- 重餅形:餅を重ねた姿に見立てた水指形。伊賀水指の定型の一つ。  
- 沓茶碗:履物の沓に似た不整円の茶碗。桃山~江戸初に流行。  
- 木節粘土:不純物を含む可塑性の粘土。焼締め肌に景色を生む。  
- 留山:採土や伐採を禁じた保護指定の山。藩が資源管理に用いた。  
- 登窯:連房式の大量焼成窯。美濃伊賀に用いられた。  
- 穴窯:単室の原初的窯。伊賀の豪放な灰釉景を生む焼成環境。