中世の常滑を代表するのは、赤黒い地肌に鮮烈な緑の自然釉(しぜんゆう〔注:薪窯で灰が溶けて自然にガラス化した釉層〕)が流れ落ちる壺(つぼ)や甕(かめ)です。これらを焼いた古窯跡は常滑市を中心に知多半島(ちたはんとう)一帯に広がり、「知多半島古窯跡群」と総称されます。古常滑の研究は明治二十年代に寺内信一・滝田貞一らが先鞭をつけ、戦後には沢田由治を中心とする常滑古窯調査会が分布調査と籠池一号窯の発掘を実施し、その後も名古屋大学の愛知用水関連調査や在地研究者の工事伴出調査で百基を超える窯が掘り起こされ、成果の集積により古常滑の体系はほぼ確立しました。
平安末から室町期にかけての古窯跡は半島のほぼ全域に分布し、現在までに五十数群・一三〇〇基余が確認され、破壊・未発見を含めれば三千基超とも推定されます。分布は一様でなく、中央部では常滑市寄りの西半に密集し、層序の異なる野間町以南の半島尖端部には窯がごく少数しかみられません。各古窯群はいくつかの支群から成り、三~四基の小規模から三十基規模まで幅があり、とくに半田池・柴山・椎ノ木檜原山の各古窯跡群に集中が顕著で、これらだけで全体の過半を占めます。
古窯の製品傾向は一様ではなく、大型の壺・甕を主とする群と、山茶碗(やまぢゃわん)・小皿を主とする群に大別されます〔注:山茶碗=無釉の小碗状日常食器。のち高台を失い小皿化〕。前者は常滑市周辺に多く、後者は半島北部に多いという分布差があり、これは成立の経緯や用いた陶土の分布と密接に連動しています。
知多古窯の製品は、食器の碗・皿、調理具の鉢・釜、貯蔵容器の瓶・壺・甕のほか、祭祀具・文房具・漁具・瓦など多岐にわたりますが、中核は壺・甕・擂鉢(すりばち)と、山茶碗・小皿の二組のセットです。狭義の「古常滑」は前者、すなわち壺甕・擂鉢群を指し、施釉高級器を生産する瀬戸(せと)と分業関係にありました。一方、山茶碗・小皿の組は東海一円を覆う基底的日用品で、平安後期の灰釉(かいゆう)陶器における中形碗・小碗の後裔で、小碗が鎌倉期に高台を失って小皿化し、最も一般的な食器組となりました。
瓶(かめ)には二系統があり、一つは平安灰釉から続く仏器の水瓶(すいびょう)で、高台を欠き、口頸と肩の接合部に突帯(とったい〔注:帯状の盛り上げ装飾/補強帯〕)をめぐらす点が特色です。もう一つは前代由来の広口瓶で、大形品では同じく突帯を施します。壺は高さ二五センチ前後の広口壺、大小の短頸壺、口頸部を絞った大型壺などがあり、三~四個の環耳(かんじ〔注:吊り縄用の輪形耳〕)を持つ例が多く、常滑特有として胴に三本の沈線を施した三筋壺(みすじつぼ)が知られます。また、鎌倉後期以降には片口小壺も少数ながら現れます。甕は大小二種で、大甕は高さ・胴径ともに五〇~七〇センチが多く、口縁の折り返し帯の幅が時代とともに広がるのが特徴で、小甕(三〇~四〇センチ)も同様の変化を示します。室町期には後世「不識(ふしき)壺」と称された広口小甕が作られ、擂鉢は片口を備える通有の大平鉢で、口縁内に注ぎ口をもつ片口鉢も作られました。ほかにも鍔釜・硯・陶丸・陶錘・分銅・賽・祭祀具など多彩で、半島中央の背稜に沿って瓦の併焼窯も南北に連なります。
製作技術をみると、用土は新第三紀の常滑層群に属するカオリン系粘土で、尾張の鮮新統上部(尾張夾炭層・猪高層)に対比され、半島北~中央を広く覆います。野間以南の尖端部は中新世の頁岩・砂岩互層で、その上に局所的に常滑層がのり、半島全体が事実上の陶土供給源でした。常滑粘土は鉄分などの含有差で白土と黒土に分けられ、白土の鉄分は約2.5%、黒土は約13.9%で、後者は耐火度が低く低温で締まり、大形壺甕に適します。北部に山茶碗が多く、中央部に壺甕窯が集中するのは、この陶土帯の分布に由来します。
成形はごく初期に平安灰釉以来の水挽き轆轤(ろくろ)を留めつつ、基本は壺・瓶・甕に紐作りを用い、とりわけ大甕は「ヨリコづくり」と呼ばれる太い粘土紐を継ぎ足しながら器の周囲を巡って五~七段輪積みにする手法が主でした。装飾は三筋壺など特殊例を除き原則無文で、ごく初期の一部地域に秋草風の刻文(こくもん)〔注:線刻による草花風意匠〕が見られる程度です。まれに壺肩に小さな印花文(いんかもん)〔注:刻印で連続文様を押す技法〕を施し、大甕では平安・鎌倉期に成形時の接合部へ多様な押印をめぐらすが、室町期には器面の一部に痕跡を残すのみとなります。
焼成窯は丘陵斜面を深く刳り抜いた窖窯(あながま)で、燃焼室と焼成室の境に分焔柱(ぶんえんちゅう)〔注:炎を分配し燃焼効率を上げる柱状隔壁〕を備える東海特有の構造です。燃焼室床は用土の耐火度で変化し、白土では水平、黒土では内部へ低く傾斜し、分焔柱から焼成室が一段低くなるため、焼成室の勾配は急になる例が多く、直火損傷を避ける配慮とみられます。窯詰め後は分焔柱の両脇に焼台を積み障壁を立て、通焔孔を絞り、煙道は水平近くまで勾配を変え、境にスサ入り粘土で巻いた直径一〇センチ前後の粘土棒を並列して焼成室を密閉できる施設を設けます。地下深く掘るため地下水浸透を避け、床下に山茶碗や木材を敷き並べた排湿構造をもつ例が多い点も特記されます。
山茶碗窯の一般規模は長さ六~八メートル、幅約二・五メートルで、床に馬爪形の焼台を置いて水平面をつくり、その上に十三枚重ねで器を積み、多くは十六列二十行ほど焼台を置くため、一回の焼成量は約四千個に達します。壺・甕窯は長さ一二メートル前後・幅三メートル前後で、鎌倉後期の大甕窯では一四メートル超もあり、大甕は焼成室下半に三列・計九個ほど並べ、上半に擂鉢や小壺を配して装填します。
常滑窯の発生は詳細不明ながら、平安後期の猿投(さなげ)窯南部の一分枝を母胎とする可能性が高いと考えられます。猿投灰釉窯の南端群は十一世紀末ごろには知多北部へ及んでおり、その一部生産者が半島中央の本宮山麓に移って壺・甕の製作を始めたのが端緒でしょう。同域の椎ノ木・檜原山両古窯群で最古級の壺甕が集中焼成された事実がこれを裏づけます。年紀資料としては、京都・今宮神社(いまみやじんじゃ)境内の経塚から天治二年(1125)銘四方仏石直下に出土した三筋壺が最古で、同形式が古常滑初頭の標識となることから、十二世紀初頭の成立が見通せます。
知多古窯跡群の展開は二元的で、山茶碗窯は北から南へ時代順に移動し、壺甕窯は半島中央から南北へ拡散しました。背景には大形容器に適した黒土帯の存在と、海岸近接による舟運の利便があり、特に壺甕の大物輸送に地の利が働いたとみられます。
古常滑は平安末から室町後期まで七段階の変遷をたどります。第一段階(緒川新田・八巻一号、松淵二号標式)は山茶碗と壺甕の分化が未だ緩く、混焼がみられ、輪花(りんか〔注:花弁形に口縁を刻む成形手法〕)や施釉など前代灰釉との連続が残り、水挽き轆轤の痕跡やシャープな口縁も目立ちます。第二段階(陶ヶ峯二号、籠池三号標式)は平安末~鎌倉初、第三段階(多屋窯山二号標式)は鎌倉中期で、この間に常滑は急伸し、半島全域へ拡散、壺甕窯も北の東浦町まで進出、器種分業が明確化します。大碗・小碗の組は小碗が高台を失って碗皿の組となり粗質化し、壺甕は陶土の粗質化・大型化に伴い口縁の折返帯を拡幅して縁保護を図ります。
第四段階(高坂大窯、巽ヶ丘二号標式:鎌倉後期~南北朝)に分布は最大化し、一所に十基前後の並列窯が築かれる最盛期で、窯は一四メートル超も現れ、高さ・胴径七〇センチ超の大甕が量産されます。器種別分業はいっそう進み、平安灰釉以来の広口瓶は姿を消し、水瓶も激減、碗・皿は腰の張りを失った粗質となり、壺・甕と擂鉢も専業化、大きさは最大規格に達します。
第五段階(天神四号標式:南北朝後半~室町前期)から窯数は減少に転じ、常滑市域に集中、規模は縮小しつつも大類の大型化は続き、高さ一メートル超・口縁帯の広い品が現れ、山茶碗窯の減少も著しくなります。第六段階(平井口一号標式:室町中期)から室町後期の第七段階にかけて窯はごく少数となり、市街地周辺にほぼ集約、製品は壺・甕・擂鉢にほぼ限定され、山茶碗は稀例となります。壺甕は小型化し、甕は広口化・口縁帯の折返が口頸部に密着、上面に広い面取りが現れるのが特色で、この期の製品は酸化焰(さんかえん)焼成・低めの焼成温度で赤褐色を呈し、自然釉は少なくなります。
こうした千数百基を超える窯の生産は、東海域だけの需要には収まらず、豊富な陶土と地の利を背景にいち早く量産・分業体制を築いた常滑は、中世窯として全国市場を開拓しました。古常滑の流通範囲は北は青森県上北郡七戸町、南は鹿児島県揖宿郡開聞町まで及び、日本海側の一部(島根など)を含みつつ太平洋岸一帯へ広がります。ただし器種ごとに分布は異なり、山茶碗・小皿は伊勢湾周辺、三筋壺は南関東~畿内・四国の一部、甕は全国的という広がり方を示します。基本は農村の日用雑器ながら、用途に応じた特殊品も多く、高さ三〇センチ前後の小甕は経塚(きょうづか〔注:経巻を埋納する遺構〕)の経筒外容器として関東~畿内に多数出土し、三筋壺も経塚随伴器として伴出、大小の甕を蔵骨器(ぞうこつき〔注:遺骨を納める容器〕)に転用した例も少なくありません。
さらに、半島北~中央の山茶碗窯には瓦生産例が十数基確認され、大府市・吉田一二号窯や知多町・社山古窯の瓦は、京都・鳥羽離宮の安楽寿院で用いられたことが知られ、中世窯業の生産と流通のあり方を示す興味深い事例を提供しています。
要約(300〜500字)
常滑の古窯は、自然釉が流れる赤黒い壺・甕を象徴とし、平安末~室町後期に知多半島全域で展開した大窯業群です。研究は明治に端を発し、戦後の系統的発掘で五十数群・一三〇〇基余(推定三千基超)が把握され、半田池・柴山・椎ノ木檜原山に集中が顕著でした。製品は壺・甕・擂鉢群と山茶碗・小皿群に二分され、分布差は白土・黒土の陶土帯で説明されます。窖窯に分焔柱を備える東海特有の構造で、大甕はヨリコづくりで輪積み成形。十二世紀初頭成立後、七段階で最盛期には一四メートル超の窯で巨大甕を量産、後期は酸化焰・低温で赤褐色化し自然釉は減少。流通は太平洋岸を中心に全国規模で、経塚外容器や蔵骨器など特殊需要も担い、瓦の併焼も宮廷関連で確認されます。
【関連用語】
- 自然釉:薪窯の灰が器に降り掛かり高温で溶融して生じた釉層。
- 山茶碗:無釉の小碗・小皿系日常食器。中世の基底的食器。
- 三筋壺:胴に三条の沈線を巡らせた常滑特有の壺。経塚随伴品にも多い。
- 窖窯(あながま):斜面を掘り込む横長の窯。保温・通焔に優れる。
- 分焔柱:燃焼室と焼成室の境で炎を分配する柱状構造。効率を高める。
- 突帯:口頸や肩部にめぐらす帯状の盛り上げ。補強と装飾を兼ねる。
- 環耳:縄などを通す輪形の耳。大形壺の持ち運び用。
- ヨリコづくり:太い粘土紐を輪積みに継ぎ足す大甕の成形技法。
- 酸化焰:窯内の酸素が十分な焔。赤褐色発色・低温傾向。
- 経塚・蔵骨器:経巻埋納施設と遺骨収納容器。常滑製品が多数用いられる。