渥美半島古窯跡群(こようせきぐん)は、瀬戸(せと)・常滑(とこなめ)と並ぶ東海地方の中世大窯業圏として本格的に認識されたのは昭和三十年代後半ですが、その存在自体は早くから知られていました。大正七年には伊良湖(いらご)で東大寺大仏殿再興の瓦窯跡が見つかり、大正十一年には田原(たはら)町六連の百々(どど)窯跡が史跡指定を受け、大正十二年刊の『渥美郡誌』にも半島全域に及ぶ多数の古窯跡が詳細に記録されました〔注:古窯跡=操業を終えた窯の遺跡〕。その後一時忘れられた渥美窯は、豊川用水建設に伴う発掘で再注目され、昭和三十八年には鈴木幸朗らが蓮弁文壺(れんべんもんつぼ)の焼成地を加治坪沢窯と比定し、多数の刻文壺(こくもんつぼ)の産地として再検討が進みました。以後、在地研究者の小野田勝一を中心に調査が広がり、今日ほぼ全体像が把握されています。
渥美窯の分布は、半島基部の豊橋市南西から田原町・赤羽根(あかばね)町・渥美町に至る一市三町に及び、現在までに七十四群・約四百基が確認されています。破壊・未発見を含めれば五百基超と推定され、窯数では常滑・猿投(さなげ)・瀬戸に次ぐ全国第四位の中世窯跡群です。一群の規模は三~四基から二十基超まで幅があり、五~八基のまとまりが多いのが特徴です。分布は半島全域に均質ではなく、①豊橋市梅田川南岸~紙田川流域、②田原町の汐川・蜆川(しじみがわ)流域から太平洋岸の神戸(かんべ)地区、③芦ヶ池周辺~赤羽根町、④渥美町伊良湖地区の四地区に大別され、それぞれ成立契機と展開が異なると考えられます。
製品構成は基本的に常滑窯と同様で、食器の碗(わん)・皿、調理具の鉢・擂鉢(すりばち)、貯蔵容器の瓶(かめ)・壺(つぼ)・甕(かめ)、さらに祭祀用具・漁具・瓦などを焼きました。中核は「壺・甕・擂鉢」のセットと「碗・皿」のセットの二系で、碗皿窯は半島全域に広がる一方、壺甕窯は半島中央部の二群で特に密度が高い傾向を示します。器形・基本意匠は常滑と同一ですが、祭祀具の特製品については後述の刻文壺などに独自相が見られます。
製作技術は、用土の性質がもたらす焼成の違いを除けば常滑と同系です。渥美窯は太平洋に面した低位丘陵帯に立地し、更新統の渥美累層シルトに含まれる粘土を用いましたが、砂質が強く耐火度が低いのが特徴でした。成形は初期に水挽き轆轤(ろくろ)を引き継ぎつつ、基本は紐輪積(ひもわづみ)成形で、大甕のみならず中形の壺甕でも輪積の接合部を外面から叩き締めた押印痕が残る点が常滑と識別できる目印となります〔注:輪積=粘土紐を積み上げて成形する技法〕。また渥美は前代以来の灰釉(かいゆう)を比較的長く保持した点が注目されます。
焼成は東海特有の窖窯(あながま)で、燃焼室と焼成室の境に分焔柱(ぶんえんちゅう〔注:炎を分配して燃焼効率を上げる柱状構造〕)を備える基本構造は常滑と同じです。ただし渥美では燃焼室床が内部へ深く傾斜し、境で一段低くなるため、焼成室は勾配が急で天井も高く、窯内容積が大きくなります。結果として所定温度に達するのに多量の燃料を要し、直火損傷を避けるため間接焔による燻焼・還元焼成(かんげんしょうせい)を多用しました。そのため器面に炭素が吸着して黒ずみ、「黒い壺」と称される作例が多く生まれたのです。なお碗皿窯は焼成室幅が広く床勾配が急、壺甕窯は幅が狭く長大で、傾斜はやや緩やかに構築されました。
渥美窯の発生母胎は、豊橋市東南部で奈良時代に成立した須恵器(すえき)窯群の一里山古窯跡群と、そこから北西へ移った平安灰釉の二川(ふたがわ)・大岩山古窯跡群とされます。ただし、そこから単線的に西進したのではなく、平安末~鎌倉後期の三段階変遷を常滑に準じて辿りました。第一段階(平安末)は蔵王山麓と芦ヶ池西南の二地区に窯が集中し、二川群から半島中央部へ転移して出発したことが読み取れます。芦ヶ池西南の大アラコ窯からは、三河国司・藤原顕長(ふじわら の あきなが)らの刻銘をもつ壺片が多数採集され、十二世紀中葉頃と推定されます。蔵王山麓の大沢下古窯跡群も同時期で、さらに早い資料としては和歌山・熊野本宮の経塚出土「保安二年(1121)」銘の経筒外容器があり、「白瓷箱(はくじのはこ)」の刻銘から渥美産と確定でき、十二世紀初頭の操業開始が裏づけられます。
渥美窯はこうして半島中央の二群から起こり、のち南方へ拡散し、豊橋市域へ及ぶ一群は第二段階=鎌倉初頭に西から拡大して形成されました。なぜ中央部発祥かは断定できませんが、蔵王山麓の汐川流域は伊勢神宮との結びつきが強く、神戸・御厨(みくりや)・御薗(みその)などの神宮領が広く分布する事情から、この地域の窯業が神宮経済の一端を担った可能性があります。一方、芦ヶ池周辺には神宮領が見られず、国司名を刻む壺を焼く点から国衙(こくが)による官窯であった可能性も考えられます〔注:いずれも仮説段階〕。
流通は北は岩手県から南は愛媛県まで広がりますが、常滑に比べると範囲は狭く、南関東から伊勢・熊野の太平洋岸が主圏です。発生期が常滑と大差ないにもかかわらず狭いのは、前代灰釉陶器以来の市場基盤の差に起因したのでしょう。製品は農民の日常容器(壺・甕・擂鉢・碗・皿)が主ですが、常滑の三筋壺に相当する特製品として刻文壺を多く焼きました。刻文壺には大小二型があり、半截竹管で連弧文(れんこもん)・蓮弁文・袈裟襷文(けさだすきもん)などの幾何学文様を描きます。大形は経塚の経筒外容器に、小形は蔵骨器(ぞうこつき)や随伴品に用いられ、とりわけ秋草文壺のような大和絵風の四季図を刻画する作例が豊富で、渥美の美術的個性を示します。
もう一つの特産は経筒専用の外容器で、初期には越州窯(えっしゅうよう:中国・浙江の名窯)の経筒を模した形式が見られ、しだいに単純な円筒形へと移行します。これらは主に伊勢・熊野の経塚から出土し、京都・花背経塚では花文陰刻の大形品も確認されています。
常滑が近世・近代まで連綿と生産を継続したのに対し、渥美窯は鎌倉末を待たずに廃絶しました。神宮経済の変容と関連づける説もありますが、ほぼ同時に半島全域で途絶する様相からは、砂質で低耐火の用土が強いた燃料多消費の窯体構造と還元・燻焼中心の焼成が生産性を損ない、最終的に常滑との競合に敗れた、とみるのが妥当でしょう。
要約(300〜500字)
渥美窯は、昭和後半に大規模中世窯跡群として確立認識されたが、発見自体は大正期から続く。半島基部~先端に七十四群・約四百基(推定五百基超)が分布し、四地区にまとまる。製品は常滑と同型で、壺・甕・擂鉢と碗・皿の二系が中核。砂質で低耐火の渥美累層粘土を用い、窖窯に分焔柱を備えつつも燃焼室を深く傾斜させた大容積・間接焔・還元(燻焼)を採用、器面が黒ずむ作が多い。成立は十二世紀初頭に遡り、二川系窯から半島中央の蔵王山麓・芦ヶ池西南へ移って出発、のち南方と豊橋域へ拡大。流通は南関東~伊勢・熊野中心で、刻文壺・経筒外容器・秋草文壺など祭祀系特製品に独自性がある。鎌倉末以前に全域で廃絶し、燃料多消費の構造と生産性の不利が常滑との競争敗退を招いたと考えられる。
【関連用語】
- 窖窯(あながま):斜面を掘り込む横長窯。保温性が高く、東海では分焔柱を備える。
- 分焔柱:燃焼室と焼成室の境に立つ隔て柱。炎を分配し効率化。
- 灰釉:木灰を主成分とする釉薬。前代から渥美では比較的長期に併用。
- 還元焼成/燻焼:酸素を抑えて焼く方法。胎土中の鉄が黒~灰色に発色。
- 刻文壺:半截竹管などで線刻・陰刻文様を施した壺。連弧・蓮弁・袈裟襷など。
- 経筒外容器:経塚に納める金属製経筒を保護する陶製容器。越州窯様式の模倣も。
- 秋草文壺:大和絵風の四季草花を刻画した渥美特有の美術性高い壺。
- 一里山・二川古窯:渥美窯の母胎とされる須恵器~灰釉の系譜をもつ窯群。
- 御厨・御薗:伊勢神宮の荘園領。蔵王山麓の窯業と神宮経済の関係が指摘される。
- 渥美累層:更新統シルト主体の地層。砂質・低耐火の粘土を供給。

